2025年 新年のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

今年も恒例、愛宕神社へお参りに行ってまいりました。

 

近年の初詣は良いお天気が続いていましたが、
今年は仕事始めに雨が降っていたこともあり、やや曇り空。
(東京では40日振りの雨だったそうです)

とはいえ、入り口には近隣企業の方々が集まり始めており、
終始賑やかな雰囲気でした。

 

 

こちらもお馴染み、「出世の階段」。

 

今年も意を決して階段に臨みます。
しかし、毎年のことながら、目の前まで来るとその傾斜に驚きます。

 

「出世の石段」が怖い(?)のは、途中までは「意外と登れてしまうなあ」と思うのに、最後の数段がとっても辛いというところ。

今年も無事に登り切って、良い運動はじめとなりました。

 

例年であれば、ここで長い行列に圧倒されるのですが、今年はタイミングが良かったのか、待つことなくお参りすることができました。

 

今年も健康に業務にあたれるようお願いしてまいりました。

 

お参り後には破魔矢、お守りを欠かさず購入。

昨年は整備工事がされていましたが
すっかり完了し、ますます美しい神社となっていました。

 

バカンスから戻った鯉たちも、快適に過ごしているのではないでしょうか。

 

そして、社務所の横には「山の上の茶屋」というカフェが。
(以前は入り口近くにレトロなお茶屋さんがあったように記憶しています)

甘酒や甘味だけでなく、ランチメニューもあるそうです。
都内でも神社に併設されたカフェが増えてきた印象がありますが、
お社のすぐ近くでお食事がいただけるなんて、特別感がありますよね。
愛宕神社は桜も美しいので、またその頃に伺ってみようかと思います。

 

 

最後には女坂を下って、今年も初詣が完了しました。

 


 

ということで、良い新年のスタートとなりました。

今年も楽しく読んでいただける記事を作成できるよう尽力してまいります。
当ブログをどうぞよろしくお願いいたします。

法律で読み解く百人一首 29首目

2024年も残すところわずかとなりました。

今年も法律に関するニュースが沢山あったように思います。
袴田事件の無罪確定、「不適正」と認定された特捜部検事の取調べなど、大々的に報道されたものは特に印象的だったのではないでしょうか。

 

しかし、このように話題になる事件はごく一部で、裁判所では日々多くの事件が取り扱われています。
新件を申し立てるときには、事件番号がふられるたび、その数の大きさに「世の中これだけトラブルがあるのか・・・」と実感させられるほど。

そして、こうした事件の数だけ「判決」が誕生するのですね。

 

この「判決」。
裁判所が一定の手続を経て出しているものであるだけに、
「一度出されたら絶対に変わることがない」という気がしませんか?

しかし、法律が時代・社会と共に変わっていくように、
判決もまた、そうした変化の中で見直されることがあります。

これを「判例変更」といいます。

ここで気になるのは、
「変更前に適法とされていたことが、「判例変更」によって違法になってしまったとき、その行為はどのように判断されてしまうのか」
という点ではないでしょうか。

変更前の行為であれば問題にならないのか、
はたまた、過去に遡って処罰対象となってしまうのか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「心あてに 折らばや折らむ 初霜の

置きまどはせる 白菊の花」  

凡河内躬恒


「こころあてに をらばやをらむ はつしもの

おきまどはせる しらぎくのはな」

おおしこうちのみつね

 

小倉百人一首 100首のうち29首目。
平安時代前期の歌人・官人、凡河内躬恒による「秋」の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

もし折るならあてずっぽうに折ってみようか。初霜が降りて見分けがつかなくなっている白菊の花を。

 

心あてに
心当て=当て推量、という意の名詞。
「当て推量に」「あてずっぽうに」となるが、その他「心をこめて」「よく注意して」と訳す説もある。

折らばや折らむ
接続助詞「ば」は仮定条件で訳す。
意志の助動詞「む」はすぐ前の係助詞「や」との係り結び(=疑問や反語、協調などで用いられる表現)。
「もし折るならば折ってみようか」と訳される。

初霜
その年の晩秋に初めて降りた霜。

置きまどはせる
「置く」は霜や露が「降りる」こと、
「まどはせる」は「混乱させる」「悩ませる」などの意。

白菊の花
上の句の「折らばや」に続く。倒置法。

 

 

作者について

 

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね・859?-925?)

 

平安時代前期の歌人・官人ですが、正確な生没年は分かっていません。
894年に甲斐国(現・山梨県)の役人に任命され、その後は丹波国(現・京都府中部、兵庫県北東部)、和泉国(現・大阪府南西部)、淡路国(現・兵庫県淡路島)などの役人を歴任しました。

役人としての官位は五位とそれほど高くありませんでしたが、歌人としての評価は高く、多くの歌会や歌合せに参加し、活躍しました。
その才能は紀貫之と並び称され、共に当時の代表的歌人として宮廷の宴に呼ばれたり、三十六歌仙に選ばれたり、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」を撰上するなどしました。

本来であれば昇殿も許されないような身分であり(それゆえに生没年などの情報も記録が残っていません)、役人としての給与も少なかったことでしょう。
しかし、「歌人」という職業がない頃に、躬恒は歌によって副収入を得ていました。
それほどの才能の持ち主でした。

朝廷に召されるたびに報奨を賜ったり、上級貴族の邸宅に招かれて屏風歌を詠むことで褒美を与えられたり。また、先に述べた「古今和歌集」の選者としても報奨を得られたと考えられます。

単なる役人の一人であれば、その名前が後世に残ることはなかったでしょう。躬恒の人気はそれほど高いものだったのです。

 

  

判例変更と遡及処罰の禁止

 

さて・・・

 

平安貴族の働き方というのは、実際どのようなものだったのでしょうか。

文学作品やドラマの影響が大きいように思いますが、

朝廷での宴に参加したり、
和歌を詠んだり、楽器を嗜んだり、
時には恋愛関係を楽しんだり・・・

そうしたことが「仕事」だったのではないか、という印象もあります。

一部の上流貴族にはあてはまることがあるかもしれません。
しかし、貴族・役人らというのは基本的に忙しかったようです。

 

平安時代の貴族は日記をつけるのが一般的でした。
現在では読み物として出版されている物もあります。

清少納言のエピソードで登場した藤原行成は「権記」、
大河ドラマで注目を集めた藤原実資は「小右記」を残しており、
そこには朝から晩まで働く日々のこと、朝廷において細やかに決められた作法や行事(年間約100ほどあり、月によっては毎日何かしらの行事がおこなわれる状態だったとのこと)について綴られています。

 

このように、実はかなり多忙な職場環境だったのです。
いまなら「ブラックな職場」と言われてしまうかもしれません。

 

そんなとき、今日では処遇改善を求めるための手段が複数ありますが、
そのひとつに「ストライキ」があります。

朝廷で働く彼らは、いわば公務員のような立場。

過去に、公務員による争議行為(※)について、判例変更と遡及処罰の禁止に関する判断がされた事例があります(最判平成8年11月18日)。

※同盟罷業、怠業、作業所閉鎖その他労働関係の当事者が、その主張を貫徹することを目的として行う行為及びこれに対抗する行為であって、業務の正常な運営を阻害するものをいいます(厚生労働省HPより)。

 


 

公務員の争議行為禁止については、以下の事件によって最高裁の基本的見解に変遷が生じました。なお、紹介事例の犯行時点は②と③の間となります。


①地方公務員法違反事件「都教組事件」(最大判昭和44年4月2日
1969年(昭和44年)、東京都教職員組合(都教組)が勤務評定制度に反対し、一斉に有給休暇を取って学校を休みにするというストライキを決行したところ、これが地方公務員法に違反する「同盟罷業」にあたるとして、都教組の執行部が起訴された事件。
裁判所は、処罰対象となるのは争議行為・あおり行為ともに違憲性の強いものに限られるという、いわゆる「二重のしぼり」の限定をし、被告人を無罪とした。
同日言い渡された国家公務員法違反事件である「全司法仙台事件」(最大判昭和44年4月2日)でもこの考えが明示されたため、「二重のしぼり」論は国家公務員法、地方公務員法の両方における判例となっていた。

②国家公務員法違反事件「全農林警職法事件」(最大判昭和48年4月25日
1958年、警察官職務執行法の改正案が提出され、この改正案に反対する運動が展開された。この運動に全農林労働組合も参加し、組合員に対して争議行為への参加を呼びかけましたところ、これが国家公務員法が禁止する「違法な争議のあおり行為」に該当するとして、組合役員が起訴された。
裁判所は「二重のしぼり」論を否定し、「全司法仙台事件」の解釈を明示的に変更したが、一方で地方公務員法違反である「都教組事件」判決については明示的に変更していなかった。

③地方公務員法違反事件「岩教組学力調査事件」(最大判昭和51年5月21日
1956年から1965年にかけて、文部省(現在の文部科学省)が実施した「全国中学校一斉学力調査」に対し、岩手県教職員組合(岩教組)が、その実施に反対し、学力調査のボイコットや、調査用紙の破棄などをおこない、当該行為が「争議行為等の禁止」に違反するとして組合役員らが起訴された。
裁判所は、この判決において地方公務員法違反についても「二重のしぼり」論を否定し、これによって「都教組事件」判決についての解釈が明示的に変更された。


被告人Xは、A県教職員組合の中央執行委員長であったところ、日本教職員組合(以下「日教組」)が昭和49年4月11日に全国規模でおこなった全一日ストライキに際し、傘下の公立学校教職員に対し、同盟罷業の遂行のあおりを企て、かつこれをあおったとして、地方公務員法違反の罪で起訴されました。

一審(盛岡地判昭和57年6月11日)は、被告人に対して無罪を言い渡し、控訴審(仙台高判昭和61年10月24日)もこれを是認。
これに対して、検察官から上告の申立てがあり、第一次上告審(最一小判平成1年12月18日)は原判決を破棄、仙台高裁に差し戻しました。

これを受けて原判決(仙台高判平成5年5月27日)が公訴事実の一部について有罪判決を言い渡したこところ、被告人から、処罰範囲を拡張する方向で判例を変更し、これを被告人に適用して処罰することは、遡及処罰を禁止した憲法39条に違反するとして上告が申し立てられました。

 

(遡及処罰、二重処罰等の禁止)
憲法39条「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」

 

これについて最高裁は、

行為当時の最高裁判所の判例の示す法解釈に従えば無罪となるべき行為を処罰することが憲法39条に違反する旨をいう点は、そのような行為であっても、これを処罰することが憲法の右規定に違反しないことは、当裁判所の判例の趣旨に徴して明らかであり、判例違反をいう点は、所論引用の判例は所論のような趣旨を判示したものではないから、前提を欠き、その余は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張

 

と判断し、「判例」とは「法」ではないため、憲法39条違反には当たらないとして上告を棄却しました。
なお、判決には裁判官による補足意見が付されました。

私は、被告人の行為が、行為当時の判例の示す法解釈に従えば無罪となるべきものであったとしても、そのような行為を処罰することが憲法に違反するものではないという法廷意見に同調するが、これに関連して、若干補足して述べておきたい。
判例、ことに最高裁判所が示した法解釈は、下級審裁判所に対し事実上の強い拘束力を及ぼしているのであり、国民も、それを前提として自己の行動を定めることが多いと思われる。この現実に照らすと、最高裁判所の判例を信頼し、適法であると信じて行為した者を、事情の如何を問わずすべて処罰するとすることには問題があるといわざるを得ない。しかし、そこで問題にすべきは、所論のいうような行為後の判例の「遡及的適用」の許否ではなく、行為時の判例に対する国民の信頼の保護如何である。私は、判例を信頼し、それゆえに自己の行為が適法であると信じたことに相当な理由のある者については、犯罪を行う意思、すなわち、故意を欠くと解する余地があると考える。もっとも、違法性の錯誤は故意を阻却しないというのが当審の判例であるが(最高裁昭和23年(れ)第202号同年7月14日大法廷判決・刑集2巻8号889頁、最高裁昭和24年(れ)第2276号同25年11月28日第三小法廷判決・刑集4巻12号2463頁等)、私は、少なくとも右に述べた範囲ではこれを再検討すべきであり、そうすることによって、個々の事案に応じた適切な処理も可能となると考えるのである。
この観点から本件をみると、被告人が犯行に及んだのは昭和49年3月であるが、当時、地方公務員法の分野ではいわゆるB教組事件に関する最高裁昭和41年(あ)第401号同44年4月2日大法廷判決・刑集23巻5号305頁が当審の判例となってはいたものの、国家公務員法の分野ではいわゆるC警職法事件に関する最高裁昭和43年(あ)第2780号同48年4月25日大法廷判決・刑集27巻4号547頁が出され、B教組事件判例の基本的な法理は明確に否定されて、同判例もいずれ変更されることが予想される状況にあったのであり、しかも、記録によれば、被告人は、このような事情を知ることができる状況にあり、かつ知った上であえて犯行に及んだものと認められるのである。したがって、本件は、被告人が故意を欠いていたと認める余地のない事案であるというべきである。
このように、被告人は、私見によっても処罰を免れないのであり、被告人に地方公務員法違反の犯罪の成立を認めた原判決に誤りはなく、刑訴法411条1号に当たるとすることはできないのである。

 

(以上、判例タイムズ926号153頁参照)

 

  

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

本日の歌の作者である躬恒。

上記のとおり、当時は評判が高かったものの
明治の歌人・正岡子規は「心あてに…」に辛口のコメントを出しています。

著書「歌よみに与ふる書」で確認することができるのですが
ざっくり、どのような内容かというと・・・

   

百人一首だから皆口ずさむけれど、一文半文の値打ちもない駄歌。
初霜くらいで白菊が見えなくなるわけない。趣向が嘘であれば趣もへちまもない。つまらない嘘だからつまらない。

 

かなりけちょんけちょんです。

さらには、同じ百人一首から中納言家持の歌(6首目)を引き合いに出してほめるなど、「躬恒に恨みでもあるのでは?」と思ってしまう書きぶりですが、子規に酷評されているのは躬恒だけではありません(あの紀貫之も、なかなか厳しいコメントをされています)。

色々な方の考察を拝見していると、子規は過去の歌人を文字通り否定していたわけではなく、旧派の歌人たちを攻撃するためにこのような記載をしていたとのことで、歌の近代化を目指す活動のひとつであったようです。

 

当時は良しとされていたものが、時代の流れによって異なる評価をされる。
法律も芸術も、そうした変化に柔軟に対応し、その時々のベター、ベストを模索していく必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 64首目

「長男」「長女」と聞くと、漠然と
・しっかりしている
・頼りになる
・面倒見が良い
などのイメージを抱く方が多いのではないでしょうか。

これらはステレオタイプにすぎません。

ですが、当事者自身も何気なくそのように自分を律しているところがあるように思います。

そして、そこから少しでも外れてしまうと「らしくない」とされてしまうのが、人間社会の難しいところです。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに

あらはれわたる 瀬々の網代木」  

権中納言定頼


「あさぼらけ うぢのかはぎり たえだえに

あらはれわたる せぜのあじろぎ」

ごんちゅうなごんさだより

 

小倉百人一首 100首のうち64首目。
平安時代中期の公卿・歌人、権中納言定頼による「冬」の歌となります。

 

 

 

 

歌の意味

  

明け方、だんだん明るくなってきた頃、宇治川に立ちこめた朝霧も薄らいできて、切れ間から瀬に打ち込まれた網代木が見えてくるなあ。

 

朝ぼらけ
夜明け方。夜がほのぼのと明ける頃。

宇治の川霧
宇治川は京都市伏見区を流れる川で、淀川の通称。
当時はリゾート地のような存在だった。

たえだえに
「絶え絶えに」とも書き、とぎれとぎれになっていること。
段々と霧が晴れ、切れ間ができる様子を表す。

あらはれわたる
「あらはる」は自動詞で、この場合「表面に出る」「はっきり見えるようになる」。
「わたる」は補助動詞で「一面に~する」「広く~する」。
よって「一面にあらわれてきた」の意。

瀬々の
瀬は浅い場所。「あちらこちらの瀬」を指す。

網代木
網代(竹や木を編み水中に立て魚を捕えるしかけ)を立てるために川に打つ杭。秋から冬にかけて宇治川を下る氷魚(鮎の稚魚)を獲るもので、当時は宇治の冬の風物詩で、歌枕のひとつであった。

 

 

作者について

 

権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより995-1045)

 

藤原定頼。平安時代中期の公卿・歌人で、中古三十六歌仙の一人に選ばれています。
藤原公任(=大納言公任。55首目の作者)の長男で、官位は正二位・権中納言であったことから、百人一首中では「権中納言定頼」とされています。

和歌などに秀でており、優れた文人だったと言われていますが、性格まで完璧とはいえず、特に若い頃の性格はやや軽薄であった様子。
そんなこともあってか、数々のトラブルが語り継がれています。

 

【小式部内侍へのからかい】
歌合せの会で、若い小式部内侍に対し
「お母様に代作は詠んでもらえましたか?」などとからかったところ
小式部内侍が即興で「大江山…」の見事な歌を詠み、やり返したというもの。
とはいえ、結局のところ両者は恋愛関係にあり(あるいは定頼の片想い)、小式部内侍のために定頼が一芝居打ったとする説もあるようです。
60首目のブログ記事でもご紹介したエピソードです)

【皇族との揉め事】
1014年には自分の従者と皇族の従者の間で乱闘が発生。最終的に皇族側の従者が重傷により死亡してしまうという事件がありました。このため、定頼は世間から「殺害人」などと呼ばれてしまいます。
この時の相手は敦明親王という皇族で、自分の従者が亡くなった後には、報復のためか定頼に殴りかかったのだとか。なお、敦明親王はこの他にも暴力沙汰を起こしていたようですから、気性の荒い人だったのかもしれません。

【暴力沙汰に巻き込まれる】
1018年に御所で開かれた宴会に参加した際、藤原兼房という人が定頼に対して暴行をはたらくという事件がありました。
兼房は突然定頼に対して暴言を吐き、定頼の前に置かれていた料理を蹴散らしたり、その頭から被り物を奪おうとしたりしました。その後定頼が控室に逃げ込むと、兼房はそこに向かって石を投げつけ、さらにはその場で定頼を大声で罵るなどの行動をとりました。

文字だけ見ると定頼がたいそう恨みを買っていたのでは…などと考えてしまいますが、兼房がこのような行動に至った原因はわかっていないそうです。定頼にしてみれば大変迷惑な事件に巻き込まれたのでした。

【謹慎処分】
最終的には権中納言の地位まで出世した定頼ですが、若い頃には宮中で軽率な発言をしてしまったこともありました。その内容が当時の摂政・藤原頼通の怒りにふれ、その年(1019年)の後半は謹慎させられることとなりました。

【不正の発覚】
1030年、清涼殿での宴において御前作文の探韻(列席者が韻にする字を出し、くじ引きで1字ずつをもらい受けて漢詩を作ること)を命じられた際に、定頼は不正をおこない、さらにはそれが露見してしまいました。それでもなお不正を隠匿しようとしたところ、当時の関白である藤原頼通から「不正直」と批判されてしまいました。
こちらの事件を見ると、それなりに年を重ねても性格が変わらなかったのでは…と思ってしまいますね。

 

そんな定頼ですが、ご紹介した小式部内侍のほかには相模や大弐三位など、百人一首に登場する女性との交際があったとされています。定頼は和歌の才能だけでなく音楽、読経、書にも秀でており、また眉目秀麗であったようですから、惹かれる女性も多かったのですね。

その一方で、藤原道長からは「怠慢」と評されていたのだとか。
政では成果を残せなかったようです。

 

  

 

消滅の時効の援用と権利濫用

 

さて・・・

 

貴族の長男として生まれた定頼。

この時代は、「嫡男」(特に正室の女性が生んだ最も年上の男子)であることが大切であったようですが、
その他にも「長子相続」「家制度」が存在したことから、どの時代においても、基本的に長男とは重責を担う存在だったのではないでしょうか。

しかし、そんなことはお構いなしの人も存在します。
定頼のように問題行動を起こす人もいたり、「長男」であることを権力として家族を抑圧する人がいたり、はたまた役割そのものを放棄してしまう人がいたり・・・

 

特に上に述べた「家制度」の時代であれば、父親が亡くなった際に「戸主」となる長男に問題があるようでは、残りの家族はさらに不安であったことでしょう。

実際、家制度のもと家督相続した長男が、母から農地法3条にかかる許可申請につき協力請求をされ、その許可申請協力請求権の消滅時効を援用したところ、これが権利濫用にあたると認められた事例があります(最判昭和51年5月25日)。

 


 

訴外Aはその住所地において農業に従事していた者で、妻である母X1との間に7人の子どもがいました。
しかし、Aは昭和22年4月5日に死亡。
その時をもって、家督相続により長男YがAの有した権利義務一切を承継取得し、Aの遺産全部を長男Y名義にしました。

母X1と長男Yは折り合いが悪かったため、母X1及び子どもらは同年頃から分家した四男と同じ家に暮らしており、(二男、三男は既に死亡していたため)四男が家族の面倒をみることになりました。

そこで母X1らが長男Yに対し物件贈与の調停を申し立てた結果、昭和24年6月2日に、長男Yから当時分家した四男に遺産の一部を贈与し、母X1にはその老後の生活の資を得させる目的で本件農地を贈与し、あわせて四女X2、五女の扶養及び婚姻等に関する費用は母X1において負担すること等を内容とする調停が成立しました。

ところが、四男は母X1の反対を押し切ってかねてからの交際相手と結婚、Xらと別居することになったため、昭和27年2月25日に妹へ自身が贈与を受けていた本件山林を贈与し、母X1及び妹らの面倒を託しました。

そうして、母X1は四女X2と共に10年以上にわたってこれらの土地の耕作を続け、母X1は娘たちの扶養及び婚姻等の諸費用を負担しました。

 

ところで、農地について所有権の移転等するときは、当事者が農業委員会の許可を受けなければなりません。

(農業法)
3条1項 農地又は採草放牧地について所有権を移転し、又は地上権、永小作権、質権、使用貸借による権利、賃借権若しくはその他の使用及び収益を目的とする権利を設定し、若しくは移転する場合には、政令で定めるところにより、当事者が農業委員会の許可を受けなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当する場合及び第五条第一項本文に規定する場合は、この限りでない。
一第四十六条第一項又は第四十七条の規定によつて所有権が移転される場合
二削除
三第三十七条から第四十条までの規定によつて農地中間管理権(農地中間管理事業の推進に関する法律第二条第五項に規定する農地中間管理権をいう。以下同じ。)が設定される場合

 

Xらは長男Yに対し、自らが耕作してきた土地の所有権移転許可申請手続に協力を求めたところ、長男Yは、Xらの主張する所有権移転登記手続請求権は時効により消滅しているとして、これを拒みました。

(民法)
166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。
一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。
二 権利を行使することができる時から十年間行使しないとき。
2 債権又は所有権以外の財産権は、権利を行使することができる時から二十年間行使しないときは、時効によって消滅する。

 

そこで、Xらは所有権移転登記手続を求めて提訴。
第一審、第二審共に裁判所はXらの請求を容認しました。

(民法)
162条 二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
2 十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。

 

これに対して、Yは上告。すると裁判所は、

原審が確定した事実関係によれば、上告人が家督相続により亡父の遺産全部を相続したのち、家庭裁判所における調停の結果、上告人から母である被上告人Aに対しその老後の生活の保障と幼い子女(上告人の妹ら)の扶養及び婚姻費用等に充てる目的で本件第二の土地(第一審判決別紙目録第二記載の土地)を贈与し、その引渡もすみ、同被上告人が、二十数年間にわたつてこれを耕作し、子女の扶養、婚姻等の諸費用を負担したこと、その間、同被上告人が上告人に対し右土地につき農地法三条所定の許可申請手続に協力を求めなかつたのも、既にその引渡を受けて耕作しており、かつ、同被上告人が老齢であり、右贈与が母子間においてされたなどの事情によるものであること、が認められるというのである。

 

のように判断し、

この事実関係のもとにおいて、上告人が同被上告人の右所有権移転許可申請協力請求権につき消滅時効を援用することは、信義則に反し、権利の濫用として許されないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

 

と示し、上告を棄却しました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

 

これまでご紹介した内容だけでは、定頼に対してネガティブな印象を抱いてしまうことでしょう。
彼の名誉のためにも、ひとつ心穏やかになるエピソードを発見しましたので、最後にそちらをご紹介したいと思います。

 

本日の「朝ぼらけ」は、もともと「千載和歌集」(平安時代末期に編纂された勅撰和歌集)に収録されている歌です。

千載和歌集では、この歌の前に定頼の娘からの歌が掲載されており、父である定頼を心配する内容となっています。

詞書は
「中納言定頼 世をのがれてのち、山里に侍りけるころ、つかはしける」

つまり、出家した定頼が俗世間を避けて山里におられたころ、(娘が歌を)お遣わしになった、とあります。

その歌がこちら。

  

都だに さびしさまさる 木枯らしに 峰の松風 思ひこそやれ

(木枯らしの音を聞くと、都にいてさえも寂しさがつのります。お父様がいらっしゃる山里の峰の松風の音はどんなに寂しいかと心配でなりません。)

 

定頼は1044年になると病のため出家しました。
都から離れていた父に対し、娘がその身を案じて歌を詠んだところ、定頼が本日の歌「朝ぼらけ」を返したとされています。

単に風景の美しさを詠んだ叙景歌というだけではなく、
「宇治にはこうした美しさがあるから、寂しいばかりではないよ(だから心配するのはおよし)」
という気持ちが込められた、娘に応える歌になっているという説のようです。

現代の連絡手段ではなかなか真似することのできない、和歌であるからこその素敵なエピソードなのでした。

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 58首目

突然ですが、「有馬温泉百人一首」というかるたをご存知でしょうか。

当ブログを書くにあたり百人一首の調べ物をしていたところ偶然見つけたのですが、兵庫県・有馬について詠んだ和歌のみで構成されている、というものなのだそうです。

ひとつのテーマについて百首もの歌が集められるなんて、和歌の表現の可能性というのは広いのだなあ、と改めて感動しています。

この中には、本家の百人一首に選定されている歌も含まれているのです。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「有馬山 猪名の笹原 風吹けば

いでそよ人を 忘れやはする」  

大弐三位


「ありまやま ゐなのささはら かぜふけば

いでそよひとを わすれやはする」

だいにのさんみ

 

小倉百人一首 100首のうち58首目。
平安時代中期の女流歌人・大弐三位による「恋」の歌となります。

 

 

 

 

 

歌の意味

 

有馬山のふもとにある猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと鳴ります。そうです、その音のように、どうして私があなたを忘れたりするものでしょうか。

 

有馬山
摂津国有馬郡に位置する山で、六甲山の一部。昔から「猪名」との組み合わせで、歌枕で揃って歌に詠まれることが多い。

猪名の笹原
猪名川に沿った平地(有馬山の南東。現在の兵庫県尼崎市、伊丹市、川西市周辺)。昔は一面に笹が生えていた。

風吹けば
動詞の已然形+接続詞「ば」で順接の確定条件。「風が吹いたら」の意。
上の句全体が、下の句にある「そよ」という言葉を導く序詞になっている。
(風が吹くと笹原がそよぐことから)

いでそよ
感動詞「いで」は、誘い出しや促しの「さあ」の意。
「そよ」は二重の意味を持つ掛詞。ひとつは笹の葉ずれの擬音語「さらさら」を表す。もうひとつは感動詞「そうよ」「そうなのよ」といった思い出し・同意などを表す。

人を忘れやはする
「人」は相手の男性を指す。
「やは」は反語の助詞で「どうして~だろうか(いや、そうではない)」の意。

 

 

作者について

 

大弐三位(だいにのさんみ・999?-1082?)

 

平安時代中期の歌人で、女房三十六歌仙のひとりとして知られています。
本名を「藤原賢子(ふじわらの・かたいこ/けんし)」といい、藤原宣孝・紫式部の娘として生まれました。

18歳になると、母と同じように一条天皇の中宮彰子(上東門院)の女房として出仕するようになり、祖父為時の官名から越後弁(えちごのべん)などと呼ばれました。
20代半ばで藤原兼隆(道長の兄・道兼の息子)と結婚し、娘をもうけましたが離婚しています。

1025年に後冷泉天皇(親仁親王)が誕生するとその乳母を命ぜられます。30代半ばになると高階成章と再婚、後冷泉天皇が即位した際に従三位に叙せられ、後に夫・成章も大宰大弐に就任したことから、大弐三位と呼ばれるようになりました。

中宮彰子の女房として仕えていたころには、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったとされています。また、残されている歌などからも、恋多き女性であり恋愛の駆け引きが上手かったというイメージを持たれているようです。

 

    

権利の濫用

 

さて・・・

 

冒頭でふれた「有馬温泉百人一首」。

有馬温泉についてはご存知の方が多いかと思いますが、兵庫県神戸市北区有馬町に所在している、日本三古湯の温泉です。
その存在が知られるようになったのは第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)の行幸がきっかけとのこと。
日本書紀をはじめとする、数々の古文書にその名が登場しています。

そして、その歴史の長さから、有馬のことを詠んでいる和歌は2000首以上も存在するとのこと。そこから100首を厳選し、2011年4月に発行されたものが「有馬温泉百人一首」なのだそうです。
(以上、有馬温泉観光協会HP神戸有馬温泉元湯龍泉閣HPより)

歴史がある土地だからこそ実現できる、素晴らしいアイデアですね。
ちなみに、本日の歌「有馬山」は有馬温泉百人一首の7首目に選ばれています。

 

そんな「温泉」の繋がりで・・・
権利の濫用が判決文中で初めて用いられた事例である「宇奈月温泉事件」(大判昭和10年10月5日)があります。

 


 

「宇奈月温泉」は富山県黒部市に位置しており、7.5km先の黒部川上流にある黒薙温泉から湯が引かれ、1923年に開湯しました。

この引湯管は地下に埋没されていましたが、これは宇奈月温泉を経営するY社が現在に換算すると数億円程度の費用を投じて工事をおこない、また経由する土地の利用権を獲得するなどして完成させたものでした。
しかし、引湯管のうち一部が通る乙土地については、Y社は利用権を取得せず経由してしまっていたのです。なお、引湯管が通っていたのは乙土地のうち2坪程度でしたが、その部分を含め、112坪ほどある乙土地は全体が急傾斜しており利用が難しい場所でした。

これに着目したXは、乙土地の所有者であるBから、乙土地を1坪あたり26銭で購入。
乙土地の所有者となったXは、不法占拠を理由に、Y社に対して引湯管の撤去あるいは乙土地周辺の土地を含めた計3,000坪の買取りを求めましたが、その際に1坪7円、計2万円という金額を提示しました。
(様々な計算がなされていますが、当時の1円は現在の2,000円前後ぐらいと算出されているものが多いことから、10万円にも満たない額で購入した土地を、その周辺を含め数千万円で売り渡そうとした、といった金額感になるようです)

そしてY社がこの要求に応じなかったため、Xは所有権に基づく妨害排除を求めて提訴。しかし、第1審・第2審ともにY社が勝訴したため、Xは上告しました。

これに対して大審院は、Xの請求(所有権の行使)は権利の濫用にあたるため認められない、としてその請求を棄却しました。

所󠄃有權ニ對スル侵󠄃害󠄆又ハ其ノ危險ノ存スル以上所󠄃有者ハ斯ル狀態ヲ除去又ハ禁止セシムル爲メ裁判󠄄上ノ保護ヲ請󠄃求シ得ヘキヤ勿論ナレトモ該侵󠄃害󠄆ニ因ル損失云フニ足ラス而モ侵󠄃害󠄆ノ除去著シク困難ニシテ縱令之ヲ爲シ得トスルモ莫大ナル費用ヲ要󠄃スヘキ場合ニ於テ第三者ニシテ斯ル事實アルヲ奇貨トシ不當ナル利得ヲ圖ノ殊更侵󠄃害󠄆ニ關係アル物件ヲ買收セル上一面ニ於テ侵󠄃害󠄆者ニ對シ侵󠄃害󠄆狀態ノ除去ヲ迫󠄃リ他面ニ於テハ該物件其ノ他ノ自己所󠄃有物件ヲ不相當ニ巨󠄃額ナル代金ヲ以テ買取ラレタキ旨ノ要󠄃求ヲ提示シ他ノ一切ノ協調ニ應セスト主張スルカ如キニ於テハ該除去ノ請󠄃求ハ單ニ所󠄃有權ノ行使タル外形ヲ構󠄃フルニ止マリ眞ニ權利ヲ救濟セムトスルニアラス卽チ如上ノ行爲ハ全體ニ於テ專ラ不當ナル利益ノ摑得ヲ目的トシ所󠄃有權ヲ以テ其ノ具ニ供スルニ歸スルモノナレハ社會觀念上所󠄃有權ノ目的ニ違󠄅背シ其ノ權能トシテ許サルヘキ範圍ヲ超脫スルモノニシテ權利ノ濫用ニ外ナラス

 

権利の濫用と判断されるにあたりポイントとなったのは以下のような点でした。

・乙土地はもともと利用が難しい場所であったこと
・Y社にとって乙土地は重要なものであること(失えば損害は大きい)
・それに対し、Xにとってはそれほど重要なものではないこと
・Xのとった手段が悪質であったこと(Y社に請求する目的で土地を購入し、法外な価格を設定した等)

 

そして、「権利ノ濫用」という言葉が初めて判決文中で用いられることとなりました。

<判示事項>
所󠄃有權ニ對スル侵󠄃害󠄆除去ノ請󠄃求ト權利ノ濫用

  

(民法1条3項)
権利の濫用は、これを許さない。

 

この「許さない」が示すのは、例え正当に権利を持つ者がその権利を行使するという場合でも、その法律的な効力を認めない、無効にしてしまうということです。

なお、権利の濫用にかかる事例として、最高裁昭和50年2月28日判決(所有権留保と権利濫用)などもあります。

  

◇ ◇ ◇

 

さて。

宇奈月温泉は2023年に開湯100周年を迎えたとのことですが、

なんと、これを記念して宇奈月温泉事件をモチーフとした「権利ノ濫用除お守り」が企画されました。

■「権利ノ濫用除お守り」とは
パワハラ、セクハラなどのハラスメントはもちろん、嫌がらせやいじめなど、立場などを利用して、あなたに害を与える人やことを除けてくれるお守りです。 肌身離さず携帯することで、良い人・環境・縁に恵まれるよう宇奈月神社にて祈祷しています。苦しい境遇におかれた時、新しい生活を始める時、お友達がパワハラやセクハラなどに悩まされている時、これから社会へ出るお子様への贈り物を探している時には、ぜひ「権利ノ濫用除お守り」をお迎えください。

黒部・宇奈月温泉観光局公式サイト「黒部めぐり」より)

毎月1日に、宇奈月神社となりにある黒部市芸術創造センターにて手に入れることができるそうです。
ご利益を求める人のみならず、弁護士の方や法学部生などにも人気の様子。

デザインも素敵ですし、我々法律事務所スタッフにも活力を与えてくれそうな気がしてしまいます。
機会があれば、ぜひいただいて帰りたいと思います。

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 

 

ひまわり観察日記-2024- ⑥

あっという間に9月になったかと思えば、もう終盤を迎えています。
9月に入っても厳しい残暑(とは到底言えないほど、まだまだ猛暑でした)が続いておりました。

しかし、「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので
週明けから急に気温が下がり、やっと季節の変化を感じられるようになりました。

 

さて。

弊所のひまわりはスマイルフラッシュの開花待ちとなっていたところですが、ご報告が遅れてしまったものの、8月終わり頃には無事その姿を見ることができました。

 

前回は8月初めに第1弾の開花をお知らせしていたところ、
しばらく時間がたち、25日を過ぎたころやっと蕾が大きくなりました。

 

  

実は複数種をまいていたのですが、1つしか発芽せず。
その代わり、大振りでしっかりとした蕾となりました。

 

そんな姿をみて「咲くのが楽しみだな」と喜んでいたのもつかの間、
なんと3日程で開花に至りました。

 

 

何とか元気に咲いてくれましたので一安心です。

 

◇ ◇ ◇

 

以上、2024年のひまわり観察日記でした。

今年も綺麗なひまわりを見ることができて大満足です。
来年も楽しみに、また日々の業務にあたりたいと思います。

法律で読み解く百人一首 75首目

いつの時代、またどのような分野においても
それまでの伝統や習慣に重きをおく保守的な姿勢をとるか
あるいは、新しいものに変えていこうとする革新的な姿勢とるか
選択の機会が訪れるものではないでしょうか。

自分にとって何が大切か、大切にしたいか、といった考え方から選ぶ対象が決まってくるのかもしれません。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「契りおきし させもが露を 命にて

あはれ今年の 秋もいぬめり」  

藤原基俊


「ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて

あはれことしの あきもいぬめり」

ふじわらのもととし

 

小倉百人一首 100首のうち75首目。
平安後期の貴族・歌人・書家である藤原基俊の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

あなたがお約束してくださいました、させも草についた恵みの露のような言葉に望みを託しておりましたが、ああ、今年の秋も過ぎてしまうようです。

 

契りおきし
「契り置く(=約束しておく)」の連用形で、「約束しておいた」の意。
「露」は葉に「置く」ものであり、縁語の関係。

させも
「させも草」を指し、ヨモギのこと。
平安時代には万能薬とされた。

命にて
「命」は「唯一のよりどころ」という意味を持つ名詞でもあり、
「恃みにする」となる。

あはれ
嘆きを表す感動詞。「ああ」などと訳す。

いぬめり
「往ぬ(=過ぎる)」の終止形。
「めり」は推定の助動詞で「秋は過ぎてしまうようだ」の意。

 

 

作者について

 

藤原基俊
(ふじわらのもととし・1060-1142)

 

平安時代後期の貴族・歌人・書家で、右大臣・藤原俊家の四男。
藤原道長のひ孫にあたるという家柄でしたが、彼自身はなかなか官位に恵まれることはありませんでした。

歌壇に登場したのは46歳と遅かったものの、和歌には秀でていた基俊。鳥羽朝に入ると、歌合では作者のほかに判者も数多く務め、74番の作者である源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍しました。

なお、革新派であった俊頼に対し、基俊は伝統的な歌風を重んじる保守派であったといいます。そのため、俊頼とは対立関係にありました。また、自負心の強い学識派であった基俊は自身の才能を鼻にかけ、俊頼を見下す態度をとっていたのだとか。

一方、76番の歌の作者である藤原忠通とは親しい間柄にあったようで、贈答歌も残っています。忠通は、基俊・俊頼それぞれの歌の能力を認めていましたが、それと同時にライバルであった両者を同じ歌合の判者に招き、両者のなす評価の違いを楽しむ、ということもあったのだそうです。

基俊は和歌の他にも、書道・漢字に精通しており、「万葉集」に訓点をつける作業をおこなった一人でもあります。

また、弟子には同じく百人一首に歌が選ばれた藤原俊成がいたり(皇太后宮大夫俊成として83番に選出)、また、その弟子の息子は百人一首の選者である藤原定家であるなど、人間関係においても和歌との繋がりがあったようです。

 

 

私立大学と基本的人権

 

さて・・・

 

伝統的な和歌の形式を大切にしていた、保守派の基俊。

「保守」「革新」などの言葉を耳にすると、
多くの方がイメージするひとつに、「政治」というテーマがあるのではないでしょうか。

「保守主義」とは、従来からの伝統・習慣・制度・考え方を維持し、社会的もしくは政治的な改革・革新・革命に反対する思想のことを意味します(Wikipedia参照)。

ところで、私立大学とはそれぞれに独自の校風、伝統、教育方針等を打ち出しており、受験する側もそれを考慮して入学するものですが、そのため、大学は校風と伝統を守るため独自に規則を設けており、規則を破り校風を乱した上、指導説得を与えても改善しない学生には、時に退学処分を課すこともあります。
過去に、保守的・非政治的な校風をとっていた私立大学と退学処分を受けた学生との間で、その退学処分が憲法違反だとして争われた事例があります(最判昭和49年7月19日(昭和女子大事件))。

 


 

昭和36年当時、Y私立大学に在学していた学生X1、X2は、

「署名運動をするときは、事前に学生課に届け出て指示を受けなければならない。」
「補導部の許可なく学外団体に加入してはならない。」

という学則の細則として定められた「生活要録」に違反して、

・無届出のまま学内にて政治的暴力行為防止法案反対嘆願の署名を収集
・学校の許可を受けずに民主青年同盟に加入

といった政治的活動をおこなっていました。
こうした理由により、Y大学教授はXらに登校禁止を言い渡したほか、「補導」と称して呼び出し取調べをおこないました。

すると、Xらは以下のような行動をとりました。
・仮名を使い、事件に関して週刊誌で日誌を掲載
・学生集会やテレビ放送の場で事件について発言

これを受けて大学側はXらが反省していないと判断。Xらは、大学学則の「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反したもの」に該当するものとして、退学処分を受けたのです。

そこで、Xらは大学側を相手に、学生たる身分確認請求訴訟を提起しました。

一審はXらの請求を認容

二審は一審判決を取り消し、Xらの請求を棄却しました。
これに対し、Xらは「生活要録」そのものが違憲であり、大学側による退学処分も違憲であるとし、憲法及び法令の解釈適用を誤ってものであると主張のうえ上告しました。

 

これに対し、最高裁は

「憲法19条、21条、23条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であつて、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでない」

とした上で、大学とは

「学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによつて在学する学生を規律する包括的権能を有するもの」

としました。そして、

「私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによつて社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針のもとで教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受けるかぎり、かかる規律に服することを義務づけられる」

「私立大学のなかでも、学生の勉学専念を特に重視しあるいは比較的保守的な校風を有する大学が、その教育方針に照らし学生の政治的活動はできるだけ制限するのが教育上適当であるとの見地から、学内及び学外における学生の政治的活動につきかなり広範な規律を及ぼすこととしても、これをもつて直ちに社会通念上学生の自由に対する不合理な制限であるということはできない」

のように示し、特に私立大学とは、特に伝統・校風により社会的存在意義が認められ、学生もその教育方針を希望して入学するのであるから、大学がかなり広範な規律を及ぼすとしても、これをもって直ちに社会通念上不合理な制限であるとはいえず、憲法の人権規定を私人間の問題に類推適用することは出来ないとし、大学の「生活要録」の規定は、違憲か否かを論じる余地はなく、退学処分を大学の懲戒権の裁量の範囲内であると判断。上告は棄却されました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

基俊が詠んだ本日の「契りおきし」ですが、
一見すると「何か裏切りにあったことを嘆いているんだろうか」「恋人に恨み言を並べているんだろうか」という印象があり、その背景を読み取るのはなかなか難しい歌ではないかと思います。

実は、この歌は藤原忠通にあてて詠んだものとされています。

自分の出世には恵まれなかった基俊でしたが、子供のこととなれば話は別。
忠通に対して自分の息子の出世を頼みましたが、その約束は果たされなかったため、その物哀しさや「改めて頼みますよ!」という気持ちが込められています。 

自分の才能をいいことに周囲の人間を見下していたのですから、因果応報な気もいたしますが・・・

いつの時代も子煩悩な人というのはそういうものかもしれません。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 53首目

今日において、「結婚」というものに関する選択は少しずつ幅広くなっているように感じられます。

そもそも、日本における結婚とはどのように定義されているか、という点ですが、その答えは憲法にあります。

憲法では、「婚姻」を次のように定めています。

 

日本国憲法24条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

しかし、時代によってその制度は様々です。

明治時代は、旧憲法下の民法に規定された「家制度」に基づき、婚姻には戸主の同意が必要であったり・・・
江戸時代には、「家父長制」のもと、親から身分が同格の相手との婚姻を命じられることがほとんどであったり・・・

では、平安時代における結婚とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は

いかに久しき ものとかは知る」  

右大将道綱母


「なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは

いかにひさしき ものとかはしる」

うだいしょうみちつなのはは

 

小倉百人一首 100首のうち53首目。
平安時代中期の歌人・右大将道綱母の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

(あなたが来てくださらないことを)嘆きながらひとりで孤独に寝ている夜をすごす私にとって、夜が明けるまでの時間がどれほど長く感じられるものか、あなたはご存じなのでしょうか。ご存じないでしょうね。

 

嘆きつつ
「つつ」は反復を表す接続助詞。「何度も~ては」の意。

ひとり寝る夜
読みは「ひとりぬるよ」。
平安時代は男性が女性のもとに通う「通い婚(妻問い婚)」が慣習であったため、これは夫が訪ねてこず一人で寝る夜を指す。

明くる間は
「夜が明けるまでの間は」の意。「は」は強調の係助詞。

いかに久しきものとかは知る
「いかに」は程度が大きいこと表す、または程度を尋ねる副詞。「どれほど」「どんなにか」などと訳す。
「かは」は反語を表す複合の係助詞。「~だろうか。いや~ではない。」との意味。本作では連体形の動詞「知る」と係り結びの関係。

 

 

 

作者について

 

右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは・936?-995)

 

平安時代中期の歌人で、「蜻蛉日記」の作者。
藤原倫寧の娘として936年頃に誕生したと言われており、本名は不明ですが、藤原道綱の母であることから、「藤原道綱母」とも呼ばれています。

日本初期の系図集である「尊卑分脈」に「本朝第一美人三人内也」と記されており、つまり「日本で最も美しい女性三人のうちの一人である」言われるほどの美貌の持ち主でした。954年に藤原兼家の第二夫人となり、翌955年に道綱を生んでいます。

一方、夫である兼家は女性関係が派手な人でした。道綱母を妻に迎えた際も既に正妻がおり、その生涯で10人程の女性を妻・妾としています。

「蜻蛉日記」には、このような兼家との約20年にわたる結婚生活をはじめ、彼のもうひとりの妻である藤原時姫(藤原道長の母)との争い、その他妻妾に関するエピソード、上流貴族との交流、息子道綱の成長や結婚について記されています。

また歌人との交流についても記されており、和歌は261首掲載されています。
そのうちの一首が、本日の「なげきつつ…」です。
この歌は「拾遺和歌集」にもとられており、歌人としては、中古三十六歌仙にも選ばれています。

「蜻蛉日記」は現存する最古の女流日記とされ、後の女流文学・物語にも影響を与えていることから、その先駆けとなる存在であったと言えます。

 


 

 

本日の歌

嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

 

この歌には、掲載された作品ごとにエピソードが存在します。

「拾遺和歌集」では、兼家が道綱母を訪ねてきた際、彼女はわざと門を開けず兼家を待たせました。そんな兼家が「立ち疲れてしまった」とぼやいた際に応えて詠んだ歌、とされています。

また「蜻蛉日記」では、浮気性の兼家に新しい女性ができたことを知った道綱母は、兼家が訪ねてきた際も門を開けませんでした。すると兼家は早々に違う女性のところへ。そんな兼家に対し、道綱母は翌朝色褪せた菊の花と一緒にこの歌を贈ったとされています。

 

兼家によって大きく心が乱されてしまった道綱母。

その原因は兼家のみならず、平安時代の結婚制度、それに対する社会の認識にもあったのではないでしょうか。

 

平安における結婚は、夫が妻のもとに通う「通い婚」のスタイルで、男性が女性の家に入る「婿取り婚」でした。
また、文学作品などの影響から「一夫多妻制」のイメージがありますが、実際は「一夫一妻制」であり、平安貴族が多くの女性と恋愛関係をもつことが公認されていた、ということのようです。
(養老律令は重婚を禁じる旨を定めていますから、道綱母が生きた時代も同様であったはずです)

また当時の「結婚」は社会的な意味合いが強く、家と家の結びつきを重要視するものでした。男性は出世のチャンスをつかむため自分の生家よりも身分の高い家との結婚を求め、女性の両親に認められる必要がありました。一方、女性は男性が通ってくる際に持参する金銭等が生活費となったため、相手の立場というのは非常に重要でした。
(今年の大河ドラマでも、主人公が相手の男性に対し「正妻にしてくれるのか」と詰める場面が話題となりました)

正妻の場合は、夫が妻の家に住むほか、晩年は夫の家で同居するというスタイルだったようです。
一方、公式には認められない「妾」はいわば内縁の妻といった存在であり、同居はできず、いつ来るかわからない男性の来訪を待つしかありませんでした。

道綱母は、この「内縁の妻」の立場だったのです。

こうした事情を考えると、道綱母の気持ちもよくわかります。
なお、一夫一妻制にもかかわらず多くの妾をかかえていた理由としては、子を多く持つという目的があったようです。

 

  

内縁の解消と財産分与

 

さて・・・

「内縁関係」という言葉について、実は法律上の定義はありません。
一般的には、法律上の婚姻手続きはとらないものの、実態的には法律上の夫婦と変わらない結婚生活を送っている関係を指します。
また「事実婚」という言葉もありますが、こちらは主体的に婚姻手続きを選択しない場合に用いられ、「内縁関係」は家庭の事情等を理由とする場合に用いる、とする場合もあるようです。

婚姻届を出す・出さないという選択から、その後夫婦が置かれる法律上の立場が大きく変わってくるのです。
その結果、影響することの一つに「相続」があるのではないでしょうか。

例えば、内縁関係にある夫婦の一方が死亡してしまった場合は・・・?

最近では、内縁関係は準婚とされ、法律婚に準じ、法律的にも保護されるようになってきています。そのような中で、夫婦関係解消の際、内縁関係の解消と、法律婚の解消では如何なる点が異なるのでしょうか。

 

この点に関し、内縁関係にある夫婦において、離別ではなく一方の死亡により内縁関係が解消したことで、内縁の妻が、内縁の夫の相続人に対して財産分与を請求した事例があります(最決平成12年3月10日)。

Aは、昭和22年にBと婚姻し、Bとの間にY1とY2との2名の子をもうけていた男性。
Xは昭和45年に夫と死別した女性で、昭和46年3月頃から働き始めた勤務先でAと知り合い、親密な関係となりました。
Xは昭和46年5月頃から平成9年1月にAが死亡するまで、毎月一定額の生活費の援助を受けていました。また、現金で300万円の贈与も受けていました。 

昭和60年12月頃になると、Aは病気により入退院を繰り返すようになりました。XはAの入院期間中ほとんど毎日にように病院に行き、Aの身の周りの世話をおこないました。
また、昭和62年8月にBが死亡すると、AはY1及びその家族と住む自宅よりもX方で過ごす時間が長くなっていきました。
その後、Aは平成9年1月19日に死亡。XとAの関係は27年にも及びました。

すると、1億8500万円にものぼるAの遺産はY1とY2がそれぞれ相続し、Xには1円も支払われませんでした。

そこでXは、Aの負う内縁の妻に対する財産分与義務をYらが相続したとして、平成9年5月、Y1、Y2に対し財産分与として各1000万円の支払いを求める家事調整を家庭裁判所に申し立て、その後審判手続きに移行しました。

 

本件は、内縁の配偶者の一方が死亡した場合に離婚による財産分与に関する民法768条が類推適用されるか否かという法律問題を含む事件でした。

(財産分与)
第768条1項 協議上の離婚をした者の一方は、相手方に対して財産の分与を請求することができる。

2項 前項の規定による財産の分与について、当事者間に協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、当事者は、家庭裁判所に対して協議に代わる処分を請求することができる。ただし、離婚の時から二年を経過したときは、この限りでない。

 

高松家裁は審判において、死亡による内縁の消滅の場合にも、生存配偶者は財産分与の規定の準用又は類推適用により財産分与請求権を有するものと解するのが相当である、と述べ、Y1とY2に対し、財産分与として各500万円を支払うよう命じました。

これに対してYらは抗告。高松高裁は、内縁夫婦の一方が死亡することによって内縁関係が消滅した場合に、法律上の夫婦の離婚に伴う財産分与の規定を準用ないし類推適用することはできない、と述べて、家裁の審判を取り消し、本件申立てを却下しました。そして、同高裁は、民訴法337条1項に基づき、Xがこの決定に対して最高裁に抗告することを許可しました。

(許可抗告)
第337条1項 高等裁判所の決定及び命令(第330条の抗告及び次項の申立てについての決定及び命令を除く。)に対しては、前条第1項の規定による場合のほか、その高等裁判所が次項の規定により許可したときに限り、最高裁判所に特に抗告をすることができる。ただし、その裁判が地方裁判所の裁判であるとした場合に抗告をすることができるものであるときに限る。

 

Xが抗告したところ、最高裁は

内縁の夫婦について、離別による内縁解消の場合に民法の財産分与の規定を類推適用することは、準婚的法律関係の保護に適するものとしてその合理性を承認し得るとしても、死亡による内縁解消のときに、相続の開始した遺産につき財産分与の法理による遺産清算の道を開くことは、相続による財産承継の構造の中に異質の契機を持ち込むもので、法の予定しないところである。

 

とし、離別による内縁関係の解消の場合には、財産分与の規定が類推適用されると考えても良いとされた一方で、離別ではなく、死亡により内縁関係が解消した際の相続には財産分与の規定を持ち込むことはできないとしました。

さらに、

また、死亡した内縁配偶者の扶養義務が遺産の負担となってその相続人に承継されると解する余地もない。

 

とし、夫婦が死別した場合の財産に関しては、相続人に対する相続によってのみ承継されると判示しました(以上、判例タイムズ1037号107頁参照)。

(相続の一般的効力)
民法896条 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。

 


 

 

本日の歌
「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」

 

移り気な兼家に対し、道綱母が皮肉をこめて詠んだこの歌。
対して、兼家は次の歌を返しました。

げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も 遅くあくるは わびしかりけり

(本当におっしゃるとおりです。冬の長い夜が明けるのを待つのはつらいものだが、そんな冬の夜でない真木の戸をなかなか開けてもらえないのもつらいことです。)


その後、兼家は道綱母のところには全く通わなくなったばかりか、他の女性との間に次々と子供をもうけ、さらには新しい愛人もできていきました。
この歌をきっかけに、二人の仲は険悪になってしまったようです。

晩年の道綱母は、病を患っていた一方で歌合せに出詠するなどしていましたが、995年頃に亡くなったとされています。

不実であった兼家との生活を(多少脚色はあるでしょうが)、後の女流文学に大きな影響を与える作品にまで落とし込むほどの才能があった道綱母。

夫の浮気癖のせいで身も心もボロボロ・・・というよりは、
「このエピソードをもとに日記文学を書き上げてしまおう!」
くらいに勝気でいてくれたら良いな、と思わずにはいられません。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

ひまわり観察日記-2024- ⑤

前回の記事から少し時間が空きましたが、
弊所のひまわりは段階的に開花を迎えています。

 

まず7月末頃。

小ぶりのものから徐々に開花していきました。
やはり黄色が入ると一気に綺麗になります。

 

そして、開花まであと一歩、という蕾や

 

植えなおした分も、だいぶ成長して葉がしっかりしてまいりました。

 

 

そして、8月に入ると花弁がしっかり開いてきました。

 

 

少しグリーンがかっているのは、今年初登場の「ジュニア」。
こちらも爽やかで良い色です。

 

この日はお天気も良く、実物はもちろんのこと、写真越しで見ても色が鮮やかでとてもきれいでした。

 

追加で植えたスマイルフラッシュはもう少し時間がかかりそうです。
気長に開花を待ちたいと思います。

 

ちなみに。
8月は「葉月」と呼ばれますが、その由来は、旧暦の8月が現在の9~10月初め頃にあたることから「葉落ち月」を略して「葉月」になったのだそうです(諸説あるようですが)。

そんなエピソードを目にすると、わずかに秋の気配が感じられ、暑さも和らぐような気が・・・
酷暑のなかですが、夏の季節感も楽しんでいきたいと思います。

ひまわり観察日記-2024- ④

相変わらず暑い日が続いております。

そんな中でも弊所のひまわりは変わらず順調に成長しており、
ちらほらと蕾もできてきました。 

 

 

 

サイズもしっかり大きめ。
温度が上がりきらないと感じる日も続いていましたが、安心いたしました。

 

今回、種まきの段階でやや多めにまいていたのですが、
思いのほか発芽率が高く、それぞれの芽の成長も順調でしたので
ここでいったん間引きをすることにいたしました。

(間引き?、という方はぜひ過去のブログをご覧ください)

以前、どれも順調に育っていたため、間引きをするのも可哀想だと手順をふまなかったところ、後々咲いた花のボリュームがややさみしいものになってしまったことがありました。

重要な工程のひとつということで、今回もきちんと作業していきます。

 


間引きは、毎年大活躍のこちらのハサミで。
成長しきっていない小さな茎や、大きな葉の陰になってしまっている部分を取り除きました。

一つ作業が済み、開花がより一層楽しみになりました。

 

さて。
今年はもうすぐでパリ五輪が開催されます。

前回の東京五輪は57年ぶり2回目、とのことでしたが
今回のパリは100年ぶり2回目とのこと。歴史を感じます。

日々の暑さに負けてしまいそうですが、出場選手たちの活躍を楽しみに、きちんと涼しく温度調節した部屋で応援しながら乗り切りたいと思います。

ひまわり観察日記-2024- ③

あっという間に7月になりました。

ということは、2024年も下半期に突入したということですね。
暑さも本格的になってまいりましたが、下半期も気を引き締めて、引き続き全力で業務にあたりたいと思います。

 

さて。
先日のブログでは順調に成長している旨をご報告していたところですが・・・

実はスマイルフラッシュとちーくまくんがなかなか発芽しておりませんでした。

 

土の表面も静かなまま、うんともすんとも言わず。
他の種類はどんどん育っているのに何故だろう・・・と数週間見守っていたのですが、一向に変化が見られませんでした。

 

そこで「たまたま芽の出ない種を植えてしまったのかもしれない」と気持ちを入れ替え、思い切って再度種まきいたしました。

 

すると。

 

なんと数日でスマイルフラッシュが発芽!

 

 

やはり、たまたま植えた種が原因だったのでしょうか・・・

はやく植え替えてあげれば・・・と少々後悔しながらも、さっそく芽が出て一安心いたしました。

 

一方、ちーくまくんはまだ発芽待ちです。

 

 

 

元気に育ってくれるよう、また辛抱強く見守りたいと思います。