法律で読み解く百人一首 64首目

「長男」「長女」と聞くと、漠然と
・しっかりしている
・頼りになる
・面倒見が良い
などのイメージを抱く方が多いのではないでしょうか。

これらはステレオタイプにすぎません。

ですが、当事者自身も何気なくそのように自分を律しているところがあるように思います。

そして、そこから少しでも外れてしまうと「らしくない」とされてしまうのが、人間社会の難しいところです。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに

あらはれわたる 瀬々の網代木」  

権中納言定頼


「あさぼらけ うぢのかはぎり たえだえに

あらはれわたる せぜのあじろぎ」

ごんちゅうなごんさだより

 

小倉百人一首 100首のうち64首目。
平安時代中期の公卿・歌人、権中納言定頼による「冬」の歌となります。

 

 

 

 

歌の意味

  

明け方、だんだん明るくなってきた頃、宇治川に立ちこめた朝霧も薄らいできて、切れ間から瀬に打ち込まれた網代木が見えてくるなあ。

 

朝ぼらけ
夜明け方。夜がほのぼのと明ける頃。

宇治の川霧
宇治川は京都市伏見区を流れる川で、淀川の通称。
当時はリゾート地のような存在だった。

たえだえに
「絶え絶えに」とも書き、とぎれとぎれになっていること。
段々と霧が晴れ、切れ間ができる様子を表す。

あらはれわたる
「あらはる」は自動詞で、この場合「表面に出る」「はっきり見えるようになる」。
「わたる」は補助動詞で「一面に~する」「広く~する」。
よって「一面にあらわれてきた」の意。

瀬々の
瀬は浅い場所。「あちらこちらの瀬」を指す。

網代木
網代(竹や木を編み水中に立て魚を捕えるしかけ)を立てるために川に打つ杭。秋から冬にかけて宇治川を下る氷魚(鮎の稚魚)を獲るもので、当時は宇治の冬の風物詩で、歌枕のひとつであった。

 

 

作者について

 

権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより995-1045)

 

藤原定頼。平安時代中期の公卿・歌人で、中古三十六歌仙の一人に選ばれています。
藤原公任(=大納言公任。55首目の作者)の長男で、官位は正二位・権中納言であったことから、百人一首中では「権中納言定頼」とされています。

和歌などに秀でており、優れた文人だったと言われていますが、性格まで完璧とはいえず、特に若い頃の性格はやや軽薄であった様子。
そんなこともあってか、数々のトラブルが語り継がれています。

 

【小式部内侍へのからかい】
歌合せの会で、若い小式部内侍に対し
「お母様に代作は詠んでもらえましたか?」などとからかったところ
小式部内侍が即興で「大江山…」の見事な歌を詠み、やり返したというもの。
とはいえ、結局のところ両者は恋愛関係にあり(あるいは定頼の片想い)、小式部内侍のために定頼が一芝居打ったとする説もあるようです。
60首目のブログ記事でもご紹介したエピソードです)

【皇族との揉め事】
1014年には自分の従者と皇族の従者の間で乱闘が発生。最終的に皇族側の従者が重傷により死亡してしまうという事件がありました。このため、定頼は世間から「殺害人」などと呼ばれてしまいます。
この時の相手は敦明親王という皇族で、自分の従者が亡くなった後には、報復のためか定頼に殴りかかったのだとか。なお、敦明親王はこの他にも暴力沙汰を起こしていたようですから、気性の荒い人だったのかもしれません。

【暴力沙汰に巻き込まれる】
1018年に御所で開かれた宴会に参加した際、藤原兼房という人が定頼に対して暴行をはたらくという事件がありました。
兼房は突然定頼に対して暴言を吐き、定頼の前に置かれていた料理を蹴散らしたり、その頭から被り物を奪おうとしたりしました。その後定頼が控室に逃げ込むと、兼房はそこに向かって石を投げつけ、さらにはその場で定頼を大声で罵るなどの行動をとりました。

文字だけ見ると定頼がたいそう恨みを買っていたのでは…などと考えてしまいますが、兼房がこのような行動に至った原因はわかっていないそうです。定頼にしてみれば大変迷惑な事件に巻き込まれたのでした。

【謹慎処分】
最終的には権中納言の地位まで出世した定頼ですが、若い頃には宮中で軽率な発言をしてしまったこともありました。その内容が当時の摂政・藤原頼通の怒りにふれ、その年(1019年)の後半は謹慎させられることとなりました。

【不正の発覚】
1030年、清涼殿での宴において御前作文の探韻(列席者が韻にする字を出し、くじ引きで1字ずつをもらい受けて漢詩を作ること)を命じられた際に、定頼は不正をおこない、さらにはそれが露見してしまいました。それでもなお不正を隠匿しようとしたところ、当時の関白である藤原頼通から「不正直」と批判されてしまいました。
こちらの事件を見ると、それなりに年を重ねても性格が変わらなかったのでは…と思ってしまいますね。

 

そんな定頼ですが、ご紹介した小式部内侍のほかには相模や大弐三位など、百人一首に登場する女性との交際があったとされています。定頼は和歌の才能だけでなく音楽、読経、書にも秀でており、また眉目秀麗であったようですから、惹かれる女性も多かったのですね。

その一方で、藤原道長からは「怠慢」と評されていたのだとか。
政では成果を残せなかったようです。

 

  

 

消滅の時効の援用と権利濫用

 

さて・・・

 

貴族の長男として生まれた定頼。

この時代は、「嫡男」(特に正室の女性が生んだ最も年上の男子)であることが大切であったようですが、
その他にも「長子相続」「家制度」が存在したことから、どの時代においても、基本的に長男とは重責を担う存在だったのではないでしょうか。

しかし、そんなことはお構いなしの人も存在します。
定頼のように問題行動を起こす人もいたり、「長男」であることを権力として家族を抑圧する人がいたり、はたまた役割そのものを放棄してしまう人がいたり・・・

 

特に上に述べた「家制度」の時代であれば、父親が亡くなった際に「戸主」となる長男に問題があるようでは、残りの家族はさらに不安であったことでしょう。

実際、家制度のもと家督相続した長男が、母から農地法3条にかかる許可申請につき協力請求をされ、その許可申請協力請求権の消滅時効を援用したところ、これが権利濫用にあたると認められた事例があります(最判昭和51年5月25日)。

 


 

訴外Aはその住所地において農業に従事していた者で、妻である母X1との間に7人の子どもがいました。
しかし、Aは昭和22年4月5日に死亡。
その時をもって、家督相続により長男YがAの有した権利義務一切を承継取得し、Aの遺産全部を長男Y名義にしました。

母X1と長男Yは折り合いが悪かったため、母X1及び子どもらは同年頃から分家した四男と同じ家に暮らしており、(二男、三男は既に死亡していたため)四男が家族の面倒をみることになりました。

そこで母X1らが長男Yに対し物件贈与の調停を申し立てた結果、昭和24年6月2日に、長男Yから当時分家した四男に遺産の一部を贈与し、母X1にはその老後の生活の資を得させる目的で本件農地を贈与し、あわせて四女X2、五女の扶養及び婚姻等に関する費用は母X1において負担すること等を内容とする調停が成立しました。

ところが、四男は母X1の反対を押し切ってかねてからの交際相手と結婚、Xらと別居することになったため、昭和27年2月25日に妹へ自身が贈与を受けていた本件山林を贈与し、母X1及び妹らの面倒を託しました。

そうして、母X1は四女X2と共に10年以上にわたってこれらの土地の耕作を続け、母X1は娘たちの扶養及び婚姻等の諸費用を負担しました。

 

ところで、農地について所有権の移転等するときは、当事者が農業委員会の許可を受けなければなりません。

(農業法)
3条1項 農地又は採草放牧地について所有権を移転し、又は地上権、永小作権、質権、使用貸借による権利、賃借権若しくはその他の使用及び収益を目的とする権利を設定し、若しくは移転する場合には、政令で定めるところにより、当事者が農業委員会の許可を受けなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当する場合及び第五条第一項本文に規定する場合は、この限りでない。
一第四十六条第一項又は第四十七条の規定によつて所有権が移転される場合
二削除
三第三十七条から第四十条までの規定によつて農地中間管理権(農地中間管理事業の推進に関する法律第二条第五項に規定する農地中間管理権をいう。以下同じ。)が設定される場合

 

Xらは長男Yに対し、自らが耕作してきた土地の所有権移転許可申請手続に協力を求めたところ、長男Yは、Xらの主張する所有権移転登記手続請求権は時効により消滅しているとして、これを拒みました。

(民法)
166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。
一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。
二 権利を行使することができる時から十年間行使しないとき。
2 債権又は所有権以外の財産権は、権利を行使することができる時から二十年間行使しないときは、時効によって消滅する。

 

そこで、Xらは所有権移転登記手続を求めて提訴。
第一審、第二審共に裁判所はXらの請求を容認しました。

(民法)
162条 二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
2 十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。

 

これに対して、Yは上告。すると裁判所は、

原審が確定した事実関係によれば、上告人が家督相続により亡父の遺産全部を相続したのち、家庭裁判所における調停の結果、上告人から母である被上告人Aに対しその老後の生活の保障と幼い子女(上告人の妹ら)の扶養及び婚姻費用等に充てる目的で本件第二の土地(第一審判決別紙目録第二記載の土地)を贈与し、その引渡もすみ、同被上告人が、二十数年間にわたつてこれを耕作し、子女の扶養、婚姻等の諸費用を負担したこと、その間、同被上告人が上告人に対し右土地につき農地法三条所定の許可申請手続に協力を求めなかつたのも、既にその引渡を受けて耕作しており、かつ、同被上告人が老齢であり、右贈与が母子間においてされたなどの事情によるものであること、が認められるというのである。

 

のように判断し、

この事実関係のもとにおいて、上告人が同被上告人の右所有権移転許可申請協力請求権につき消滅時効を援用することは、信義則に反し、権利の濫用として許されないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

 

と示し、上告を棄却しました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

 

これまでご紹介した内容だけでは、定頼に対してネガティブな印象を抱いてしまうことでしょう。
彼の名誉のためにも、ひとつ心穏やかになるエピソードを発見しましたので、最後にそちらをご紹介したいと思います。

 

本日の「朝ぼらけ」は、もともと「千載和歌集」(平安時代末期に編纂された勅撰和歌集)に収録されている歌です。

千載和歌集では、この歌の前に定頼の娘からの歌が掲載されており、父である定頼を心配する内容となっています。

詞書は
「中納言定頼 世をのがれてのち、山里に侍りけるころ、つかはしける」

つまり、出家した定頼が俗世間を避けて山里におられたころ、(娘が歌を)お遣わしになった、とあります。

その歌がこちら。

  

都だに さびしさまさる 木枯らしに 峰の松風 思ひこそやれ

(木枯らしの音を聞くと、都にいてさえも寂しさがつのります。お父様がいらっしゃる山里の峰の松風の音はどんなに寂しいかと心配でなりません。)

 

定頼は1044年になると病のため出家しました。
都から離れていた父に対し、娘がその身を案じて歌を詠んだところ、定頼が本日の歌「朝ぼらけ」を返したとされています。

単に風景の美しさを詠んだ叙景歌というだけではなく、
「宇治にはこうした美しさがあるから、寂しいばかりではないよ(だから心配するのはおよし)」
という気持ちが込められた、娘に応える歌になっているという説のようです。

現代の連絡手段ではなかなか真似することのできない、和歌であるからこその素敵なエピソードなのでした。

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー