2023年 新年のご挨拶

新年あけましておめでとうございます。

昨年はどんな一年となりましたでしょうか。

 

弊所ブログにおいては

引き続き六法全書を収集し、

さらに多くの百人一首を法律で読み解き、

無事にひまわりも咲き、

新しいシリーズの記事の執筆が始まり、

とても実りのある年になったのではないかと思います。

今年も充実した記事をお届けできるよう努めてまいります。

 


さて。
新年のご挨拶をしているということは・・・

 

そうです。
愛宕神社へ初詣に行ってまいりました。

 

 

 

 

お天気もよく、また行動制限のない年末年始もあってか
近隣企業の方々などが参拝にいらしており、賑やかな雰囲気でした。

 

そして、待ち構えている出世の階段。

 

 

毎年、体力測定のような気持ちで挑んでいますが
昨年のほうがもっと楽々上れていたような・・・

途中で少しふらつきましたが、すぐ隣にヒールで上っている方を発見。
そんな姿に鼓舞されまして、休まず上り切ることができました。

次はよりサクサクと上れるよう、今年も運動に励みたいと思います。 

 

そんなこんなで境内までたどり着き、

 

見上げると、すぐそばにはオフィスビルが数々並んでいます。

 

私の身長が足りず、カメラに収めることができませんでしたが
お社のすぐ後ろにはオークラ東京もあります。

 

「こんなオフィス街で神社に行けるなんていい場所だよな~」

なんて思っていましたが、

すぐ近くの虎ノ門・金刀比羅宮

赤坂の日枝神社氷川神社

CMなどでも登場する日本橋の福徳神社(芽吹稲荷)

思い返してみると結構ありました。どちらも雰囲気が素敵ですよね。
そのうちの一か所である愛宕神社の近くで働けるのは、何だか嬉しいです。

 

そんなことを考えながら、無事にお参りも終了。

帰りはお馴染みの「女坂」を下りました。

 

こちらは上りに比べれば多少緩やかなのですが、
年始からの寒さで、並んでいる間にすっかり冷え切ってしまい・・・
かじかんで感覚を失った足先で、恐々必死に下ることとなりました。

来年はカイロ必携で臨みたいと思います。

 

下へおりると、とても良い角度で陽が射しており
ますます晴れやかな気持ちで初詣を終えることができました。

 

 

 


 

2023年もまた良い一年にすることができるよう、頑張っていきたいと思います。

今年も弊所及び当ブログをよろしくお願いいたします。

法律で読み解く百人一首 20首目

人生とは、会者定離。

出会いがあったならば、別れる時は必ずやって来ます。
しかし「その時」が、「いつ」なのかは、当人たちでさえ予測もつきません。

別れの原因とはさまざまありますが、いずれも相手があってのこと。

別れるべきか?別れぬべきか?
自分の気持ちはどうあれ、自分勝手に結論を出すわけには行かないようです。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「わびぬれば 今はた同じ 難波なる

みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」  

元良親王


「わびぬれば いまはたおなじ なにはなる

みをつくしても あはむとぞおもふ」

もとよししんのう

 

小倉百人一首 100首のうち20首目。
平安時代前期から中期にかけての皇族・歌人である、元良親王の歌となります。

 

歌の意味

 

(あなたにお逢いできなくて) このように思いわびて(思い悩んで)暮らしていると、今はもう身を捨てたのと同じことです。 いっそのこと、あの難波の、澪標(みおつくし)のように、この身を捨てても、お会いしたいと思っています。

 

わびぬれば(侘びぬれば):
思い悩んでいると

難波(なにわ):
難波潟(なにわがた・大阪湾の入り江のあたりの遠浅の海)

みをつくし(みおつくし):
「身を尽くし(身を捧げる)」と、「澪標(みおつくし)」の掛詞

※澪標=船の航行の目印にたてられた杭のことで、難波潟を印象づけるものとなっています。

 

 

作者について

 

元良親王
(もとよししんのう・寛平2年(890年)- 天慶6年(943年))

平安時代前期から中期にかけての皇族・歌人で、官位は三品・兵部卿です。

*三品/日本の律令制において定められていた親王・内親王の位階「品位(ほんい)」のひとつで、一品(いっぽん)から四品(しほん)まで存在する。
*兵部省(ひょうぶしょう、つわもののつかさ)/かつて日本にあった軍政(国防)を司る行政機関。兵部卿は、兵部省の長官。親王等の皇族がこの官職に就任することも多いとのこと。

陽成天皇の第一皇子として生まれた元良親王。
父の陽成天皇は日本の第57代天皇でありましたが、僅か9歳で父・清和天皇から譲位され、17歳(満15歳)で退位しました。

幼少であった陽成天皇には、奇矯な振る舞いが見られたともいわれています。
それが原因かどうか定かではありませんが、次期天皇には長老格の皇族へと継承されることになり、数々の議論が交わされたのち、最終的には、第一皇子の元良親王ではなく、藤原基経の推薦により、仁明天皇の皇子(陽成天皇の祖父・文徳天皇の異母弟)である大叔父・時康親王(光孝天皇)が884年、55歳で即位することになりました。

このような経緯で、元良親王は、本来ならば帝位につく立場ではありましたが、惜しくも天皇になることは叶いませんでした。

また、元良親王は、風流で好色な皇子として名高く、それについては『大和物語』や『今昔物語集』に逸話も残っているようですが、特に有名なエピソードとして、時の権力者である宇多法皇の御息所(妃)である、京極御息所(きょうごくのみやすんどころ)=藤原時平の娘・藤原褒子(ほうし)との恋愛が知られています。

なお、この藤原褒子、『俊頼髄脳』によると、当初、醍醐天皇に入内する予定だったところ、その父である宇多法皇に見初められて、そのまま宇多法皇に仕えることとなったらしい、とのことですので、とても美しい女性だったのだと思われます。

 

元良親王について、『今昔物語集』には、以下のように記されています。

「今は昔、陽成院の御子に、元良親王と申す人御座しけり。極じき好色にて有りければ、世に有る女の美麗なりと聞こゆるには、会ひたるにも未だ会はぬにも、常に文を遣るを以て業としける。」

(意味)
今は昔、陽成天皇の御子に元良親王と申す人がいらっしゃった。大変な色好みであったので、世間で美人と噂がある女性には、会ったことがある女性にも、まだ会ったことのない女性にも、常に恋文を送ることを仕事のようにしていた。

 

世間で美人との噂があれば、会ったことがあってもなくても、恋文を送ることを仕事のようにしていた、とは驚きますね。。

 

また、『徒然草』にも

元良親王が、よく通る美しい声をしており、元日の奏賀(元日の朝賀の儀で、諸臣の代表者が賀詞を天皇に奏上すること)の声は非常にすばらしく、大極殿から鳥羽の作道までその声が響き渡ったと聞こえた

 

と紹介されており、
元良親王は、恋多き事のみならず、美声もまた有名であったようです。

加えて、『後撰和歌集』には7首、以降の勅撰和歌集も含めると和歌作品20首が入集し、『元良親王集』という歌集も後世になって作られるほど、歌の上手さもまた、有名でありました。

 


 

本日の歌

わびぬれば 今はた同じ 難波なる
              みをつくしても  逢はむとぞ思ふ

 

この歌について、後撰和歌集の詞書(ことばがき:和歌の前書き)には、

「事出できてのちに京極御息所につかはしける」
(元良親王と京極御息所の関係が世間に知られてから後に、元良親王が使者に持たせて京極御息所に贈った歌)

とあり、先ほどの、京極御息所(=宇多天皇の妃・藤原褒子)との道ならぬ恋が露見してしまった後に、元良親王から京極御息所に送られた歌であるとされています。

そして、二人の恋が世間に広まってしまった後
京極御息所については、宇多法皇の寵妃として権勢を振るい、宇多法皇亡き後、晩年は仁和寺で出家した、とされています。

 

ということは…

結局、この歌が元良親王から京極御息所に捧げられた後、元良親王との恋は悲しくも終わりを迎えてしまったということになりますね。。

 

 

 

 

有責配偶者からの離婚請求

 

さて…

結婚とは、始まりであり、スタートラインに立つことである、とも言われておりますが、結婚後の二人の行く先には、どのような未来が待ち受けているのでしょうか。

結婚が生涯一度で終わる人、あるいは複数回となる人など、「結婚」には多種多様なかたちがあります。例えば宇多法皇と京極御息所のように、途中世間に知られるほどのスキャンダルが起きてしまった場合であっても、最後まで離婚しない、というケースもあります。

結婚が、双方の合意により成立するように、離婚についてもまた、双方の合意で成立すれば問題ないのですが、話合いを経ても合意に至らなかった場合、最終的には裁判をすることになります。 

離婚の原因が、例えば一方の配偶者が不貞行為をしたことによるものであった場合、不貞行為をされた側が、離婚を請求するというのであれば理解できますが、逆に、不貞行為をした側(非のある側)から、された側(非のない側)の配偶者に対し、離婚請求をすることはできるのでしょうか。

 


 

夫婦間において、不貞行為をした配偶者のように、離婚原因を作った側の配偶者のことを「有責配偶者」といいますが、有責配偶者の側から離婚請求を出来るかどうかについて、裁判で争われた事例があります。

有責配偶者である夫が、不倫をした末に、妻と居住していた家を出て、不倫相手と住むようになり、その後、不倫相手と結婚したいがために、夫から妻に対し離婚請求をしたという事例です(最大判昭和62年9月2日)。

昭和12年2月、夫と妻は婚姻届を提出して、夫婦となりましたが、二人には子どもがいなかったため、昭和23年12月、養子を迎えることになりました。
それまで夫婦は平穏な結婚生活を送っていたものの、夫が養子の母親と不貞関係にあることが発覚した昭和24年頃、二人の関係は悪化し、同年8月、夫は家を出て不倫相手と住むようになり、以来、夫婦は別居状態となっていました。
その後、夫は不倫相手との間に2人の子をもうけ、昭和29年認知をしました。

夫は二つの会社の社長であり安定した生活、一方妻は人形店に勤務して生計を立てていましたが、無職となり、生活に困窮するようになりました。

夫は、不倫相手との結婚を希望していたため、昭和26年、東京地裁に対し、離婚の訴えを起こしましたが、婚姻関係の破綻は夫に原因がある(有責配偶者である)として棄却され、さらに昭和59年東京家裁に対し、離婚の調停を申し立てましたが、これも成立しなかったとして、本件に至りました。
この時、夫は74歳、妻は70歳となっており、別居後、既に36年が経過していました。

 

民法では、以下の場合、離婚の訴えを提起することができると定められています。

 

(裁判上の離婚)
第770条 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
1 配偶者に不貞な行為があったとき。
2 配偶者から悪意で遺棄されたとき。
3 配偶者の生死が3年以上明らかでないとき。
4 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。
5 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。

 

このうち「5 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。」が問題となりましたが、本件につき、裁判所は有責配偶者である夫からの離婚を、事情を総合的に判断した上で、「認める」としたのです。

なお、有責配偶者からの離婚請求が認められる場合の要件として、裁判所は以下のとおり判示しました。

「そこで、五号所定の事由による離婚請求がその事由につき専ら責任のある一方の当事者(以下「有責配偶者」という。)からされた場合において、当該請求が信義誠実の原則に照らして許されるものであるかどうかを判断するに当たつては、有責配偶者の責任の態様・程度を考慮すべきであるが、相手方配偶者の婚姻継続についての意思及び請求者に対する感情、離婚を認めた場合における相手方配偶者の精神的・社会的・経済的状態及び夫婦間の子、殊に未成熟の子の監護・教育・福祉の状況、別居後に形成された生活関係、たとえば夫婦の一方又は双方が既に内縁関係を形成している場合にはその相手方や子らの状況等が斟酌されなければならず、更には、時の経過とともに、これらの諸事情がそれ自体あるいは相互に影響し合つて変容し、また、これらの諸事情のもつ社会的意味ないしは社会的評価も変化することを免れないから、時の経過がこれらの諸事情に与える影響も考慮されなければならないのである。
 そうであつてみれば、有責配偶者からされた離婚請求であつても、夫婦の別居が両当事者の年齢及び同居期間との対比において相当の長期間に及び、その間に未成熟の子が存在しない場合には、相手方配偶者が離婚により精神的・社会的・経済的に極めて苛酷な状態におかれる等離婚請求を認容することが著しく社会正義に反するといえるような特段の事情の認められない限り、当該請求は、有責配偶者からの請求であるとの一事をもつて許されないとすることはできないものと解するのが相当である。」

 

本判決以前は、以下の判例に代表されるように、夫が不倫関係にあったことが原因で妻との婚姻関係継続が困難になった場合、有責配偶者である夫からの離婚請求は認められていませんでした(最判昭和27年2月19日)。

「論旨では本件は新民法770条1項5号にいう婚姻関係を継続し難い重大な事由ある場合に該当するというけれども、原審の認定した事実によれば、婚姻関係を継続し難いのは上告人(夫)が妻たる被上告人を差し置いて他に情婦を有するからである。上告人(夫)さえ情婦との関係を解消し、よき夫として被上告人(妻)のもとに帰り来るならば、 何時でも夫婦関係は円満に継続し得べき筈である」


「結局上告人(夫)が勝手に情婦を持ち、その為め最早被上告人(妻)とは同棲出来ないから、これを追い出すということに帰着するのであつて、もしかかる請求が是認されるならば、被上告人(妻)は全く俗にいう踏んだり蹴たりである。法はかくの如き不徳義勝手気儘を許すものではない。道徳を守り、不徳義を許さないことが法の最重要な職分である。総て法はこの趣旨において解釈されなければならない。」

 

しかし、本判決以降、

「有責配偶者の責任の態様・程度を考慮」し、

「相手方配偶者の婚姻継続についての意思及び請求者に対する感情」

「離婚を認めた場合における相手方配偶者の精神的・社会的・経済的状態及び夫婦間の子、殊に未成熟の子の監護・教育・福祉の状況、別居後に形成された生活関係、たとえば夫婦の一方又は双方が既に内縁関係を形成している場合にはその相手方や子らの状況等」

を斟酌したうえで、

「夫婦の別居が両当事者の年齢及び同居期間との対比において相当の長期間に及び」

「その間に未成熟の子が存在しない場合」

「相手方配偶者が離婚により精神的・社会的・経済的に極めて苛酷な状態におかれる等離婚請求を認容することが著しく社会正義に反するといえるような特段の事情の認められない限り」

有責配偶者からの離婚の請求を
「有責配偶者からの請求であるとの一事をもつて許されないとすることはできない」

とし、事情を総合的に判断した結果、有責配偶者からの離婚を認容する可能性もある、との判断がされました。

この判決により、有責配偶者からなされた離婚請求について、従来の判例を変更し、新しい判断がなされたとされています。

 


 

本日の歌

わびぬれば 今はた同じ 難波なる
              みをつくしても  逢はむとぞ思ふ

 

京極御息所との恋が終わった後、元良親王の次なる恋の行方について、詳細は不明ですが、何といっても「極じき好色にて有りければ、世に有る女の美麗なりと聞こゆるには、会ひたるにも未だ会はぬにも、常に文を遣る」御方とのことですから、

おそらく、「相当の長期間」思い悩んだりすることもなく、次なる恋へ進まれたのではないかと、勝手ながら想像しておりますが、いかがでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

資格試験アラカルト・宅建(3)~試験当日ってどんな感じ?編

宅建ブログ3回目です。

今回は、実際の宅建試験の様子について、共有させていただきます。

 

申し込みについて

 

前回も記載したとおり、
宅建試験は、原則として毎年10月の第3日曜日に実施されます。
令和4年は、10月16日(日)で、13時から15時までの2時間実施されました。

 

ちなみに、申込みについては

インターネット:令和4年7月1日(金)9時30分から7月19日(火)21時59分まで
郵送     :令和4年7月1日(金)から7月29日(金)まで(窓口消印有効)

以上の方法・スケジュールとなっていました。

お薦めは、インターネット(スマホ)申込みです。
顔写真を提出しなければならないのですが、スマホなら、カメラで撮影した画像を添付して送るだけなので、写真館などに行く手間がないです。
また、郵送は簡易書留で送る必要があることも要注意です(その辺の封筒に入れて適当に送ればいいというものではないです)。

受験手数料は8,200円で、クレジットカード払いかコンビニ決済です。
また、申し込む際に、試験会場を選択することができます。

コロナ対策として、申込み者多数の場合は、10月と12月の2回に分けて試験が実施されることとなっていて、実際、令和2年度及び令和3年度は12月試験がおこなわれましたが、令和4年度は10月試験の1回のみでした。

 

実は、私は申込む際に、待っていたらもしかして12月試験が選べるようになるかも、そうしたら勉強できる時間が長くなるかも、と淡い期待を抱いて、10日くらい様子を見ていたのですが、全然その気配がなかったので、あきらめて申し込んだというエピソードもあります…

実際のところは、人気のある会場から埋まっていきますので、そんな悪あがきをせず、早めに申し込むのが良いと思います(反省を込めて)。

 

私は、会場として、大妻女子大学(東京都市ヶ谷)を選択しました。
ポイントは二つあって、

①女性受験生専用の会場だった
②まあまあ土地勘があった

ということです。

①については、女性の方でしたらきっと頷いていただけるのではないかと思うのですが、イベントごとで、女性用トイレだけ大渋滞(男性用は空いている)っていう事態、「あるある」ですよね。
女子大ならば、その辺は抜かりがないだろう、と踏みました。
また、隣に座る方が同性の方が、いろいろ気楽かもしれない、とも思いました。

(結果的に、大正解でした。各階に広い女性用トイレが設置されていてスムーズに利用できましたし、同室者のたばこのにおいが気になって集中できない、みたいなこともありませんでした。
たばこの件は、女性でも喫煙者の方はいらっしゃいますので、確率の話でしかないのですが。ご参考までに、2019年の喫煙率は、男性27.1%、女性7.6%だそうです。)

 

②については、これまた個人的事情なのですが、私はかなりの方向音痴で、地図を見ても目的地になかなかたどり着けない(Googleマップなどのアプリを使うようになって、かなりマシになりましたが、それでもスマホをぐるぐる回さないと方向が分からなかったり、GPSがうまく働かず目的地付近をぐるぐる回ったりすることがあります)せいです。

試験会場にたどり着けなかったらどうしよう、という余計なストレスをなくすため、会場リストの中から、土地勘があるところを最優先で選択しました。
「せっかくだから、憧れのあの大学で受けてみたい!」みたいな理由で決めるのもありだとは思うのですが、その場合は、事前に下見しておくことをお勧めします。

 

何といっても、1年に1度しかない試験なので、遅刻してしまったり、遅刻はせずともギリギリになったせいで落ち着いて受験できなかったり、実力以外のところで不合格になってしまうリスクは極力なくしておきたいものです。
試験開始は13時なので、朝が弱い方でもそれほど心配はないようにも思うのですが、念には念を、です。

多分、お一人お一人に、大事なポイントや譲れない事情があると思いますので、そこをクリアするベストな会場を選んでください。

 

 

試験当日の様子

 

さて、試験日当日。

学生時代から一夜漬け派(追い込まれないとやれないタイプ)だった私ですが、ここは無理をせず、「前日は早く寝る」作戦を採りました。

そして、当日早めに会場周辺へ移動し、会場周辺で最後の詰込みをすることに。
ちょうど、季節的に暑くもなく寒くもない時期で、お天気が良かったこともあり、靖国神社の境内で、ベンチに座ってテキストを読みました。

・絶対出ると予想した「重要事項説明と37条書面の違い」

・それまで何回やっても覚えられなかった「報酬の上限」

・いろいろな「数字」
(例えば、建築基準法の建築物の高さ制限○○メートル以下とか、似たような数字がたくさん出てきます。あまりにも覚えられないので、「ここは最後の数時間に賭ける」と決めていました。)

など、一番苦手としているところをぎゅっと詰め込んで、あとはなるようになれ、という気持ちで、開場早々に会場に乗り込みました。

 

ここで一言アドバイス。

試験が13時開始で、11時45分開場、遅くとも12時30分までには会場に入らないといけません。お昼ご飯は早めに済ませましょう。
お腹いっぱいで眠くなってしまう、なんていう事態を避けるためにも、軽めにブランチとかにしておくのも良いかもしれません。

 

座席は、コロナ対策か、はたまたカンニング対策か、隣同士1席空けて座るよう指定されますので、隣の人と肘がぶつかるといったことはありませんでした。
ただ、割と大きめの教室だったので、横長の机に4人くらい座ることになり、そうすると真ん中の席の人は、出入りするたびに出入り口側の人に立ってもらわないといけない、ということはありました。

希望することができるのは「会場」までで、(昨今の映画館のように)「教室」や「席」まで指定できるわけではないので、この辺りは、運としか言えません。
そういう席になることもあるんだな、と心の準備をしておけば落胆することも少ないように思います。

なお、試験時間は2時間ですので、途中で出入りすることは基本的にはないと思います。後は、席によって空調の効き具合も異なる可能性がありますので、例えば脱ぎ着しやすいカーディガンなどを準備しておくと安心かもしれません(基本的には空調設備が整っていると思われ、心配し過ぎることはないと思います)。

スマホやスマートウォッチは、電源を切った上、机上に用意されている封筒に封入して席の下に置くよう指示されます(回収はされません。試験終了後、自分で封筒を破って出しました)。
私が受験した教室には掛時計が設置されていましたが、もしかすると会場によってはなかったり見にくいこともあるかもしれませんので、普通の腕時計を準備した方が良いと思います(ちなみに、置時計は不可となっています)。

 

全くの余談ですが、試験監督の方々は、おそらく大学関係者(?)がアルバイトでやられているみたいで、「本部の準備がなっていない」とか、「お昼休み時間に受験生の対応をしなければいけなかったから、超過勤務手当を請求しよう」なんておしゃべりをしていたり、何というか、気が抜けました。
教室やトイレの場所は教えてもらえますが、試験についての質問は受け付けてもらえないようです。

(さらに余談になりますが、私はかつて、旧司法試験の試験監督をした経験があります。その時は、受験生の方々の表情も一様に厳しく、係員としても、もしかするとその受験生の方の一生がかかっているかもしれない、と思えて、「始め」の合図を発するのにも緊張したものでした。やはり、試験の重みが全然違う、ということでしょうか。)

 

 

試験問題について

 

実際の試験問題は、不動産適正取引推進機構HPで公表されています。

構成としては

 権利関係
 ↓
 法令上の制限
 ↓
 税
 ↓
 宅建業法
 ↓
 その他

という並びです。

 

私は、
○ まず頭から順番に解いていき、

○ 問27(報酬限度額の計算を含む)だけは、ゆっくり落ち着いて解いた方が良いと思い、最後に回しました。

○ 途中、テキストや問題集で全く見たことのない問題が幾つか出てきましたが、こういう問題は多分皆できない(少なくとも苦労する)んだ、と思って動揺しないようにしました。

○ 最終的に、時間が余って困るほどでもなく、時間が足りずに慌てることもなく、ひととおり回答し終わって全体を軽く見直しをしてもまだ余裕がある、という感じでした(余り何度も見直すと、かえって迷ってしまうと思い、1回しか見直しはせず、後はひたすら終了を待ちました。なお、途中退席不可です)。

難易度や出題傾向的には、全体として過去問の傾向からそれほど乖離しておらず、想定の範囲内だったかなと思います。
ですので、過去問を繰り返し解いて、「こういうところで間違えさせようとするんだな」というポイントさえ押さえておけば、細かい論点や知識を全部網羅しなくても、十分対応可能だと思いました。

 

試験が終わると、受験生が一斉に駅に移動することになりますが、こちらも特に混乱することはなく(偶然居合わせた方にしてみたら、女性の集団が無言で同じ方向に進んでいくので、何事だろう、とは思われたかもしれませんね)、スムーズに帰宅できました。
試験のボリューム的にも、負担が少なくて良かったと思います。

 

その日の夜や、翌日には、各予備校などのHPで模範解答や合格予想点が発表されていたようです。
私は、見るのも怖いし見ないのも怖い、でもまあ、初志貫徹して受験できただけでも一つ達成だから、合格できるかどうかは一喜一憂せず待とう、という気持ちで、あえてそれらのページは見ずに合格発表を待ちました。

 

 

合格発表

 

令和4年の合格発表は、11月22日(火)でした。

午前9時30分から、試験団体のHPに、合格者受験番号が掲示されます。
どきどきしながら発表を見て、自分の番号を見付けたときは、とてもとても安堵したことを覚えています。

そして、翌日仕事を終えて帰宅すると、簡易書留郵便が届いており、合格証書が入っていました(不合格者には、結果の通知はおこなわないそうです)。

A4の紙1枚だけですが、なんというか、少し重みを感じました。

 

◇ ◇ ◇

 

というわけで、試験当日から合格発表までの様子について共有させていただきました。

次回は、試験に合格しただけではゴールではなくて、「登録実務講習」が必要だ、ということと、実際の講習の様子をお伝えできたらと思います。
では。

法律で読み解く百人一首 60首目

あらゆるものが、デジタル化しつつある現代。

デジタル化が進むにつれ、「時間の計測」という点でも
その正確さは精度を増す一方です。

「時間」が大きくかかわる勝負の世界においては、
1秒に歓喜する者もいれば、1秒に涙する者もいる。

とはいえ現代では、その差は「1秒」どころではなく
0.01秒、0.001秒…と、さらにシビアになっているのではないでしょうか。

 

ある時点より前となるか後となるか。

 

一瞬の差が、全てを決めてしまうことがあるのです。
それは、法律においても例外ではありません。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「大江山 いく野の道の 遠ければ

まだふみも見ず 天の橋立」  

小式部内侍


「おほえやま いくののみちの とほければ

まだふみもみず あまのはしだて」

こしきぶのないし

 

小倉百人一首 100首のうち60首目。
平安時代の女流歌人・小式部内侍の歌となります。

 

 

歌の意味

 

(母のいる丹後の国へは) 大江山(おおえやま)を越え、生野(いくの)を通って行かなければならない遠い道なので、まだ天橋立へは行ったことがありません (ですから、そこに住む母からの手紙など、まだ見ることができるはずもありません)。

 

大江山
丹波国桑田郡(現在の京都府西北部)の大枝山(源頼光の鬼退治で有名な大江山(丹後(京都府北部))とは異なります。)京都市西京区と亀岡市の境に位置し、標高は480メートル。「大江山」、「大井山」とも呼ばれます。
平安京から山陰道を下る場合、山城国と丹波国の国境にある大江坂に設けられた大江関を必ず越えて、京と別れを告げることになった事から、古くから歌枕の地として知られていました。
丹後は、現在の京都府北部。713年に丹波国北部にある5群を割いて「丹後国」として設置されました。この歌が詠まれたとき、作者・小式部内侍の母である和泉式部は夫と共に丹後国へ赴いていました。 

 

いく野の道
生野(いくの)=丹波(京都府福知山市)にある地名で、丹波は、現在の京都府西北部を指し、京都(平安京)の北西の出入口にあたる地理的条件から、古くより各時代の権力者から重視されました。「生野」は「行く」の掛詞となっています。

 

まだふみも見ず
ふみ=「文」と「踏み」の掛詞。母からの手紙が来ていないことと、母のいる天の橋立へは行ったことがないことを掛けています。
※「踏み」は「橋」の縁語。

 

天の橋立
丹後国与謝郡(現在の京都府宮津市)にある名勝で、日本三景のひとつ。
宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州。天橋立が観光地として認知され始めたのは8世紀初頭とのことです。

 

 

作者について

 

小式部内侍(こしきぶのないし・999頃-1025)

平安時代の女流歌人で、女房三十六歌仙の一人です。父は橘道貞、母は和泉式部で、寛弘6(1009)年ごろ、母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・藤原彰子に出仕しました。母と区別して「小式部」、内侍所(賢所)という機関で掌侍として仕えたため「内侍」という女房名で呼ばれるようになりました。

*内侍所(ないしどころ)(賢所(かしどころ))/三種の神器の一つである神鏡を安置した場所

*掌侍(ないしのじょう)/律令制における女官の一つ。尚侍(ないしのかみ)・典侍(ないしのすけ)に従って天皇に近侍し、内裏内部の儀礼や事務処理をおこなう役目。)。

 

母・和泉式部の美貌を受け継ぎ、また母同様に恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原頼宗・藤原範永・藤原定頼など多くの高貴な男性との交際で知られていましたが、万寿2年(1025年)、20代で藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に死去し、周囲を嘆かせました。

美しく、才能にあふれ、恋多き女性であった小式部内侍。
小式部内侍が仕えていた一条天皇の中宮・彰子をはじめ、多くの人がその死を嘆いたと言われています。 

母・和泉式部の悲しみは、どれほど深かったことでしょう。
前途有望であった娘・小式部内侍の死に際し、和泉式部は、以下の歌を詠んでいます。 

「とどめおきて誰を哀れと思ふらむ 子はまさりけり子はまさるらむ」

 

この歌には「小式部内侍みまかりて、むまご(孫)どもの侍るのを見て」との詞書が付いており、『後拾遺和歌集』における哀傷歌の傑作と言われています。

 


 

小式部内侍の母である和泉式部
平安随一の女流歌人と言われるほど、歌の才能がある人でした。

小式部内侍自身も、美人で若い上に歌の才能があると評判だったため、
「丹後にいる母・和泉式部が作っているのではないか」
との噂が絶えませんでした。

 

あるとき、歌合せの会が開催されることになりました。

その会の場で、藤原定頼は小式部内侍に 

「歌は如何せさせ給ふ。丹後へ人は遣しけむや。使、未だまうで来ずや」

(歌会で詠む歌はどうするんです? お母様のいらっしゃる丹後の国へは使いは出されましたか? まだ、使いは帰って来ないのですか?)

 

と言ってからかいました。
これに対する返歌として、彼女が即興で詠んだのが、本日のこちらの歌。 

「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」

 

「生野」を「行く」と掛け、「文」と「踏み」と掛ける。

意地の悪いからかいにも、各地名や歌の技法を織り交ぜながら、即興で機転の利いた歌を返すなど、優れた歌人でなくてはとてもなせる技ではありません。。

この一件により、小式部内侍の作品は、母による代作ではなく、小式部内侍自身、優れた才能の持ち主であることを、大勢の前で証明することとなりました。

 

 

人はいつから権利を持つのか

 

さて・・・

小式部内侍が、出産をきっかけとして命を落としてしまったように
出産とは、正に命がけなのです。

胎児の期間を経て、母子ともに健康で、出生という日を迎えるということは、
当たり前のことではなく、むしろ奇跡とも言えるでしょう。

 

ところで、人はいつから「人」としての権利を持つのでしょうか。
民法では、人の権利能力につき、以下のように定められています。

 

(権利能力)
第3条1項 私権の享有は出生により始まる。

 

このように、出生と同時に「人」として等しく権利をもつことになります。

しかし、「出生」と同時に権利を持つとなると
胎児には権利能力は認められていないということになります。 

 

では、胎児の出生前に
交通事故等の思わぬ事態が発生した場合はどうでしょうか。

例えば、妊娠中に胎児の親が不測の事故に遭遇し、被害者となってしまった場合。

事故発生が、出生時刻の
・「前」であったか
・「後」であったか
という僅かな時間の差により、胎児は損害賠償請求をできなくなる、という不公平が生じてしまいます。

 

このような不公平をなくすため、民法では以下のような例外を設けているのです。

 

(損害賠償請求権に関する胎児の権利能力)
民法721条
「胎児は、損害賠償の請求権については、既に生まれたものとみなす。」

 

(相続に関する胎児の権利能力)
民法886条1項
「胎児は、相続については、既に生まれたものとみなす。」


このように、損害賠償の請求及び相続については
例外的に、胎児を「既に生まれたもの」としてみなすことにしたのです。

 


 

これについて、以下のような事例があります。

交通事故発生時に胎児であった者が、出生後に、当該事故を原因として障害を生じ、重い後遺症が残ったとして、両親とともに、自家用自動車総合保険契約の無保険車傷害条項に基づく保険金の請求をする事案です(最三小判平成18年3月28日)。

 

平成11年1月5日午前10時ころ、交通整理のおこなわれていない交差点において、被害者(事故当時胎児)の母の運転する自動車が、加害者の運転する自動車(任意保険無加入)と衝突する事故が発生しました。

この事故は、加害者の過失に起因するものでした。 

事故当時、被害者母は妊娠34週目でしたが、事故後運ばれた病院で緊急帝王切開手術を受け、同日午後0時58分、被害者(子)を出産しました。
しかし、被害者は重度仮死状態での出生となり、「低酸素性脳症、てんかん」の傷害を負い、病院に入院して治療を受けたものの、平成12年12月5日、症状が固定し、重度の精神運動発達遅滞(痙性四肢麻痺)の後遺障害が残ってしまいました。

被害者の傷害及び後遺障害は、この事故に起因するものとなります。

 

事故当時、被害者父は、保険会社との間で、被害車両を被保険自動車、被害者父を記名被保険者とする自家用自動車総合保険契約を締結していました。

この契約にかかる保険約款には、以下の「無保険車傷害条項」がありました。

「保険会社は、無保険自動車の所有、使用又は管理に起因して,被保険者の生命が害されること、又は身体が害され、その直接の結果として後遺障害が生じることによって被保険者又はその父母、配偶者若しくは子が被る損害に対して、賠償義務者がある場合に限り、保険金を支払う。」

 

同条項は、加害車両が無保険車である場合、つまり任意保険に加入していない場合、保険会社は、加害者に対して賠償請求をすることができる額を保険金として支払うというものでした。
そして、加害車両はこの「無保険自動車」に該当したのです。

これにより、被害者らが保険会社に対して、被害者の損害につき、保険金等の支払を求める裁判を起こしたところ、被害者は事故当時胎児であったため、
胎児の時に発生した交通事故により出生後に傷害を生じ、その結果後遺障害が残存した場合、無保険車傷害条項に基づく保険金請求ができるかどうか、
が問題になりました。

 

これについて、最高裁判所は、

「民法721条により、胎児は、損害賠償の請求権については、既に生まれたものとみなされるから、胎児である間に受けた不法行為によって出生後に傷害が生じ、後遺障害が残存した場合には、それらによる損害については、加害者に対して損害賠償請求をすることができる」

そして、

「胎児である間に発生した本件事故により、出生後に本件障害等が生じたのであるから」、被害者らは、「本件傷害等による損害について、加害者に対して損害賠償請求をすることができ」、被害者らは、自家用自動車総合保険契約の無保険車傷害条項が、被保険者として定める「記名被保険者の同居の親族」に生じた傷害及び後遺障害による損害に準ずるものとして、同条項に基づく保険金の請求をすることができる、

との判断をしたのです。

 

◇ ◇ ◇

 

本日の歌
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」 

小式部内侍が、美しくも儚い生涯を閉じたのは、およそ28歳頃であったと言われています。

小式部内侍の子(頼忍阿闍梨)については、平安随一の女流歌人といわれる和泉式部を祖母、その美しさと聡明さを受け継いだ小式部内侍を母、そして藤原公成を父として生まれてきたという以外、歌の才能があったのか、どのような生涯を送ったか等、残念ながら詳細は残っていないようです。

小式部内侍は、数々の優れた歌集を残した和泉式部とは対照的に、歌集を残さなかったようですが、若くして命を落とさなければさぞかし多くの素晴らしい歌を残してくれたことでしょう。

 

また、和泉式部の晩年については、娘・小式部内侍の菩提を弔いつつ、自らの往生も考えるようになったといわれています。

こうして和泉式部が詠んだ歌が、

「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」

(よりいっそう暗い闇へ入り込んでしまいそうだ。はるか遠くまで照らしてください、山の端にいる月よ。)

この後、和泉式部は阿弥陀如来に帰依して出家し、専意法尼という戒名を授かったといわれます(京都にある誠心院によれば、初代住職を務めたとか)。

美しく、才能に溢れ、将来有望であった子を若くして失った和泉式部。
母としての気持はいかばかりであったでしょう。

彼女の決意表明とも言えるこの歌からは、娘を失った後、残りの人生をいかに生きるべきか、深い悲しみの中にも一筋の光を見つけた、とも読み取ることができ、それもまた、涙を誘うのではないでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

資格試験アラカルト・宅建(2)~宅建試験ってどんなの?どんな勉強すればいいの?編~

宅建ブログ2回目です。今回は、

・宅建試験がどのような内容で
・それに向けてどんな勉強をしたか

について共有させていただきます。

 

宅建試験の内容

 

宅建試験は、原則として
毎年10月の第3日曜日に実施され、11月下旬に合格発表があります。
試験時間は2時間です。

試験内容は、前回も書いたように宅建業法施行規則で決まっていて

1.土地の形質、地積、地目及び種別並びに建物の形質、構造及び種別に関すること。
2.土地及び建物についての権利及び権利の変動に関する法令に関すること。
3.土地及び建物についての法令上の制限に関すること。
4.宅地及び建物についての税に関する法令に関すること。
5.宅地及び建物の需給に関する法令及び実務に関すること。
6.宅地及び建物の価格の評定に関すること。
7.宅地建物取引業法及び同法の関係法令に関すること。

なのですが、教材等では、おおむね

宅建業法」(↑の7)
権利関係」(↑の2)
法令上の制限、税・その他」(↑の1、3~6)

というふうに、大きく3つにまとめられています。

 

全50問中、分野別の内訳は以下となります。

・宅建業法    20問
・権利関係    14問
・法令上の制限  8問
・税その他    8問

全てマークシート(四者択一)方式で、記述式の問題はありません。

(当然ですが)50問全部できなければ不合格、というわけではなくて、年によって異なりますが、大体31~38点くらいが合格ラインとのことです。
令和4年は36点でした。

 

ちなみに、必要な勉強時間の目安は300時間とか。

1日1時間としたら、300日=10か月 ➔12月か1月に取り掛かる必要あり
1日2時間としたら、150日=5か月 ➔5月か6月には取り掛かる必要あり

みたいな計算でしょうか。

私は、令和4年初頭に新年の抱負を考えていて
「今年は資格の勉強をしよう!」と思い立ったという次第で
受験を決めたのは令和4年1月頃でした。

インターネットで上記のようなことが分かったので、
早く始めればそれだけ1日当たりの勉強時間が短くて済む
と目論み、受験を決めたその夜からさっそく教材を探し始めました。

 

 

教材選び・対策のポイント

 

ところで、教材探しをされる方に一言。

お薦めの教材、またお薦めの勉強方法については
インターネット上にたくさん情報があります。

しかし、私の個人的な意見としては、人それぞれ、自分に合う教材や勉強は違っているので、他人の言うことをそのまま信じず、自分の五感で探した方がいいと思います(身もふたもなくてすみません)。

というのも、人それぞれ、それまでに積み上げてきた知識経験(法学部出身だったり、そうでなかったり)も違えば、生活スタイル(電車通勤だったり、専業主婦だったり)も違うからです。

ある人が、この教材でこういう時間割で勉強して受かった!と言っても
それをそっくり真似するのは、難しい上に危険だと思います。

そういう前提に立った上で
これから受験する方に、私からアドバイスできることがあるとしたら…

 

 ① 教材 余り手を広げなくても大丈夫です。
これと決めた教材に絞って、何度も繰り返してやるのがお薦めです。
 ② スケジュール管理 最終的に帳尻が合えばAll OKです。
なので、受験を思い立ったら、とりあえず一刻も早く勉強を始めましょう。
早く勉強しても試験までに忘れてしまう…という懸念は、直前に再暗記期間を設定しておけば大丈夫です。早く始めれば、その分、たとえ途中怠けてしまう時期があってもいろんな調整が効きます。
 ③ 勉強する環境作り 自分は意志が弱いと思う人は、誰か自分にとって重要な人に、「受けます」と宣言しておきましょう。

 

くらいでしょうか。
各ポイントについて、もう少し詳しく説明していきましょう。

 

 

① 教材

 

宅建は人気資格なので、受験予備校や通信講座がたくさんあり、書店に行けば、教材は選り取り見取り、どれを選んでいいか迷うくらいたくさん並んでいます。

私は最初、予備校や通信講座を調べました。

費用は安いところで数万円くらいからですが、例えば合格保証が付いていたり(不合格だったら受講料を返金してくれる。ただし、厳しい条件があります)、厚生労働省の教育訓練給付制度の対象になっていて費用の一部が支給されたり、というものもあります。

予備校や通信講座のいいところは、教材も勉強の進度管理も、全部専門家が考えてくれて、自分は与えられたカリキュラムをこなしていくだけでいい、というところかと思います。

 

幾つか調べた結果、「スマホで学べる」講座があり、テキストを持ち歩く必要がなく通勤電車の中などでも勉強ができるといううたい文句でした。
(気になる方は上記キーワードで検索してみてください)

費用も2万円程度で比較的安価だったこともあり、とても良さそうだったのですが
ごく個人的な事情として、
・乗り物の中で文字を読むと、乗り物酔いをしてしまう(本でもスマホでも)
・勉強する時間が取れそうなのは寝る直前で、寝る直前にスマホのブルーライトを見るのは避けた方が良い(不眠になる)と聞いた
ということで、こちらは断念しました。

 

結局、アナログに、紙のテキストで勉強するのが自分に合っていそうだ、という結論に至った私は、さっそく書店に行ってテキストを購入することにしました。

先ほどもお伝えしたとおり、教材が数多並んでいる中で、私は「一番売れている」テキストを選びました。
みんなが選ぶということは、選ばれるだけの理由があるのだろうと思ったし、逆に、試験委員もその本のことを意識しているだろう、とも思ったのが理由です。

いま改めて考えても、ある程度実績があるところが出版している、ある程度売れている本だったら、どれもちゃんと作りこまれているし、ぶっちゃけそれほど大差はないと思います。

だったら、あとは自分の好みです。

試験までの長丁場、ずっとお付き合いするテキストですから、例えば読んでいて言い回しがなんとなく気に障るとか、カラフルすぎて目がチカチカするとか、そういう些末な理由でストレスを感じることがないよう、書店で実物を見比べて「私はこれが好き」と思うものを選ぶのが一番だと思います。
(ネット購入は、実物が届いたらイメージが違ったということが発生しやすいです。もし事情が許すのであれば、リアル店舗をお薦めします。)

 

私は、学生時代に参考書を購入しても、一つ説明を読んでも分からない箇所があったりすると「本当にこの本でよかったのかな、別の本の方が分かりやすいのでは」などと迷ってしまい、別の本を買い直したりしていました。
例えば歴史だったら、原始時代ばっかりいろんな本で何回も勉強して、最終的に時間が足りず現代史までたどり着かない、という感じになりがちでした。

そのため、今回は「いろんな教材に手を出さない、最初に選んだ1冊に賭ける」と決めて、テキスト1冊と問題集1冊しか使いませんでした。
ただ、一人の筆者、一つの会社の見解だけに全て頼るというのはやはり怖いと思ったので、テキストと問題集はあえて別の会社のものにしました。
これも一長一短で、同じシリーズのテキストと問題集を併用した場合は、相互に参照ページが書いてあるなど調べ物がしやすい、という意見もあるようです。

私は、最初にテキストを読んだ時は理解があやふやだったところが、次に問題集を解いてみたら別の観点から解説がされていて、「テキストに書いてあったあれは、こういうことだったのか!」という気付きをしたことも結構あったので、教材を絞り込もうと考えている方には、あえて別シリーズにしてみることもお薦めします。

プラス、条文が見たいときはインターネットの「e-Gov法令検索」で検索しました(法令の名称を検索すると大体最初に表示されるページです)。
現在生きている条文が無料で読めるのでお薦めです。
(個人的には、業務でも頻繁に利用するので書籍版六法より馴染みがありました)

 

 

② スケジュール管理

 

試験範囲が広いため、行き当たりばったり・成り行き任せでは、どんな結果になるか分かったものではありません。
やっぱり、計画を立てて取り組む必要があります。

受験予備校や通信講座を利用される方は、ちゃんとプロが試験日に間に合うようなプログラムを組んでくれますので、お任せで良いと思います(こういうノウハウに、お金を払っているわけですから)。

独学の方は、ここを自分でやらないといけません。

まあ、労力はかかりますが、その分「自分のことを一番知っている(はず)というメリットを生かして、自分専用のプログラムが組める」とも言えるので、またまた一長一短かもしれません。

 

私は独学だったので、まずは全体のスケジュール感をつかもうと、早い時期にテキストを買い、理解しようとか暗記しようとかせず、とりあえず試験範囲全体を一通り読んでみました。
ここで、自分のこれまでの知識がどれくらい使えそうか、新しく覚えなくてはいけないことはどれくらいあるか、といった感触をつかみ、
「合格するには、自分は、これくらい頑張らないといけないようだ」
というレベル感をざっくりと見積りました。

その結果、

「権利関係」については過去に少し勉強したことがあり、しかも業務でも日常的に触れているので、ここは復習程度でよさそうだな
「宅建業法」は読んだことがないし、主要科目で出題数が多いため、ここに力を注いだ方がよさそうだな
「法令上の制限や税制その他」は、理解というよりは暗記が主のようなので、試験が近くなってから短期集中でやるのがよさそうだな

みたいな、ふわっとした感触を得ました。

 

その次に必要になるのは具体的な計画ですが、私は
・平日は〇時から〇時まで勉強する
・何月には〇〇の科目を終わらせる
のような計画はあえて作りませんでした。

というのも、経験上、計画を立ててそのとおりにできたことがないし、自分にプレッシャーを掛け過ぎたくないと思ったからです。
プレッシャーを感じすぎて、法律の勉強をすることに嫌悪感を感じるようになってしまったら、かえって仕事にも差し障りが出てしまう、それは本末転倒だと思いました。

私が決めた計画?(と言えるかも疑問ですが)は、

・毎日、ちょっとでもいいから宅建の本を読む

・試験の1か月前までに、テキストと問題集を少なくとも3回は繰り返し読む

・試験の1か月前になったら集中的に暗記をする。それまでは数字等細かいところは覚えようとしない

という、はなはだ緩いノルマを課すものでした。実際のところ、

平日夜は、
寝室に移動するときにテキストか問題集を持っていき、布団に入って読む
⇒10分もすると、寝落ちしそうになるので、本を閉じて就寝

休日は、
ソファでゴロゴロするときにテキストや問題集を横に置いておき、
気が向いたら読む

という感じで、1日当たりの勉強時間は短かったのですが、その分、勉強が嫌になることはなく、計画どおりに進まない!と焦った挙句に全部放り投げてしまうようなこともなかったため、ゆるーく続けることができました。

 

そして、試験の1か月前。

勉強を続けてはいたものの、数字等、細かい部分の暗記を後回しにしていたこともあって、問題集が全然解けず危機感を覚えました。

しかし、ここで急に「1日5時間やる!」とか決めても、絶対無理なのは分かっていたので、冷静に自分の集中力を見積もりました。

1回15分なら集中できて、取り掛かるのに必要な意思の力も少ないだろうと判断し
「最低でも1日15分を4コマやろう、できなかったら翌日に回してもいいし、できそうならおまけでコマ数を増やそう」
という、これまたゆるーいノルマを課すことにしました。

気分が乗らないときでも、「まあ、15分だし…」ということで、しぶしぶでも取り掛かることができ、始めると意外に気分が乗って気が付いたら30分経っていた、みたいなことも結構ありました。

科学的に証明されている「やる気スイッチ」があって、それは

「気が乗らなかろうが心の準備が整っていなかろうが、
何でもいいからとにかく作業を始めること」

 
だそうです。やっているうちにだんだん脳に刺激が伝わり、脳が興奮して、やる気が出てくるのだとか。

 

つまり、
「準備が整う⇒やる」ではなくて
「やる⇒準備が整う」という
何というか、逆説的?なことが分かっているそうです。そのため、

気分が乗っている時に集中して勉強するのが一番効果的に決まってる!
…今は気分が乗っていないから、後でやろう

ではなく

今は気分が乗らない。
…でもまあ、ともかく本を開くだけでも開くか

と、行動することが必要なんですね。

そこでプラスしてお薦めなのが、
気分が乗らないときでも「まあ、これくらいならできそうかな」と思えるよう、例えば「1コマ15分」のように、最初のハードルを下げておくことです。
(こういうのも「スモールステップ」といって、教育現場や医療現場でも、習慣化のために使われているテクニックの一種かもしれません。)

もちろん「簡単すぎる目標では燃えない!」という方もいらっしゃるでしょう。
また、ハードルを下げすぎると、どう計算しても試験日までに範囲が全部終わらない、などということになってしまうことも考えられます。

結局重要なことは、自分の生活状況・性格・能力を、冷静かつ正確に見定めた上で、試験までに残された時間との兼ね合いを見据えつつ、自分にとって最適化された計画を練ることです。

留意点は、「現実的」な計画を立てること。
計画を立てる時は、あれもやりたいこれもやりたい、一日○時間は勉強すべき、などと考えて「理想的」な計画を立ててしまいがちですが、ここでぐっと気持ちを抑えることが大切です。

絵に描いた餅では、どんなに美味しそうでも、現実にお腹は膨れないですよね。

 

 

③ 勉強する環境作り

 

長丁場なので、途中で計画が滞ってしまい
「やっぱり駄目かも」「来年にしようかな…」
などと弱気になってしまうことも起こってしまいがちです。

そういうときに、あらかじめ周囲に「今年宅建を受験します」と宣言しておくことで、「でも、あの人に今年受けるって言っちゃったしなあ…」という感じで、放り投げるのを思いとどまらせてくれます。

ここでのポイントは、
自分にとって近しすぎる存在の人では効果がないということ。

「私、受験するんだ~」と宣言しておいても、後日「やっぱ止めた」と言いやすく、「ほんとにこの人はしょうがないね~」と受け入れてくれる存在ではストッパーになってもらえません。
例えば上司や、義両親など、「気が置ける」(気遣いが必要な)存在に、宣言しておくと良いと思います。

実際、私も事務所の弁護士に受験することを伝えていたため、試験までに勉強が間に合わないかも、止めようかなと不安な気持ちになった時に、「でも、先生に受けるって言っちゃったし…」と、何とかこらえて続けることができました。

 

◇ ◇ ◇

 

以上、いずれも、意志が弱いことを前提とした勉強方法についてお伝えしました。

向学心に燃えている方には、怒られてしまいそうですが
「これくらい意志が弱くて緩くしか勉強できなくても、何とかなりますよ」
という一例として、参考になると嬉しいです。

長くなってしまったので、実際の試験の様子については、次回お伝えします。
では。

 

(参照:一般財団法人不動産適性取引推進機構HP

資格試験アラカルト・宅建(1)~「宅建」って何?編~

はじめに

 

タイラカ総合法律事務所事務員です。

このたび、「宅建」資格を取得しました。

「宅建」は、国家資格の中で受験者数が最も多いそうで、
合格体験記等もインターネット上に数えきれないくらいあります。

そんな中でも、あまり「典型的」ではないケースとして、何かのご参考になればと思い、何度かに分けて体験を共有させていただきます。

(※なお、本稿は令和4年度の資格試験制度に基づく記載です。最新の制度は異なる可能性がありますので、必ず試験団体のホームページ等によりご確認ください。)

 

 

宅建とは

 

さて、改めまして「宅建」です。

その存在については広く認識されているのではないかと思うのですが、

「ところで、宅建に受かると何ができるの?」
と改めて質問されると、

「さあ?」
となってしまう方が多いのではないでしょうか。

 

正式名称は、「宅地建物取引士資格試験」といい、
合格すると、「宅地建物取引士」(通称「宅建士」)になることができます。

 

この辺り、少しややこしいのですが、

宅地建物取引業(ざっくり言うと、不動産の売買や貸借の媒介などを、事業としておこなうこと)を営むためには、

・国土交通大臣(複数の都道府県にまたがって事業をする場合)
・都道府県知事(一つの都道府県内でだけ事業をする場合)

いずれかの「免許」を受けなければならないのですが、その免許を受けるためには、事務所ごとに、従業員5人に1人以上の割合で「宅地建物取引士」を置かなければならない、とされているのです。

またまたざっくり言うと、

宅建=不動産業者等に就職して(又は個人事業主として)
不動産取引のうち、専門知識が必要とされる業務に従事するための資格

という感じでしょうか。
宅建士じゃないとできない(したら罰則が科される)業務もあります。

それが、

① 重要事項の説明
② 重要事項説明書への記名
③ 契約書への記名

この3つです。

 

 

宅建士にしかできない業務

 

・・・と言われても、
①重要事項の説明ってナニ?という方もいらっしゃるでしょう。

この「重要事項説明とは何か」というのも、実は宅地建物取引業法(宅建業法)で決まっていて、宅建試験で必ず出題されるところだったりします。

 

まあ、読んで字のごとく
「重要事項」を「説明」することなんですが(まんまですね)
これを5W1Hに分解してみると、

When(いつ)
契約が成立するまでの間に、

Where(どこで)
(特に制限なし。オンラインも可)

Who(誰が)
宅建業者が、宅建士をして
(Whom(誰に):買い手・借り手になろうとする人に、

What(何を)
その不動産の現在の所有者の名前や、その不動産上に建築基準法等の法令による制限(建築できる建物は高さ何メートル以下、など)があるかどうかとその制限の内容、電気ガス水道が整備されているかどうか、などなど、買ったり借りたりする前に知っておく必要のあることを、

Why(なぜ)
(宅建業法にはっきりと書いてあるわけではありませんが、不動産取引は高額である上に、一般的には一生に数回程度しか経験しないものであるところ、悪徳業者に、買い手・借り手の経験が少ないことに付けこんだ不当な取引をさせないため、です。)

How(どのように)
説明を記載した書面(※)を交付して、口頭でも説明する
(相手も宅建業者の場合は、書面の交付だけでよい)

※ちなみに、書面のひな形は、こんな感じです(国土交通省HPより)。
ものすごく長くて、見るだけでうんざりしてしまいそうですが、「不動産を買ったり借りたりするんだったら、これくらいは知っておけ」ということなんですね。

   

となります。
上記でハイライト付したところが、宅建士でないとできないところです。

重要事項説明の時に交付する書面=「重要事項説明書」に、
「説明をする宅地建物取引士」として記名し(←②)、
実際に説明する(←①)
ことになります。

 

もう一つの、③の「契約書」については、
「日常生活で見たことがある」「ハンコを押したことがある」
という方が多いのではないかと思います。

法律(民法)上は、売買契約や賃貸契約は当事者の合意によって成立するとされているので、不動産の売買や賃貸契約も、「契約書」がなくても成立します。

ただ、そうは言っても、不動産取引のように高額で、しかも内容が複雑な契約を口約束でおこなってしまったら、後日「言った」「言わない」「説明したはずだ」「聞いてない」のように、トラブルになる危険性が高いので、通常は「契約書」を交わします。

もしも「契約書」を交わさなかったとしても、宅建業者は、契約内容を記載した「書面」(宅建業法の37条に規定があるので、「37条書面」と呼ばれます。)を当事者双方に交付しなければならないことになっています。

宅建業者は、その書面(一般的には、「契約書」に、「37条書面」に記載しなければいけないことを全部記載して、「契約書兼37条書面」とすることが多いようです)を作成して、これに、宅建士をして、記名させなければならないと決められています。

(余談ながら、私が勉強した時は、重要事項説明書も37条書面も、宅建士の「記名押印」が必要とされていたのですが、デジタル改革の一環として宅建業法が改正され、2022年5月から押印は不要となり、「記名」だけになりました。
こういうことがあるので、教材は最新のものを使った方が良いです。)

 

 

「宅建」を選んだ理由

 

ここまでをまとめると、「宅建」は

・不動産業者で働いている人
・仕事で不動産取引をおこなう人
(例えば、各地の不動産を買ったり借りたりして新規出店する外食産業チェーンなど)

のための資格と言えそうです。

 

そうだとすると、

法律事務所で働いていながら、どうしてこの資格を取得しようと思ったの?
何かの役に立つの?

と聞かれるかもしれません。
その答えは、試験科目を見て決めました、となるでしょうか。

 

宅建の試験内容は、宅建業法施行規則で、7項目規定されているのですが、
ものすごく大雑把にまとめてしまうと、

① 宅建業法
② 民法等の、不動産の権利関係の部分
③ その他の法令の、不動産に関する制限(売買するときは届出が必要とか)や不動産に関する税制の部分

となるかと思います。

 

現在までのところ、弊所において、
①③の宅建業法に関する業務等には、ほぼ従事したことがないのですが
(一度だけ、不動産を購入したクライアントさんから、クーリングオフが可能かどうか調べてほしいとのご依頼があり、条文等を調べたことがあるくらいです)

②の民法等(借地借家法などの特別法も含むため、「等」としています)の権利関係についての条文には、業務で、日常的に触れています。

そこで、②について勉強することで、民法的な考え方が身に付いて、日常業務にも役立つのでは?と期待して、チャレンジすることにしたのでした。

(その他、難易度等の関係もありますが。
ほかに弊所の業務に関係しそうな資格で思いつくものといったら、司法書士とか社会保険労務士とか、超難関資格しか見付けられなかったので・・・。
ちなみに、令和4年の宅建試験結果は、試験団体の発表によりますと、
申込者数283,856人
合格者数38,525人
合格率17.0%
だそうです。まあまあ、何とかなるかも、と思える数字ですよね。)

 

◇ ◇ ◇

 

というわけで、
今回は「宅建」って何?というところについて、ざっくりお話しました。

次回は、宅建試験に向けてこんなことをやりました、実際の試験はこんな感じでした、というところをお話したいと思います。

では。

 

(参照:一般財団法人不動産適性取引推進機構HP

法律で読み解く百人一首 1首目

自分には解決出来ず、長い間頭を悩ませている問題を
他の人が、あっさり解決してくれた時。
爽快な気持ちになったという経験は、誰にでも一度はあることでしょう。

自分が得意とすることが、他の人にとっては不得意であったり、
また逆に、自分には出来ないことが、他の人にはいとも簡単に出来てしまったり。

人にはそれぞれ、得手不得手があります。
しかしそれもまた、個性の一つと言えるのではないでしょうか。

直面する問題が、自分の人生を左右するものであった場合、自分の代わりにあの人が解決してくれたら、どんなに楽だろう、、と感じることもありますが、時と場合によっては、これが問題になることも。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

「秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ

                 わが衣手は  露にぬれつつ」  

天智天皇

「あきのたの かりほのいほの とまをあらみ 

                    わがころもでは つゆにぬれつつ」

                   てんぢてんのう (てんじてんのう)

 

小倉百人一首 100首のうち1首目。
飛鳥時代(592年 – 710年)の天皇・天智天皇の歌となります。

 

歌の意味

 

「秋の田の側に作った仮小屋に泊まったところ、屋根を吹いた苫の目が粗いので、その隙間から、冷たい夜露が忍び込んできて、私の着物の袖をすっかり濡らしてしまっているなぁ」

かりほの庵(仮庵):農作業のための粗末な仮小屋のこと。
秋の刈入れの際には、刈入れた稲が獣に荒らされないよう、ここに泊まって番をすることがありました。

苫:藁(わら)やイグサ等で編んだ「莚(むしろ)」のこと。
寂しさや、侘(わび)しさ、貧しさ等を連想させる語として、歌では多く用いられています。

小倉百人一首100首のうち1首目としても有名なこの歌。
天智天皇といえば、誰もが一度はその名を聞いたことがあるのではないでしょうか。

小倉百人一首の歌番号(和歌番号)とは、実は、歌の詠まれた年代順(古い歌人から新しい歌人の順)に付されており、1首目の天智天皇(626-672)から100首目の順徳院(順徳天皇・1197-1242)まで、およそ550年間にも及びます。 

それ故、本日ご紹介する歌の作者、天智天皇とは、百人一首の登場人物の中では、最も古い時代の歌人となります。

 

作者について

 

天智天皇(てんじてんのう・626-672)

日本の第38代天皇であり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・なかのおおえのみこ)としても知られています。

43歳で即位し、その在位は10年に及びました。
斉明天皇を母とし、藤原鎌足(中臣鎌足)と共に豪族・蘇我氏を討ち、大化の改新をおこなったことで有名です。

「大化の改新」とは、645年に始まった日本の国政改革。

私有地の廃止、統一的な税制の実施等、中央集権的支配体制の形成を目指したもので、従来の豪族中心であった政治から、大化の改新を境に、天皇中心の政治が始まりました。
そしてここから、「日本」と言う国号、「天皇」という称号、そして日本の最初の元号である「大化」が始まったとされており(それ以前は「天智天皇●年」のように、元号として天皇の名前が付されていました。)、日本の歴史が大きく動き出した転換点といわれています。

天智天皇は、このような偉業を成し遂げた人物であることから、時を経て、百人一首が作られた平安時代においても、日本の基礎を築いた偉大なる天皇として、なお絶大な人気があったようです。

加えて、天智天皇は「万葉集」や「日本書紀」などにもその歌が記されるなど、才能豊かな歌人でもありました。


ところで。

百人一首の歌には、四季が織り込まれていますが、本日の歌に詠まれている季節は、文字通り「秋」となります。
実は、百人一首で詠まれている季節の中では秋が最も多く、その数は16首。
侘び寂びを大切に思う日本人の感性には、もしかしたら秋の持つイメージが一番合うのかもしれません。

「秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ わが衣手は  露にぬれつつ」

改めてこちらの歌を詠んでみると、
周りを田に囲まれ、四方から隙間風が吹き込むほどの、荒れ果てた仮小屋の中心に、衣を冷たい夜露で濡らし、天皇ともあろう高貴なお方が、一人でおられるお姿が目に浮かびます。

あまりにも有名な歌ながら、なんと寂寥感の漂う歌でしょうか。
これは、本当にあの天智天皇が詠んだ歌?
天皇という高貴な身分の方に、この歌のイメージが全くそぐわない。。

というのも、実はこちらの歌
本当の歌人(作者)は天智天皇ではない、というのが通説とされているようです。

ということは、誰かが「天智天皇」になりすまして詠んだ、ということでしょうか?

そこで…

 

 

私文書偽造と事実証明に関する文書

 

「他人になりすます」と言って思い浮かぶことのひとつに、
いわゆる「替え玉受験」があります。

「替え玉受験」とは、大学入学選抜試験において、別の人物が受験者本人に成りすまして試験を受けるというもの。
つまり、入学試験において、受験者本人名義の試験の答案を、別の人物が本人に成り代わって作成し、それを本人が作成したものとして提出する行為とされています。

 

この「替え玉受験」は、受験者本人と、別の人物である答案作成者双方の合意の上でなされる行為であるところ、本人の承諾を得た上で、別の人物が答案を作成したとしても、文書偽造に当たるのでしょうか。

受験者の代わりに、「替え玉」受験生が答案を作成して、受験者のものとして提出したことが、有印私文書偽造、同行使に該当するか否かが争われ、この入学選抜試験の答案が、刑法159条1項にいう「事実証明に関する文書」に当たるかどうかが問題となった事件があります(最三小決平成6年11月29日)。

(私文書偽造等)
刑法159条1項
「行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、3月以上5年以下の懲役に処する。」

 

この事件で、最高裁は

「本件入学選抜試験の答案は、試験問題に対し、志願者が正解と判断した内容を所定の用紙の解答欄に記載する文書であり、それ自体で志願者の学力が明らかになるものではないが、それが採点されて、その結果が志願者学力を示す資料となり、これを基に合否の判定が行われ、合格の判定を受けた志願者が入学を許可されるのであるから、志願者の学力の証明に関するものであって、「社会生活に交渉を有する事項」を証明する文書(最高裁昭和33年9月16日)に当たると解するのが相当である。したがって、本件答案が刑法159条1項にいう事実証明に関する文書に当たる」

と判断しました。

大学入学選抜試験の答案は、受験者の学力の証明に関する文書であって、
いわば受験者本人であることを証明するもの。

入学試験の結果は、その時の、受験者本人自身の学力を示す資料であり、答案の作成者は本人であることが前提とされていることから、本人以外の作成は認められておらず、「社会生活に交渉を有する事項」を証明する文書に当たります。
これはすなわち、刑法159条1項にいう「事実証明に関する文書」に当たるとされ、例え本人から承諾を得たとしても、他人が本人になりすまして作成した入学選抜試験の答案は偽造された文書となり、「替え玉受験」は私文書偽造罪に当たるとされたのです。

 

◇ ◇ ◇ 

 

本日の歌
「秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ わが衣手は  露にぬれつつ」

本来は万葉集の「詠み人知らず」の歌であったものが、天智天皇の歌とされたのは
「天智天皇は、貧しさに苦しむ庶民の姿と、ご自分のお姿を重ね合わせ、庶民と苦しみを分かち合ってくださっている、、」
というお話が伝わるうちに、いつしか、この歌は実際に天智天皇が詠まれた歌であるとの噂が広まったからだと言われています。

また一説には、天智天皇が御所の庭を散歩されていたところ、庭の草花にかかる露をご覧になり、「この夜露では、さぞかし庶民もつらい思いをしているだろう」と、庶民に思いを馳せられ、天智天皇自らこの歌を詠まれたのだとも伝えられています。

 

素晴らしい歌とは、時代を超えて、人々の心に響くもの。

「詠み人知らず」である一庶民が、もし、天智天皇の承諾を得た上で、天智天皇の歌としてこの歌を世に出したのだとしたら。。

そんな想像をしてみるのも、また歴史の楽しさのひとつかもしれません。

 

  文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

六法全書クロニクル~改正史記~平成7年版

平成7年版六法全書

 

この年の六法全書に新収録された法令に、
製造物責任法(平成6年法律第85号。通称:PL法)
があります。

「製造物」の「欠陥」が原因で損害を被った場合に
被害者が「製造業者等」に対して損害賠償を求めることができる
ことを規定した法律です。

損害賠償を求めようとする場合、一般的には
民法709条(不法行為による損害賠償)の規定

故意又は過失によって
他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、
これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

によることになるのですが、

この場合、被害者(ユーザー)は、加害者(メーカー等)に故意・過失があったことを証明しなければなりません。

しかし、専門知識のない消費者が、故意・過失を証明することは、困難です。

そこで、損害賠償責任を追及しやすくするために、
「製造業者等に過失(主観的要件)があったこと」ではなく、
「製造物に欠陥(客観的要件)があったこと」を証明すれば、
損賠賠償を認めることとしたのが、PL法です。

 

もう少し具体的に言うと、
「メーカーの設計や製造過程にミス(過失)があって、損害が生じた」
ことを証明しようとした場合、

メーカー側が
「自分たちは十分に注意して作っていた、結果的に損害が生じたとしても、自分たちのせいではない」と言い張ると、

被害者側としては、
「メーカーが十分注意していなかった証拠」を提出しなければならないのです。

しかし、「注意していなかった証拠」と言われても、難しいですよね…
(工場で製造過程をずっと見張っていた訳でもないですし。)

一方、「製品に欠陥があったこと」の証明であれば、実際にその製品を示して
ここに突起がある、
だから刺さってケガをしたんだ、
などと欠陥(安全性を欠いていること)を証明しやすいと思いませんか?

そのような方法で、消費者側の保護を図っているのです。

先ほどもお伝えしたとおり、この法律の対象となるのは「製造物」の「欠陥」が原因で損害を被った場合で、損害賠償の相手方となるのは「製造業者等」ですが、
「製造物」とは、「製造又は加工された動産」のことで、不動産や電気、ソフトウェア、未加工の農林水産物は対象となりません。

「欠陥」とは、「通常有すべき安全性を欠いていること」で、
いろいろな事情を総合的に考慮して判断されます。


さて、「欠陥」の分類の一つに「指示・警告上の欠陥」という類型があります。
製造物から取り除くことが不可能な危険がある場合に、その危険に関する適切な情報を与えなかったときなどがこれに当たるとされています。
例えば、取扱説明書の記述に不備がある場合などが該当します。

PL法施行以降、例えば製品を包んでいるビニール袋に
「被らないでください。窒息のおそれがあります。」などと、
どうしてこんな注意書きが?
普通、そんなことはしないのでは?
と不思議に思うような注意書きが書かれているのを、よく見かけるようになりました。

あれは、この「指示・警告上の欠陥」をなくそうとしているせいなのですね。

しかし、あまりにもたくさん注意書きが書いてあると、かえって読むのが困難になったり面倒くさくなったりして、事故につながってしまうような気さえします。

製造者側としても、訴訟リスクを考えると、記載せざるを得ないのでしょうが…
本当に必要な注意がきちんと消費者に届くよう、そこにも注意を払っていただきたいものです。

 

◇ ◇ ◇

 

改正された法令として収録されたものとして、
商法(明治32年法律第48号)
があります。
(平成6年法律第66号「商法及び有限会社法の一部を改正する法律」による改正) 

この時の改正の目玉は「自己株式取得の緩和」でした。

株式会社は、自分が発行した株式を取得し、所有することができます。
これを「自己株式」というのですが、実はこの平成6年改正より前、日本の商法はごく例外的な場合(合併のときなど)を除き、原則として自己株式の取得を禁止していました。

というのも、自己株式の取得を認めれば以下のデメリットがある
と考えられていたからでした。

①「資本維持の原則(※)」に反するおそれがある
(※:株式会社を立ち上げる時、出資を募って資本金を集めますが、この集めたお金を、別のことに使ってしまわず、会社に維持しておかなければならないという原則)

②相場操縦やインサイダー取引に利用されるおそれがある

③「株主平等の原則」に反するおそれがある
(特定の株主からだけ自社株を買うと、それ以外の株主との関係で不公平になることもある)

④経営者が、会社のお金で自己株式を買って多数派工作をおこなうなどの、不正に使われるおそれがある

他方、経営側の立場からは、弾力的な企業経営のために自己株式の取得を認めてほしい、という要求がかねてからなされていました。

ごく単純化すると、自己株式の取得には、

会社が自己株式を買う
 ↓
市場に出回るその会社の株式の数が、その分少なくなる
 ↓
計算上、その会社の1株当たりの利益が増える
(自己株式には利益が配当されないため、計算から除外される。割る数が小さくなるので、利益の額が変わらなくても、計算結果(商)は大きくなる。)
 ↓
「会社の業績が良くなった」ように見えるので、株式市場で、その会社の株価が上がる

というメリットもあるのです。

先ほども述べたとおり、日本の商法はこのうちデメリットの方を重く見て、自己株式の取得をほとんど認めてきませんでした。
しかし、1990年代にバブル崩壊によって急激に株価が下がったことなどもあって、株式市場活性化の観点から、取得を緩和する方向に舵がきられたのでした。

 

平成6年の改正では、自己株式の取得・保有について、原則的には禁止を維持しながら、例外的に取得できる事由を、新たに4つ追加しました。

1. 使用人(従業員)に譲渡するための取得
2. 消却(株式を消滅させること)目的の取得
3. 閉鎖会社(その株式が市場で流通しない会社)の自己株式消却の特例
4. 有限会社の自己持分の取得

このうち、特に注目を集めたのは、1.と2.でした。
1.は従業員持株制度を後押しするためのもの、
2.は先ほどメリットの点で説明した、株式の数を減らし、1株当たりの利益を上げるためのものです。

ただ、
1.では、保有期間を6か月に限定
2.では、株主総会決議が必要とされた
などの制限がかけられていたことから、これら制度の利用は限定的なものにとどまりました。

そのため、その後も
・平成9年のストックオプション制度導入
・平成13年の金庫株(自己株式を消却せずに金庫にしまっておき、株価が上がったらまた市場に放出する)の解禁
などの改正が重ねられることとなりました。

しかし、そうではあっても、この平成6年商法改正は、それまで厳格な姿勢を崩そうとしなかった商法が初めて経営側に歩み寄った、画期的な改正であったと評価されています。

日常的に株取引をされている方には常識なのかもしれませんが、そうでない方にとって、“会社が自分の株を買う”というのは、あまり馴染みのない事象ではないでしょうか。
“自分で自分に出資する”なんて、(言葉が適切かどうか分からないのですが)なんだかマッチポンプ?のような印象を受けます。

今も一定の規制は残っているようですが、これまでお伝えしたように、ある程度会社の利益を多く見せる、といった操作もできてしまうようです。
そんなことができるのを知らないと、やけどすることにもなりかねません。

生活していく上で、法律の知識って大切なんだな、と思います。

法律で読み解く百人一首 68首目

いつ終息を迎えるともわからないコロナ禍の現在。今ほど健康に関する意識が高まっている時代はないでしょう。

ひとたびメディアで、ある商品が「免疫力を高める」、「健康に良い」、「●●の症状に効果がある」等「健康」に結びつくとの紹介がなされれば、その商品は瞬く間に店頭から消えてしまう、という現象が起こることも珍しくありません。

「健康」にまつわる商品やサービスが巷に溢れかえっている現代社会においては、私たち消費者としては、何を信頼し、また何を基準にして選択すれば良いか、というのが一番難しいところではないでしょうか。

商品も情報も溢れている状況の中で、優れたキャッチコピーとは、いつの時代も私たちの心を惹きつけるものです。

商品やサービスがどのようなものか、詳しくは知らなくても、魅力的なキャッチコピーだけでつい目が留まり、心が動いてしまうことはないでしょうか?

とはいえ、そのキャッチコピーは、果たして正確か否か、というのはまた別の問題となりますが。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

「心にも あらでうき世に ながらへば

                 恋しかるべき 夜半の月かな」

三 条 院

「こころにも あらでうきよに ながらへば

                    こひしかるべき よはのつきかな」

                             さんじょういん

 

 

小倉百人一首 100首のうち68首目。
平安時代の天皇・三条院(三条天皇)の歌となります。

 

 

歌の意味

「(望みのないこの世ではあるけれど)心ならずも、この辛い浮き世を生き長らえたならば、きっと、この宮中で見た夜の月が、恋しく思 い出されることであろうなぁ。」

心にも あらず:本心ではないけれど
うき世にながらへば:浮き世・憂き世・現世(=儚い世、辛い世)を生きながらえたならば

この歌は、眼病を患っていた三条院の病状が悪化しつつある中
譲位の決意を固めたところ、宮中にて、明るい月の光を目にして詠んだ歌です。

この歌が詠まれた裏にあったものは、美しい月の光とは対称的な、三条院の心の深い闇。闇が深いほど、光はより美しく輝くものかもしれません。

その生涯を紐解いてみると、三条院にとって、現世を生きることがいかに辛かったかが伝わってきます。

 

作者について

 

三条院(さんじょういん・976-1017)

冷泉天皇(れいぜいてんのう)の第2皇子・居貞(いやさだ)親王であり、日本の第67代天皇(在位:1011年7月16日- 1016年3月10日)です。

母は藤原兼家の長女・贈皇太后超子。
その母をわずか7歳で失い、父帝・冷泉上皇は精神病を患っているという境遇で育ち、後見が薄弱でした。
986年7月16日、11歳で皇太子となったものの、25年後の1011年、36歳にてようやく即位することとなります。

やっとのことで即位したのも束の間、3年後の1014年に三条院は眼病を患います。
伝えられるところによると、これは「仙丹」の服用直後のことといわれています。


三条院が服用したこの「仙丹」とは、中国において古代より、服用すると不老不死となり、ついには仙人になれるといわれた霊薬です。
錬丹術という、中国の道教の術によるものですが、原材料には毒物の硫化水銀・硫化砒素が大量に含まれており、実際は人体に有害でした。

古代より、水銀は不老不死や美容などに効果があると妄信されていたことから、秦の始皇帝は永遠の命を求め、水銀入りの薬や食べ物を摂取していたことによって、逆に命を落としたとも言われており、他にも多数の権力者が、同様に水銀中毒で死亡したと伝わっています。

眼病を患った三条院に対し、時の権力者・藤原道長は、その眼病を理由に譲位を迫りますが、実際は、眼病が理由なのではなく、前天皇の一条院と自分の娘・彰子(しょうし)との間にできた皇子を即位させ、自分は摂政として政権を掌握するためであった、というのが裏の理由と言われています。

道長による圧力や権力闘争に疲れ果てた三条院は、眼病が悪化し失明寸前となり、ついに退位を決意します。

そのときに詠んだのが、この歌でした。


もともと病弱であったためか、心身ともに疲れ果ててしまった三条院。
在位わずか6年で、道長が勧めるまま、後一条天皇に譲位し(実際は皇位を奪われた状態)、その翌年、1017年に出家し42歳で崩御してしまいました。

短い在位の間に、眼病、病状が悪化する中、道長からの絶え間ない退位の圧力に加え、内裏が2度も焼失するなど、苦難に満ちた生涯でした。

「不老不死」との効果があるとのことで「仙丹」を服用したことで、眼病となり、
失明寸前まで病状が悪化した挙げ句に、それを口実として天皇の座を奪われる。。

というのも、三条院はたびたび物の怪や天狗に襲われているとのことで、患っていた眼病は、三条院に深い恨みのある僧侶が物の怪になってとりついたせいだとの噂も流れていた、とのこと。

実際のところはどうなのでしょうか。。

 

 

 

表現の自由と広告の制限

 

さて・・・

古代では、「不老不死」とのキャッチコピーで、時の権力者たちが「仙丹」を服用したように、現代では、「健康」に関する様々な情報を選択する際、どのような「効能」があるかを、判断基準の一つとすることもあるのではないでしょうか。

ところが、この「効能」についての広告に関して
憲法21条の「表現の自由」を侵害するか否か
について争われた事例があります。(最判昭和36年2月15日

 

きゅう業を営む男性が、きゅうの適応症であるとした「神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等」の病名を記載したビラを、各所に配布した行為は、あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法第7条に違反するとして、起訴されました。

男性はこれに対し、

あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(それぞれの資格の頭文字を取り、「あはき法」との通称があります。)7条及び柔道整復師法24条による広告の禁止は、憲法21条により保障される、表現の自由を侵害するものである、として争いました。

(憲法)
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

(あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(通称:あはき法))
第7条 あん摩業、マツサージ業、指圧業、はり業若しくはきゆう業又はこれらの施術所に関しては、何人も、いかなる方法によるを問わず、左に掲げる事項以外の事項について、広告をしてはならない。
1 施術者である旨並びに施術者の氏名及び住所
2 第一条に規定する業務の種類
3 施術所の名称、電話番号及び所在の場所を表示する事項
4 施術日又は施術時間
5 その他厚生労働大臣が指定する事項

(柔道整復師法)
第24条 柔道整復の業務又は施術所に関しては、何人も、文書その他いかなる方法によるを問わず、次に掲げる事項を除くほか、広告をしてはならない。
1 柔道整復師である旨並びにその氏名及び住所
2 施術所の名称、電話番号及び所在の場所を表示する事項
3 施術日又は施術時間
4 その他厚生労働大臣が指定する事項

あはき法7条及び柔道整復師法24条による広告の禁止は、憲法21条により保障される表現の自由を害するか否かにつき、裁判所は

「そして本件につき原審の適法に認定した事実は、被告人はきゆう業を営む者であるところその業に関しきゆうの適応症であるとした神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等の病名を記載したビラ約7030枚を判示各所に配布したというのであつて、その記載内容が前記列挙事項に当らないことは明らかであるから、右にいわゆる適応症の記載が被告人の技能を広告したものと認められるかどうか、またきゆうが実際に右病気に効果があるかどうかに拘らず、被告人の右所為は、同条に違反するものといわなければならない。」

「しかし本法があん摩、はり、きゆう等の業務又は施術所に関し前記のような制限を設け、いわゆる適応症の広告をも許さないゆえんのものは、もしこれを無制限に許容するときは、患者を吸引しようとするためややもすれば虚偽誇大に流れ、一般大衆を惑わす虞があり、その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来することをおそれたためであつて、このような弊害を未然に防止するため一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するためやむをえない措置として是認されなければならない」

と判示し、この広告の規制につき

「広告の制限をしても、これがため思想及び良心の自由を害するものではないし、また右広告の制限が公共の福祉のために設けられたものである」

として、当該広告を禁止することは、「憲法21条には違反しない」と判断しました。

 

きゅうの適応症として病名を記載したビラを配布するという行為につき、適応症として、病名等を記載することで、一般大衆に誤った期待を与えるおそれがあり、「国民の保健衛生上の見地から」「公共の福祉を維持するため」、虚偽または誇大広告の可能性があることから、違法であるとされたのです。

この判例では、広告を無制限に許容すると、患者を呼び込むため、虚偽誇大に流れてしまい、それにより一般大衆を惑わすおそれがあり、その結果として、適時適切な医療を受ける機会を逸する結果となることを避けるため、としており、このような事態を未然に防止するためには、一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するため止むを得ない措置として是認されなければならないとされました。

ちなみに、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師になるためには、あはき法において

第1条 医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業としようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許(以下免許という。)を受けなければならない。
第2条 免許は、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第九十条第一項の規定により大学に入学することのできる者(この項の規定により文部科学大臣の認定した学校が大学である場合において、当該大学が同条第二項の規定により当該大学に入学させた者を含む。)で、三年以上、文部科学省令・厚生労働省令で定める基準に適合するものとして、文部科学大臣の認定した学校又は次の各号に掲げる者の認定した当該各号に定める養成施設において解剖学、生理学、病理学、衛生学その他あん摩マツサージ指圧師、はり師又はきゆう師となるのに必要な知識及び技能を修得したものであつて、厚生労働大臣の行うあん摩マツサージ指圧師国家試験、はり師国家試験又はきゆう師国家試験(以下「試験」という。)に合格した者に対して、厚生労働大臣が、これを与える。

と定められていることから、免許制となっており、国家試験を受け、合格し、厚生労働大臣免許を取得しなければなりません。

なお、「あん摩マッサージ指圧師」、「はり師」、「きゆう師」、「鍼灸師」のほか、柔道整復師法で規定される「柔道整復師」は、法的な資格制度のある医業類似行為に分類されています。

 

◇ ◇ ◇

さて…

そもそも、古代より「仙丹は不老不死の霊薬である」とは誰が最初に言い始めたのでしょうか?
唐の皇帝は、何人もが丹薬の害により、命を落としたと言います。
薬と称して、密かに毒を盛り、それにより健康を害すると、物の怪の呪いによるものだとの噂を広める。。
犯人は皇帝の座を狙う者?それとも、、そこは陰謀渦巻く政治の世界。

真実は闇の中、ということでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

六法全書クロニクル~改正史記~平成8年版

平成8年版六法全書

平成8年版六法全書

 

この年の六法全書に新収録された法令に、
サリン等による人身被害の防止に関する法律法
(平成7年法律第78号。通称:サリン防止法)
があります。

サリン防止法は、
サリンの製造、所持等を禁止するとともに、サリン等を発散させる行為についての罰則、及びその発散による被害が発生した場合の措置等を定める法律です。

この法律は、平成6年に起きた松本サリン事件や、平成7年に起きた地下鉄サリン事件をきっかけに制定されました。
この法律が制定される以前には、サリンの製造や所持を直接禁止する法律は存在しませんでした。

一定以上の年代の方は、今でもこれらの事件を鮮烈に記憶されているのではないかと思います。そして、その多くの方は、この時初めて「サリン」という物質の存在を知ったのではないでしょうか。

  

平成8年警察白書によると、松本サリン事件は、世界で初めて、犯罪の手段として「サリン」が使用された事件だそうです。

それまで警察は、化学兵器に用いられるサリンが、犯罪の手段として使用されることを想定していませんでした。そのため、事件発生から数日間、原因物質を解明することができず、事故か犯罪かも判別することができませんでした。
また、原因物質がサリンであることが判明した後も、第一通報者が容疑者であるかのような報道が半ば公然となされるなど、捜査は迷走しました。
結果として、翌年の、同じオウム真理教教徒らによる地下鉄サリン事件の発生を未然に防ぐことができませんでした。

そして起きた地下鉄サリン事件。
営業運転中の地下鉄車両内で、同時多発的にサリンが散布され、乗客・乗務員、係員、さらには被害者の救助に当たった人々にも、死者を含む多数の被害者が出ました。
平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという、当時世界にも類例のないテロリズムであったため、世界的に大きな衝撃を与えたと言われています。

 

この法律は、
サリン等(サリンと、サリン以上か、サリンに準ずる強い毒性を有する物質)の
①製造 ②輸入 ③所持 ④譲り渡し ⑤譲り受け を禁止している(3条)に加えて、
未遂罪や、予備行為や、資金や原材料の提供も、処罰することとしています(5条)。

1条から8条までしかない短い法律なのですが、この法律によって、ざっと、

サリン等発散罪
サリン等発散予備罪
サリン等製造罪
サリン等輸入罪
サリン等所持罪
サリン等譲渡罪
サリン等譲受罪
発散目的サリン等製造罪
発散目的サリン等輸入罪
発散目的サリン等所持罪
発散目的サリン等譲渡罪
発散目的サリン等譲受罪
サリン等製造予備罪
サリン等輸入予備罪
サリン等発散資金等提供罪
サリン等製造資金等提供罪
サリン等輸入資金等提供罪

以上の、17の罪名があるそうです。

ある物質が使われないようにするためには、こんなふうに、細かく規定を作って、
一つ一つ抜け道をふさぐ必要があるのですね。
なんだか、犯罪を犯す側と取り締まる側の、知恵比べのような感じがします。

そういえば、薬物犯罪でも
法律によってある薬物を規制すると、その薬物そのものではないが、類似した構造や作用を持つ新たな薬物が登場する、いたちごっこのようなことが繰り返されている、と聞いたことがあります。

近年では、インターネットの普及で、かつては一般人が入手できなかったような物質や知識を手に入れることが容易になりました。
そのため、ごく普通の顔をした一般市民でも、危険なものを製造することができてしまったりもするようです。

かといって、規制の網を広げてぎゅうぎゅう制限すればいいというものではなく、個人や企業の活動を制限し過ぎることも、また、あってはならないことです。

こうした事態に対応していくためには、私たちの側も
今、どんな危険があるのか、
どうしたら身を守れるのか、
インターネットやその他の最新の利器を使って、知識を蓄え、備えておかなければならないのかもしれません。

◇ ◇ ◇

改正された法令として収録されたものとして、
精神保健及び精神障害者福祉に関する法律
(昭和25年法律第123号。通称:精神保健福祉法)
があります。

かつて、日本では、精神疾患の治療はそのほとんどが加持祈祷などに頼ったものだったといいます。
明治8年になって、我が国に初めて精神病院が設置されましたが、その後も精神病院の建設はなかなか進みませんでした。
第二次世界大戦後の昭和25年に「精神衛生法」が制定されても、病床数は諸外国と比べて少ないままでした。

このような状況の中、平成5年に「障害者基本法」が制定され、精神障害者がその対象として明確に位置付けられたことを受けて、今回取り上げる改正がおこなわれました。

法律の題名も変わり、法の目的においても「自立と社会参加の促進のための援助」という福祉の要素を盛り込み、福祉施策の充実についても法律上の位置づけが強化されるなど、大きな変更が加えられています。

改正された法律の主な内容は、

①精神保健福祉センター(精神障害に関する相談や知識の普及等を行う)の設置
②地方精神保健福祉審議会・精神医療審査会の設置
③精神保健指定医の指定
④精神科病院の設置、指定病院の指定
⑤医療及び保護(任意入院、措置入院、医療保護入院)
⑥精神科病院における処遇等(入院中の行動制限、処遇の基準制定、定期の報告及び審査、改善命令など)
⑦精神障害者保健福祉手帳
⑧相談指導等(地域住民への啓発、精神保健福祉相談員の設置など)

などです。

おおむね、義務を課されているのは、国や地方公共団体、医療機関なのですが、国民の義務についても規定されているのをご存じでしたでしょうか。

それが以下の条文です。

(国民の義務)
第3条 国民は、精神的健康の保持及び増進に努めるとともに、精神障害者に対する理解を深め、及び精神障害者がその障害を克服して社会復帰をし、自立と社会経済活動への参加をしようとする努力に対し、協力するように努めなければならない。

みなさん、いかがでしょうか。
国民の義務を、果たせているでしょうか。

(自らの反省も含めて)日本では、まだどうしても、同質社会というか、
自分と違うところがある人を受け入れにくい面があり、「精神障害のある方が、ごく普通に社会に受け入れられている」
という状況は達成できていないように思います。

ところで、上記条文について、
「国民は、精神的健康の保持及び増進に努め(なければならない)」とか、
「努力に対し」とか、
なんとなくなのですが、精神障害になるのは自己責任だ、自助努力が第一だ、
というニュアンスを感じてしまい、なんだかなあ、と思ってしまいました。

精神障害になりたくてなっている人は、きっといないと思います。
生まれ持った性質や、環境などのせいで、そうならざるを得なかった人たちに、ちょっと酷ではないか、と感じます。

ただ、そうは言っても、
自分を一番に守れるのはやっぱり自分だし、
自ら社会復帰しようとしない人のお尻を叩いて復帰させようとしても無理、
というのも事実かもしれません。

働き方改革が叫ばれる昨今。
自分にも優しくして自らの精神衛生を守りつつ、周囲の困難を抱えた方を、ごく自然な形で受け入れ、手助けできる社会になれば、本当に素敵だなと思います。