法律で読み解く百人一首 53首目

今日において、「結婚」というものに関する選択は少しずつ幅広くなっているように感じられます。

そもそも、日本における結婚とはどのように定義されているか、という点ですが、その答えは憲法にあります。

憲法では、「婚姻」を次のように定めています。

 

日本国憲法24条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

しかし、時代によってその制度は様々です。

明治時代は、旧憲法下の民法に規定された「家制度」に基づき、婚姻には戸主の同意が必要であったり・・・
江戸時代には、「家父長制」のもと、親から身分が同格の相手との婚姻を命じられることがほとんどであったり・・・

では、平安時代における結婚とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は

いかに久しき ものとかは知る」  

右大将道綱母


「なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは

いかにひさしき ものとかはしる」

うだいしょうみちつなのはは

 

小倉百人一首 100首のうち53首目。
平安時代中期の歌人・右大将道綱母の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

(あなたが来てくださらないことを)嘆きながらひとりで孤独に寝ている夜をすごす私にとって、夜が明けるまでの時間がどれほど長く感じられるものか、あなたはご存じなのでしょうか。ご存じないでしょうね。

 

嘆きつつ
「つつ」は反復を表す接続助詞。「何度も~ては」の意。

ひとり寝る夜
読みは「ひとりぬるよ」。
平安時代は男性が女性のもとに通う「通い婚(妻問い婚)」が慣習であったため、これは夫が訪ねてこず一人で寝る夜を指す。

明くる間は
「夜が明けるまでの間は」の意。「は」は強調の係助詞。

いかに久しきものとかは知る
「いかに」は程度が大きいこと表す、または程度を尋ねる副詞。「どれほど」「どんなにか」などと訳す。
「かは」は反語を表す複合の係助詞。「~だろうか。いや~ではない。」との意味。本作では連体形の動詞「知る」と係り結びの関係。

 

 

 

作者について

 

右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは・936?-995)

 

平安時代中期の歌人で、「蜻蛉日記」の作者。
藤原倫寧の娘として936年頃に誕生したと言われており、本名は不明ですが、藤原道綱の母であることから、「藤原道綱母」とも呼ばれています。

日本初期の系図集である「尊卑分脈」に「本朝第一美人三人内也」と記されており、つまり「日本で最も美しい女性三人のうちの一人である」言われるほどの美貌の持ち主でした。954年に藤原兼家の第二夫人となり、翌955年に道綱を生んでいます。

一方、夫である兼家は女性関係が派手な人でした。道綱母を妻に迎えた際も既に正妻がおり、その生涯で10人程の女性を妻・妾としています。

「蜻蛉日記」には、このような兼家との約20年にわたる結婚生活をはじめ、彼のもうひとりの妻である藤原時姫(藤原道長の母)との争い、その他妻妾に関するエピソード、上流貴族との交流、息子道綱の成長や結婚について記されています。

また歌人との交流についても記されており、和歌は261首掲載されています。
そのうちの一首が、本日の「なげきつつ…」です。
この歌は「拾遺和歌集」にもとられており、歌人としては、中古三十六歌仙にも選ばれています。

「蜻蛉日記」は現存する最古の女流日記とされ、後の女流文学・物語にも影響を与えていることから、その先駆けとなる存在であったと言えます。

 


 

 

本日の歌

嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

 

この歌には、掲載された作品ごとにエピソードが存在します。

「拾遺和歌集」では、兼家が道綱母を訪ねてきた際、彼女はわざと門を開けず兼家を待たせました。そんな兼家が「立ち疲れてしまった」とぼやいた際に応えて詠んだ歌、とされています。

また「蜻蛉日記」では、浮気性の兼家に新しい女性ができたことを知った道綱母は、兼家が訪ねてきた際も門を開けませんでした。すると兼家は早々に違う女性のところへ。そんな兼家に対し、道綱母は翌朝色褪せた菊の花と一緒にこの歌を贈ったとされています。

 

兼家によって大きく心が乱されてしまった道綱母。

その原因は兼家のみならず、平安時代の結婚制度、それに対する社会の認識にもあったのではないでしょうか。

 

平安における結婚は、夫が妻のもとに通う「通い婚」のスタイルで、男性が女性の家に入る「婿取り婚」でした。
また、文学作品などの影響から「一夫多妻制」のイメージがありますが、実際は「一夫一妻制」であり、平安貴族が多くの女性と恋愛関係をもつことが公認されていた、ということのようです。
(養老律令は重婚を禁じる旨を定めていますから、道綱母が生きた時代も同様であったはずです)

また当時の「結婚」は社会的な意味合いが強く、家と家の結びつきを重要視するものでした。男性は出世のチャンスをつかむため自分の生家よりも身分の高い家との結婚を求め、女性の両親に認められる必要がありました。一方、女性は男性が通ってくる際に持参する金銭等が生活費となったため、相手の立場というのは非常に重要でした。
(今年の大河ドラマでも、主人公が相手の男性に対し「正妻にしてくれるのか」と詰める場面が話題となりました)

正妻の場合は、夫が妻の家に住むほか、晩年は夫の家で同居するというスタイルだったようです。
一方、公式には認められない「妾」はいわば内縁の妻といった存在であり、同居はできず、いつ来るかわからない男性の来訪を待つしかありませんでした。

道綱母は、この「内縁の妻」の立場だったのです。

こうした事情を考えると、道綱母の気持ちもよくわかります。
なお、一夫一妻制にもかかわらず多くの妾をかかえていた理由としては、子を多く持つという目的があったようです。

 

  

内縁の解消と財産分与

 

さて・・・

「内縁関係」という言葉について、実は法律上の定義はありません。
一般的には、法律上の婚姻手続きはとらないものの、実態的には法律上の夫婦と変わらない結婚生活を送っている関係を指します。
また「事実婚」という言葉もありますが、こちらは主体的に婚姻手続きを選択しない場合に用いられ、「内縁関係」は家庭の事情等を理由とする場合に用いる、とする場合もあるようです。

婚姻届を出す・出さないという選択から、その後夫婦が置かれる法律上の立場が大きく変わってくるのです。
その結果、影響することの一つに「相続」があるのではないでしょうか。

例えば、内縁関係にある夫婦の一方が死亡してしまった場合は・・・?

最近では、内縁関係は準婚とされ、法律婚に準じ、法律的にも保護されるようになってきています。そのような中で、夫婦関係解消の際、内縁関係の解消と、法律婚の解消では如何なる点が異なるのでしょうか。

 

この点に関し、内縁関係にある夫婦において、離別ではなく一方の死亡により内縁関係が解消したことで、内縁の妻が、内縁の夫の相続人に対して財産分与を請求した事例があります(最決平成12年3月10日)。

Aは、昭和22年にBと婚姻し、Bとの間にY1とY2との2名の子をもうけていた男性。
Xは昭和45年に夫と死別した女性で、昭和46年3月頃から働き始めた勤務先でAと知り合い、親密な関係となりました。
Xは昭和46年5月頃から平成9年1月にAが死亡するまで、毎月一定額の生活費の援助を受けていました。また、現金で300万円の贈与も受けていました。 

昭和60年12月頃になると、Aは病気により入退院を繰り返すようになりました。XはAの入院期間中ほとんど毎日にように病院に行き、Aの身の周りの世話をおこないました。
また、昭和62年8月にBが死亡すると、AはY1及びその家族と住む自宅よりもX方で過ごす時間が長くなっていきました。
その後、Aは平成9年1月19日に死亡。XとAの関係は27年にも及びました。

すると、1億8500万円にものぼるAの遺産はY1とY2がそれぞれ相続し、Xには1円も支払われませんでした。

そこでXは、Aの負う内縁の妻に対する財産分与義務をYらが相続したとして、平成9年5月、Y1、Y2に対し財産分与として各1000万円の支払いを求める家事調整を家庭裁判所に申し立て、その後審判手続きに移行しました。

 

本件は、内縁の配偶者の一方が死亡した場合に離婚による財産分与に関する民法768条が類推適用されるか否かという法律問題を含む事件でした。

(財産分与)
第768条1項 協議上の離婚をした者の一方は、相手方に対して財産の分与を請求することができる。

2項 前項の規定による財産の分与について、当事者間に協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、当事者は、家庭裁判所に対して協議に代わる処分を請求することができる。ただし、離婚の時から二年を経過したときは、この限りでない。

 

高松家裁は審判において、死亡による内縁の消滅の場合にも、生存配偶者は財産分与の規定の準用又は類推適用により財産分与請求権を有するものと解するのが相当である、と述べ、Y1とY2に対し、財産分与として各500万円を支払うよう命じました。

これに対してYらは抗告。高松高裁は、内縁夫婦の一方が死亡することによって内縁関係が消滅した場合に、法律上の夫婦の離婚に伴う財産分与の規定を準用ないし類推適用することはできない、と述べて、家裁の審判を取り消し、本件申立てを却下しました。そして、同高裁は、民訴法337条1項に基づき、Xがこの決定に対して最高裁に抗告することを許可しました。

(許可抗告)
第337条1項 高等裁判所の決定及び命令(第330条の抗告及び次項の申立てについての決定及び命令を除く。)に対しては、前条第1項の規定による場合のほか、その高等裁判所が次項の規定により許可したときに限り、最高裁判所に特に抗告をすることができる。ただし、その裁判が地方裁判所の裁判であるとした場合に抗告をすることができるものであるときに限る。

 

Xが抗告したところ、最高裁は

内縁の夫婦について、離別による内縁解消の場合に民法の財産分与の規定を類推適用することは、準婚的法律関係の保護に適するものとしてその合理性を承認し得るとしても、死亡による内縁解消のときに、相続の開始した遺産につき財産分与の法理による遺産清算の道を開くことは、相続による財産承継の構造の中に異質の契機を持ち込むもので、法の予定しないところである。

 

とし、離別による内縁関係の解消の場合には、財産分与の規定が類推適用されると考えても良いとされた一方で、離別ではなく、死亡により内縁関係が解消した際の相続には財産分与の規定を持ち込むことはできないとしました。

さらに、

また、死亡した内縁配偶者の扶養義務が遺産の負担となってその相続人に承継されると解する余地もない。

 

とし、夫婦が死別した場合の財産に関しては、相続人に対する相続によってのみ承継されると判示しました(以上、判例タイムズ1037号107頁参照)。

(相続の一般的効力)
民法896条 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。

 


 

 

本日の歌
「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」

 

移り気な兼家に対し、道綱母が皮肉をこめて詠んだこの歌。
対して、兼家は次の歌を返しました。

げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も 遅くあくるは わびしかりけり

(本当におっしゃるとおりです。冬の長い夜が明けるのを待つのはつらいものだが、そんな冬の夜でない真木の戸をなかなか開けてもらえないのもつらいことです。)


その後、兼家は道綱母のところには全く通わなくなったばかりか、他の女性との間に次々と子供をもうけ、さらには新しい愛人もできていきました。
この歌をきっかけに、二人の仲は険悪になってしまったようです。

晩年の道綱母は、病を患っていた一方で歌合せに出詠するなどしていましたが、995年頃に亡くなったとされています。

不実であった兼家との生活を(多少脚色はあるでしょうが)、後の女流文学に大きな影響を与える作品にまで落とし込むほどの才能があった道綱母。

夫の浮気癖のせいで身も心もボロボロ・・・というよりは、
「このエピソードをもとに日記文学を書き上げてしまおう!」
くらいに勝気でいてくれたら良いな、と思わずにはいられません。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

ひまわり観察日記-2024- ⑤

前回の記事から少し時間が空きましたが、
弊所のひまわりは段階的に開花を迎えています。

 

まず7月末頃。

小ぶりのものから徐々に開花していきました。
やはり黄色が入ると一気に綺麗になります。

 

そして、開花まであと一歩、という蕾や

 

植えなおした分も、だいぶ成長して葉がしっかりしてまいりました。

 

 

そして、8月に入ると花弁がしっかり開いてきました。

 

 

少しグリーンがかっているのは、今年初登場の「ジュニア」。
こちらも爽やかで良い色です。

 

この日はお天気も良く、実物はもちろんのこと、写真越しで見ても色が鮮やかでとてもきれいでした。

 

追加で植えたスマイルフラッシュはもう少し時間がかかりそうです。
気長に開花を待ちたいと思います。

 

ちなみに。
8月は「葉月」と呼ばれますが、その由来は、旧暦の8月が現在の9~10月初め頃にあたることから「葉落ち月」を略して「葉月」になったのだそうです(諸説あるようですが)。

そんなエピソードを目にすると、わずかに秋の気配が感じられ、暑さも和らぐような気が・・・
酷暑のなかですが、夏の季節感も楽しんでいきたいと思います。

ひまわり観察日記-2024- ④

相変わらず暑い日が続いております。

そんな中でも弊所のひまわりは変わらず順調に成長しており、
ちらほらと蕾もできてきました。 

 

 

 

サイズもしっかり大きめ。
温度が上がりきらないと感じる日も続いていましたが、安心いたしました。

 

今回、種まきの段階でやや多めにまいていたのですが、
思いのほか発芽率が高く、それぞれの芽の成長も順調でしたので
ここでいったん間引きをすることにいたしました。

(間引き?、という方はぜひ過去のブログをご覧ください)

以前、どれも順調に育っていたため、間引きをするのも可哀想だと手順をふまなかったところ、後々咲いた花のボリュームがややさみしいものになってしまったことがありました。

重要な工程のひとつということで、今回もきちんと作業していきます。

 


間引きは、毎年大活躍のこちらのハサミで。
成長しきっていない小さな茎や、大きな葉の陰になってしまっている部分を取り除きました。

一つ作業が済み、開花がより一層楽しみになりました。

 

さて。
今年はもうすぐでパリ五輪が開催されます。

前回の東京五輪は57年ぶり2回目、とのことでしたが
今回のパリは100年ぶり2回目とのこと。歴史を感じます。

日々の暑さに負けてしまいそうですが、出場選手たちの活躍を楽しみに、きちんと涼しく温度調節した部屋で応援しながら乗り切りたいと思います。

ひまわり観察日記-2024- ③

あっという間に7月になりました。

ということは、2024年も下半期に突入したということですね。
暑さも本格的になってまいりましたが、下半期も気を引き締めて、引き続き全力で業務にあたりたいと思います。

 

さて。
先日のブログでは順調に成長している旨をご報告していたところですが・・・

実はスマイルフラッシュとちーくまくんがなかなか発芽しておりませんでした。

 

土の表面も静かなまま、うんともすんとも言わず。
他の種類はどんどん育っているのに何故だろう・・・と数週間見守っていたのですが、一向に変化が見られませんでした。

 

そこで「たまたま芽の出ない種を植えてしまったのかもしれない」と気持ちを入れ替え、思い切って再度種まきいたしました。

 

すると。

 

なんと数日でスマイルフラッシュが発芽!

 

 

やはり、たまたま植えた種が原因だったのでしょうか・・・

はやく植え替えてあげれば・・・と少々後悔しながらも、さっそく芽が出て一安心いたしました。

 

一方、ちーくまくんはまだ発芽待ちです。

 

 

 

元気に育ってくれるよう、また辛抱強く見守りたいと思います。

ひまわり観察日記-2024- ②

だんだんと暑い日が増えてまいりました。

6月だからと気を緩めていましたが、熱中症のニュースもちらほら。
万全の体調で業務をおこなえるよう、温度調節にも気を配りたいと思います。

 

・・・と、人間は暑さに慣れるのに必死ですが
先日種をまいたひまわりは、続々と発芽してまいりました。
夏の植物にとっては良い温度なのかもしれません。

今年はなかなか気温が上がらないな・・・
と気になっておりましたが、そんな心配は不要でした。

 

 

 

 

そして、2週間もするとここまで成長。

 

 

さらに数日経つと、気温も上がってまいりまして
葉っぱもしっかりとしてきました。

 

 

 

やや個体差はございますが、滑り出しが順調でひと安心です。

もう少しだけ成長を待ち、次は間引きの作業をしたいと思います。

その様子も記録してまいりますので、
また次回をお楽しみにお待ちいただければ幸いです。

 

法律古書を探してみた-新律綱領等編-

この度、弊所ギャラリーに新しい蔵書が加わりました。
本日はその3種類についてご紹介いたします。

  

◇ ◇ ◇

 

…と言いたいところですが、
まずは、日本における法律の歴史について少しお話したいと思います。

古代日本において、法律にあたるものは「律令」です。
それぞれの内容は、

律:犯罪と、それに反した場合の刑罰を定めた法
令:政治をおこなう際の決まりを定めた法

であり、
律は刑法、令は行政法をはじめとする刑法以外の法律
ということになります。

 

日本では、唐の制度を参考に、奈良時代に律令制度が導入されました。
実際の存否に諸説あるものもございますが、日本で定められた律令をご紹介すると以下のとおりとなります。

①668年完成 近江令
②689年施行 飛鳥浄御原令
③701年制定 大宝律令
④757年施行 養老律令

(・・・なんだか学生時代を思い出す単語ばかりですね)

養老律令の施行後、その欠陥を補うため追加法の施行はされたものの(のちに事実上廃止)、特に廃止法令は出されず、また律令の編纂がおこなわれなかったことから、形式的にはなんと明治維新期まで存続しました。

 

そんな状態で明治維新が起こり、江戸幕府による大政奉還後、刑法について当分の間幕府の旧制によることとなりました。

明治政府の樹立直後、1868年(明治元年)に定められた刑法が「仮刑律」です。
その名のとおり、急いで「仮」に作られ、あくまで方針を示した政府内の準則であったため、内容も到底明治維新の思想に沿うようなものではなかったようです。そのためか、公布も施行もされませんでした。

 

その後、1871年(明治3年)10月に「新律提綱」ができあがりましたが、これが同年12月に「新律綱領」として頒布されました。

 

新律綱領は全6巻8図14律192条から成ります。
(今回、蔵書に加わったのは1巻、3巻、4巻です)


こちらでは正刑として五刑(笞罪・杖罪・徒罪・流罪・死罪)が規定されましたが、華族や士族に対しては閏刑を採用したり(僧侶・官吏にも準用)、類推適用や遡及効を認めるなど、まだまだ前時代的なものであったようです。

正刑:
笞杖徒流死(ちじょうずるし)は中国の律における基本的刑罰で、日本の律では「五罪」として導入。大宝律令・養老律令でも定められていた。

閏刑(じゅんけい):
特定の身分の者に対して、正刑に代え寛大な刑を課すこと。

実際に書籍を開くと、まずは「上諭」。
これは天皇の裁可を示す言葉で、現在の日本国憲法が施行される前の日本において、天皇によって制定・公布される法律等の初めに付されていました。

 

ページをめくっていくと、
どの罪に対して、笞あるいは杖でどの程度罰を与えるのか
また、笞や杖やどういった物を使用するのかが詳細に書かれています。

 

 

 

さらに、新律綱領を補充・修正するとして「改定律例」が頒布されました。
こちらは全3巻とのこと。(蔵書は1巻、2巻となります)


新律綱領に比べ、より西洋法からの影響がみられる内容となっており、その大きな特徴として以下の2点が挙げられます。

・条文に番号をふる「逐条形式」を採用
・笞罪、杖罪、徒罪、流罪を「懲役」に

記載形式が変わったことで、ぐっと現代の法律に近づいた印象を受けます。

 

 

このように赤が入れられている箇所も複数ありました。
改正等の補足なのでしょうか。

 

 

こうした経緯を経て、1882年(明治15年)1月「刑法」が施行されました。
これが、いわゆる「旧刑法」。現行刑法の一つ前のものです。
日本政府が招聘したフランスの法学者・ボアソナードにより起草され、フランス法の影響が非常に強いものとなりました。

この「刑法早わかり」では、条文にフリガナ、さらに挿絵が入れられており、まるで教科書のような工夫がなされています。
なんとこの挿絵、明治時代の浮世絵師・歌川国利によるものとのこと。
こんなところで活躍を目にすることができるとは、驚きました。

 

 

個人的には、こちらの挿絵が目にとまりました。
浮世絵の雰囲気で汽車が描かれており、面白い組み合わせだと感じます。

 

 

そして、1908年(明治41年)、現在の刑法が施行されました。
主な改正点として以下があげられています。

・重罪、軽罪および違警罪の区別を廃し、違警罪にあたる軽微な犯罪を刑法典から削除したこと

・罰の種類を減じ、主刑のうち徒刑、流刑、禁獄を廃止して、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留および科料とし、付加刑を没収のみとしたこと

・各犯罪の構成要件を抽象化、簡約化して、犯罪類型の細分化をやめ、法定刑の幅を広くすること等により、裁判官に、広範な裁量の余地を与えたほか、刑の執行猶予に関する規定を設け、明治38年の「刑ノ執行猶予ニ関スル法律」を廃止したこと

 

このように順をたどってみると、
「新律綱領」も「改定律例」も、その内容は「歴史上のもの」という色が濃いように思いますが、現行刑法のすぐ前に定められたものなのです。
そう考えると一気にリアリティを感じますし、
一方、養老律令等からの繋がりを考えれば、やはり歴史的なものを感じます。

現在も、私たちの暮らしに沿うよう改正が重ねられている法律ですが
ずっと先の未来、
「令和の時代はこんなことが法律で定められていたなんて」
「いまでは到底考えられない・・・」
なんて思われてしまうのかもしれないですね。

 

◇ ◇ ◇

 

ということで、今回は新しく仲間入りした蔵書をご紹介いたしました。
引き続き、興味深い書籍を見つけてまいりたいと思います。

 

 

---
参考:
Wikipedia
コトバンク
法務省HP「犯罪白書」「法史の玉手箱

ひまわり観察日記-2024- ①

つい先日年が明けたと思えば
2024年ももう上半期が終わろうとしています。

5月に入って気温の高い日も増えてまいりましたね。

ということで。
今年も弊所恒例のひまわりを準備いたしました。

 

今回植える品種はこちらの5つ。

 

左から、
スマイルフラッシュ
ちーくまくん
夏物語
小夏
ジュニア
というラインナップです。

 

ここ数年は
少し背の高い品種を育ててみたり、
栽培キットにも挑戦してみたり、
変化を楽しみながらひまわりを育ててきましたが

今年は初めての品種「ジュニア」を入手いたしました。

  

花の雰囲気は小夏やスマイルフラッシュと似ているようですが、
もう少し草丈が高いようです。

ただ、実際に咲くとまた違った雰囲気になることが多いので
開花時に並べるのが今から楽しみです。

 

植木鉢を準備して、どこに何を植えるか決めたら
毎年お世話になっている、こちらの土を入れていきます。

 

この作業をするとき、開封したてのフカフカな土を見ていると
「今年もこの季節が来たんだな」と、既に夏を感じてしまいます。

 

ある程度土が入ったら、
説明書きに従って、2~3粒の種を間隔をあけてまいていきます。

 

 

こちらも毎年おなじみ、小夏の青い種です。
同じひまわりでも、品種によって種の形が様々なのも面白いポイントです。
(そのあたりは、ぜひ過去ブログもご覧ください)

 

こんな感じで種をまきましたら、

 

 

1センチほど土をかぶせていきます。

 

 

あとは種が泳がない程度に水をあげたら、
日当たりの良い場所へ移動して完成です!

 

今年の夏は観測史上最も暑い!なんて予想されていますが
(毎年そんなニュースを目にしますね)
我々も、ひまわりも、暑さに負けず過ごしてまいりたいと思います。

 

法律古書を探してみた-六法全書 戦前発行編-

度々ご紹介をしておりますが、
タイラカ総合法律事務所には、法律古書のギャラリーがございます。

タイラカ総合法律事務所HP・ギャラリーについて

 

六本全書クロニクルの記事などでもご紹介しているとおり、
大きな目標は

有斐閣の出版する六法全書をすべて揃えること

ですが、これに限らず様々な六法全書を収集しております。

 

さて、本日は戦前の六法全書について。 

今年の連続テレビ小説は「法曹」が舞台ということで、
携わっている方は特に注目していることかと思います。

日本で初めて法曹の世界に飛び込んだ女性をモデルにした物語で、
その舞台は昭和6年(1931年)の東京です。

過去の放送回では、主人公の母が六法全書を購入する展開が話題となりました。

この六法全書、
作中では当然のことながら、当時における最新のものですが
現在からすれば、戦前の六法全書ということになります。

弊所ギャラリーにも、戦前に出版された六法全書を所蔵しております。

 

 

その中でも、特に古い出版のものをご紹介したいと思います。

それがこちらの2冊です。

 

左からご紹介すると、

一冊目は、濟美館による明治32年発行「日本六法」。

 

金額は80銭とありますが、当時は1銭=200円程度と仮定すると
決して安くはありません。しっかり重みのある値段だったことが分かります。

また、有斐閣が「帝国六法全書」を刊行したのが 明治34年(1901年)ですから、それよりも前のものとなります。

 

二冊目は、法律書房による明治35年発行「新形軽便 帝国六法全書」。

 

  

有斐閣「帝国六法全書」刊行により、六法全書の出版が活性化したのではないかと想像するところです。

 

次いで古い年のものが、こちらの3冊。
ずっしりとした「六法全書」感があるのは、こちらでしょうか。

 

いずれも有斐閣による出版のものとなります。
左から順にご紹介いたしますと、

・明治41年発行版(過去の記事でもご紹介しています)
・大正元年発行版
・大正5年発行版

あたりが発行年の古いものになります。 

 

ちなみに、
大正5年発行版は箱付きの状態で弊所にやってまいりました。

 

そのためか、保存状態も良く
小口部分にインデックス代わり?の記載が残っていたり


天部分には金色の加工が残っていたり、
(汚れや虫から本を守るためにされたもので、「天金加工」「金付け」などと呼ぶそうです。(Wikipedia参照))

 

背表紙の金刷りも綺麗に残っています。

 

また、古い六法全般に言えることですが、
現在の六法全書に比べるとかなりコンパクトで、まさに手のひらサイズです。

少し話はそれますが、
そのサイズ感から、まさに「ポケット六法」と言えるのでは…などと考えていましたところ、有斐閣ウェブサイトによれば、これよりさらに小さな、携帯用の「袖珍 六法全書」が存在したとのことでした。

 

◇ ◇ ◇

 

さて、話を連続テレビ小説に戻しましょう。

冒頭でも触れたとおり、
今回のヒロインは、日本で初めて女性弁護士になった、三淵嘉子さんという方がモデルとのことです。
(当時、三淵さんの他に女性の合格者は2名。計3名の女性弁護士が誕生しました)

それではなぜ、「日本で初めて」の「女性弁護士」が誕生したのでしょうか。
その答えは、弁護士法にあります。

 

弁護士の起源は、明治26年(1983年)に「弁護士法」(明治26年3月4日法律第7号)が制定されたことによります。
(それまでは、前身として、フランスに倣い創設された制度に基づく「代言人」という地位が存在していました)

制定当時の条文を見てみると、第1章「辯護士の資格及び職務」において、以下の内容が定められています。

第2条 辯護士タラムト欲スル者ハ左ノ条件ヲ具フルコトヲ要ス
第1 日本臣民ニシテ民法上ノ能力ヲ有スル成年以上ノ男子タルコト
第2 辯護士試験規則ニ依リ試験ニ及第シタルコト

 

「帝国六法全書」(有斐閣、明治41年)より

 (条文全体は、国会国立図書館デジタルコレクション「法令全書 明治26年」でも確認することができます。)

 

今では到底考えられませんが、
性別により職業が制限されるということが、ここまで明確に、しかも法律に記されていたのですね。

その後、婦人参政同盟による「婦人弁護士制度制定ニ関スル件」の帝国議会衆議院請願などを経て、昭和8年(1933年)、弁護士を男性に限定していた条文は次のとおり改正されました。

帝国臣民ニシテ成年者タルコト

 

「新体 六法全書 昭和16年版」(厳松書店)より

(条文全体は、国会国立図書館デジタルコレクション「官報(昭和8年5月1日、第1896号)」でも確認することができます。)

 

文字だけで追うと、遠い歴史の話のようですが
実際、その時代を過ごした六法を手にしてみると、三淵さんをはじめ、今より多くの制限がある中で活躍された方々に敬意を払わずにはいられません。

こうした背景を踏まえると、作品もより味わい深くなるのでは…
ということで、今回は簡単に弁護士法についてお伝えしました。

また機会がありましたら、
六法全書、法律古書に関するストーリーをお届けできればと思います。

 

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参考:
日本弁護士連合会「特集1 男女共同参画と弁護士
東京弁護士会「歴史としくみ

法律で読み解く百人一首 17首目

少し前に話題を集めた「老後2000万円問題」。
これを受け、投資への関心が高まった方もいらっしゃるかと思います。
諸制度も改正が重ねられており、最近では「新NISA」が始まりました。

このように、現在は若い年齢であっても、また少額からのスタートでも、投資に挑戦できる制度が多く、かかる情報もインターネットで気軽に収集することができます。

 

その一方で、
証券会社にしてみれば、顧客を獲得するのに苦労しているのかもしれません。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川

からくれなゐに 水くくるとは」  

在原業平朝臣


「ちはやぶる かみよもきかず たつたがは

からくれなゐに みづくくるとは」

ありわらのなりひらあそん

  

 

 

小倉百人一首 100首のうち17首目、
平安初期~中期の貴族・歌人、在原業平朝臣の歌となります。

 

 

歌の意味

 

(川面に紅葉が流れていますが)遠い昔の神々の時代にさえ、こんなことは聞いたことがありません。
竜田川一面に紅葉が散り浮いて流れ、水を鮮やかな紅色の絞り染めにするなどということは。

 

ちはやぶる(千早ぶる)
「神」にかかる枕詞。
「いち=激い勢いで」「はや=敏捷に」「ぶる=ふるまう」という言葉を縮めたもので、勢いが激しい、強力で恐ろしいことを表す。

神代
「遠い昔」や「(太古の)神々の時代」の意。
「神々の時代でさえ聞いたことがない」とすることで、下の句の内容がそれほど不思議な現象であることを指す。

竜田川
奈良県生駒郡を流れる川で、紅葉の名所。

からくれなゐ
「唐紅」や「韓紅」と表記し、濃く鮮やかな紅色を指す。

水くくるとは
「くくる」は絞り染めの技法である「くくり染め」にする、ということ。
「竜田川が水をくくり染めにする」という擬人法が用いられている。

 

 

 

作者について

 

在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん・825-880)

 

平安の初期から前期にかけての貴族・歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。
天城天皇の孫にあたる人物で、母方の血筋では桓武天皇の孫にあたるなど、出自としては非常に高貴な身分でした。しかし、父である阿保親王が政権争いの連帯処罰を受けて左遷されたことなどから、生まれて間もなく、兄たちと共に皇族を離れて「在原」の姓を名乗ることとなりました。

貴族としては、出仕を初めてからもなかなか昇進できず、官職についた記録もありません。このように、朝廷における長い不遇の時代が業平を和歌に没頭させたのでした。
のちに御代が変わると、蔵人頭に任ぜられるなど要職を務めました。
一方、歌人としては、「古今和歌集」に収録された30首のほか、勅撰和歌種に87首が入首するほどの名手であったようです。

そして、業平といえば容姿端麗・恋多き男性として知られています。「ちはやぶる…」の歌も、かつて恋愛関係にあった藤原高子(二条后。清和天皇の女御)に捧げたものだとか。

業平は平安の恋愛小説「伊勢物語」の主人公ともいわれていますが、その中には、業平と高子が身分違い許されぬ恋に落ちて駆け落ちを試みるものの、途中で失敗して高子が連れ戻されてしまう場面が描かれています。
「ちはやぶる…」は、高子の持つ屏風を見た業平が詠んだ「屏風歌」(実際の風景を見ずに、屏風に描かれた絵を主題として詠まれた和歌)です。
業平はこの歌で彼が変わらず高子への気持ちを抱いていることを暗に示した、とする説もあります。

 


 

そんな業平が詠んだ、本日の歌

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

 

漫画作品のタイトルに用いられたことから、耳にしたことのある方も多いかと思います。ところで、落語の演目があるのはご存じでしょうか?

 

「千早振る」という古典落語で、別題「百人一首」「無学者」ともいいます。
そのストーリーはというと・・・

 

ある日、長屋で物知りと知られる「ご隠居」のもとに、「八五郎」がやってきます。娘に「ちはやぶる」の歌の意味を聞かれたがわからない、教えてくれというのです。
ところが・・・実はご隠居もこの歌の意味を知りません。しかし、物知りといわれる手前、知らないなどとは口が裂けても言えません。
そこで、ご隠居は即興で次のような解釈を考えます。

・「竜田川」という相撲取りが吉原で「千早」という花魁に一目ぼれするものの振られてしまう。(=千早振る)

・それならと、竜田川は妹分の「神代」に言い寄るものの、こちらも千早に倣って竜田川を相手にしない。(=神代も聞かず竜田川)

・その後、相撲取りを廃業して豆腐屋になった竜田川のもとに、偶然、物乞いとなった千早がやってくる。おからを恵んでほしいという千早に怒った竜田川は彼女を突き飛ばし、自身の過去の行いを悔いた千早は、近くにあった井戸に身投げする。なお、千早の本名は「永遠(とわ)」であった。(=からくれなゐに 水くくるとは)

 

所々無茶に聞こえるものの、最後には八五郎も納得してしまいます。
これだけの嘘をスラスラ述べてしまうご隠居には驚きです。

 

 

先物取引「客殺し商法」による詐欺

  

さて・・・

 

ご隠居の意のまま、すっかり騙されてしまった八五郎。
思惑どおり、沽券を保つための「カモ」にされてしまったのですね。

もし八五郎が先々でこの話を披露し、大恥をかいてしまったとしても、体面が守られたご隠居には関係ありません。
自分の利益を守るために嘘をついたご隠居は、「詐欺罪」とみなされてしまうのでしょうか。

 


 

 

商品先物取引に関して、いわゆる「客殺し商法」により、業者が顧客から委託証拠金名義で現金等の交付を受けた行為について、詐欺罪の成立が認められた事例があります(最決平成4年2月18日)。

「客殺し商法」とは、外務員の思惑通りに顧客に取引をおこなわせ、顧客に損失を発生させ、顧客への委託証拠金の返還及び利益の支払を免れる商法のこと。
業者が利益を得る一方、客が大きな損失を抱えることになるものであり、業者が意図的に仕掛ける方法です。

 

本件は昭和45年から47年にかけての時期において、商品取引員(顧客からの商品取引所における売買注文を執行するための受託業務をおこなう者)として営業していた株式会社Aの社員らが顧客を勧誘し、総額5000万円に上る委託証拠金の交付を受けた行為に関連して、その幹部、管理職、外務員ら合計11名が詐欺により起訴された事案です。

一審判決は、被告人らが客殺し商法をとることを営業方針としていた点は認められず、具体的な欺罔文言とともに勧誘がおこなわれた4件のみについて詐欺罪の成立を認めました。
これに対して検察側が控訴し、控訴審判決は、検察側の主張を全面的に採用。上記争点に関する原判断を破棄しました。

被告人らが上告したところ、本決定は、原判決の認定した事実関係を摘示した上で、それらの事実に照らせば、被告人らの行為は詐欺罪を構成するとの職権判断を示し、上告を棄却しました(以上、判例タイムズ781号117頁参照)。

本件において、被告人らの用いた「客殺し商法」の手口は以下となります。

 

①勧誘に当たっては、いわゆる「飛び込み」と称し、一定地域の家庭を無差別に訪問して勧誘する方法を採る。

②勧誘対象の多くは、先物取引に無知な家庭の主婦や老人となり、これらの者を勧誘するに際しては、外務員の指示どおりに売買すれば先物取引はもうかるものであることを強調する。

③右の言葉を信用した顧客に対して、外務員の意のままの売買を行わせることとし、具体的には、相場の動向に反し、あるいはこれと無関係に取引を仲介し、しかも、頻繁に売買を繰り返させる。

④取引の結果、顧客の建て玉に利益を生じた場合には、一定の利幅内で仕切ることを顧客に承諾させて、利益が大きくならないようにする一方で、利益金を委託証拠金に振り替えて取引を拡大、継続するよう顧客を説得し、顧客からの利益の支払要求等を可能な限り引き延ばしたりしつつ、それまでとは逆の建て玉をするなどして、頻繁に売買を繰り返させる。

⑤以上の方法により、顧客に損失を生じさせるとともに、委託手数料を増大させて、委託証拠金の返還及び利益金の支払を免れる。

 

 

最高裁は、

「客殺し商法」により、先物取引において顧客にことさら損失等を与えるとともに、向かい玉を建てることにより顧客の損失に見合う利益を会社に帰属させる意図であるのに、自分達の勧めるとおりに取引すれば必ずもうかるなどと強調し、顧客の利益のために受託業務を行う商品取引員であるかのように装って、取引の委託方を勧誘し、その旨信用した被告者らから委託証拠金名義で現金等の交付を受けたものということができる

 

とし、被告人らの本件行為は詐欺罪を構成すると判断しました。

 

(詐欺)
刑法246条1項 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。

 

 

◇ ◇ ◇

 

ご隠居の嘘にまんまと騙されてしまった八五郎。
かつての恋人に詠んだ歌を落語でネタにされるなんて、ましてや元の影も形もないストーリーにされてしまうなんて・・・
業平もさぞ驚くことでしょう。

 

このように、落語は、熊五郎、八五郎、与太郎あたりが、「ご隠居」や「先生」など年長者の口の上手さに丸め込まれてしまう、という噺が多いですよね。

「客殺し商法」に負けずとも劣らない、ご隠居たちの見事な手法。
あなたなら何と名付けますか?

 

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律古書を探してみた-証文編-

「証文」という言葉をご存じでしょうか。

中世の日本における文書で、文字どおり「証拠を示す」ものですが、
大きく以下の意味使われているようです。

 

①文書の作成時点における特定の事実を証明する文書
(特に権利関係や契約関係にかかるもの)

②訴訟において証拠とされる文書
(公文書、事実の証明を伴わない私的な書状等も含む)

 

事実を証明する「証文」については、
その性質によりさらに分類されていたようです。
例えば、

譲状、処分状   :土地・家屋・財物を子弟などに譲渡する場合に作成
沽券、売券    :売買に際して売主から買主に渡すために作成
借用状、借券、借書:貸借に際して借主から貸主に渡すために作成

などがあります。
古いものでは平安時代から存在していたとのこと。
大まかにいってしまえば契約書全般になるかと思います。

訴訟において証拠とされる「証文」については、
例えば、平安後期に私有地である荘園が増加した際、土地に関する紛争が生じ、当事者が自身の主張を支える文書を提出した際、これを「証文」と呼んだのだそうです。
現在でいう準備書面のようなものだったのですね。

 

さて。
「証文」がどういったものか、雰囲気がつかめたところで
本日の書籍をご紹介したいと思います。

 

日本法律研究会編「間違ひのない証文の書き方」(進文館、1926年)

 

内容は、証文の書式集+解説という形式となっています。
現在もこうした書式集のようなものを多く参照しますが、この当時はどのような解説がされていたのかを見ていきましょう。

 


 

資産や権利にかかるものとしては、今日でも想像に難くない、以下のような書式が紹介されています。
シンプルな内容で、現在でも使用できそうな印象を受けました。

・金銭借用証書
・借地証書
・地上権設定契約証書
・債権譲渡証書
・株券売渡証書

例えば、「金員借用証書」はこのように記載されています。
手引書らしく、文言を置き換えればすぐ使用できるような内容です。

 

 

また、時代の色を強く感じたのは「芸娼妓雇入契約」にかかる項目です。

 

解説文部分を一部ご紹介いたします。

芸妓を抱える時の心得
芸娼妓の身売りをする時には、大抵一種の抒情詩がある。悲劇がある。(略)だから一旦泥水稼業に身を沈めても、機会があれば逃れ出てやろうとする。恰も動物園の虎の如きものである。(77頁)

年期契約の証文
半玉時代から芸を仕込まれて、相当の年齢に達すると一本になる。(略)少し売れて来ると芸者の方でも欲が出てくる。抱え主にばかり甘い汁を吸われるので馬鹿らしくて堪らない。(略)
此際堅い契約がしてあれば、ドッコイ、証文が物を言うと強味に出られるが、証書の書方にあやふやな処があると、折角の金箱を玉無しにして了う事がある。(80頁)

娼妓を抱える場合
自由廃業が認められて以来、抱え主の最も怖れるのは此の自由廃業である。せっかく高い身代金を出して、これから売れ出そうとする矢先、半年か一年で逃出された日にはたまらない。(略)
殊に自由廃業と云う強味があるから、イザとなれば警察へ駆け込んで、抱主が虐待するとか、病身でトテモ勤まらぬとか云うを口実に、自由廃業を結構する。それでは元も子もすって了わねばならぬ。(84頁)

 

・・・現在では様々な方面から意見が飛んできそうな書き方です。
その上で、労働者ではなく、雇う側に寄り添う内容であることが非常に印象的でした。

せっかくですので少し調べてみますと、

明治時代に入ると、1871年(明治4年)に「身分解放令」が出されるなど、人権問題を解消しようという流れがありました。
そのような中、翌1872年(明治5年)に明治政府は遊女の人身売買規制などを目的として「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件」、いわゆる「芸娼妓解放令」を発しましたが、売買春を禁止するものではなく、法律としての機能はあまりなかったようです。

また、別の名を「牛馬きりほどき令」とも呼ばれています。
これは、「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラズ」との文言が含まれていたことに由来しますが、続く文章を含めると、つまり
「娼妓は人身の権利を失っている人たちで、牛馬に外ならない。人が牛馬に物の返済を求める理由はないから、今まで娼妓に貸したお金はすべて返済を求めてはいけない。」
という記載がされていたのだそうです。

いくら人権を守ろうとする動きであろうと、このような内容が実際に法律に記されていたとは・・・言葉を失ってしまいます。

その後、1900年(明治33年)には「娼妓取締規則」が発布され、そのなかで「自由廃業」が規定されたものの、「廃業の自由」は事実上不可能だったようです。
ただ、法律では規定されていますから、抱え主の権利を“守る”ためにも、書籍ではその点に触れながら証文の書き方が解説されていたのですね。

 


 

続いて、訴訟等にかかる証文の解説がなされています。
法律事務所としては思わず注目してしまう記載ばかりです。

・委任状
意識したことはありませんでしたが、確かに証文といえますよね。
何か手続きをおこなう際には、ほぼ100%、依頼者の方から委任状をいただきますので、非常になじみがあります。
なお、紹介されているのは、特定の目的に応じたものではなく、何にでも応用できそうなひな形でした。 

 

・登記申請書
現在の登記申請先である法務局は、現在の憲法ができた際、裁判所法が施行されたことにより、裁判所から「司法事務局」として独立した機関です。
そのため、当時の申請先として「裁判所」とされています。

 

・強制執行申請書
「申立」ではなく「申請」とのこと。
ただ、「仮差押え」「執行文」「送達」といった言葉も使われており、大枠としてはあまり変わっていないのだなと驚きました。

 

・民事訴訟の証文
こちらも形式は大きく変わらない印象です。
訴状に請求の目的(訴額など)、請求の原因、証拠方法を記載するほか、印紙を貼る運用も同じです。ただし、控訴の場合、印紙額は第1審の半額であったそうです(今は逆ですから驚きです)。

 

・人事訴訟の証文
現在の家事事件にあたるものが多く記載されていますが、書式としては「訴状」だったようです(現在は「申立書」でしょうか)。
離婚請求をする場合の管轄が夫の所在地裁判所とされていたり、「禁治産」という記載がされていたり、こちらも「過去のものだな」という印象を強く受けました。

 

・刑事訴訟の証文
「告訴状」という書式や、当事者を「告訴人」「被告人」とすることなど、大きな違いは感じませんでした。ただ、公訴に付帯して私訴を起こす場合に「私訴申立書」を提出するなど、細かな手続きによる書面の違いなどは様々あったようです。

 


 

最後に、もう一点興味深かったのは巻末のページです。

 

非常に親切だと思いませんか?
現在の書籍でもこうした記載をしているものがあるのか、探してみようと思います。

◇ ◇ ◇

   

以上、本日は「間違ひのない証文の書き方」をご紹介しました。

なお、こちらの書籍の内容は国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧することができます。他の記載も気になる方は、ぜひご覧になってみてください。

 

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参照:
Wikipedia
コトバンク
法務局HP
品川区/しながわデジタルアーカイブ