法律で読み解く百人一首 91首目

被害者が死亡に至った直接の原因が、加害者によるものではなく
第三者(またはその他の要因)によるものであった場合。

被害者が死亡に至る過程において、
加害者による行為が起因していたとあれば、被害者死亡という事実と
加害者による行為には相当因果関係が認められるのでしょうか?




誰でも一度は経験したことがあるでしょう。
「青天の霹靂」とも言える、想像だにしていない、突然の出来事。

しかし、それが人の命を左右するものだとしたら。。

物ごとには、すべて「原因」と「結果」があり、
この2つは、1本の線で繋がっていると言われています。

点と点を繋げてゆけば、必ず線になるように。

一見、全く無関係のように思われる出来事も、
元を辿れば、必ず「原因」に行き当たります。

それが、例え想定外に起きてしまった「結果」だとしても。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに

               衣かたしき ひとりかも寝む」
                     後京極摂政前太政大臣

「きりぎりす なくやしもよの さむしろに

                 ころもかたしき ひとりかもねむ」

            ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん


小倉百人一首 100首のうち91首目。
平安末期から鎌倉初期にかけての公卿・歌人である
後京極摂政前太政大臣(藤原良経)の歌となります。

 

 

歌の意味

「霜の降るこの寒い夜、こおろぎがしきりに鳴いている。
こんな夜に、筵(むしろ)の上に衣の片袖を敷いて、わたしはたった独り、寂しく寝るのだろうか。。」


この歌にある「きりぎりす」とは、現在の「コオロギ」のこと。
私たちが知っている、現在の「キリギリス」とは異なります。

漢字では「蟋蟀」と書き(「きりぎりす」とも、「こおろぎ」とも読みます。)、平安時代から中世には、秋に鳴く虫のことを指し、秋の季語とされておりました。

それ故、この歌の季節は「秋」となります。

 

さて

平安時代には、男性と女性が一緒に寝る時は、お互いの着物(衣)の袖を敷きあって寝るという習慣がありました。

「衣片敷き(ころもかたしき)」とは、
共に寝る相手(衣を敷き交わす相手)がいないため、自分の衣を敷き、その袖を枕代わりにして、独りで寝ることを意味しています。

 

霜の降る晩秋の寒い夜
むしろ(わらで編んだ粗末な敷物)の上で、
きりぎりすの声を聞きながら、独り寂しく眠る…

想像するだけで、寂しく孤独な様子がひしひしと伝わってまいります。
(「さむしろ」とは「寒い」と「むしろ」を掛けていることからも、
なお一層、寂寥感が募りますね。)

 

しかし、実はこの歌を詠む直前、良経は妻を失っています。

そのような背景を知った上で、改めてこの歌を詠んでみると
先ほどまでとは、また違った印象を受けるのではないでしょうか。

 

 

作者について


後京極摂政前太政大臣
(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん・1169-1206)

彼は、
本名:九条(藤原)良経(くじょう(ふじわら)よしつね)
別名:後京極殿(ごきょうごくどの)
通称:後京極摂政(ごきょうごくせっしょう)
と、いくつもの呼び名を持っています。

政治家としては、内大臣(左大臣・右大臣に次ぐ官職)まで昇りつめるも、
派閥争いに破れて、朝廷から追放されてしまいます。
しかし、その後再び政権に返り咲き、
1204年、ついに官僚の最高位である太政大臣となりました。

ところが、そのわずか2年後、38歳の若さで急死してしまいます。

 

また、良経は歌人としても、新古今和歌集(後鳥羽院の命によって1201年より編纂された勅撰和歌集)の「仮名序」を書いたことで有名です。

「仮名序」とは、「真名序」とともに、新古今和歌集の序文として大変重要な位置づけであり、仮名序を任されるということは、多くの人から尊敬を集める、当時は大変名誉な任務でした。

新古今和歌集は、1205年3月26日に完成しますが…
その翌年、1206年4月16日の深夜、良経に突如死が訪れます。

宮廷内の自邸で一人休んでいるところを、天井から槍で刺し殺されたことから
良経の死は、暗殺によるものだとされています。

政敵か、または
新古今和歌集の「仮名序」の執筆者に選ばれなかった者の逆恨みか、それとも…

 

真実は闇の中、とされておりますが
和歌や漢詩に優れ、とりわけ書においては、のちに「後京極流」との流派ができるほど優れた才能を持っていた良経。

38歳といえば、政治の世界においても、歌の世界においても、まさに絶頂期。

いよいよこれから、、という時の
あまりにも突然で、惜しまれる死となりました。

 

今でこそ、耳にすることも少なくなりましたが、
昔の日本においては、「暗殺」という物騒な事件は、日常の出来事でした。

暗殺の恐怖に怯えながら、戦々恐々として暮らす毎日とは、
どんなものだったでしょうか。。

例えば良経のように、真夜中、暗殺者に襲われた場合…

いつ暗殺されるか知れない、という命の危険を感じながら暮らす日常にあって、
殺害当夜も、危険を察知し、部屋から飛び出したことで、
危うく暗殺という難を逃れたとしても、飛び出したその先に別の危険が待ち受け、
それによって、良経が死に至ったとしたら?

このような場合、暗殺者は、良経の死に関し、
罪に問われることになるのでしょうか?

 

 

被害者の逃走中の事故死と因果関係


さて

現代においても、「生命の危険を感じて逃走する途中で起きた死亡事故」
における因果関係について、争われた事例がありますので、ご紹介いたします。


複数の加害者らに長時間に渡り暴行を加えられた被害者が、加害者らの隙を見て逃走する途中で、高速道路に進入してしまったことで、結果、交通事故により死亡した場合、加害者らの暴行と、被害者の交通事故による死亡との間には、因果関係があるか否か、について争われました。(最決平成15年7月16日

この事件で、加害者6人は、被害者に対し、深夜の公園において、約2時間に渡り激しい暴行を繰り返した後、引き続きマンションの一室で、約45分に渡って断続的に激しい暴行を加え続けました。

その後、極度の恐怖状態にあった被害者は、隙を見て、暴行現場のマンション居室から逃走しました。

逃走を続けること約10分。
被害者は、マンションから約800メートル離れた高速道路に進入してしまい、高速道路上で、走行してきた自動車に轢かれて死亡しました。

加害者らは、被害者の死因は暴行によるものではなく、自動車事故によるものであって、刑法205条には当たらず、自分たちに責任はないと訴えました。

(傷害致死)
刑法205条
「身体を傷害し、よって人を死亡させた者は、3年以上の有期懲役に処する。」

 

これにつき裁判所は、

「被害者が逃走しようとして高速道路に進入したことは、それ自体極めて危険な行為であるというほかないが、被害者は、被告人らから長時間激しくかつ執ような暴行を受け、被告人らに対し極度の恐怖感を抱き、必死に逃走を図る過程で、とっさにそのような行動を選択したものと認められ、その行動が、被告人らの暴行から逃れる方法として、著しく不自然、不相当であったとはいえない。そうすると、被害者が高速道路に進入して死亡したのは、被告人らの暴行に起因するものと評価することができる」

とし、被害者は、加害者ら(被告人ら)の暴行によって死亡したと判断しました。

 

現場からの逃走途中において、高速道路に進入するということは、通常であれば考えられない、極めて危険な行動です。
それにも関わらず、なぜ、加害者の暴行によって被害者は死亡したものと判断されたのでしょうか?

 

判決では、被被害者の行動は

加害者らからの長時間激しく執拗な暴行を受けており、
②その結果として、極度の恐怖を抱き、命の危険を感じて、必死に逃走を図ったもので
③このような、通常ではあり得ない行動をとってしまうという、冷静さを欠いた心理状態おいて、とっさに選択された行動であった

という事情が重視されたようです。

このような場合は、被害者が「高速道路に進入する」という、通常では考えられない行動に出た結果として、交通事故に遭遇し、死に至ったとしても、それは加害者の暴行から生じたものとして、「著しく不自然、不相当であったとはいえない」とされるのですね。

被害者の直接の死因が、加害者らの傷害によるものではなく、交通事故によるものであったとしても、加害者らの行為それ自体が、被害者の心理状況に強度の影響を与えた「原因」により起こった「結果」である、加害者らによる暴行と、被害者の交通事故による死亡との間には相当因果関係がある、とされるところに少し違和感がないこともないですが、深夜の公園で2時間、マンションで45分も暴行を受け続けること自体、通常であれば考えられないことですから、その結果として被害者が高速道路に飛び出すなんてことをしても因果の中に含めてしまっても良いのかもしれません。


さて

本日ご紹介する、こちらの歌

「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む」

寂寥感漂うこちらの歌とは対象的に、良経は、「仮名序」を記した新古今和歌集においては、次のような歌を詠み、華々しい第1首目を飾りました。

 

「み吉野は 山もかすみて 白雪の ふりにし里に 春はきにけり」

(吉野は山も霞んでいる。
ついこの間までは白雪が降っていた里にも、ついに春が来たんだなあ。)

こちらの歌にあるように、まさにこれから春を迎え、
人生を謳歌しようとしていた良経。

 

捉え方によっては、
良経暗殺という「結果」における「原因」とは、ある意味「歌」にあったと言えるかも知れません。

歌とは、嘗ては人の運命を左右するほどの威力を持っていました。
それは、歌が持つ力の恐るべき一面、とも言えるのではないでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 11首目

他人の行為によって、自分に危険が及ぶかもしれないと認識していたにもかかわらず、他人にその行為を許したことで、自らが被害を受けてしまった場合、
例え、それにより死に至る結果となったとしても、その行為を実行したことで、加害者となった人物は、果たして責任を負うのでしょうか?

 


 

「禍福は糾える縄の如し」といわれます。

悲しみもあれば、喜びもあり、それぞれが交互に繰り返されることで、
人生とは奥深く、味わい深いものとなるのではないでしょうか。

とはいうものの、社会においては
時に理不尽としか言いようのない事態が生じることもあるでしょう。

敢えてその状況に身を置かねばならなくなった時、
その事態が、自分の身に危険を及ぼす結果を引き起こすかもしれないとしたら?
そして最悪の場合、死に至る結果となるかもしれないとしたら?

最悪の結果が起こりうることを理解した上でも、
その状況に身を置くことを選択するでしょうか。

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

わたの原  八十島かけて  漕き出でぬと

          人には告げよ  あまのつりぶね 
                        参議篁


わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと
             ひとにはつげよ あまのつりぶね」
                      さんぎたかむら  


小倉百人一首 100首のうち11首目、
平安初期の公卿であり文人、参議篁の歌となります。


 

歌の意味

「この広い大海原(わたのはら・海の原)を、
私が、多くの島々(八十島)を目指して漕ぎ出して行ったと、都にいる親しい人に告げておくれ。釣り船の漁夫よ。」

今回ご紹介する歌のテーマは、百人一首5つのテーマのうち
「羇旅(きりょ)」=旅・旅情の歌。

旅といっても様々。

前途明るい旅もあれば、未来への不安を抱えた旅もあります。
さて、本日の歌は、どちらの旅情を詠んだものでしょうか?

 

 

作者について


参議篁(さんぎたかむら)(802-853)

本名は、小野篁(おののたかむら)。
百人一首においては「参議篁」の名で歌を詠んでいます。

「参議」とは、朝廷の最高機関、太政官の官職のひとつであり、
役人としての官職名。
百人一首においては、このように、本名ではなく官職名が
名前に付けられていることが多くあります。

篁は、歌人としてだけではなく、平安時代の公卿として国政を担っていました。
反骨精神の持ち主であることから「野狂」と称され、
更には、「野相公」、「野宰相」などの異名を持っています。

また、平安初期の篁の身長は、約188cmだったといいますから、
かなり大柄な人物だったようですね。
(ちなみに、現代の男性の平均身長は約170cmだそう。190cm近くとなれば、今でも十分目立ちそうです。)

加えて、文人としても活躍し、
学問においては、漢詩は白居易、書は王羲之と並び称されるほどだったとのこと。
文人としても、素晴らしい才能の持ち主だったことがうかがえます。

 

この時代、日本が力を入れていた外交といえば、遣唐使の派遣。

篁は、承和2年(834年)遣唐使の副使として任ぜられ、
承和3年(836年)、続く承和4年(837年)と、遣唐使として2度唐に渡ろうとするも、いずれも失敗に終わってしまいます。

承和5年(838年)、3度目の渡唐にあたり、遣唐大使である藤原常嗣の乗るはずだった船が、破損していた上に漏水した船であったため、篁が乗るはずであった船と交換させられました。
篁は、これに猛抗議し、乗船を拒否します。

遣唐使一行に加わらなかった上、遣唐使制度を批判する漢詩を発表したことで、嵯峨天皇の怒りを買ってしまいます。
結果、官位剥奪の上、隠岐の島へ流されることとなりました。

2度も渡唐に失敗している上、3度目は壊れた(しかも既に漏水している)船で行け、と言われれれば、この渡唐が失敗するのは、目に見えていますよね。
いくら上からの命令とは言え、命の危険を伴う任務。
誰もが躊躇することでしょう。

しかし、例え無理難題であっても、上からの命令に逆らうなどご法度の時代において、その命令に唯々諾々と従うのではなく、毅然と拒否したところが、篁の「野狂」と称される所以かもしれません。

 

本日ご紹介する、こちらの歌

わたの原  八十島かけて  漕き出でぬと 人には告げよ  あまのつりぶね

これは、篁が嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐の島へ流罪となった際、
難波~隠岐の島の瀬戸内海を通る船旅を思って詠んだ歌。

流罪へと向かう悲しい旅路を
「前途洋々、多くの島々を目指して、大海原へと漕ぎ出して行く旅だ」
と、詠んだ篁。

同じような状況下では、涙に暮れる歌人も多い中、禍をものともしない
篁の気の強さを感じられるような気がいたしますが、いかがでしょうか。

 

隠岐の島は、島根半島の北方約50kmの日本海にある諸島。
現在は島根県隠岐郡に所属しています。
流刑の地として、数々の貴族、政治犯がこの地へ送られ、鎌倉時代、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇も、この地で約19年間を過ごしました。

隠岐に流されても、篁は涙に暮れることなく、なんと島の女性たちと数々の恋を楽しんだというのですから、驚きます(特に阿古那という女性との恋物語は有名で、篁が帰京することになり、悲しい別れとなったとのお話もあります。)。
案外、篁は、流刑生活を楽しんでいたのかもしれません。。

しかし流刑となって2年後、篁はその優秀さを惜しまれ、再び京へと呼び戻されることになりました。
流刑になる前に比べ、更に力を増して帰京した篁。

京では、「この空白の2年間は、きっと閻魔大王と働いていたに違いない」
と、皆が口々に語り継いだとのことですから、その強靭ぶりがうかがえますね。

 

 

危険の引受け

 

さて。

このような、自分の身に危険が降りかかるかもしれない、と分かっていたにも関わらず、それでもあえてその危険に向かって行った場合、
または、誰かの行為が自分の身に危険を及ぼすかもしれない、と思いながらも、あえてそれを許してしまった場合、

それによって生じた結果について、
行為をおこなった者は、果たして罪に問われるのでしょうか。

 

このことについて、刑法では「危険の引受け」という言葉で説明がされます。

危ない行為だなと思いながら、第三者のおこなう行為を引受け、結果として自らが被害を受けた場合、その危ない行為自体は「危険だな」と思っていたものの、それによって生じた結果についてまでは覚悟しているわけではありません。

他人がその行為を実行したことで、自分に危険が生じるということを認識しながら、危険に身を晒したことで、発生した結果につき、その行為を実行した者は、刑法上の責任を負うか否かが問われた事例があります(千葉地判平成7年12月13日、ダートトライアル事件)。

 

事件名からも想像できるように、
この事件はダートトライアル競技の練習中に起こりました。

 

ダートトライアル(Dirt Trial)競技とは、モータースポーツの一種。
未舗装のダート路面(泥濘地、砂利等)のサーキットで走行タイムを競う自動車競技です。(Wikipediaより

ダートトライアルの初心者である男性が、約7年の競技歴を持つコーチを同乗させ、練習走行していたところ、高速ギアでの高速走行中、急な下り坂カーブを曲がりきれず、走行の自由を失い、丸太の防護柵に車両を激突させてしまいます。

そして、この激突により、防護柵の支柱がコーチの胸部を圧迫したことで、
結果として、運転者はコーチを死亡させてしまいました。

この場合、コーチは、運転者が初心者であることを知りながら、それでも初心者の運転する車に乗り、その結果、死亡してしまったとしたら、果たして初心者である運転者は罪に問われなければいけないのでしょうか?

 

(業務上過失致死傷等 ※事件当時)
刑法211条「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。」

 

これについて、裁判所は

「上級者が初心者の運転を指導するために同乗する場合、同乗者は運転者の暴走、転倒等によって自己の生命、身体に重大な損害が生じる危険性についての知識を有しており、技術の向上を目指す運転者が、一定の危険を冒すことを予見していることもある。また、そのような同乗者には、運転者への助言を通じて一定限度でその危険を制御する機会もある。したがって、ダートトライアル競技の危険性についての認識、予見等の事情の下で同乗していた者については、運転者が右予見の範囲内にある運転方法をとることを容認した上で、それに伴う危険を自己の危険として引き受けたとみることができ、右危険が現実化した事態については違法性の阻却を認める根拠がある。もっとも、死亡や重大な傷害についての意識は薄くても、転倒や衝突を予測しているのであれば、死亡等の結果発生の危険をも引き受けたものと認めうる。」

と判断し、運転者は罪を負わない、として無罪判決を言渡しました。

 

同乗していたコーチは、約7年の競技歴を持っていた、いわばベテランコーチ。

それ故、ダートトライアル走行の危険性については、十分な知識を持っており、
未熟な運転者が、技術の向上を目的として練習するにあたり、
自分の技術の限界を超えて暴走したり、時には転倒等の危険を冒す可能性もあることを、予想することができます。

またコーチは、同乗し、運転者へ適格なアドバイスをすることで、
予想し得る危険を逆に回避することもできます。

このように、危険な事態が生じることを予想・認識した上で、それでもコーチとして同乗した場合、それは、コーチがこれを「自己の危険として引き受けた」とみることができ、運転者による転倒や衝突により、たとえ死傷という結果に至ったとしても、運転者の責任は負わないとされたのです。

 

なお、この判決では、

「ダートトライアル競技は既に社会的に定着したモータースポーツであり、本件走行会も車両や走行方法、服装などJAFの定めたルールに準じて行われていたこと、競技に準じた形態でヘルメット着用等をした上で同乗する限り、他のスポーツに比べて格段に危険性が高いものとはいえないこと、スポーツ活動においては、引き受けた危険の中に死亡や重大な傷害が含まれていても、必ずしも相当性を否定することはできない」

として、
運転者の走行の範囲が、競技ルールに準じている必要があることも、必要な条件として示されました。

 

スポーツ競技とは、時に危険を伴うもの。真剣勝負とは、まさに命懸けなのです。

だからこそ、スポーツマンシップに則ったスポーツとは、観戦している
私たちにも感動を与えてくれるのではないでしょうか。

そのため、競技会場の条件や、使用する道具に至るまで、細かなルールが定められており、ルールを遵守した上で起きてしまった事故であれば、止むを得ないとされたのですね。

 

◇ ◇ ◇

 

さて、ここで話は平安時代に戻ります。

篁が、もし、上からの命令に逆らうことなく
危険を承知の上で、破損した船に乗り渡唐した結果、命を落としたとしたら?

渡唐のための手段として、壊れている船を与えられたという時点で
既に「ルール違反」となりますが。。

 

とはいえ、「閻魔大王と一緒に働いていた」との噂をもつ篁のこと。
恐らくは、危険を引き受けた結果、死の淵ヘ立ったとしても、そこから這い上がってきたかもしれません。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー