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ひまわり観察日記-2025- ③

 

前回ブログ更新の際はちょうど梅雨入りの頃でした。

個人的に夏の天気が待ち遠しいなと思っていたところでしたが、
関東甲信はあっという間に梅雨明けとなりましたね。

嬉しい一方、例年に比べ特に雨が少なかったような気もしており
少々心配も残る今日この頃です。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。
前回、無事に発芽を確認した弊所のひまわりですが、
気温の上昇も手伝ってか、非常に順調に成長しております。

 

 

 

近くに寄ってみると・・・

 

  

 

すでに蕾ができています。
茎も葉も元気で、全体的にとても調子が良いです。

 

 

しかし、育ちが良すぎたせいか
鉢植えのスペースがやや足りていない気もいたします。

 

そこで、今年も「間引き」をおこなっていきます。
毎年お馴染みの作業ですが、後々きれいな花を咲かせるためには欠かせません。

 

  

 

これまた、お馴染みのハサミが活躍。
よい塩梅になるまでカットしていきます。

 

 

写真お伝えするのはなかなか難しいですが・・・
お互いが干渉しない程度に、ちょうど良く調整できたと思います。
無事に間引き完了です。

 

  

  

 

  

 
日当たりのよいこちらの窓際で、
引き続き成長を観察してまいりたいと思います。

 

 

 

 

法律で読み解く百人一首 77首目

「呪い」や「祟り」という言葉を聞いたとき、何を想像するでしょうか。

実際に害を受けるものというよりも、映画や漫画、ゲームなどエンタメの題材としての印象が強いかもしれません。

 

平安時代、人々の呪い・祟りに対する認識は全く異なりました。

病気や天災、政変に至るまでその原因は呪いであると本気で信じられており、文学作品にもよく登場する「物の怪」(怨霊、死霊、生霊のこと)は、本気で恐れられていたのです。

 

実在したにもかかわらず、「日本三大怨霊」として知られる歴史上の人物がいます。
それが次の3名です。
・菅原道真
・平将門
・崇徳院

いずれも政治的な争いに敗れて非業の死を遂げた人物であり、「死後に怨霊となって祟りを起こした」とされたことから、このような呼び名がつけられました。

このうち、菅原道真と平将門は、その死後に起きた災害等を人々が「彼らによる祟りだ」と解釈したものですが、崇徳院は違います。
生前に自ら「災いとなってやる」と宣戦布告しており、亡くなると実際に様々な災厄が起こりました。

そんな話を聞くと、つい荒々しい人物なのではと思い描いてしまいますが、和歌に優れていた崇徳院は、当時の歌壇においては中心人物であり、文化人として確かな実力と影響力を持っていました。
そして、作品がのちの百人一首に選ばれることになったのです。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 

 本日の歌  「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

われても末に あはむとぞ思ふ」  

崇徳院


「せをはやみ いはにせかるる たきがはの

われてもすゑに あはむとぞおもふ」

すとくいん

 

小倉百人一首 100首のうち77首目。
第75代天皇であった崇徳院による「恋」の歌となります。

 

 

 

 

 

歌の意味

 

川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれてもまた1つになるように、愛しいあの人と今は別れていても、いつかはきっと再び逢おうと思っています。

 

瀬をやはみ
「瀬」は川の浅いところ。この「早し」は「速い」「急だ」の意。
「~を」+形容詞の語幹+「み」の形で、「~が(形容詞)なので」という表現になる。つまり、「川の瀬の流れがはやいので」の意。

岩にせかるる滝川の
「塞く(堰く)」は「せきとめる」の意。
「滝川」は激しく流れる川を指す名詞。
ここまでの3句が、次の「われても」を導く序詞(前置き)。

われても末に
「わる」は「分かれる」「離れ離れになる」の意で、水が分かれることと、男女が別れることの2つを意味する。「ても」は逆接の仮定条件で、「たとえ~ても」の意。

あはむとぞ思ふ
「逢ふ」は「出会う」「巡りあう」の意で、水が再び合流することと、男女が再会することの2つを意味する。
係助詞「ぞ」は強調の係り結びで、上の後を強調する。

 

  

作者について

 

崇徳院(すとくいん・1119-1164)

 

平安時代後期に即位した第75代天皇。鳥羽天皇と藤原璋子(待賢門院。百人一首80番目の作者・待賢門院堀河の主人)の第一皇子として生まれ、「顕仁親王」と呼ばれていました。しかし、白河法皇(第72代天皇)との間に生まれた不義の子であるとの疑いがあったため、鳥羽天皇は「叔父子」(※)と呼び、忌み嫌っていたといいます。

※「叔父にあたる子」の意。白河上皇は鳥羽天皇の祖父であったため、その子であるとされた崇徳院が、自分にとっては実は叔父であるということ。

数えで5歳になると、白河法皇の意向により鳥羽天皇から譲位を受けて即位しましたが、その幼さゆえ白河法皇が実権を握る院政が敷かれることになりました。
やがて白河法皇が亡くなると、今度は鳥羽上皇が院政を開始します。1141年になると崇徳院自身も鳥羽上皇から譲位を迫られ、鳥羽上皇の皇子・近衛天皇が即位。数えでわずか3歳の幼帝であったため、鳥羽上皇による院政が続きました。

ところが近衛天皇は17歳で早世。
近衛天皇には子供もいなかったため、崇徳院は「次は当然自分の子が即位するものだ」と考えていましたが、鳥羽上皇は自身の第四皇子(崇徳院の同母弟)・後白河天皇を即位させます。これは、近衛天皇の母である美福門院が「近衛天皇が亡くなったのは崇徳院の呪詛によるものである」と訴えたことによるとも言われています。
こうして弟が天皇の位についたことで、崇徳院は自身が院政を敷く可能性を失ってしまいました。

間もなくして鳥羽上皇が崩御。崇徳院は後白河天皇を排除して自分の皇子を即位させようとしますが、後白河天皇はこれに抵抗。朝廷内は上皇派・天皇派で対立し、また藤原氏・源氏・平氏の一族内の争いも巻き込んだことで、「保元の乱」へ発展しました。

最終的に崇徳院が敗北し、讃岐国(現在の香川県)へ流罪となりました。
このとき、天皇もしくは上皇が流刑に処されるのは実に400年ぶりでした。

その後、崇徳院は京へ戻ることなく45歳で亡くなりました。
(京からの刺客に暗殺されたとの説もあり)

 


 

崇徳院の行く末を大きく変えた保元の乱。
その顛末を描いた「保元物語」(作者不詳の軍記物語)等の書物には、讃岐に流された後の崇徳院についても記述がされています。

流刑前すでに出家していた崇徳院は、讃岐で監視下の生活を送るうち仏教に深く帰依するようになり、3年かけて写経をおこないました。その写本を「騒動を起こした反省の証として京の寺へ納めて欲しい」と朝廷に差し出したところ、後白河天皇は「呪詛が込められているのではないか」といって受け取りを拒絶し、写本を送り返してしまいました。

これに激昂した崇徳院は自らの舌を噛み切り、その血で写本に

日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん

(日本の大魔王となり、天皇をその座から引きずりおろし、民の中から新たな王を生み出してやる)

 

と書き付けたというほか、

・亡くなるまでの間は髪に櫛も入れず爪を伸ばし続け、まるで夜叉のような姿となり、さらに天狗へ姿を変えた
・崇徳院の崩御後、弔いのために柩を運んでいたところ、柩から血が溢れ出てきた

といった逸話が残っています。
(写本自体は存在しており、納経が断られたのは事実だそうです)

 

 

こうした怨霊伝説がより確固たるものになった一因として、崇徳院が亡くなった後に発生した災厄があります。

 

保元の乱の後、崇徳院は罪人として扱われ続け、崩御された際も国司による葬礼のみで朝廷による措置はなされませんでした。
すると都では度重なる飢饉や洪水が発生。1177年になると延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀などが立て続けに起こったことで、社会情勢が不安定になっていきました。さらに後白河天皇や藤原忠通に近い人々が続けて亡くなったことなどから、人々は「崇徳院の怨霊ではないか」と考え始めました。

そして、その魂を慰めるため「崇徳院」という院号が贈られることになったのです。

しかし、その後も崇徳院命日の節目ごとに様々な災いが起きていたことなどから、祟りは幕末の時代になっても信じられていました。
そこで、孝明天皇は崇徳院の御霊を京都に戻して鎮魂する計画を立て、白峯宮(現・白峯神宮)の建設を開始しました。

ところが、間もなく孝明天皇が崩御されたため、明治天皇がその遺志を継ぐことに。1868年、讃岐国白峯陵において勅使が崇徳院の御霊を京都に遷す儀式を行い、白峯宮へ還られたため、それを受けて明治の時代が始まりました。

なお、1879年には淳仁天皇(崇徳院の400年前に淡路へ配流)の神霊も迎えて合祀されています。

 

 

  

因果関係の直接性

 

さて。

 

数奇な運命をたどった末、帰京叶わず崩御した崇徳院。

きっと思い残すことも多かったことでしょう。
人々もそれが分かっていたからこそ、ますます「崇徳院の祟り」であると思う気持ちが強くなったのかもしれません。

崇徳院が
「呪詛で近衛天皇を早死させた」「写本に呪詛を込めた」
と嫌疑をかけられたことで不利な立場に置かれたように、当時「呪術」は人の命を脅かす危険な行為とされ、犯罪行為であると認識されていました。その準備をしただけでも罪となり、標的とした人物が亡くなった際には斬首刑に処されたといいます。

 

一方、現在はどうでしょうか。
例えば、ある人がこっそり「呪いの儀式」とするものをおこなった場合に、遠く離れた場所で標的とされた人物が死傷したとしても、罪に問うことは難しいでしょう。その「儀式」と「死傷」に原因と結果の関係があること、つまり「因果関係」を示す必要があります。

 

「因果関係」は法律において重要な概念のひとつです。
これに関連して、いわゆる「ブルドーザー事件」(最一小判昭和45年7月16日)についてご紹介します。

 

MはY所有のブルドーザーを賃貸借契約により借り受けていたところ、その修理をXに依頼し、両者間で修理請負契約を締結しました。Xは同契約に基づき約51万円相当の修理を完了し、ブルドーザーをMへ引渡しましたが、Mから修理代金の支払いがありませんでした。

ところが、そのわずか2か月後にMは破産。Xは代金の回収不可能となりました。
その後、ブルドーザーは所有者であるYの元に戻り、Yはそのブルドーザーを修理されて価値が上がった状態で他人に売却しました。

そのためXは、
・Yは何もせずに約51万円分の価値増加という利益を得た
・一方、Xは修理代金の支払いを受けることができず、同額の損失を被った
・これは不当利益にあたるため、YはXに対して修理代金相当額を支払うべきである
として、Yを提訴しました。

民法703条(不当利得の返還義務)
法律上の原因なく他人の財産又は労務によって利益を受け、そのために他人に損失を及ぼした者(以下この章において「受益者」という。)は、その利益の存する限度において、これを返還する義務を負う。

 

 

第1審、第2審はともにXの請求を棄却。
第1審では、Xが修理契約を結んだのはA社であり、XとYの間に直接の契約関係がないことから、Xが修理代金を請求できるのはA社のみである(Yが得た利益は、直接Xから得たものではなく、A社との契約を通じて間接的に得たもの)と整理されました。
第2審もこれを支持し、Xが被った損失(修理の実施)と、Yが得た利得(ブルドーザーの価値増加)との間に、法律上の直接の因果関係は認められない、と判断しました。

 

これを受けてXは上告。

最高裁は、

本件ブルドーザーの修理は、一面において、上告人にこれに要した財産および労務の提供に相当する損失を生ぜしめ、他面において、被上告人に右に相当する利得を生ぜしめたもので、上告人の損失と被上告人の利得との間に直接の因果関係ありとすることができるのであつて、本件において、上告人のした給付(修理)を受領した者が被上告人でなく訴外会社であることは、右の損失および利得の間に直接の因果関係を認めることの妨げとなるものではない。ただ、右の修理は訴外会社の依頼によるものであり、したがつて、上告人は訴外会社に対して修理代金債権を取得するから、右修理により被上告人の受ける利得はいちおう訴外会社の財産に由来することとなり、上告人は被上告人に対し右利得の返還請求権を有しないのを原則とする(自然損耗に対する修理の場合を含めて、その代金を訴外会社において負担する旨の特約があるときは、同会社も被上告人に対して不当利得返還請求権を有しない)が、訴外会社の無資力のため、右修理代金債権の全部または一部が無価値であるときは、その限度において、被上告人の受けた利得は上告人の財産および労務に由来したものということができ、上告人は、右修理(損失)により被上告人の受けた利得を、訴外会社に対する代金債権が無価値である限度において、不当利得として、被上告人に返還を請求することができるものと解するのが相当である

 

として、X主張の事実関係が認められるとすれば、Xの請求を容認すべきであるとの見解を示し、この修理代金債権について、

本件において上告人の訴外会社に対する債権が実質的にいかなる限度で価値を有するか、原審の確定しないところであるので、この点につきさらに審理させるため、本件を原審に差し戻すべきものとする

 

として破棄差戻しとしました。
(最高裁判所から差し戻された後、福岡高等裁判所は、最終的にXの請求を全面的に認める判決を下しました)

 

本件は転用物訴権を承認した判例ですが、その後、実質的に判例変更されることとなりました。

その事件とは・・・

建物の所有者YはAに対してこれを賃借していましたが、その際、Aが権利金を支払わないことの代償として、本件建物の修繕、造作の新設・変更等の工事はすべてAの負担とし、Aは本件建物返還時に金銭的請求を一切しないとの特約を結んでいました。
Aは請負人Xに建物の改修等を依頼し、完了後に建物をXからAへ引渡しましたが、その後Aが行方不明に。Xは代金回収不能の状態に陥ってしまったため、Yに対して不当利得返還請求権に基づき代金相当額の支払いを求めて提訴したというものです(最判平成7年9月19日)。

この判決では転用物訴権の成立範囲がやや制限され、
Yが「対価関係なしに右利益を受けたときに限られるものと解するのが相当である」と判断されました。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

 

「瀬をはやみ」は、もともと崇徳院が藤原俊成(定家の父)に編纂を命じた「久安百首」が原典で、「恋」の題で詠まれたものだそうです。
情熱的な恋を詠んだ歌ととれる一方、崇徳院の悲劇的な人生そのものを詠んだ「述懐歌」である、とする説も有力です。

述懐歌とは、自分の思いや願望を表現する和歌のこと。

確かに、崇徳院の歩みをたどってみると、政治的な地位、鳥羽上皇との親子関係、叶わない帰京など、様々なものへの願いが込められた歌と読み取らずにはいられません。

 

崇徳院が京都・白峯神宮に祀られているのは前述のとおりですが、同神宮は、蹴鞠の宗家である飛鳥井家の邸跡に創建されています。
鞠の守護神として「精大明神」が祀られていることから、野球・サッカーなど球技を中心とするスポーツの上達を願う人や、また蹴鞠がボールを落とさないものであることから、学力向上や受験合格を祈願する人の参拝が多いのだそうです。

京都の地で鎮魂された今、崇徳院の思いの強さは、こうした努力する人々に良いエネルギーを与えているかもしれませんね。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 40首目

新型コロナウイルスの流行が落ち着いてから久しくなりました。

パンデミックにより変化したことのひとつに、
「オンライン化」「リモート化」があるのではないでしょうか。

 

法律事務所として印象的であったのは、民事裁判手続のデジタル化です。
パンデミック前から法改正に向けて進められていたものの、期日のオンライン運用(一部地方裁判所における、ウェブ会議を用いた争点整理手続の運用)が始まったのが、くしくも2020年2月頃でした。

偶然のタイミングではありましたが、大変な状況ながらも事件の進行停止を避けることができた一方、それまでとは勝手も異なるため、裁判所も弁護士も当初は手探りの状態だったのではないかと想像するところです。

 

こうした裁判手続に限らず、人と人が顔をあわせる場面では、無意識のうちに相手の様子や場の雰囲気から感じ取っている情報があるのではないでしょうか。

自分はポーカーフェイスのつもりでも、はたから見れば、想像以上に考えが表情に出てしまっているかもしれません。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 

 本日の歌  「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は

ものや思ふと 人の問ふまで」  

平兼盛


「しのぶれど いろにいでにけり わがこひは

ものやおもふと ひとのとふまで」

たいらのかねもり

 

 

 

 

小倉百人一首 100首のうち40首目。
平安時代前期の貴族・歌人、平兼盛による「恋」の歌となります。

 

 

 

 

歌の意味

 

人に知られまいと心に秘めてきたけれど、とうとう顔色に出てしまっていたようだ。
私の恋は、「何か物思いをしているのですが?」と人が尋ねるほどまでに。

 

 

しのぶれど
ここでの「忍ぶ」は、「人目につかないように隠す、秘密にする」の意。
接続助詞「ど」は逆説確定条件のため、「~けれども」「~のに」と訳す。

色に出でにけり
「色」は顔色、表情、態度の意。
「色に出づ」で「(思っていることが)顔やそぶりに表れる。態度に出る」の意味がある。
「に」は完了の助動詞「ぬ」の活用形で「~てしまった」、
「けり」は詠嘆の助動詞で「~だなあ」と訳す。

わが恋は
係助詞「は」は強調。
この歌は「わが恋」が主語の倒置法になっている。

ものや思ふと
「物思ふ」は物思いにふける、思い悩むの意。
「や」は疑問の係助詞で「~か」となる。「思ふ」に係り結びしている。
ここの「ものや思ふ」は会話文。

人の問ふまで
「まで」は程度を表す副助詞。「~ほどに」「~くらいに」と訳す。
 
 

 

 

作者について

 

平兼盛(たいらのかねもり・不明-991)

  

平安中期の貴族・歌人で、正確な生まれ年はわかっていませんが、光孝天皇(百人一首15番の作者)の玄孫として生まれました。
(「尊卑分脈」に系譜が記載されているものの、矛盾点も指摘されており、ひ孫であった説も提示されているとのこと)

950年に臣籍降下(皇族が姓を与えられて皇室を離れ、臣下の籍に降りること)し、平姓となります。越前国(現在の福井県北東部)、山城国(現在の京都府南部)、駿河国(現在の静岡県中部、北東部)などの地方官を務めました。
官位は、最終的に従五位上にまで至っています。

歌人としては、三十六歌仙の一人に選ばれています。
壬生忠見のエピソードでもご紹介したとおり、960年の天徳内裏歌合では接戦の末に勝利をおさめました。
また、968年の「大嘗会屏風歌」(※)をはじめとする多くの屏風歌を献上したほか、勅撰和歌集に90首近くもの歌が選ばれるなど、「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」における主要歌人の一人とされています。家集に「兼盛集」があります。

※大嘗会屏風歌:「大嘗会」は天皇が即位後初めておこなう新嘗祭のことで、その中の一儀式で用いる屏風をいう。10世紀頃に始り毎回、当時第一流の歌人、画家、書家により新造された。(コトバンク参照)

 

私生活では、天徳内裏歌合のわずか数年前に離婚を経験。
その後、別れた妻は後に役人である赤染時用という男性と再婚しました。そこで生まれたのが、百人一首59番目の作者・赤染衛門です。

「袋草紙」(平安後期の歌人・藤原清輔による歌論書)には、赤染衛門の母親が兼盛の子どもを身ごもった状態で再婚し、赤染衛門を出産したとする記述が残されています。
兼盛も「別れた直後に生まれたならば、自分の子であるに違いない」と、引き取ることを希望して検非違使庁(現在でいう警察のような役所)に訴えましたが、元妻は拒否。
さらには、赤染時用が「兼盛の妻であったころから関係があった」などと主張し(それもいかがなものかと思いますが)、最終的に兼盛には親権が認められませんでした。

 


 

そんな兼盛。
恋愛面ではついていなかったのか、別の女性との逸話も残っています。

平安時代に成立した歌物語「大和物語」は様々な人の歌とエピソードを集められたものですが、その中には兼盛を扱った箇所があります。
歌をやり取りしていた女性に結婚を申し込んだものの、その人には恋人がいて、何も知らない兼盛が引き続きアプローチしたところ、ついには女性が過去に兼盛が贈った歌を返して来たので、そこで振られたことに気づいた・・・

という、何とも残念な内容となっています。

 

 

  

 

夫婦の日常家事代理と表見代理

 

さて・・・

 

離婚した妻との親権争いに敗れてしまった兼盛。
2人が結婚生活を継続していれば、子育ての他にも、様々なことを共に協力して過ごしていたことでしょう。

 

現在の民法は、夫婦が日常生活を送るうえで発生する債務について、夫婦が連帯して責任を負うことを定めています。

民法761条(日常の家事に関する債務の連帯責任)
夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによって生じた債務について、連帯してその責任を負う。ただし、第三者に対し責任を負わない旨を予告した場合は、この限りでない。

 「日常の家事」とはひとことで言っても、夫婦によって生活や事情は異なり、その範囲も変わってくることでしょう。

 

また、民法は本来与えられた権限を超えておこなわれた行為でも、一定の条件を満たす場合には、その行為が有効となることを定めています。

民法110条(権限外の行為の表見代理)
前条第1項本文(※)の規定は、代理人がその権限外の行為をした場合において、第三者が代理人の権限があると信ずべき正当な理由があるときについて準用する。

※109条1項(代理権授与の表示による表見代理等)の条文は、
「第三者に対して他人に代理権を与えた旨を表示した者は、その代理権の範囲内においてその他人が第三者との間でした行為について、その責任を負う。ただし、第三者が、その他人が代理権を与えられていないことを知り、又は過失によって知らなかったときは、この限りでない。」

 

この「表見代理」について、761条が定める「日常家事」の範囲を超えた場合にも成立するのかという点が問題になる場合があります。 

これについて、裁判所の判断が示された事例があります(最判昭和44年12月18日)。

 

昭和24年頃、女性Xはとある不動産を売買により取得し(以下「本件不動産」)、同年中にその所有権移転登記を了していました。

やがてAと結婚しましたが、その後Aが経営していた事業は昭和37年3月に倒産。
当時、Yが経営する企業はAに対して800万円以上の債権を有していました。

そこでAは、昭和37年4月に自身をXの代理人であるとして、Yとの間で、本件不動産をYに売り渡す旨の売買契約を締結しました。この際AはXに許諾を得ず、契約書への記名押印など、契約締結の手続も勝手に進めていました。
そして、本件不動産については、同年中に原告・被告間に売買があったことを原因とする所有権移転登記がなされました。

その後の昭和39年6月、XとAは離婚。
XはYに対して本件不動産を売り渡したことはなく、かかる登記申請もおこなっていないため、上記の所有権店登記は無効であるとして、Yに対して抹消登記手続を求めて提訴しました。

 

これに対してYは、

・AはXから代理権を授与されて契約締結した
・仮にこれが認められなくとも、Aは民法761条により日常家事に関してXを代理する権限を有していたから、これを基に民法110条により表見代理が適用される

としたうえで、取引は有効であると主張しました。

1審、2審では、ともにXの請求が認められたため、これに対してYが上告。
裁判所は民法110条の表見代理の成立について、次のとおり判示しました。

民法761条は、「夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによつて生じた債務について、連帯してその責に任ずる。」として、その明文上は、単に夫婦の日常の家事に関する法律行為の効果、とくにその責任のみについて規定しているにすぎないけれども、同条は、その実質においては、さらに、右のような効果の生じる前提として、夫婦は相互に日常の家事に関する法律行為につき他方を代理する権限を有することをも規定しているものと解するのが相当である。

そして、民法761条にいう日常の家事に関する法律行為とは、個々の夫婦がそれぞれの共同生活を営むうえにおいて通常必要な法律行為を指すものであるから、その具体的な範囲は、個々の夫婦の社会的地位、職業、資産、収入等によつて異なり、また、その夫婦の共同生活の存する地域社会の慣習によつても異なるというべきであるが、他方、問題になる具体的な法律行為が当該夫婦の日常の家事に関する法律行為の範囲内に属するか否かを決するにあたつては、同条が夫婦の一方と取引関係に立つ第三者の保護を目的とする規定であることに鑑み、単にその法律行為をした夫婦の共同生活の内部的な事情やその行為の個別的な目的のみを重視して判断すべきではなく、さらに客観的に、その法律行為の種類、性質等をも充分に考慮して判断すべきである。

しかしながら、その反面、夫婦の一方が右のような日常の家事に関する代理権の範囲を越えて第三者と法律行為をした場合においては、その代理権の存在を基礎として広く一般的に民法110条所定の表見代理の成立を肯定することは、夫婦の財産的独立をそこなうおそれがあつて、相当でないから、夫婦の一方が他の一方に対しその他の何らかの代理権を授与していない以上、当該越権行為の相手方である第三者においてその行為が当該夫婦の日常の家事に関する法律行為の範囲内に属すると信ずるにつき正当の理由のあるときにかぎり、民法110条の趣旨を類推適用して、その第三者の保護をはかれば足りるものと解するのが相当である。

 

つまり、日常家事代理権を基礎に広く表見代理を認めるのではなく、「その行為が当該夫婦の日常の家事に関する法律行為の範囲内に属すると信ずるにつき正当の理由のあるとき」と、範囲を厳密に限定すると示したのです。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

兼盛の作風は基本に忠実で、内容も実生活に根ざしたものが多く、生活派(※)の歌人といわれたそうです。

※芸術上の一派。現実の生活を重視し、実生活の体験に基づいた創作をおこなうもの。特に、明治末期から大正時代にかけての近代短歌の一派をいう。(コトバンク参照) 

 

本日の「しのぶれど」は題詠されたもの。

表に出さないようにしていたつもりが、人から「もしかして恋してるのですか?」と聞かれて、自分の気持ちが表情に出てしまっていることに気づく・・・

というように、会話を取り入れた巧みな構成でありながら
現代の私たちも「そういうこともあるよね」と頷いてしまう、とても身近な内容となっているのです。

  

新しい景色を知ることのできる歌が数々ある一方、
時代を超えて共感できる作品に出会えることも、和歌の楽しさかもしれません。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 

 

 

 

 

ひまわり観察日記-2025- ⑥

あっという間にお盆も過ぎ、8月も下旬に入ろうとしています。

 

一般的にお盆は8月とされていますが、地域によっては7月や9月にもなることをご存じですか?

東京、函館、金沢は7月、
一部(沖縄、東京都多摩地区の一部)を除く全国は8月、
とされており、その背景には「改暦」があります。

 

明治より前の日本は旧暦が使用されており、お盆は7月15日であったところ
①改暦によって日付がずれ、同じ時期にあたる現在の8月15日とした(旧盆)
②お盆は7月15日が相応しいとして、現在の7月15日とした(新盆)
との経緯により、大きく二手に分かれることとなりました。

なお、全国的には旧盆(8月)がとられているのには、7月は農作業が忙しいためお盆をおこなうのが難しいから、という説があります。
特に東京は農業との関連が弱く、また改暦をおこなった明治政府のお膝元であることから、新盆(7月)としたと考えられるそうです。

ちなみに・・・筆者の家族はみな東京出身で、幼いころから7月になると家族で迎え火、送り火を焚いた思い出があります。
今回経緯を知って「なるほど」と大きく頷いてしまいました。

こうした地域差が生まれるのも、場所ごとに文化が多様な「日本ならでは」という感じがいたします。

 

◇ ◇ ◇

 

先日一部開花していたひまわりですが、徐々に満開となりました。

 

 

 

 

 

 

タイミングが揃って開花したのは小夏でした。
やはり「王道のひまわり」感があって華やかですね。

 

 

ということで、2025年のひまわりも無事に開花を迎えることができました。

過去のブログ記事でもふれましたが、ひわまりは弁護士バッジ(弁護士記章)のデザインに用いられていることもあり、弁護士事務所には縁のある花なのです。

来年も引き続き観察してまいりたいと思います。

ひまわり観察日記-2025- ⑤

平均気温が過去最高となった7月を終え、8月に入りました。

しかし、毎日口から出るのは「暑い」という言葉ばかり。
朝の天気予報を見ただけで汗をかいてしまいそうです。

 

そんな8月ですが、またの名を「葉月」というのはご存じの方も多いはず。
その由来は諸説ありますが、「木の葉が紅葉して、葉が落ちる月だから」というのが最も有名なようです。

 

・・・なんだかとても「秋」の雰囲気ではありませんか?
昨今の猛暑からすれば、季節外れじゃないかと違和感があるほど。

 

それもそのはず。
この「和風月名」は旧暦(太陰太陽暦)で使われていたもので、現在の太陽暦とはズレがあります。

 

旧暦8月は現在の8月下旬から10月上旬にあたるため、そう考えると非常に季節にマッチしたネーミング、というわけなのです。
8月に「立秋」が置かれているのも納得ですね。

ちなみに、「葉月」は以下の名称から転じたとされる説もあります。

穂張り月(ほはりづき):稲の穂が育ち身が張る様子から
初来月(はつきづき):雁が初めて渡って来るため(雁は春と秋の季語)
南風月(はえづき):台風が来るため「南の風が吹く月」の意
月見月(つきみづき):中国の中秋節の風習が伝来したことから

 

さて、少しは涼しい気分になれましたでしょうか。

 

 

◇ ◇ ◇

 

秋の気分をわずかに先取りしたところで、
弊所のひまわりは徐々に咲きはじめてまいりました。

 

一番乗りは「ジュニア」です。 

 

 

 

ほぼ100%開花のものから、あと一息というものまで。
全体的にちらほら咲き始めています。 

 

 

  

そして別日には、より一層開きが大きくなっていました。 

 

 

他の鉢でも咲き始めています。
こちらは夏物語。若干色味が異なっており、こちらも綺麗ですね。 

 

 

小夏も咲いている箇所を発見。あともう少しというところでしょうか。 

 

 

 

ちなみに・・・
ひまわりは夏の季語のなかでも晩夏に分類されるのだそうです。

ということは、間もなく夏も終わりに近づくのですね。

 

これからお盆を迎え、暑さはまだまだ衰えそうにありませんが、夏らしさを楽しみながら乗り越えたいと思います。

 

 

 

ひまわり観察日記-2025- ④

7月も終盤となり、ますます夏らしさが増してまいりました。

先日友人と
「自分たちが子供の頃の夏はどう過ごしていたか」
という話になりました。

平成1桁の生まれの私たちは、幼いころの

水泳の授業が始まったばかりの時期は、むしろ寒さに震えていたり
教室にはエアコンがなく、備え付けの扇風機で暑さをしのいでいたり
夏休みは朝の涼しいうちからラジオ体操に走ったり・・・

などの思い出が話題にあがり、思わず懐かしい気持ちに。

今思えば過ごしやすい気候だったのかもしれません。
とはいえ、令和の夏も暑さ対策をしながら楽しみたいものです。

 

◇ ◇ ◇

 

とどまることを知らない猛暑のなか、弊所のひまわりは非常に元気です。
前回間引きをおこなってからは、ますます順調に成長しています。

 

 

葉っぱは瑞々しく色鮮やか。間引きが功を奏したのでしょうか。    

 

 

  

 

横から見ると、背丈もだいぶ大きくなっています。

 

 

 

 

蕾は大きくなり、開花まで間もなくというところです。

 

 

・・・とはいえ、写真からも日差しの強さが見て取れますね。

 

日中はもちろん、朝夕の通勤時間も暑さが厳しくなってまいりました。

ひまわりの成長に励ましてもらいながら、我々人間も体調管理に気を配りつつ、引き続き業務に取り組んでいきたいと思います。

 

 

 

ひまわり観察日記-2025- ②

6月に入り、ついに関東甲信地方・北陸地方では梅雨入りとなりました。
昨年より10日ほど早いものの、例年よりは3日ほど遅いのだそうです。

言われてみると確かにというところ。
そんな事情もあって昨年の猛暑だったのかもしれません・・・

今年の夏は心地よい暑さで過ごせるよう、今から期待したいと思います。

 


  

そんな雨模様のなかですが、先日種をまいたひまわりはさっそく発芽。
様子を見に行ってみると、全ての鉢で発芽を確認することができました。

 

 

 

ひとつひとつ見ていくと、
バランスよく同じスピード感で育っていることが良くわかります。

 

 

 

こちらは種の皮が乗ったまま伸びています。
力強く成長しているようで何より。

 

  

 

何だか例年に比べて早いかも?と思い、過去のブログを確認しましたが
毎年同じくらいのスピード感で成長しているようでした。
人間の記憶というのは曖昧なものです・・・

 

ということで、
今年も綺麗に咲いてもらえるよう、引き続きしっかり観察していきたいと思います。
 

ひまわり観察日記-2025- ①

2025年の上半期も残りわずか。

・・・と書き始めているということは、
今年もひまわりの種まきのタイミングがやってきたということです。

 

今年の品種はこちら。

 

ジュニア
ちーくまくん
小夏
夏物語

昨年、綺麗に開花していた4種類をピックアップいたしました。

 

今年の前半は寒の戻りが多かったせいか、
「本当にこれから夏がくるのか」と、いまいち実感がないように思います。

・・・それならば気分を追い付かせよう、ということで
さっそく種まきをおこないました。

 

まずは植木鉢を準備して、
いつもお世話になっている「観葉植物の土」を開封していきます。

 

 

この土のおかげでひまわりが元気に育っているといっても過言ではありません。
今年もよろしくお願いします・・・と念を込めながら鉢に入れていきます。

 

 

 

7割程度のところまで入れたら、種を置いていきます。
お馴染みの、小夏の青い種をはじめ

 

そそれぞれ、ラベリングした鉢にまいていきます。

 

 

 

 

さらに上から土をかぶせ、
水をあげて陽当たりの良い場所へ移動したら完成。

 

 

 

来週あたりから梅雨入りが近いかもしれない、ということで気温が心配ですが
今年も順調に育つようしっかり観察していきたいと思います。

 

 

法律で読み解く百人一首 67首目

現代のデジタル社会において、SNSは切っても切れない存在です。

非常に便利なツールである一方、情報が瞬く間にインターネット上で拡散されてしまうため、近年では情報漏えいや炎上・誹謗中傷など、SNS上のトラブルがニュースになることも少なくありません。

特に、いじめ問題や異性間のトラブルなど、人間関係に関するものであるほど人々の関心は高くなり、好奇の目にさらされやすいといえるでしょう。
内容次第では厳しい批判を受けたり、社会的信用を失ってしまうことも・・・

 

 

百人一首の時代では、そうした心配はもちろん不要です。
その代わり、人々による「噂」がとても強い力を持っており、社会的評判を決定づける重要なものさしとなっていました。

和歌、漢詩、楽器演奏の才能が広まれば出世や結婚につながり、逆に不評であれば命取りとなるため、現在のSNSよりはるかに扱いが難しかったかもしれません。

 

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 

 本日の歌  「春の夜の 夢ばかりなる 手枕に

かひなく立たむ 名こそ惜しけれ」  

周防内侍


「はるのよの ゆめばかりなる たまくらに

かひなくたたむ なこそおしけれ」

すおうのないし

 

小倉百人一首 100首のうち67首目。
平安時代後期の歌人、周防内侍による「雑」の歌となります。

 

 

 

 

歌の意味

 

春の夜の短い夢のようにはかない腕枕を借りたがために、つまらない噂になったら惜しいではありませんか。

 

春の夜の夢ばかりなる
「春の夜の夢」=連語。短く儚いものの例え。
「ばかり」=程度を表す副助詞。ここでは夢の長さを限定し、春の夜の長さの程度について表す。
「なる」=断定の助動詞「なり」
全体で「春の夜の夢のように儚い」。

手枕に
「手枕」は腕枕のこと。
ここでは、男女が一夜を過ごすときに男性が腕枕をすること。

かひなく立たむ
「かひなく」は「腕(かいな)」と「甲斐なし」の意味を含む掛詞。
「腕」は手枕にかかっており、「甲斐なし」は「無駄」「取るに足らない」などの意。

名こそ惜しけれ
「名」はうわさや評判のこと。「立たむ名」で「噂になってしまう浮き名」。
「こそ」は強調の係助詞で「けれ」と係り結び。

 

 

 

作者について

 

周防内侍(すおうのないし・1037?ー1109?)

本名は平仲子(たいらのちゅうし)。
平安時代後期の歌人で、女房三十六歌仙の一人です。

父は貴族・歌人である平棟仲、母は「小馬内侍」と呼ばれた後冷泉院の女房ですが、生没年は不明とされています。父が周防守(周防国=現在の山口県東部)を務めたことから、周防内侍と呼ばれました。夫や子どもについての記録は残っていません。

はじめは後冷泉天皇に出仕していましたが、1068年に天皇が崩御されたため一度宮廷を離れます。後三条天皇が即位したことで命を受けて再出仕し、その後は白河天皇、堀河天皇までの計4代の天皇に仕えました。

宮廷では40年以上にわたって典侍(※1)としてキャリアを積み、最終的には正五位下(※2)まで昇進しました。

※1)後宮にある「内侍司」(天皇のそばで様々な事務や儀式を司る機関)において上から2番目の役職。
※2)30段階に分けられた身分の序列「位階」のひとつ。正五位下は上から12番目。

一方、歌人としては様々な歌合に出席するなどして活躍。
詠題に秀でており、藤原顕輔(百人一首79番目の作者)や「後拾遺和歌集」の撰者である藤原通俊といった歌人らと親交があったとされています。

 


 

本日ご紹介する歌は「千載和歌集」に掲載されたもの。
詞書は次のとおり記されています。

 

二月ばかり月明き夜 二条院にて人人あまた居明して物語りなどし侍りけるに 内侍周防寄り臥して 枕をがなと 忍びやかに言ふを聞きて 大納言忠家これを枕にとて腕を御簾の下より差し入れて侍りければ よみ侍りける

 

つまり・・・

旧暦の2月頃、ある明るい月夜に二条院では人々が夜更けまで楽しく語らっていました。そんな中、眠くなってきたのか、周防内侍がふと「枕が欲しいわ」とつぶやきました。

すると、それを耳にした藤原忠家が「これを枕に」と御簾の下から自分の腕を差し入れてきたのです。ここで周防内侍が詠んだのが、本日の歌です。

 

藤原忠家は、百人一首の撰者である藤原定家の曽祖父にあたる人物。
高位貴族であった忠家と周防内侍では、その身分が大きく異なります。彼にしてみれば、ほんの戯れで声をかけてきたのでしょう。

これに対して、周防内侍は技巧に優れた歌を即興で詠みあげつつ、上品にかわしてみせたのでした。

 

ここで終わりかと思いきや、忠家も歌で切り返します。

契りありて 春の夜ふかき 手枕を いかがかひなき 夢になすべき

(縁があって春の夜更けに差出した手枕を、なぜ夢のように甲斐なくしてしまうのですか)

 

やられっぱなしでは終わりませんでした。
なお、実際の二人の関係は分かりませんが、こうした艶やかな歌をやり取りできてしまうのは、和歌の実力がある平安貴族ならではでしょう。

 

 

 

前科照会とプライバシー

 

さて・・・

 

忠家の誘いをさらりとかわした周防内侍。

人が集まる場での出来事であったため、返答内容によっては、その様子が瞬く間に世間に広まり、あることないことを噂されていたかも・・・

平安貴族、特に身分の高い人には常に側仕えの人間がいたはずですから、どこで誰が見聞きしているかは分かりません。

さらに、貴族が住んでいた寝殿造の屋敷は、言ってしまえばほとんど吹きさらし状態。外周は開放できる「蔀」(しとみ)と呼ばれる戸で覆われただけで、スペースを区切るのは几帳や屏風といった可動式の建具のみでした。

 

このように、平安を生きながらプライバシーを守るのは、物理的にもコミュニティ的にも大変だったのではないでしょうか。

とはいえ、この時代には当然プライバシーといった概念はありません。
「プライバシー権」が法的に確立されたのは19世紀のアメリカです。

日本憲法で「プライバシー権」を直接規定した条文はありませんが、
・13条(幸福追求権、個人の尊重)
・21条(通信の秘密)
・35条(住居の不可侵)
などから、解釈上認められるとされる動きがあります。

プライバシー権の侵害について判断された事例として、いわゆる「前科照会事件」があります(最三小判昭和56年4月14日)。

 


 

自動車教習所Aの指導員として勤務していたXは解雇されてしまったため、教習所の運営会社を相手取って従業員たる地位保全の仮処分を申請し、その関連事件が京都地裁及び中央労働委員会に係属していました。

Aから当該事件の委任を受けていた弁護士Bは、昭和46年5月、所属していた京都弁護士会を通じて、京都市伏見区役所に対し「中央労働委員会、京都地方裁判所に提出するため」として、弁護士法23条の2に基づくXの前科及び犯罪歴の照会をおこないました。

弁護士法
(報告の請求)
第23条の2 弁護士は、受任している事件について、所属弁護士会に対し、公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることを申し出ることができる。申出があつた場合において、当該弁護士会は、その申出が適当でないと認めるときは、これを拒絶することができる。
2 弁護士会は、前項の規定による申出に基き、公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることができる。

 

照会を受けた伏見区役所が中京区役所に回付したところ、中京区長はXの前科犯罪歴(道交法違反、業務上過失傷害、暴行)を回答しました。
するとAはこれを公表し、さらに経歴詐称を理由にXを予備的解雇とし、係属中の事件で新たに主張をなして争いました。

そのため、Xは中京区長が照会に応じたことについて、京都市を被告に
・名誉を毀損された
・予備的解雇に伴う裁判等により多大の労力、費用を要した
として、550万円の損害賠償及び謝罪文の交付を求めて提訴しました。

 

第1審は、

・弁護士法23条の2は弁護士の氏名、弁護士会の目的と切り離して考えることができず、この照会と回答のため、個人にプライバシー等が侵されることはあるのはやむを得ない。
・弁護士会からの法律に基づく照会である以上、不法不当な目的に供されることが明らかでない限り応ずるのが当然であり、そうした理由もないのに容易に拒絶できてしまえば、23条の間口を狭めて弁護士の活動を不便にするから、照会を受けた公務所等は原則として照会に応ずる義務がある。

として、Xの請求を棄却。Xは控訴しました。

第2審において、
裁判所は、弁護士法による照会を受けた公務所等は原則として報告義務を負うと認めたうえで

・前科や犯罪経歴が公表され、又は他に知らされるのは、法令に根拠のある場合や公共の福祉による要請が優先する場合等に限定されるべきもの。
・犯罪人名簿を補完する市町村が、本来の目的である選挙権及び被選挙権の資格の調査、判断に使用するほかは、一般的な身元証明や照会等に応じ回答するため使用すべきものではないと解するのが相当。
・弁護士の守秘義務は依頼者に対する委任事務処理状況の法屋義務に優先するものではなく、依頼者による秘密の漏洩・濫用を阻止するための制度上の保障は存在しない。
・よって、市町村は前科等について弁護士法23条の2に基づく照会があった場合には報告を拒否すべき正当事由がある場合に該当する、と解するのが相当。

以上から、本件において照会を拒否することなく報告した中京区役所の行為は違法であったとして、Xの請求を一部容認し、中京区役所に対して25万円の賠償を命じました。

国家賠償法
第1条 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
② 前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。

 

これを受けて役所側が上告したところ、最高裁は、

前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉、信用に直接にかかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有するのであつて、市区町村長が、本来選挙資格の調査のために作成保管する犯罪人名簿に記載されている前科等をみだりに漏えいしてはならないことはいうまでもないところである。前科等の有無が訴訟等の重要な争点となつていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができるのであり、同様な場合に弁護士法23条の2に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが、その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない。本件において、原審の適法に確定したところによれば、京都弁護士会が訴外A弁護士の申出により京都市伏見区役所に照会し、同市中京区長に回付された被上告人の前科等の照会文書には、照会を必要とする事由としては、右照会文書に添付されていたA弁護士の照会申出書に「中央労働委員会、京都地方裁判所に提出するため」とあつたにすぎないというのであり、このような場合に、市区町村長が漫然と弁護士会の照会に応じ、犯罪の種類、軽重を問わず、前科等のすべてを報告することは、公権力の違法な行使にあたると解するのが相当である。原審の適法に確定した事実関係のもとにおいて、中京区長の本件報告を過失による公権力の違法な行使にあたるとした原審の判断は、結論において正当として是認することができる。

 

控訴審の判決を支持し、上告を棄却しました。
なお、最高裁では以下のとおり補足意見及び反対意見が付されています。

裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。
他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであつても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許されず、違法に他人のプライバシーを侵害することは不法行為を構成するものといわなければならない。このことは、私人による公開であつても、国や地方公共団体による公開であつても変わるところはない。国又は地方公共団体においては、行政上の要請など公益上の必要性から個人の情報を収集保管することがますます増大しているのであるが、それと同時に、収集された情報がみだりに公開されてプライバシーが侵害されたりすることのないように情報の管理を厳にする必要も高まつているといつてよい。近時、国又は地方公共団体の保管する情報について、それを広く公開することに対する要求もつよまつてきている。しかし、このことも個人のプライバシーの重要性を減退せしめるものではなく、個人の秘密に属する情報を保管する機関には、プライバシーを侵害しないよう格別に慎重な配慮が求められるのである。

 

裁判官環昌一の反対意見は、次のとおりである。
前科等は人の名誉、信用にかかわるものであるから、前科等のある者がこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有することは、多数意見の判示するとおりである。しかしながら、現行法制のもとにおいては、右のような者に関して生ずる法律関係について前科等の存在がなお法律上直接影響を及ぼすものとされる場合が少なくないのであり、刑事関係において量刑上の資料等として考慮され、あるいは法令によつて定められている人の資格における欠格事由の一つとして考慮される場合等がこれに当たる。このような場合にそなえて国又は公共団体が人の前科等の存否の認定に誤りがないようにするための正確な資料を整備保管しておく必要があるが、同時にこの事務を管掌する公務員の一般的義務として該当者の前科等に関する前述の利益を守るため右の資料等に基づく証明行為等を行うについて限度を超えることがないようにすべきこともまた当然である。

 

この事件のポイントは、
「犯罪の種類、軽重を問わず、前科等のすべてを報告すること」は公権力の違法な行使にあたる、とされている点です。

例えば、本件ではXが運転業務をおこなうことから、交通事故の前科に限って照会をおこなうなど、関連が明らかであれば「公権力の違法な行使」といった判断はされないかもしれません。

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

時代が進むにつれ、百人一首は広く親しまれるようになり、周防内侍の名も人々に知られるようになりました。
忠家との逸話も大衆化したため、江戸時代になると、その恋愛模様を描いた土佐浄瑠璃「周防内侍美人桜」が成立するに至りました。

一方で、二人は親しい友人同士であったとする説もあるようです。

それにもかかわらず、周囲の好奇心によって作品まで出来上がってしまうとは
まさに「噂」の力ではないでしょうか。

 

それがわかっていからこそ、

「一瞬の出来事が、誰かに切り取られて拡散でもされたら困りますよ」
「そんなことで炎上して、評判に傷がついたら嫌じゃないですか」

と切り返した周防内侍ですが、レピュテーション・マネジメントともいえる努力の甲斐もむなしく、後世の日本人は大盛り上がりしたのでした。

 

 

 

 文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 

 

 

 

法律で読み解く百人一首 7首目

春は、出会いと別れの季節。

進学や就職など、大きく環境が変わる方も多いはず。
年齢を重ねるごとにそのような機会も減りますが、それでも、春がくると何だか真新しい気持ちになります。

 

そして、出会いがあれば、必ず訪れるのが別れ。
切ないところですが、だからこそ共にある時間を大切にしたいものです。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 

 本日の歌  「天の原 ふりさけ見れば 春日なる

三笠の山に 出でし月かも」  

安倍仲麿


「あまのはら ふりさけみれば かすがなる

みかさのやまに いでしつきかも」

あべのなかまろ

 

 

 

小倉百人一首 100首のうち7首目。
奈良時代前期の遣唐留学生、安倍仲麿による「羇旅」の歌となります。

 

 

歌の意味

 

大空を仰いではるか遠くを見渡してみると、月が昇っている。
あの月は奈良の春日にある、三笠山に昇っていた月なのだなあ。

  

天の原
広々とした大空を指す名詞。

ふりさけ見れば
「振り放け見る」は「ふり仰いで遠くを望み見る」
(ふり仰ぐ=顔を上げて高いところを見る)
接続助詞「ば」は確定条件で「~と」と訳す。

春日なる
「春日」は現在の奈良市春日野町のあたり。
当時の平城京の東方一帯の地域。
助動詞「なる」は存在を表し、「~にある/いる」と訳す。

三笠の山に
春日大社の裏手にそびえる山。
笠の形に似ていることから「御蓋山(みかさやま)」とも。
仲麿が唐へ発つ際は、航海の無事を祈る祭祀がその南麓でおこなわれた。

出でし月かも
「いづ」は「中から外に出る」「出現する」の意。
「し」は助動詞「き」の連体形で、過去の出来事を回想している。
「かも」は感動・詠嘆の終助詞で「~ことよ/だなあ」となる。

 

作者について

 

安倍仲麿(あべのなかまろ・698-770)

 

正しくは阿倍仲麻呂。奈良時代の遣唐留学生です。中務大輔(律令制における役職のひとつ)を務める阿倍船守の長男として生まれました。

幼いころから学問に秀でていた仲麿は、716年に遣唐使として入唐留学生に選出され、翌717年には19歳にして遣唐使に同行。吉備真備や玄昉らと共に唐の都・長安に留学しました。

唐では「朝衡/晁衡」(ちょうこう)という名前を用いました。
太学といわれる高等教育期間で学び、科挙(中国の官僚登用試験)に合格または推挙で登用され、唐朝において数々の仕事をこなし、出世を重ねていきます。
その仕事ぶりによって当時の玄宗皇帝からも高く評価され、さらに上の位階に抜擢されるなどしました。

733年になると、再び日本から遣唐使がやってきます。
一緒に唐へ渡った吉備真備、玄昉はこの機会に帰国することが決まっていたため、仲麿も同行するつもりでした。しかし、その優秀さゆえに玄宗皇帝からは帰国許可の申し出を拒否されてしまい、引き続き留唐することとなりました。

752年、日本から再度遣唐使がやってきました。
このとき、仲麿は玄宗皇帝から遣唐使らの応対を命じられたため、この機会に再度帰国許可を申し出たところ、皇帝からは「唐からの使者」として何とか一時帰国の許可を得ることができました。
このとき、仲麿が唐に渡ってから35年が経過していました。

仲間との別れを惜しみながらも帰国の途に就きましたが、仲麿らの乗った船は暴風雨に巻き込まれ、安南(現在のベトナム北部から中部)に漂着してしまいます。
多くの者が現地民の襲撃にあい客死するなか、何とか唐まで戻ることができ、その後日本の朝廷から迎えが来たものの、唐朝は行路が危険であることを理由に彼の帰国を認めませんでした。

最終的に仲麿は日本へ帰ることを断念。
再び官吏の地位につき、玄宗皇帝を含む3代の皇帝に仕えたのちに、770年に73歳で亡くなりました。

 

 

 

 


 

これだけの情報でも
「どれほど波瀾万丈だったのだろうか」
と思わせるほどインパクトのある仲麿の生涯。

本日ご紹介する「天の原」ですが、この歌は、やっとのことで帰国することとなった仲麿のために開かれた、送別の宴にて詠まれたとされています。

唐で長い時間を過ごした仲麿は交友関係も広く、唐の時代を代表する詩人である李白、王維らとも親交がありました。きっとこの宴にも参加していて、思い出を語り合ったり別れを惜しんだりしていたことでしょう。

そんな友人らに対し、日本語で贈った歌であると伝わっています。
(このあたりのエピソードは諸説あるようです)

友人たちと宴会の席を楽しみ、後ろ髪を引かれながらも、やっと帰れることとなった日本に思いを馳せた・・・
そんな情景が思い浮かび、なんだか胸に迫るものがあります。

 

 

 

酒類販売の免許制

 

さて・・・

 

仲麿が友人らとの時間を過ごした夜。
「宴」というくらいですから、きっとお酒も楽しんでいたはず。

仲麿もお酒が進んで、ほろりとしながらこの歌を詠んだのかも・・・
ついつい、そんな想像が膨らみます。

このように、人生の節目に彩を添える役割もある「酒」。
その販売や製造に免許がいることは、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

過去に、酒類販売免許の申請に関して争われた事例があります(最判平成7年12月15日。いわゆる「酒類販売免許制事件」)。

 

 

Xは、「酒類並びに原料酒精の売買」等を目的とする株式会社。
昭和49年に酒税法9条1項の規定に基づき酒類販売業免許を申請したところ、所轄の税務署長Yはこの申請が同法10条10号に該当するとして、免許の拒否処分(以下「本件処分」)をしました。 

(酒類の販売業免許)
第9条 酒類の販売業又は販売の代理業若しくは媒介業(以下「販売業」と総称する。)をしようとする者は、政令で定める手続により、販売場(継続して販売業をする場所をいう。以下同じ。)ごとにその販売場の所在地(販売場を設けない場合には、住所地)の所轄税務署長の免許(以下「販売業免許」という。)を受けなければならない。ただし、酒類製造者がその製造免許を受けた製造場においてする酒類(当該製造場について第7条第1項の規定により製造免許を受けた酒類と同一の品目の酒類及び第44条第1項の承認を受けた酒類に限る。)の販売業及び酒場、料理店その他酒類をもつぱら自己の営業場において飲用に供する業については、この限りでない。

(製造免許等の要件)
第10条 第7条第1項、第8条又は前条第1項の規定による酒類の製造免許、酒母若しくはもろみの製造免許又は酒類の販売業免許の申請があつた場合において、次の各号のいずれかに該当するときは、税務署長は、酒類の製造免許、酒母若しくはもろみの製造免許又は酒類の販売業免許を与えないことができる。
(略)
10 酒類の製造免許又は酒類の販売業免許の申請者が破産手続開始の決定を受けて復権を得ていない場合その他その経営の基礎が薄弱であると認められる場合

 

そこでXは、酒類販売業について、所轄税務署長による免許制度を採用しその要件を定めた酒税法9条、10条各号の規定は、憲法22条1項所定の職業選択の自由の保障に違反し無効であるとして、Yによる免許拒否処分の取消しを求めて提訴しました。 

第22条1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

 

第一審は、Xが酒税法10条10号に該当するとは認められないとして、本件処分を違法とし、これを取り消しました。

これを受けてYは控訴。
第二審は、Xが酒税法10条10項に該当するという判断に違法はなく、酒税法が酒類販売業につき違憲無効とはいえないとして、第一審の判決を取り消し、Xの請求を棄却しました。

Xがこれを不服として上告したところ、裁判所は酒類の製造及び販売業の免許制について、 

酒税法は、酒税の確実な徴収とその税負担の消費者への円滑な転嫁を確保する必要から、このような制度を採用したものと解される。

 

としたうえで、

 

酒税が、沿革的に見て、国税全体に占める割合が高く、これを確実に徴収する必要性が高い税目であるとともに、酒類の販売代金に占める割合も高率であったことにかんがみると、酒税法が昭和13年法律第48号による改正により、酒税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという国家の財政目的のために、このような制度を採用したことは、当初は、その必要性と合理性があったというべきであり、酒税の納税義務者とされた酒類製造者のため、酒類の販売代金の回収を確実にさせることによって消費者への酒税の負担の円滑な転嫁を実現する目的で、これを阻害するおそれのある酒類販売業者を免許制によって酒類の流通過程から排除することとしたのも、酒税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという重要な公共の利益のために採られた合理的な措置であったということができる。その後の社会状況の変化と租税法体系の変遷に伴い、酒税の国税全体に占める割合等が相対的に低下するに至った本件処分当時の時点においてもなお、酒類販売業について免許制度を存置しておくことの必要性及び合理性については、議論の余地があることは否定できないとしても、前記のような酒税の賦課徴収に関する仕組みがいまだ合理性を失うに至っているとはいえないと考えられることに加えて、酒税は、本来、消費者にその負担が転嫁されるべき性質の税目であること、酒類の販売業免許制度によって規制されるのが、そもそも、致酔性を有する嗜好品である性質上、販売秩序維持等の観点からもその販売について何らかの規制が行われてもやむを得ないと考えられる商品である酒類の販売の自由にとどまることをも考慮すると、当時においてなお酒類販売業免許制度を存置すべきものとした立法府の判断が、前記のような政策的、技術的な裁量の範囲を逸脱するもので、著しく不合理であるとまでは断定し難い。

 

のように判示し、上告を棄却しました。

なお、本件でXの請求は認められなかったものの、裁判官は以下のとおり補足意見及び反対意見を述べています。

 

<坂上寿夫裁判長による反対意見(抜粋)>
他方、酒類販売業の許可制が、許可を受けて実際に酒類の販売に当たっている既存の業者の権益を事実上擁護する役割を果たしていることに対する非難がある。酒税法上の酒類販売業の許可制により、右販売業を税務署長の監督の下に置くという制度は、酒税の徴収確保という財政目的の見地から設けられたものであることは、酒税法の関係規定に照らし明らかであり、右許可制における規制の手段・態様も、その立法目的との関係において、その必要性と合理性を有するものであったことは、多数意見の説示するとおりである。酒税法上の酒類販売業の許可制は、専ら財政目的の見地から維持されるべきものであって、特定の業種の育成保護が消費者ひいては国民の利益の保護にかかわる場合に設けられる、経済上の積極的な公益目的による営業許可制とはその立法目的を異にする。したがって、酒類販売業の許可制に関する規定の運用の過程において、財政目的を右のような経済上の積極的な公益目的と同一視することにより、既存の酒類販売業者の権益の保護という機能をみだりに重視するような行政庁の裁量を容易に許す可能性があるとすれば、それは、酒類販売業の許可制を財政目的以外の目的のために利用するものにほかならず、酒税法の立法目的を明らかに逸脱し、ひいては、職業選択の自由の規制に関する適正な公益目的を欠き、かつ、最小限度の必要性の原則にも反することとなり、憲法22条1項に照らし、違憲のそしりを免れないことになるものといわなければならない。

 

<園部逸夫裁判官による補足意見(抜粋)>
もっとも、この制度が導入された当時においては、酒税が国税全体に占める割合が高く、また酒類の販売代金に占める酒税の割合も大きかったことは、多数意見の説示するとおりであるし、当時の厳しい財政事情の下に、税収確保の見地からこのような制度を採用したことは、それなりの必要性と合理性があったということもできよう。しかし、その後40年近くを経過し、酒税の国税全体に占める割合が相対的に低下するに至ったという事情があり、社会経済状態にも大きな変動があった本件処分時において(今日においては、立法時との状況のかい離はより大きくなっている。)、税収確保上は多少の効果があるとしても、このような制度をなお維持すべき必要性と合理性が存したといえるであろうか。むしろ、酒類販売業の免許制度の採用の前後において、酒税の滞納率に顕著な差異が認められないことからすれば、私には、憲法22条1項の職業選択の自由を制約してまで酒類販売業の免許(許可)制を維持することが必要であるとも、合理的であるとも思われない。そして、職業選択の自由を尊重して酒類販売業の免許(許可)制を廃することが、酒類製造者、酒類消費者のいずれに対しても、取引先選択の機会の拡大にみちを開くものであり、特に、意欲的な新規参入者が酒類販売に加わることによって、酒類消費者が享受し得る利便、経済的利益は甚だ大きいものであろうことに思いを致すと、酒類販売業を免許(許可)制にしていることの弊害は看過できないものであるといわねばならない。

  

 

酒類の製造や販売が許可制とされているのは、公衆衛生や国民健康上の理由ではなく、単に「税金を確実に徴収するため」というのも意外なところではないでしょうか。
内閣府ホームページにも、財政収入確保が目的と記載されています)

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

 

酒税法に関する判例は複数あるなか、いわゆる「どぶろく裁判」(最一判平成元年12月14日)は有名な事件のひとつです。
自分が飲酒することを目的に無免許で清酒等を製造していた被告人が、酒税法に違反するとされたもの。

 

ところで、この事件の裁判要旨を読むと
自宅で梅酒を仕込むことも違法になってしまう気がしませんか?

実は、梅酒については例外が認められており、

消費者が自分で飲むために酒類(アルコール分20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのものに限ります。)に次の物品以外のものを混和する場合には、例外的に製造行為としない

 

とし、「次の物品」に梅は含まないとされています(国税庁HP)。

・アルコール分20度以上の酒類を使用する
・完成した梅酒は自分自身(+同居家族の範囲)で楽しむ
というのが大切なようです。

 

ちなみに・・・
この案内は国税庁HP内の「お酒に関する情報」というページにあるもの。

一見、行政機関のウェブサイトであることを忘れてしまいそうな見出しですが、その内容は読み物としても非常に面白いものとなっています。

なかには
「各地域の酒蔵マップ等」「日本ワイン産地マップ」
という旅行会社顔負けの特集も。

気になった方は、お時間のある際に是非覗いてみてください。

 

 

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー