法律で読み解く百人一首 55首目

特定の基準で「優れたもの」を選出し、世間の評価を決定づける方法は様々あります。

例えば「賞」に選ばれたり、絶大な影響力を持つ人物・団体によって「お墨付き」をもらったり、特定の専門誌・メディアへ抜擢されたり・・・

対象となればすぐさま高い注目を集め、それまでなかなか日の目を見なかったものが評価されたり、あるいは既に著名なものが改めて広く評価されたりなど、各芸術文化をより高める好機となっているのではないでしょうか。

平安時代にも、話題性や大衆性にとらわれず「その分野で本当に優れているもの」を選定し、評価の基準を作った人物がいます。

自らの審美眼を磨き、優れたものを評価・普及したことで、多くの作者やその作品たちが1000年以上もの間にわたり様々な時代・場所で親しまれています。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど

名こそ流れて なほ聞えけれ」  

大納言公任


「たきのおとは たえてひさしく なりぬれど

なこそながれて なほきこえけれ」

だいなごんきんとう

  

小倉百人一首 100首のうち55首目。
平安時代中期の歌人、大納言公任による「雑」の歌となります。

 

 

 

 

 

歌の意味

 

滝の音が響かなくなってからもう長い年月が過ぎ去ってしまったが、その名声は流れ伝えられて、今もなおよく人々に知れ渡っていることだよ。

 

滝の音は
この「滝」は、平安初期に嵯峨天皇の離宮・嵯峨院(現・大覚寺)に作られた日本最古の庭池にあった滝のこと。公任が訪れた当時は水が枯れていた。

絶えて久しくなりぬれど
「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形。
「ど」は逆説確定条件(~けれども/~のに)をあらわす接続助詞。
「(滝の音が)絶えてから長い時間が経ったが」となる。

名こそ流れて
「名」は評判や名声の意。
「こそ」は強調の係助詞。
自動詞「流る」は「広まる/次第に伝わる」の意。

なほ聞こえけれ
副詞「なお」は「それでもやはり」、
自動詞「聞こゆ」は「評判になる/世間に知られる」の意。
「けれ」は詠嘆の助動詞(「けり」の已然形)なので、全体で「それでもやはり、評判になっているなあ」となる。

※「音」「流れ」「聞こえ」は、「滝」の縁語。

 

 

 

作者について

 

大納言公任(だいなごんきんとう・966-1041)

 

本名は藤原公任。平安時代中期の公卿・歌人で、中古三十六歌仙の一人です。
関白太政大臣である父・藤原頼忠と、醍醐天皇の孫である母・厳子女王の長男として生まれました。

父方の祖父は元・関白太政大臣の藤原実頼。さらに、従兄弟には

具平親王:漢詩、歌、管絃、書道、陰陽道、医術に精通した当代随一の教養人
藤原実資:三代の天皇に仕えた朝廷の御意見番的人物
藤原佐理:日本書道史における「三跡」の一人

が揃うなど、政治的・芸術的に名門一族の出身でした。

周囲からの期待も大きく、15歳の元服直後には異例の正五位下に叙せられ(例えるなら、新卒入社後に部長・次長クラスへ出世するようなもの)、実に輝かしい貴族社会デビューを果たしました。

親の七光りかと思いきや、高い実力も備わっていた公任。
18歳(あるいは19歳)で参加した花山天皇主催の大規模な歌合において、若いながらベテラン歌人たちと互角以上に渡り合うなど、その教養・才能も発揮していきました。

事務能力も非常に優れていたため、当初は順調に昇進。さらには姉が円融天皇の皇后になっていたこともあり、まさに向かうところ敵なしでした。

しかし、順風満帆と思われたその歩みに、徐々に影が差し始めます。

 

当時の藤原家は、父・頼忠がトップにいたことからその家系である「小野宮流」が優位にありましたが、唯一の弱みは【天皇との外戚関係がないこと】でした。

公任が24歳の頃、寛和の変によって花山天皇が出家したため、まだ幼い一条天皇が即位。すると、外祖父である藤原兼家(道長の父。九条流)が摂政となって朝政を牛耳るようになり、頼忠は関白を辞職。失意のなか989年に亡くなり、公任は後ろ盾を失ってしまいました。

こうして政治の実権は「九条流」へと移り、一族は重要なポストを独占。公任の昇進は完全に停滞してしまいました。
最終的には、公任の又従兄弟(親同士が従兄弟)である道長が実権を握るに至り、公任はその政権を支える立場となったのです。

50代になると昇進の望みもなくなり、さらに2人の娘が立て続けに亡くなったことから、政治の舞台から引退して出家しました。
晩年には山荘を営み、現在はその跡に「朗詠谷」(標石)が残されています。

 


 

華々しい生まれながら、政治的には大成することができなかった公任。
しかし、芸術的には圧倒的に優れた感性を持っていました。その守備範囲は和歌のみならず、漢詩、管弦のすべてに精通し、文化人として名を馳せたのです。

その功績は、平安時代の「美の規範」を作り上げたと称されるほど。
道長にも負けない、数々のエピソードが残されています。

 

①自己評価も高め「三舟の才」

道長が大堰川(現在の桂川)で舟遊びを催した際、「漢詩の舟」「管絃の舟」「和歌の舟」と3つに分け、各分野で秀でた人たちを乗せるということがありました。
道長が公任にどの舟に乗るのかを尋ねると、「和歌の舟」を選び、次の歌を詠んで称賛されました。

小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき

(小倉山や嵐山から吹き下ろす風が冷たいので、紅葉の葉が散って人々にかかり、皆が錦の着物を着ているようだ。)

 

その後、公任は

「漢詩の舟を選んで、この和歌くらい良い漢詩を作っていたら、もっと名声が上がっただろうに。残念なことをした。」

「それにしても、道長殿に乗る舟を聞かれたときは気分がよかった。(道長の発言は漢詩・管絃・和歌いずれも才能があると見越したものだから)得意にならずにいられなかった。」

と言ったそうです(「大鏡」より)。

 

②ほんのわずかに貢献?「源氏物語」との繋がり

1008年11月1日、土御門殿(道長の邸宅)で宴が開かれたときのこと。
酒に酔った公任は、紫式部を見つけると声をかけました。

あなかしこ。このわたりに若紫やさぶらふ

(恐れ入りますが、このあたりに若紫の姫君がおられるのでは?)

 

他の人との話していたところを割り込まれた紫式部。公任の野暮な態度に、

源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむ

(光源氏に似ている人がいないのに、まして紫の上がいるかしら)

 

と、聞き流したのでした(「紫式部日記」より)。

この一件、公任は自分の教養を誇示するため一方的に声をかけました。
酒失ともいえるこの行動、実は源氏物語の作者が紫式部である(※諸説あり)ことを後世に伝える役割を果たしています。

当時は書物に作者の名前が記されませんでしたが、源氏物語は、紫式部が自分の日記に作者であることの「匂わせ」をしたことで彼女が作者だと判明した経緯があり、公任とのエピソードもその「匂わせ」の一つなのです。

公任の失態も、歴史の謎を解明したほんの少しの功績といえるでしょうか。

   

③司法に物申した「着釱勘文」

法律繋がりでひとつ、興味深いエピソードがあります。

検非違使別当、つまり現代でいう警察と裁判所を兼ねたような官職のトップにあった公任は、当時の判決文である「着釱勘文(ちゃくだいかんもん)」に懲役の年数を明記する運用を初めておこなったとされています。

公任は、窃盗等はその被害額の総額に応じて徒(律令制度における刑罰のひとつ。懲役刑に相当)の年数が定められているにもかかわらず、検非違使らは単に「徒刑に処す」と言うだけで、具体的な年数が計算・明記されない運用となっていたことに異を唱えました(「権記」より)。

当時の朝廷では大きな議論を呼んだものの、公任の「法に忠実な姿勢」は高く評価されたといいます。

 

④和歌の評価基準を確立「三十六人撰」

公任が撰者となった秀歌撰「三十六人撰」があります。万葉集をはじめ古今和歌集や後撰和歌集に歌が採用された36名を選び、計150首の歌をとりまとめたものです。よく耳にする「三十六歌仙」とはこの作者らを指す言葉で、うち25名が百人一首に選ばれています。

これは単に優れた歌人・和歌を集めた歌集ではありません。公任は、万葉の時代から自身の現代に至るまでを俯瞰し、「歴史上本当に偉大な歌人は誰か」という視点で36名を選んだのです。

その後盛んに作られた三十六歌仙形式の「元祖」となり、この歌集で公任が「優れている」としたものは、後の歌人の評価基準となりました。

 

⑤公任の審美眼が認められた「拾遺抄」

公任による私撰和歌集「拾遺抄」は、花山上皇が勅撰和歌集(拾遺和歌集)の目安にするため編纂を命じられたと考えられています。当時の歌壇は人材不足であったため、まだ30代前半であった公任に白羽の矢が立ちました。

「拾遺抄」が世に出ると、宮中では大人気となります。
花山上皇はこれをもとに「拾遺和歌集」を編纂し、公任自身の歌も15首採用されましたが、「拾遺抄」の評判があまりにも良かったため、この勅撰歌集はその影に隠れてしまったんだとか。この成功により、公任は和歌の歌壇で一目置かれる存在となりました。

 

美しさの基準を築いた「和漢朗詠集」

詩文集「和漢朗詠集」は、公任が漢詩文・和歌を集めて朗詠(漢詩の秀句に旋律をつけて歌うこと)のために編纂したものです。

もともとは道長の娘・威子入内の際に、贈り物の屏風絵に添える歌として編纂されたもの。その後、今度は公任の娘が道長の息子と結婚することになり、屏風絵の際に選定した和漢の詩文を娘の引き出物とすることにしました。そこで、当代随一の書家であった藤原行成に清書を依頼し、冊子のかたちにしたのだそうです。

近年では、皇居三の丸尚蔵館が所蔵する和漢朗詠集が国宝に指定されています。

 


 

公任の功績を一部ご紹介しました。
彼が官僚として成功していたら、日本の文化や歴史はどのように変わっていたでしょうか。

 

 

  

   

 

 

法人格否認の法理

 

さて・・・

 

名門出身で才能にあふれながらも、政界では主導する側ではなく、同じ藤原氏(九条流)である道長を支える立場となった公任。

何が彼らの運命を分けたのかはわかりません。
道長の勢力拡大はとどまるところを知らず、摂関政治などの戦略を経て、その地位を確固たるものにしていきました。

貴族として力を持つためには、才能だけでなく財力も必要です。
道長の総資産は、現代の価値に置き換えると数十億円以上あったとされ、その収入源は「荘園」でした。全国から多くの荘園を寄進させていたことにより、広大な私有地及び莫大な収入を得ていたのです。

 

この「寄進地系荘園」。
簡単にいえば、国司の課税に苦しむ荘園の所有者が貴族等に近づき

国司が手出しできないように、この荘園にあなたのお名前を貸してください。貸してくれるならお礼を支払います!

と「寄進した」形をとることで、国司の干渉を受けにくくしたもの。
名義と実態をずらすことで(現代でいえば「名義貸し」)、苦しい税金から逃れようとしたのです。

朝廷も黙って見ているわけにはいかず、違法な荘園を廃止・整備すべく、度々「荘園整理令」を発布しました。
すぐには上手く機能しなかったものの、道長の死から40年ほど経った頃に発布された「延久の整理令」(1069年)では、ルールの厳格化や藤原氏の縁の薄い後三条天皇の主導により、最終的には摂関家や大寺社の経済力削減や皇室経済の復興などの成果を上げることができました。

 

このように、「形式上の名義」と「実際の支配・利益」がずれるとき、法や権力はその実質に目を向ける必要があります。

「法人格否認の法理」もその一例です。
会社が独立した法人であるのが原則でも、その法人格が形骸化していたり、法律回避のために濫用されていたりする場合には、その「会社」という入れ物をこえて、実体を問うことがあります。

条文としては明文化されておらず、民法の信義則や権利濫用禁止といった一般条項を理論的基盤として、実質的公平を確保するために発展してきた法理です 。
1969年に最高裁で公式に認められて以降、多くの下級審判例の積み重ねによって、現在では裁判所や学説において確固たる地位を築いた判例法理として確立されています。

本日は、最高裁が初めて「法人格否認の法理」を明確に求めた判例をご紹介いたします(最一小判昭和44年2月27日)。

 


 

昭和36年、個人Xと株式会社Yの間で、Xが所有する建物の賃貸借契約が締結されました。
契約のきっかけは、Yの代表者であるAの従兄弟からXへ、従兄弟が店を電気屋を営んでいるので店を貸してほしい、と申し入れがあったことでした。

Xは法律に明るくなく、その「電気屋」が会社組織なのか個人経営なのかを明確に認識しないまま、「電気屋のA」に貸したものと考えていました 。一方、借り主側も株式会社という形態をとってはいたものの、実質的にはAの個人企業であり、税金対策のために会社組織にしていたに過ぎませんでした 。

その後、Xは自分が営む化粧品販売店を拡張するため、Aに対して期間満了に伴う明渡しを申し入れました。すると、昭和41年2月にAは原告に「昭和41年8月19日までに必ず明渡す」とA個人名義の念書を差し入れました。

しかし、約束の期日を過ぎてもAは明け渡しをおこなわず、賃料の支払いも滞ったため、XはA個人を被告として店舗明渡請求訴訟を提起しました。
そして、この訴訟の係属中である昭和42年3月、以下の内容で和解が成立しました。

・賃貸借契約を合意解除すること
・Aは昭和43年1月末日までに店舗を明渡すこと
・明渡しと引き換えに、XはAに5万円を支払うこと

ところが、この和解成立から数日後、Aは「店舗は会社が借りているのだから、個人として使用している四畳半は明渡すが、会社の使っている部分は明け渡さない」などと主張し始めました。

これを受け、Xは改めて「株式会社」としてのYを相手取り、所有権に基づいて建物の明け渡しと使用損害金の支払いを求める本訴を提起するに至りました。

 

第一審は、Yは実質的にAの個人企業であり、昭和42年3月の和解をもって賃貸借契約は合意解除されたと認めるのが相当であると判断。
その結果、被告会社に対し、昭和43年1月末日までの店舗明渡し及び損害金支払いを命じました。

Y側はこれを不服として控訴。
Aは、第二審でも引き続き「この念書への署名も、その後の和解も、控訴人(Y)としては拒絶した上で、あくまでA個人としておこなった」と供述しましたが、裁判所はこれを到底信用できないとし、控訴の訴えを棄却しました。

すると、Y側は再度これを不服として上告しました。

 

そして迎えた上告審。
最高裁はまず、会社と個人が別の人格であるという大原則を認めつつも、「法人格」とはそもそも何のためにあるのか、その本質を述べました。

 およそ社団法人において法人とその構成員たる社員とが法律上別個の人格であることはいうまでもなく、このことは社員が一人である場合でも同様である。しかし、およそ法人格の付与は社会的に存在する団体についてその価値を評価してなされる立法政策によるものであつて、これを権利主体として表現せしめるに値すると認めるときに、法的技術に基づいて行なわれるものなのである。

 

さらに、その「法人格」を否認するための要件として「形骸化」「濫用」の2つを提示し、この法理が適用されるとどのような結果になるのかを述べました。

従つて、法人格が全くの形骸にすぎない場合、またはそれが法律の適用を回避するために濫用されるが如き場合においては、法人格を認めることは、法人格なるものの本来の目的に照らして許すべからざるものというべきであり、法人格を否認すべきことが要請される場合を生じるのである。そして、この点に関し、株式会社については、特に次の場合が考慮されなければならないのである。
 思うに、株式会社は準則主義によつて容易に設立され得、かつ、いわゆる一人会社すら可能であるため、株式会社形態がいわば単なる藁人形に過ぎず、会社即個人であり、個人則会社であつて、その実質が全く個人企業と認められるが如き場合を生じるのであつて、このような場合、これと取引する相手方としては、その取引がはたして会社としてなされたか、または個人としてなされたか判然しないことすら多く、相手方の保護を必要とするのである。ここにおいて次のことが認められる。すなわち、このような場合、会社という法的形態の背後に存在する実体たる個人に迫る必要を生じるときは、会社名義でなされた取引であつても、相手方は会社という法人格を否認して恰も法人格のないと同様、その取引をば背後者たる個人の行為であると認めて、その責任を追求することを得、そして、また、個人名義でなされた行為であつても、相手方は敢て商法504条を俟つまでもなく、直ちにその行為を会社の行為であると認め得るのである。けだし、このように解しなければ、個人が株式会社形態を利用することによつて、いわれなく相手方の利益が害される虞があるからである。

 

そして、本件については、原審が認定した以下の事実を法理に照らし、

①被上告人(家主)は、本件店舗の契約書上の賃借人を「上告会社」として貸し出したが、この会社は本来、Aが自身の経営する「電気屋」の税金を安くする目的で設立したものであった 。

②A自身が代表取締役となってはいるが、会社とは名ばかりで、その実質は「全くのAの個人企業」に他ならない 。

③家主側も、実態は「電気屋のA」に貸したと考えていた 。

④店舗の明け渡しを求めた際も、Aは「必ず明け渡す」という個人名義の書面を差し入れ、その後の訴訟でも「Aは昭和43年1月末までに明け渡す」という裁判上の和解を個人として結んでいる 。

 

被告の主張を、法人格という形式を悪用して相手方の利益を不当に害するものであると判断。上告は棄却されました。

右事実を前示説示したところに照らして考えると、上告会社は株式会社形態を採るにせよ、その実体は背後に存するA個人に外ならないのであるから、被上告人はA個人に対して右店舗の賃料を請求し得、また、その明渡請求の訴訟を提起し得るのであつて(もつとも、訴訟法上の既判力については別個の考察を要し、Aが店舗を明渡すべき旨の判決を受けたとしても、その判決の効力は上告会社には及ばない)、被上告人とAとの間に成立した前示裁判上の和解は、A個人名義にてなされたにせよ、その行為は上告会社の行為と解し得るのである。しからば、上告会社は、右認定の昭和43年1月末日限り、右店舗を被上告人に明渡すべきものというべきである。しかして、上告人の違憲の主張は、単なる法令違反の主張に過ぎず、原判決には何等所論の違法はなく、論旨はいずれも採用に値しない。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

 

本日の歌「滝の音は」について、その詞書は次のように記されています。

大覚寺に人人あまたまかりたりけるに、ふるきたきをよみ侍りける

(大覚寺へ、大勢の人々と一緒に参上いたしました折に、古い滝を題材として詠み申し上げました)

 

大覚寺(京都市右京区嵯峨大沢町)はもともと、嵯峨天皇が檀林皇后との新居として建立した離宮。当時、唐の湖を模した日本最古の人工庭池である大沢池が築造され、その際に高低差を利用した人工の滝が造られました。

それからおよそ180年。999年9月に道長が嵯峨を訪れた際に公任も同行し、この歌を詠んだといいます。

彼が目にしたその「古い滝」は、すでに水が枯れてしまっていました。
しかし、公任が「滝の音は」を詠んだことによって、この場所は「名古曽の滝」として人々に知られることとなり、一度は役目を終えた滝が公任の手によって蘇ったのでした。

 

現在、大覚寺は開創から何と1150年。公任が詠んだ滝は、国指定の名勝地(大沢池附・名古曽滝跡)となっています。

嵯峨天皇が美しさを求めて作った場所が、時を経て公任により新たな価値を加えられ、さらにその後もこの土地に息づき、現代の私たちにその軌跡を伝えています。
(ちなみに、過去には切絵御朱印「名古曽滝跡と公任」が作られるなど、授与品にもたびたび公任が登場しているようです)

個人的に、大覚寺はいつか訪れてみたい寺社仏閣のひとつでした。
参拝の折にはぜひ大沢池エリアにも足を運び、公任が目にした風景を想像しながらこの歌をそらんじてみたいものです。

 

 

 

  

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 

 

 

 

法律で読み解く百人一首 29首目

2024年も残すところわずかとなりました。

今年も法律に関するニュースが沢山あったように思います。
袴田事件の無罪確定、「不適正」と認定された特捜部検事の取調べなど、大々的に報道されたものは特に印象的だったのではないでしょうか。

 

しかし、このように話題になる事件はごく一部で、裁判所では日々多くの事件が取り扱われています。
新件を申し立てるときには、事件番号がふられるたび、その数の大きさに「世の中これだけトラブルがあるのか・・・」と実感させられるほど。

そして、こうした事件の数だけ「判決」が誕生するのですね。

 

この「判決」。
裁判所が一定の手続を経て出しているものであるだけに、
「一度出されたら絶対に変わることがない」という気がしませんか?

しかし、法律が時代・社会と共に変わっていくように、
判決もまた、そうした変化の中で見直されることがあります。

これを「判例変更」といいます。

ここで気になるのは、
「変更前に適法とされていたことが、「判例変更」によって違法になってしまったとき、その行為はどのように判断されてしまうのか」
という点ではないでしょうか。

変更前の行為であれば問題にならないのか、
はたまた、過去に遡って処罰対象となってしまうのか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「心あてに 折らばや折らむ 初霜の

置きまどはせる 白菊の花」  

凡河内躬恒


「こころあてに をらばやをらむ はつしもの

おきまどはせる しらぎくのはな」

おおしこうちのみつね

 

小倉百人一首 100首のうち29首目。
平安時代前期の歌人・官人、凡河内躬恒による「秋」の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

もし折るならあてずっぽうに折ってみようか。初霜が降りて見分けがつかなくなっている白菊の花を。

 

心あてに
心当て=当て推量、という意の名詞。
「当て推量に」「あてずっぽうに」となるが、その他「心をこめて」「よく注意して」と訳す説もある。

折らばや折らむ
接続助詞「ば」は仮定条件で訳す。
意志の助動詞「む」はすぐ前の係助詞「や」との係り結び(=疑問や反語、協調などで用いられる表現)。
「もし折るならば折ってみようか」と訳される。

初霜
その年の晩秋に初めて降りた霜。

置きまどはせる
「置く」は霜や露が「降りる」こと、
「まどはせる」は「混乱させる」「悩ませる」などの意。

白菊の花
上の句の「折らばや」に続く。倒置法。

 

 

作者について

 

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね・859?-925?)

 

平安時代前期の歌人・官人ですが、正確な生没年は分かっていません。
894年に甲斐国(現・山梨県)の役人に任命され、その後は丹波国(現・京都府中部、兵庫県北東部)、和泉国(現・大阪府南西部)、淡路国(現・兵庫県淡路島)などの役人を歴任しました。

役人としての官位は五位とそれほど高くありませんでしたが、歌人としての評価は高く、多くの歌会や歌合せに参加し、活躍しました。
その才能は紀貫之と並び称され、共に当時の代表的歌人として宮廷の宴に呼ばれたり、三十六歌仙に選ばれたり、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」を撰上するなどしました。

本来であれば昇殿も許されないような身分であり(それゆえに生没年などの情報も記録が残っていません)、役人としての給与も少なかったことでしょう。
しかし、「歌人」という職業がない頃に、躬恒は歌によって副収入を得ていました。
それほどの才能の持ち主でした。

朝廷に召されるたびに報奨を賜ったり、上級貴族の邸宅に招かれて屏風歌を詠むことで褒美を与えられたり。また、先に述べた「古今和歌集」の選者としても報奨を得られたと考えられます。

単なる役人の一人であれば、その名前が後世に残ることはなかったでしょう。躬恒が詠む歌の人気はそれほど高いものだったのです。

 

  

判例変更と遡及処罰の禁止

 

さて・・・

 

平安貴族の働き方というのは、実際どのようなものだったのでしょうか。

文学作品やドラマの影響が大きいように思いますが、

朝廷での宴に参加したり、
和歌を詠んだり、楽器を嗜んだり、
時には恋愛関係を楽しんだり・・・

そうしたことが「仕事」だったのではないか、という印象もあります。

一部の上流貴族にはあてはまることがあるかもしれません。
しかし、貴族・役人らというのは基本的に忙しかったようです。

 

平安時代の貴族は日記をつけるのが一般的でした。
現在では読み物として出版されている物もあります。

清少納言のエピソードで登場した藤原行成は「権記」、
大河ドラマで注目を集めた藤原実資は「小右記」を残しており、
そこには朝から晩まで働く日々のこと、朝廷において細やかに決められた作法や行事(年間約100ほどあり、月によっては毎日何かしらの行事がおこなわれる状態だったとのこと)について綴られています。

 

このように、実はかなり多忙な職場環境だったのです。
いまなら「ブラックな職場」と言われてしまうかもしれません。

 

そんなとき、今日では処遇改善を求めるための手段が複数ありますが、
そのひとつに「ストライキ」があります。

朝廷で働く彼らは、いわば公務員のような立場。

過去に、公務員による争議行為(※)について、判例変更と遡及処罰の禁止に関する判断がされた事例があります(最判平成8年11月18日)。

※同盟罷業、怠業、作業所閉鎖その他労働関係の当事者が、その主張を貫徹することを目的として行う行為及びこれに対抗する行為であって、業務の正常な運営を阻害するものをいいます(厚生労働省HPより)。

 


 

公務員の争議行為禁止については、以下の事件によって最高裁の基本的見解に変遷が生じました。なお、紹介事例の犯行時点は②と③の間となります。


①地方公務員法違反事件「都教組事件」(最大判昭和44年4月2日
1969年(昭和44年)、東京都教職員組合(都教組)が勤務評定制度に反対し、一斉に有給休暇を取って学校を休みにするというストライキを決行したところ、これが地方公務員法に違反する「同盟罷業」にあたるとして、都教組の執行部が起訴された事件。
裁判所は、処罰対象となるのは争議行為・あおり行為ともに違憲性の強いものに限られるという、いわゆる「二重のしぼり」の限定をし、被告人を無罪とした。
同日言い渡された国家公務員法違反事件である「全司法仙台事件」(最大判昭和44年4月2日)でもこの考えが明示されたため、「二重のしぼり」論は国家公務員法、地方公務員法の両方における判例となっていた。

②国家公務員法違反事件「全農林警職法事件」(最大判昭和48年4月25日
1958年、警察官職務執行法の改正案が提出され、この改正案に反対する運動が展開された。この運動に全農林労働組合も参加し、組合員に対して争議行為への参加を呼びかけましたところ、これが国家公務員法が禁止する「違法な争議のあおり行為」に該当するとして、組合役員が起訴された。
裁判所は「二重のしぼり」論を否定し、「全司法仙台事件」の解釈を明示的に変更したが、一方で地方公務員法違反である「都教組事件」判決については明示的に変更していなかった。

③地方公務員法違反事件「岩教組学力調査事件」(最大判昭和51年5月21日
1956年から1965年にかけて、文部省(現在の文部科学省)が実施した「全国中学校一斉学力調査」に対し、岩手県教職員組合(岩教組)が、その実施に反対し、学力調査のボイコットや、調査用紙の破棄などをおこない、当該行為が「争議行為等の禁止」に違反するとして組合役員らが起訴された。
裁判所は、この判決において地方公務員法違反についても「二重のしぼり」論を否定し、これによって「都教組事件」判決についての解釈が明示的に変更された。


被告人Xは、A県教職員組合の中央執行委員長であったところ、日本教職員組合(以下「日教組」)が昭和49年4月11日に全国規模でおこなった全一日ストライキに際し、傘下の公立学校教職員に対し、同盟罷業の遂行のあおりを企て、かつこれをあおったとして、地方公務員法違反の罪で起訴されました。

一審(盛岡地判昭和57年6月11日)は、被告人に対して無罪を言い渡し、控訴審(仙台高判昭和61年10月24日)もこれを是認。
これに対して、検察官から上告の申立てがあり、第一次上告審(最一小判平成1年12月18日)は原判決を破棄、仙台高裁に差し戻しました。

これを受けて原判決(仙台高判平成5年5月27日)が公訴事実の一部について有罪判決を言い渡したこところ、被告人から、処罰範囲を拡張する方向で判例を変更し、これを被告人に適用して処罰することは、遡及処罰を禁止した憲法39条に違反するとして上告が申し立てられました。

 

(遡及処罰、二重処罰等の禁止)
憲法39条「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」

 

これについて最高裁は、

行為当時の最高裁判所の判例の示す法解釈に従えば無罪となるべき行為を処罰することが憲法39条に違反する旨をいう点は、そのような行為であっても、これを処罰することが憲法の右規定に違反しないことは、当裁判所の判例の趣旨に徴して明らかであり、判例違反をいう点は、所論引用の判例は所論のような趣旨を判示したものではないから、前提を欠き、その余は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張

 

と判断し、「判例」とは「法」ではないため、憲法39条違反には当たらないとして上告を棄却しました。
なお、判決には裁判官による補足意見が付されました。

私は、被告人の行為が、行為当時の判例の示す法解釈に従えば無罪となるべきものであったとしても、そのような行為を処罰することが憲法に違反するものではないという法廷意見に同調するが、これに関連して、若干補足して述べておきたい。
判例、ことに最高裁判所が示した法解釈は、下級審裁判所に対し事実上の強い拘束力を及ぼしているのであり、国民も、それを前提として自己の行動を定めることが多いと思われる。この現実に照らすと、最高裁判所の判例を信頼し、適法であると信じて行為した者を、事情の如何を問わずすべて処罰するとすることには問題があるといわざるを得ない。しかし、そこで問題にすべきは、所論のいうような行為後の判例の「遡及的適用」の許否ではなく、行為時の判例に対する国民の信頼の保護如何である。私は、判例を信頼し、それゆえに自己の行為が適法であると信じたことに相当な理由のある者については、犯罪を行う意思、すなわち、故意を欠くと解する余地があると考える。もっとも、違法性の錯誤は故意を阻却しないというのが当審の判例であるが(最高裁昭和23年(れ)第202号同年7月14日大法廷判決・刑集2巻8号889頁、最高裁昭和24年(れ)第2276号同25年11月28日第三小法廷判決・刑集4巻12号2463頁等)、私は、少なくとも右に述べた範囲ではこれを再検討すべきであり、そうすることによって、個々の事案に応じた適切な処理も可能となると考えるのである。
この観点から本件をみると、被告人が犯行に及んだのは昭和49年3月であるが、当時、地方公務員法の分野ではいわゆるB教組事件に関する最高裁昭和41年(あ)第401号同44年4月2日大法廷判決・刑集23巻5号305頁が当審の判例となってはいたものの、国家公務員法の分野ではいわゆるC警職法事件に関する最高裁昭和43年(あ)第2780号同48年4月25日大法廷判決・刑集27巻4号547頁が出され、B教組事件判例の基本的な法理は明確に否定されて、同判例もいずれ変更されることが予想される状況にあったのであり、しかも、記録によれば、被告人は、このような事情を知ることができる状況にあり、かつ知った上であえて犯行に及んだものと認められるのである。したがって、本件は、被告人が故意を欠いていたと認める余地のない事案であるというべきである。
このように、被告人は、私見によっても処罰を免れないのであり、被告人に地方公務員法違反の犯罪の成立を認めた原判決に誤りはなく、刑訴法411条1号に当たるとすることはできないのである。

 

(以上、判例タイムズ926号153頁参照)

 

  

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

本日の歌の作者である躬恒。

上記のとおり、当時は評判が高かったものの
明治の歌人・正岡子規は「心あてに…」に辛口のコメントを出しています。

著書「歌よみに与ふる書」で確認することができるのですが
ざっくり、どのような内容かというと・・・

   

百人一首だから皆口ずさむけれど、一文半文の値打ちもない駄歌。
初霜くらいで白菊が見えなくなるわけない。趣向が嘘であれば趣もへちまもない。つまらない嘘だからつまらない。

 

かなりけちょんけちょんです。

さらには、同じ百人一首から中納言家持の歌(6首目)を引き合いに出してほめるなど、「躬恒に恨みでもあるのでは?」と思ってしまう書きぶりですが、子規に酷評されているのは躬恒だけではありません(あの紀貫之も、なかなか厳しいコメントを付けられています)。

色々な方の考察を拝見していると、子規は過去の歌人を文字通り否定していたわけではなく、旧派の歌人たちを攻撃するためにこのような記載をしていたとのことで、歌の近代化を目指す活動のひとつであったようです。

 

当時は良しとされていたものが、時代の流れによって異なる評価をされる。
法律も芸術も、そうした変化に柔軟に対応し、その時々のベター、ベストを模索していく必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー