法律で読み解く百人一首 9首目

改元から早くも5年以上が経過しました。

令和に入ってから、特に「価値観」というものを考える機会が多くなったように思います。
人種や性別、環境についてなど、その視点は様々。
自分にとって心地の良い回答を探そうにも、ソースが多いからこそ、情報の選択も難しくなってきていると感じる今日この頃です。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「花の色は 移りにけりな いたづらに

我が身世にふる ながめせしまに」  

小野小町


「はなのいろは うつりにけりな いたづらに

わがみよにふる ながめせしまに」

おののこまち

 

 

小倉百人一首 100首のうち9首目。
平安時代前期の歌人・小野小町の歌となります。

 

歌の意味

 

(桜の)花の色は、春の長雨が降っている間にむなしく衰え色あせてしまいました。
ちょうど私の容姿も衰えてしまいました。恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。

  

花の色
古典における「花」は「桜」の意(または様々な春の花)。
「花の色」は女性の若さや美しさも暗示する。

うつりにけりな
ここでは「花」に対して「色あせる、衰える」ことを指す。
「な」は詠嘆の終助詞。この場合は「~してしまったなあ」と訳す。

いたづらに
形容動詞「いたづらなり」の連用形。「むなしく」「無駄に」という意味。

世にふる
それぞれ、
世 :「世代」と「男女の仲」
ふる:「降る」と「経る(=時間が過ぎる)」
のように、2つの意味がかけられており、
「降り続く雨」と「年を重ねていく私」という2重の意味になる。

ながめせしまに
「ながめ」は「長雨」と「眺め(=物思い)」の掛詞。
つまり「長雨で物思いにふけっている間に」の意。
「我身世にふる」へ続く倒置法になっている。

 

 

作者について

 

小野小町(おののこまち・生没年未詳)

平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に数えられています。
生没年は不詳ですが、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族「小野氏」の一族とされています(小野妹子、でピンとくる方もいるのではないでしょうか)。
平安時代初期の公卿である小野篁の娘とする説、あるいはその息子・小野良真の娘とする説などがあります。

また、「小町」は本名ではなく「町」の字があてられていることから、後宮に仕える女性であったと考えられています。

歌人としては、在原業平や文屋康秀、良岑宗貞との贈答歌も多く残っており、また、『小町集』という歌集も伝わっています。

その歌風は情熱的な恋愛感情が反映されており、恋多き女性であったとか。

有名な逸話としては、深草少将の「百夜通い伝説」があります。
深草少将からの求愛に困っていた小野小町は、諦めさせようと「私のもとに100日通ったら、その時は想いに応えましょう」と告げます。毎日通い続ける深草少将に、小野小町も少しずつ心惹かれていたところ、99日目の夜、深草少将はその道中で亡くなってしまうという、何とも切ない内容です。

 

 

私的団体における女性差別

 

さて・・・

平安は、現在よりも人の寿命が短い時代。
諸説あるものの、その平均寿命は男性が50歳、女性が40歳であったと言われています。
また早婚であったことから、一般的な結婚適齢期は、男性が17~18歳前後、女性が13歳ほどとされていました。

さらに、日本において男女差別が始まったのは平安時代からなのだそうです。
社会制度の変化などから、表面的には男女における役割が分かれはじめ、男女差別の意識が生まれ始めたとのこと。

このような事情を考えると、年齢を重ねていくことを悲観して歌を詠む小野小町の気持ちも分かるような気がいたします。

 

性別による不平等は今日でも多くの課題が残るテーマですが、企業における男女別の定年制に関して裁判で争われた事例があります。

 

原告はA社に勤める女性従業員。ある日、A社はY社に吸収合併されました。

合併前、A社は従業員の定年を男女共に55歳と定めていたところ、Y社では男性が55歳、女性が50歳と定められており、合併後にY社の就業規則が採用されたことによって、Xは満50歳のタイミングで退職を命じられました。
これに対し、Xは従業員である地位の確認を求める仮処分申請を起こしたところ、一審・二審ともに請求棄却。
そのためXは、就業規則中、女子の定年年齢を男子より低く定めた部分につき、性別で定年年齢が異なることは不合理な差別であるとして提訴。すると、一審・二審ともに男女別定年制が違法であると認められました。

これに対し、被告Y社は憲法14条、民法90条の解釈が誤っていると主張し、上告審に至ることとなりました(最判昭和26年3月24日)。

日本国憲法14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

民法90条 公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。

 

被告Y社は、女性の定年を男性より引き下げることの合理性の根拠として、

・女性の担当業務は補助的業務に限られ、労働の質量とも向上がなくなり、賃金と労働の不均衡を生ずること

・女子は50歳になれば労働能力の減退が著しく従業員として不適格となること

などを主張しました(判タ440号53頁参照)。

しかし、憲法14条の平等権に即し、民法90条の公序良俗の規定に反しているとされ無効とされました。
最高裁は次のとおり判断しています。

女子従業員の担当職務は相当広範囲にわたつていて、従業員の努力と上告会社の活用策いかんによつては貢献度を上げうる職種が数多く含まれており、女子従業員各個人の能力等の評価を離れて、その全体を上告会社に対する貢献度の上がらない従業員と断定する根拠はないこと、しかも、女子従業員について労働の質量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡が生じていると認めるべき根拠はないこと、少なくとも60歳前後までは、男女とも通常の職務であれば企業経営上要求される職務遂行能力に欠けるところはなく、各個人の労働能力の差異に応じた取扱がされるのは格別、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はないことなど、上告会社の企業経営上の観点から定年年齢において女子を差別しなければならない合理的理由は認められない

 

上告会社の就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、専ら女子であることのみを理由として差別したことに帰着するものであり、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法90条の規定により無効であると解するのが相当である

 

女子従業員個人の担当職種や労働能力の評価等の事情を考慮すれば、性別によってのみ定年年齢に格差を設けることは合理性がなく、差別に当たるとされました。

そして、上告を棄却する判決がなされたのです。

その後、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(通称:男女雇用機会均等法)により、性別により異なる定年制を導入することを禁止する旨が定められることとなりました。

 

◇ ◇ ◇

  

本日の歌
「花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」

自分の若さ、美しさが衰えていくこと、その儚さを歌に落とし込んだ小野小町。

日本では「世界三大美人」に数えられているイメージから、
「どれほど美しい女性だったのか」とその姿を想像する方も多いでしょう。

 

しかし、美しさの基準は時代によっても異なるもの。

平安時代、「容姿」という点でいうと
・切れ長で細い目
・きめの細かい白い肌
・小柄でややふくよか
・艶やかで長い髪
・小さな口と鉤鼻
といった特徴が、美人の基準とされていたようです。

また、内面的なところでは、何よりも教養が重要視されていました。
平安の女性における教養とは、主に
和歌(内容+字の美しさ)、管弦(楽器の演奏)でした。


「花の色は…」は、現代人の私たちからみても、技術の高さを感じる歌。
小野小町の祖父(あるいは父)とされる小野篁ですが、実は彼も「花の色は」で始まる歌を詠んでいます。
(ちなみに、小野篁は11首目の作者である「参議篁」です)

花の色は 雪にまじりて 見えずとも かおだににほへ 人のしるべく

((梅の)花の色が雪に紛れて見えないとしても、香りだけでも漂わせて欲しいものだ。見る人が咲く場所を気付くほどには。)

 

古今和歌集第6巻に収録された歌です。

小野小町がこの歌に思いを馳せていたとしたら・・・?
単に自身の美しさ、若さの衰えを嘆いただけでなく、
一族の衰えを嘆く気持ちを重ねたのかもしれない・・・
そのような想像を掻き立てられる繋がりです。

 

平安貴族の恋愛には和歌が欠かせませんでした。
六歌仙の紅一点であったこと、著名な男性歌人たちとも多く歌を交わしていたことなど、和歌の技術の高さを感じられるポイントを鑑みれば、小野小町がモテる女性であったことも納得というわけです。

 


 

そんな小野小町ですが、多くの能、歌舞伎等の題材にもされており
そうした作品を総称して「小町物」といいます。

内容は大きく2パターンあり、
・和歌の名手として讃えたり、深草少将の百夜通いを題材にしたもの
・年老いて乞食となった小野小町を題材にしたもの
に分かれているようです。

実際の晩年はというと、秋田県湯沢市小野で過ごしたという説、京都市山科区小野で過ごしたという説があります。その他、小野小町のものとされる墓も全国に点在しており、その史跡は数多く存在しているようです。

  

このように、ほとんどの情報がベールに包まれている小野小町。
それにもかかわらず、千年以上の時を超えて歌が親しまれたり、その人生が作品として人々に語り継がれているなんて、本人が知ったらさぞ驚くことでしょう。

もし彼女が現代に生きていたら、昨今のSDGs、ジェンダー論争、ポリコレ等々、一体どのように読み解いていたでしょうか。

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー