法律で読み解く百人一首 40首目

新型コロナウイルスの流行が落ち着いてから久しくなりました。

パンデミックにより変化したことのひとつに、
「オンライン化」「リモート化」があるのではないでしょうか。

 

法律事務所として印象的であったのは、民事裁判手続のデジタル化です。
パンデミック前から法改正に向けて進められていたものの、期日のオンライン運用(一部地方裁判所における、ウェブ会議を用いた争点整理手続の運用)が始まったのが、くしくも2020年2月頃でした。

偶然のタイミングではありましたが、大変な状況ながらも事件の進行停止を避けることができた一方、それまでとは勝手も異なるため、裁判所も弁護士も当初は手探りの状態だったのではないかと想像するところです。

 

こうした裁判手続に限らず、人と人が顔をあわせる場面では、無意識のうちに相手の様子や場の雰囲気から感じ取っている情報があるのではないでしょうか。

自分はポーカーフェイスのつもりでも、はたから見れば、想像以上に考えが表情に出てしまっているかもしれません。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 

 本日の歌  「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は

ものや思ふと 人の問ふまで」  

平兼盛


「しのぶれど いろにいでにけり わがこひは

ものやおもふと ひとのとふまで」

たいらのかねもり

 

 

 

 

小倉百人一首 100首のうち40首目。
平安時代前期の貴族・歌人、平兼盛による「恋」の歌となります。

 

 

 

 

歌の意味

 

人に知られまいと心に秘めてきたけれど、とうとう顔色に出てしまっていたようだ。
私の恋は、「何か物思いをしているのですが?」と人が尋ねるほどまでに。

 

 

しのぶれど
ここでの「忍ぶ」は、「人目につかないように隠す、秘密にする」の意。
接続助詞「ど」は逆説確定条件のため、「~けれども」「~のに」と訳す。

色に出でにけり
「色」は顔色、表情、態度の意。
「色に出づ」で「(思っていることが)顔やそぶりに表れる。態度に出る」の意味がある。
「に」は完了の助動詞「ぬ」の活用形で「~てしまった」、
「けり」は詠嘆の助動詞で「~だなあ」と訳す。

わが恋は
係助詞「は」は強調。
この歌は「わが恋」が主語の倒置法になっている。

ものや思ふと
「物思ふ」は物思いにふける、思い悩むの意。
「や」は疑問の係助詞で「~か」となる。「思ふ」に係り結びしている。
ここの「ものや思ふ」は会話文。

人の問ふまで
「まで」は程度を表す副助詞。「~ほどに」「~くらいに」と訳す。
 
 

 

 

作者について

 

平兼盛(たいらのかねもり・不明-991)

  

平安中期の貴族・歌人で、正確な生まれ年はわかっていませんが、光孝天皇(百人一首15番の作者)の玄孫として生まれました。
(「尊卑分脈」に系譜が記載されているものの、矛盾点も指摘されており、ひ孫であった説も提示されているとのこと)

950年に臣籍降下(皇族が姓を与えられて皇室を離れ、臣下の籍に降りること)し、平姓となります。越前国(現在の福井県北東部)、山城国(現在の京都府南部)、駿河国(現在の静岡県中部、北東部)などの地方官を務めました。
官位は、最終的に従五位上にまで至っています。

歌人としては、三十六歌仙の一人に選ばれています。
壬生忠見のエピソードでもご紹介したとおり、960年の天徳内裏歌合では接戦の末に勝利をおさめました。
また、968年の「大嘗会屏風歌」(※)をはじめとする多くの屏風歌を献上したほか、勅撰和歌集に90首近くもの歌が選ばれるなど、「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」における主要歌人の一人とされています。家集に「兼盛集」があります。

※大嘗会屏風歌:「大嘗会」は天皇が即位後初めておこなう新嘗祭のことで、その中の一儀式で用いる屏風をいう。10世紀頃に始り毎回、当時第一流の歌人、画家、書家により新造された。(コトバンク参照)

 

私生活では、天徳内裏歌合のわずか数年前に離婚を経験。
その後、別れた妻は後に役人である赤染時用という男性と再婚しました。そこで生まれたのが、百人一首59番目の作者・赤染衛門です。

「袋草紙」(平安後期の歌人・藤原清輔による歌論書)には、赤染衛門の母親が兼盛の子どもを身ごもった状態で再婚し、赤染衛門を出産したとする記述が残されています。
兼盛も「別れた直後に生まれたならば、自分の子であるに違いない」と、引き取ることを希望して検非違使庁(現在でいう警察のような役所)に訴えましたが、元妻は拒否。
さらには、赤染時用が「兼盛の妻であったころから関係があった」などと主張し(それもいかがなものかと思いますが)、最終的に兼盛には親権が認められませんでした。

 


 

そんな兼盛。
恋愛面ではついていなかったのか、別の女性との逸話も残っています。

平安時代に成立した歌物語「大和物語」は様々な人の歌とエピソードを集められたものですが、その中には兼盛を扱った箇所があります。
歌をやり取りしていた女性に結婚を申し込んだものの、その人には恋人がいて、何も知らない兼盛が引き続きアプローチしたところ、ついには女性が過去に兼盛が贈った歌を返して来たので、そこで振られたことに気づいた・・・

という、何とも残念な内容となっています。

 

 

  

 

夫婦の日常家事代理と表見代理

 

さて・・・

 

離婚した妻との親権争いに敗れてしまった兼盛。
2人が結婚生活を継続していれば、子育ての他にも、様々なことを共に協力して過ごしていたことでしょう。

 

現在の民法は、夫婦が日常生活を送るうえで発生する債務について、夫婦が連帯して責任を負うことを定めています。

民法761条(日常の家事に関する債務の連帯責任)
夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによって生じた債務について、連帯してその責任を負う。ただし、第三者に対し責任を負わない旨を予告した場合は、この限りでない。

 「日常の家事」とはひとことで言っても、夫婦によって生活や事情は異なり、その範囲も変わってくることでしょう。

 

また、民法は本来与えられた権限を超えておこなわれた行為でも、一定の条件を満たす場合には、その行為が有効となることを定めています。

民法110条(権限外の行為の表見代理)
前条第1項本文(※)の規定は、代理人がその権限外の行為をした場合において、第三者が代理人の権限があると信ずべき正当な理由があるときについて準用する。

※109条1項(代理権授与の表示による表見代理等)の条文は、
「第三者に対して他人に代理権を与えた旨を表示した者は、その代理権の範囲内においてその他人が第三者との間でした行為について、その責任を負う。ただし、第三者が、その他人が代理権を与えられていないことを知り、又は過失によって知らなかったときは、この限りでない。」

 

この「表見代理」について、761条が定める「日常家事」の範囲を超えた場合にも成立するのかという点が問題になる場合があります。 

これについて、裁判所の判断が示された事例があります(最判昭和44年12月18日)。

 

昭和24年頃、女性Xはとある不動産を売買により取得し(以下「本件不動産」)、同年中にその所有権移転登記を了していました。

やがてAと結婚しましたが、その後Aが経営していた事業は昭和37年3月に倒産。
当時、Yが経営する企業はAに対して800万円以上の債権を有していました。

そこでAは、昭和37年4月に自身をXの代理人であるとして、Yとの間で、本件不動産をYに売り渡す旨の売買契約を締結しました。この際AはXに許諾を得ず、契約書への記名押印など、契約締結の手続も勝手に進めていました。
そして、本件不動産については、同年中に原告・被告間に売買があったことを原因とする所有権移転登記がなされました。

その後の昭和39年6月、XとAは離婚。
XはYに対して本件不動産を売り渡したことはなく、かかる登記申請もおこなっていないため、上記の所有権店登記は無効であるとして、Yに対して抹消登記手続を求めて提訴しました。

 

これに対してYは、

・AはXから代理権を授与されて契約締結した
・仮にこれが認められなくとも、Aは民法761条により日常家事に関してXを代理する権限を有していたから、これを基に民法110条により表見代理が適用される

としたうえで、取引は有効であると主張しました。

1審、2審では、ともにXの請求が認められたため、これに対してYが上告。
裁判所は民法110条の表見代理の成立について、次のとおり判示しました。

民法761条は、「夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによつて生じた債務について、連帯してその責に任ずる。」として、その明文上は、単に夫婦の日常の家事に関する法律行為の効果、とくにその責任のみについて規定しているにすぎないけれども、同条は、その実質においては、さらに、右のような効果の生じる前提として、夫婦は相互に日常の家事に関する法律行為につき他方を代理する権限を有することをも規定しているものと解するのが相当である。

そして、民法761条にいう日常の家事に関する法律行為とは、個々の夫婦がそれぞれの共同生活を営むうえにおいて通常必要な法律行為を指すものであるから、その具体的な範囲は、個々の夫婦の社会的地位、職業、資産、収入等によつて異なり、また、その夫婦の共同生活の存する地域社会の慣習によつても異なるというべきであるが、他方、問題になる具体的な法律行為が当該夫婦の日常の家事に関する法律行為の範囲内に属するか否かを決するにあたつては、同条が夫婦の一方と取引関係に立つ第三者の保護を目的とする規定であることに鑑み、単にその法律行為をした夫婦の共同生活の内部的な事情やその行為の個別的な目的のみを重視して判断すべきではなく、さらに客観的に、その法律行為の種類、性質等をも充分に考慮して判断すべきである。

しかしながら、その反面、夫婦の一方が右のような日常の家事に関する代理権の範囲を越えて第三者と法律行為をした場合においては、その代理権の存在を基礎として広く一般的に民法110条所定の表見代理の成立を肯定することは、夫婦の財産的独立をそこなうおそれがあつて、相当でないから、夫婦の一方が他の一方に対しその他の何らかの代理権を授与していない以上、当該越権行為の相手方である第三者においてその行為が当該夫婦の日常の家事に関する法律行為の範囲内に属すると信ずるにつき正当の理由のあるときにかぎり、民法110条の趣旨を類推適用して、その第三者の保護をはかれば足りるものと解するのが相当である。

 

つまり、日常家事代理権を基礎に広く表見代理を認めるのではなく、「その行為が当該夫婦の日常の家事に関する法律行為の範囲内に属すると信ずるにつき正当の理由のあるとき」と、範囲を厳密に限定すると示したのです。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

兼盛の作風は基本に忠実で、内容も実生活に根ざしたものが多く、生活派(※)の歌人といわれたそうです。

※芸術上の一派。現実の生活を重視し、実生活の体験に基づいた創作をおこなうもの。特に、明治末期から大正時代にかけての近代短歌の一派をいう。(コトバンク参照) 

 

本日の「しのぶれど」は題詠されたもの。

表に出さないようにしていたつもりが、人から「もしかして恋してるのですか?」と聞かれて、自分の気持ちが表情に出てしまっていることに気づく・・・

というように、会話を取り入れた巧みな構成でありながら
現代の私たちも「そういうこともあるよね」と頷いてしまう、とても身近な内容となっているのです。

  

新しい景色を知ることのできる歌が数々ある一方、
時代を超えて共感できる作品に出会えることも、和歌の楽しさかもしれません。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 

 

 

 

 

法律で読み解く百人一首 67首目

現代のデジタル社会において、SNSは切っても切れない存在です。

非常に便利なツールである一方、情報が瞬く間にインターネット上で拡散されてしまうため、近年では情報漏えいや炎上・誹謗中傷など、SNS上のトラブルがニュースになることも少なくありません。

特に、いじめ問題や異性間のトラブルなど、人間関係に関するものであるほど人々の関心は高くなり、好奇の目にさらされやすいといえるでしょう。
内容次第では厳しい批判を受けたり、社会的信用を失ってしまうことも・・・

 

 

百人一首の時代では、そうした心配はもちろん不要です。
その代わり、人々による「噂」がとても強い力を持っており、社会的評判を決定づける重要なものさしとなっていました。

和歌、漢詩、楽器演奏の才能が広まれば出世や結婚につながり、逆に不評であれば命取りとなるため、現在のSNSよりはるかに扱いが難しかったかもしれません。

 

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 

 本日の歌  「春の夜の 夢ばかりなる 手枕に

かひなく立たむ 名こそ惜しけれ」  

周防内侍


「はるのよの ゆめばかりなる たまくらに

かひなくたたむ なこそおしけれ」

すおうのないし

 

小倉百人一首 100首のうち67首目。
平安時代後期の歌人、周防内侍による「雑」の歌となります。

 

 

 

 

歌の意味

 

春の夜の短い夢のようにはかない腕枕を借りたがために、つまらない噂になったら惜しいではありませんか。

 

春の夜の夢ばかりなる
「春の夜の夢」=連語。短く儚いものの例え。
「ばかり」=程度を表す副助詞。ここでは夢の長さを限定し、春の夜の長さの程度について表す。
「なる」=断定の助動詞「なり」
全体で「春の夜の夢のように儚い」。

手枕に
「手枕」は腕枕のこと。
ここでは、男女が一夜を過ごすときに男性が腕枕をすること。

かひなく立たむ
「かひなく」は「腕(かいな)」と「甲斐なし」の意味を含む掛詞。
「腕」は手枕にかかっており、「甲斐なし」は「無駄」「取るに足らない」などの意。

名こそ惜しけれ
「名」はうわさや評判のこと。「立たむ名」で「噂になってしまう浮き名」。
「こそ」は強調の係助詞で「けれ」と係り結び。

 

 

 

作者について

 

周防内侍(すおうのないし・1037?ー1109?)

本名は平仲子(たいらのちゅうし)。
平安時代後期の歌人で、女房三十六歌仙の一人です。

父は貴族・歌人である平棟仲、母は「小馬内侍」と呼ばれた後冷泉院の女房ですが、生没年は不明とされています。父が周防守(周防国=現在の山口県東部)を務めたことから、周防内侍と呼ばれました。夫や子どもについての記録は残っていません。

はじめは後冷泉天皇に出仕していましたが、1068年に天皇が崩御されたため一度宮廷を離れます。後三条天皇が即位したことで命を受けて再出仕し、その後は白河天皇、堀河天皇までの計4代の天皇に仕えました。

宮廷では40年以上にわたって典侍(※1)としてキャリアを積み、最終的には正五位下(※2)まで昇進しました。

※1)後宮にある「内侍司」(天皇のそばで様々な事務や儀式を司る機関)において上から2番目の役職。
※2)30段階に分けられた身分の序列「位階」のひとつ。正五位下は上から12番目。

一方、歌人としては様々な歌合に出席するなどして活躍。
詠題に秀でており、藤原顕輔(百人一首79番目の作者)や「後拾遺和歌集」の撰者である藤原通俊といった歌人らと親交があったとされています。

 


 

本日ご紹介する歌は「千載和歌集」に掲載されたもの。
詞書は次のとおり記されています。

 

二月ばかり月明き夜 二条院にて人人あまた居明して物語りなどし侍りけるに 内侍周防寄り臥して 枕をがなと 忍びやかに言ふを聞きて 大納言忠家これを枕にとて腕を御簾の下より差し入れて侍りければ よみ侍りける

 

つまり・・・

旧暦の2月頃、ある明るい月夜に二条院では人々が夜更けまで楽しく語らっていました。そんな中、眠くなってきたのか、周防内侍がふと「枕が欲しいわ」とつぶやきました。

すると、それを耳にした藤原忠家が「これを枕に」と御簾の下から自分の腕を差し入れてきたのです。ここで周防内侍が詠んだのが、本日の歌です。

 

藤原忠家は、百人一首の撰者である藤原定家の曽祖父にあたる人物。
高位貴族であった忠家と周防内侍では、その身分が大きく異なります。彼にしてみれば、ほんの戯れで声をかけてきたのでしょう。

これに対して、周防内侍は技巧に優れた歌を即興で詠みあげつつ、上品にかわしてみせたのでした。

 

ここで終わりかと思いきや、忠家も歌で切り返します。

契りありて 春の夜ふかき 手枕を いかがかひなき 夢になすべき

(縁があって春の夜更けに差出した手枕を、なぜ夢のように甲斐なくしてしまうのですか)

 

やられっぱなしでは終わりませんでした。
なお、実際の二人の関係は分かりませんが、こうした艶やかな歌をやり取りできてしまうのは、和歌の実力がある平安貴族ならではでしょう。

 

 

 

前科照会とプライバシー

 

さて・・・

 

忠家の誘いをさらりとかわした周防内侍。

人が集まる場での出来事であったため、返答内容によっては、その様子が瞬く間に世間に広まり、あることないことを噂されていたかも・・・

平安貴族、特に身分の高い人には常に側仕えの人間がいたはずですから、どこで誰が見聞きしているかは分かりません。

さらに、貴族が住んでいた寝殿造の屋敷は、言ってしまえばほとんど吹きさらし状態。外周は開放できる「蔀」(しとみ)と呼ばれる戸で覆われただけで、スペースを区切るのは几帳や屏風といった可動式の建具のみでした。

 

このように、平安を生きながらプライバシーを守るのは、物理的にもコミュニティ的にも大変だったのではないでしょうか。

とはいえ、この時代には当然プライバシーといった概念はありません。
「プライバシー権」が法的に確立されたのは19世紀のアメリカです。

日本憲法で「プライバシー権」を直接規定した条文はありませんが、
・13条(幸福追求権、個人の尊重)
・21条(通信の秘密)
・35条(住居の不可侵)
などから、解釈上認められるとされる動きがあります。

プライバシー権の侵害について判断された事例として、いわゆる「前科照会事件」があります(最三小判昭和56年4月14日)。

 


 

自動車教習所Aの指導員として勤務していたXは解雇されてしまったため、教習所の運営会社を相手取って従業員たる地位保全の仮処分を申請し、その関連事件が京都地裁及び中央労働委員会に係属していました。

Aから当該事件の委任を受けていた弁護士Bは、昭和46年5月、所属していた京都弁護士会を通じて、京都市伏見区役所に対し「中央労働委員会、京都地方裁判所に提出するため」として、弁護士法23条の2に基づくXの前科及び犯罪歴の照会をおこないました。

弁護士法
(報告の請求)
第23条の2 弁護士は、受任している事件について、所属弁護士会に対し、公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることを申し出ることができる。申出があつた場合において、当該弁護士会は、その申出が適当でないと認めるときは、これを拒絶することができる。
2 弁護士会は、前項の規定による申出に基き、公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求めることができる。

 

照会を受けた伏見区役所が中京区役所に回付したところ、中京区長はXの前科犯罪歴(道交法違反、業務上過失傷害、暴行)を回答しました。
するとAはこれを公表し、さらに経歴詐称を理由にXを予備的解雇とし、係属中の事件で新たに主張をなして争いました。

そのため、Xは中京区長が照会に応じたことについて、京都市を被告に
・名誉を毀損された
・予備的解雇に伴う裁判等により多大の労力、費用を要した
として、550万円の損害賠償及び謝罪文の交付を求めて提訴しました。

 

第1審は、

・弁護士法23条の2は弁護士の氏名、弁護士会の目的と切り離して考えることができず、この照会と回答のため、個人にプライバシー等が侵されることはあるのはやむを得ない。
・弁護士会からの法律に基づく照会である以上、不法不当な目的に供されることが明らかでない限り応ずるのが当然であり、そうした理由もないのに容易に拒絶できてしまえば、23条の間口を狭めて弁護士の活動を不便にするから、照会を受けた公務所等は原則として照会に応ずる義務がある。

として、Xの請求を棄却。Xは控訴しました。

第2審において、
裁判所は、弁護士法による照会を受けた公務所等は原則として報告義務を負うと認めたうえで

・前科や犯罪経歴が公表され、又は他に知らされるのは、法令に根拠のある場合や公共の福祉による要請が優先する場合等に限定されるべきもの。
・犯罪人名簿を補完する市町村が、本来の目的である選挙権及び被選挙権の資格の調査、判断に使用するほかは、一般的な身元証明や照会等に応じ回答するため使用すべきものではないと解するのが相当。
・弁護士の守秘義務は依頼者に対する委任事務処理状況の法屋義務に優先するものではなく、依頼者による秘密の漏洩・濫用を阻止するための制度上の保障は存在しない。
・よって、市町村は前科等について弁護士法23条の2に基づく照会があった場合には報告を拒否すべき正当事由がある場合に該当する、と解するのが相当。

以上から、本件において照会を拒否することなく報告した中京区役所の行為は違法であったとして、Xの請求を一部容認し、中京区役所に対して25万円の賠償を命じました。

国家賠償法
第1条 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
② 前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。

 

これを受けて役所側が上告したところ、最高裁は、

前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉、信用に直接にかかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有するのであつて、市区町村長が、本来選挙資格の調査のために作成保管する犯罪人名簿に記載されている前科等をみだりに漏えいしてはならないことはいうまでもないところである。前科等の有無が訴訟等の重要な争点となつていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができるのであり、同様な場合に弁護士法23条の2に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが、その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない。本件において、原審の適法に確定したところによれば、京都弁護士会が訴外A弁護士の申出により京都市伏見区役所に照会し、同市中京区長に回付された被上告人の前科等の照会文書には、照会を必要とする事由としては、右照会文書に添付されていたA弁護士の照会申出書に「中央労働委員会、京都地方裁判所に提出するため」とあつたにすぎないというのであり、このような場合に、市区町村長が漫然と弁護士会の照会に応じ、犯罪の種類、軽重を問わず、前科等のすべてを報告することは、公権力の違法な行使にあたると解するのが相当である。原審の適法に確定した事実関係のもとにおいて、中京区長の本件報告を過失による公権力の違法な行使にあたるとした原審の判断は、結論において正当として是認することができる。

 

控訴審の判決を支持し、上告を棄却しました。
なお、最高裁では以下のとおり補足意見及び反対意見が付されています。

裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。
他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであつても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許されず、違法に他人のプライバシーを侵害することは不法行為を構成するものといわなければならない。このことは、私人による公開であつても、国や地方公共団体による公開であつても変わるところはない。国又は地方公共団体においては、行政上の要請など公益上の必要性から個人の情報を収集保管することがますます増大しているのであるが、それと同時に、収集された情報がみだりに公開されてプライバシーが侵害されたりすることのないように情報の管理を厳にする必要も高まつているといつてよい。近時、国又は地方公共団体の保管する情報について、それを広く公開することに対する要求もつよまつてきている。しかし、このことも個人のプライバシーの重要性を減退せしめるものではなく、個人の秘密に属する情報を保管する機関には、プライバシーを侵害しないよう格別に慎重な配慮が求められるのである。

 

裁判官環昌一の反対意見は、次のとおりである。
前科等は人の名誉、信用にかかわるものであるから、前科等のある者がこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有することは、多数意見の判示するとおりである。しかしながら、現行法制のもとにおいては、右のような者に関して生ずる法律関係について前科等の存在がなお法律上直接影響を及ぼすものとされる場合が少なくないのであり、刑事関係において量刑上の資料等として考慮され、あるいは法令によつて定められている人の資格における欠格事由の一つとして考慮される場合等がこれに当たる。このような場合にそなえて国又は公共団体が人の前科等の存否の認定に誤りがないようにするための正確な資料を整備保管しておく必要があるが、同時にこの事務を管掌する公務員の一般的義務として該当者の前科等に関する前述の利益を守るため右の資料等に基づく証明行為等を行うについて限度を超えることがないようにすべきこともまた当然である。

 

この事件のポイントは、
「犯罪の種類、軽重を問わず、前科等のすべてを報告すること」は公権力の違法な行使にあたる、とされている点です。

例えば、本件ではXが運転業務をおこなうことから、交通事故の前科に限って照会をおこなうなど、関連が明らかであれば「公権力の違法な行使」といった判断はされないかもしれません。

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

時代が進むにつれ、百人一首は広く親しまれるようになり、周防内侍の名も人々に知られるようになりました。
忠家との逸話も大衆化したため、江戸時代になると、その恋愛模様を描いた土佐浄瑠璃「周防内侍美人桜」が成立するに至りました。

一方で、二人は親しい友人同士であったとする説もあるようです。

それにもかかわらず、周囲の好奇心によって作品まで出来上がってしまうとは
まさに「噂」の力ではないでしょうか。

 

それがわかっていからこそ、

「一瞬の出来事が、誰かに切り取られて拡散でもされたら困りますよ」
「そんなことで炎上して、評判に傷がついたら嫌じゃないですか」

と切り返した周防内侍ですが、レピュテーション・マネジメントともいえる努力の甲斐もむなしく、後世の日本人は大盛り上がりしたのでした。

 

 

 

 文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 

 

 

 

法律で読み解く百人一首 7首目

春は、出会いと別れの季節。

進学や就職など、大きく環境が変わる方も多いはず。
年齢を重ねるごとにそのような機会も減りますが、それでも、春がくると何だか真新しい気持ちになります。

 

そして、出会いがあれば、必ず訪れるのが別れ。
切ないところですが、だからこそ共にある時間を大切にしたいものです。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 

 本日の歌  「天の原 ふりさけ見れば 春日なる

三笠の山に 出でし月かも」  

安倍仲麿


「あまのはら ふりさけみれば かすがなる

みかさのやまに いでしつきかも」

あべのなかまろ

 

 

 

小倉百人一首 100首のうち7首目。
奈良時代前期の遣唐留学生、安倍仲麿による「羇旅」の歌となります。

 

 

歌の意味

 

大空を仰いではるか遠くを見渡してみると、月が昇っている。
あの月は奈良の春日にある、三笠山に昇っていた月なのだなあ。

  

天の原
広々とした大空を指す名詞。

ふりさけ見れば
「振り放け見る」は「ふり仰いで遠くを望み見る」
(ふり仰ぐ=顔を上げて高いところを見る)
接続助詞「ば」は確定条件で「~と」と訳す。

春日なる
「春日」は現在の奈良市春日野町のあたり。
当時の平城京の東方一帯の地域。
助動詞「なる」は存在を表し、「~にある/いる」と訳す。

三笠の山に
春日大社の裏手にそびえる山。
笠の形に似ていることから「御蓋山(みかさやま)」とも。
仲麿が唐へ発つ際は、航海の無事を祈る祭祀がその南麓でおこなわれた。

出でし月かも
「いづ」は「中から外に出る」「出現する」の意。
「し」は助動詞「き」の連体形で、過去の出来事を回想している。
「かも」は感動・詠嘆の終助詞で「~ことよ/だなあ」となる。

 

作者について

 

安倍仲麿(あべのなかまろ・698-770)

 

正しくは阿倍仲麻呂。奈良時代の遣唐留学生です。中務大輔(律令制における役職のひとつ)を務める阿倍船守の長男として生まれました。

幼いころから学問に秀でていた仲麿は、716年に遣唐使として入唐留学生に選出され、翌717年には19歳にして遣唐使に同行。吉備真備や玄昉らと共に唐の都・長安に留学しました。

唐では「朝衡/晁衡」(ちょうこう)という名前を用いました。
太学といわれる高等教育期間で学び、科挙(中国の官僚登用試験)に合格または推挙で登用され、唐朝において数々の仕事をこなし、出世を重ねていきます。
その仕事ぶりによって当時の玄宗皇帝からも高く評価され、さらに上の位階に抜擢されるなどしました。

733年になると、再び日本から遣唐使がやってきます。
一緒に唐へ渡った吉備真備、玄昉はこの機会に帰国することが決まっていたため、仲麿も同行するつもりでした。しかし、その優秀さゆえに玄宗皇帝からは帰国許可の申し出を拒否されてしまい、引き続き留唐することとなりました。

752年、日本から再度遣唐使がやってきました。
このとき、仲麿は玄宗皇帝から遣唐使らの応対を命じられたため、この機会に再度帰国許可を申し出たところ、皇帝からは「唐からの使者」として何とか一時帰国の許可を得ることができました。
このとき、仲麿が唐に渡ってから35年が経過していました。

仲間との別れを惜しみながらも帰国の途に就きましたが、仲麿らの乗った船は暴風雨に巻き込まれ、安南(現在のベトナム北部から中部)に漂着してしまいます。
多くの者が現地民の襲撃にあい客死するなか、何とか唐まで戻ることができ、その後日本の朝廷から迎えが来たものの、唐朝は行路が危険であることを理由に彼の帰国を認めませんでした。

最終的に仲麿は日本へ帰ることを断念。
再び官吏の地位につき、玄宗皇帝を含む3代の皇帝に仕えたのちに、770年に73歳で亡くなりました。

 

 

 

 


 

これだけの情報でも
「どれほど波瀾万丈だったのだろうか」
と思わせるほどインパクトのある仲麿の生涯。

本日ご紹介する「天の原」ですが、この歌は、やっとのことで帰国することとなった仲麿のために開かれた、送別の宴にて詠まれたとされています。

唐で長い時間を過ごした仲麿は交友関係も広く、唐の時代を代表する詩人である李白、王維らとも親交がありました。きっとこの宴にも参加していて、思い出を語り合ったり別れを惜しんだりしていたことでしょう。

そんな友人らに対し、日本語で贈った歌であると伝わっています。
(このあたりのエピソードは諸説あるようです)

友人たちと宴会の席を楽しみ、後ろ髪を引かれながらも、やっと帰れることとなった日本に思いを馳せた・・・
そんな情景が思い浮かび、なんだか胸に迫るものがあります。

 

 

 

酒類販売の免許制

 

さて・・・

 

仲麿が友人らとの時間を過ごした夜。
「宴」というくらいですから、きっとお酒も楽しんでいたはず。

仲麿もお酒が進んで、ほろりとしながらこの歌を詠んだのかも・・・
ついつい、そんな想像が膨らみます。

このように、人生の節目に彩を添える役割もある「酒」。
その販売や製造に免許がいることは、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

過去に、酒類販売免許の申請に関して争われた事例があります(最判平成7年12月15日。いわゆる「酒類販売免許制事件」)。

 

 

Xは、「酒類並びに原料酒精の売買」等を目的とする株式会社。
昭和49年に酒税法9条1項の規定に基づき酒類販売業免許を申請したところ、所轄の税務署長Yはこの申請が同法10条10号に該当するとして、免許の拒否処分(以下「本件処分」)をしました。 

(酒類の販売業免許)
第9条 酒類の販売業又は販売の代理業若しくは媒介業(以下「販売業」と総称する。)をしようとする者は、政令で定める手続により、販売場(継続して販売業をする場所をいう。以下同じ。)ごとにその販売場の所在地(販売場を設けない場合には、住所地)の所轄税務署長の免許(以下「販売業免許」という。)を受けなければならない。ただし、酒類製造者がその製造免許を受けた製造場においてする酒類(当該製造場について第7条第1項の規定により製造免許を受けた酒類と同一の品目の酒類及び第44条第1項の承認を受けた酒類に限る。)の販売業及び酒場、料理店その他酒類をもつぱら自己の営業場において飲用に供する業については、この限りでない。

(製造免許等の要件)
第10条 第7条第1項、第8条又は前条第1項の規定による酒類の製造免許、酒母若しくはもろみの製造免許又は酒類の販売業免許の申請があつた場合において、次の各号のいずれかに該当するときは、税務署長は、酒類の製造免許、酒母若しくはもろみの製造免許又は酒類の販売業免許を与えないことができる。
(略)
10 酒類の製造免許又は酒類の販売業免許の申請者が破産手続開始の決定を受けて復権を得ていない場合その他その経営の基礎が薄弱であると認められる場合

 

そこでXは、酒類販売業について、所轄税務署長による免許制度を採用しその要件を定めた酒税法9条、10条各号の規定は、憲法22条1項所定の職業選択の自由の保障に違反し無効であるとして、Yによる免許拒否処分の取消しを求めて提訴しました。 

第22条1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

 

第一審は、Xが酒税法10条10号に該当するとは認められないとして、本件処分を違法とし、これを取り消しました。

これを受けてYは控訴。
第二審は、Xが酒税法10条10項に該当するという判断に違法はなく、酒税法が酒類販売業につき違憲無効とはいえないとして、第一審の判決を取り消し、Xの請求を棄却しました。

Xがこれを不服として上告したところ、裁判所は酒類の製造及び販売業の免許制について、 

酒税法は、酒税の確実な徴収とその税負担の消費者への円滑な転嫁を確保する必要から、このような制度を採用したものと解される。

 

としたうえで、

 

酒税が、沿革的に見て、国税全体に占める割合が高く、これを確実に徴収する必要性が高い税目であるとともに、酒類の販売代金に占める割合も高率であったことにかんがみると、酒税法が昭和13年法律第48号による改正により、酒税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという国家の財政目的のために、このような制度を採用したことは、当初は、その必要性と合理性があったというべきであり、酒税の納税義務者とされた酒類製造者のため、酒類の販売代金の回収を確実にさせることによって消費者への酒税の負担の円滑な転嫁を実現する目的で、これを阻害するおそれのある酒類販売業者を免許制によって酒類の流通過程から排除することとしたのも、酒税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという重要な公共の利益のために採られた合理的な措置であったということができる。その後の社会状況の変化と租税法体系の変遷に伴い、酒税の国税全体に占める割合等が相対的に低下するに至った本件処分当時の時点においてもなお、酒類販売業について免許制度を存置しておくことの必要性及び合理性については、議論の余地があることは否定できないとしても、前記のような酒税の賦課徴収に関する仕組みがいまだ合理性を失うに至っているとはいえないと考えられることに加えて、酒税は、本来、消費者にその負担が転嫁されるべき性質の税目であること、酒類の販売業免許制度によって規制されるのが、そもそも、致酔性を有する嗜好品である性質上、販売秩序維持等の観点からもその販売について何らかの規制が行われてもやむを得ないと考えられる商品である酒類の販売の自由にとどまることをも考慮すると、当時においてなお酒類販売業免許制度を存置すべきものとした立法府の判断が、前記のような政策的、技術的な裁量の範囲を逸脱するもので、著しく不合理であるとまでは断定し難い。

 

のように判示し、上告を棄却しました。

なお、本件でXの請求は認められなかったものの、裁判官は以下のとおり補足意見及び反対意見を述べています。

 

<坂上寿夫裁判長による反対意見(抜粋)>
他方、酒類販売業の許可制が、許可を受けて実際に酒類の販売に当たっている既存の業者の権益を事実上擁護する役割を果たしていることに対する非難がある。酒税法上の酒類販売業の許可制により、右販売業を税務署長の監督の下に置くという制度は、酒税の徴収確保という財政目的の見地から設けられたものであることは、酒税法の関係規定に照らし明らかであり、右許可制における規制の手段・態様も、その立法目的との関係において、その必要性と合理性を有するものであったことは、多数意見の説示するとおりである。酒税法上の酒類販売業の許可制は、専ら財政目的の見地から維持されるべきものであって、特定の業種の育成保護が消費者ひいては国民の利益の保護にかかわる場合に設けられる、経済上の積極的な公益目的による営業許可制とはその立法目的を異にする。したがって、酒類販売業の許可制に関する規定の運用の過程において、財政目的を右のような経済上の積極的な公益目的と同一視することにより、既存の酒類販売業者の権益の保護という機能をみだりに重視するような行政庁の裁量を容易に許す可能性があるとすれば、それは、酒類販売業の許可制を財政目的以外の目的のために利用するものにほかならず、酒税法の立法目的を明らかに逸脱し、ひいては、職業選択の自由の規制に関する適正な公益目的を欠き、かつ、最小限度の必要性の原則にも反することとなり、憲法22条1項に照らし、違憲のそしりを免れないことになるものといわなければならない。

 

<園部逸夫裁判官による補足意見(抜粋)>
もっとも、この制度が導入された当時においては、酒税が国税全体に占める割合が高く、また酒類の販売代金に占める酒税の割合も大きかったことは、多数意見の説示するとおりであるし、当時の厳しい財政事情の下に、税収確保の見地からこのような制度を採用したことは、それなりの必要性と合理性があったということもできよう。しかし、その後40年近くを経過し、酒税の国税全体に占める割合が相対的に低下するに至ったという事情があり、社会経済状態にも大きな変動があった本件処分時において(今日においては、立法時との状況のかい離はより大きくなっている。)、税収確保上は多少の効果があるとしても、このような制度をなお維持すべき必要性と合理性が存したといえるであろうか。むしろ、酒類販売業の免許制度の採用の前後において、酒税の滞納率に顕著な差異が認められないことからすれば、私には、憲法22条1項の職業選択の自由を制約してまで酒類販売業の免許(許可)制を維持することが必要であるとも、合理的であるとも思われない。そして、職業選択の自由を尊重して酒類販売業の免許(許可)制を廃することが、酒類製造者、酒類消費者のいずれに対しても、取引先選択の機会の拡大にみちを開くものであり、特に、意欲的な新規参入者が酒類販売に加わることによって、酒類消費者が享受し得る利便、経済的利益は甚だ大きいものであろうことに思いを致すと、酒類販売業を免許(許可)制にしていることの弊害は看過できないものであるといわねばならない。

  

 

酒類の製造や販売が許可制とされているのは、公衆衛生や国民健康上の理由ではなく、単に「税金を確実に徴収するため」というのも意外なところではないでしょうか。
内閣府ホームページにも、財政収入確保が目的と記載されています)

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

 

酒税法に関する判例は複数あるなか、いわゆる「どぶろく裁判」(最一判平成元年12月14日)は有名な事件のひとつです。
自分が飲酒することを目的に無免許で清酒等を製造していた被告人が、酒税法に違反するとされたもの。

 

ところで、この事件の裁判要旨を読むと
自宅で梅酒を仕込むことも違法になってしまう気がしませんか?

実は、梅酒については例外が認められており、

消費者が自分で飲むために酒類(アルコール分20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのものに限ります。)に次の物品以外のものを混和する場合には、例外的に製造行為としない

 

とし、「次の物品」に梅は含まないとされています(国税庁HP)。

・アルコール分20度以上の酒類を使用する
・完成した梅酒は自分自身(+同居家族の範囲)で楽しむ
というのが大切なようです。

 

ちなみに・・・
この案内は国税庁HP内の「お酒に関する情報」というページにあるもの。

一見、行政機関のウェブサイトであることを忘れてしまいそうな見出しですが、その内容は読み物としても非常に面白いものとなっています。

なかには
「各地域の酒蔵マップ等」「日本ワイン産地マップ」
という旅行会社顔負けの特集も。

気になった方は、お時間のある際に是非覗いてみてください。

 

 

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 41首目

最近、2028年のロサンゼルス五輪に向けて大会公式サイトが公開した動画を見る機会がありました。

東京五輪もパリ五輪もつい先日の出来事のようですが、きっと次の大会もあっという間に迎えてしまうのでしょう。

毎度のことですが、挑戦するアスリートの姿を見ると、オリンピックというのはこれほど大切な舞台のひとつなのか、と胸を打たれます。
そして、そこに向けて努力できるストイックさに、尊敬とは別に、ある種のうらやましさを感じたりも。

 

百人一首は様々な背景のもと詠まれた歌が集まっていますが、
その中には、オリンピックさながらの「大勝負」の場面で詠まれた歌もあります。

平安社会では、和歌は重要なスキルのひとつ。
実力を示すことができれば、その後の人生が好転することもありました。

  

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 

 本日の歌  「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり

人知れずこそ 思ひそめしか」  

壬生忠見


「こひすてふ(こいすちょう) わがなはまだき たちにけり

ひとしれずこそ おもひそめしか」

みぶのただみ

 

 

 

小倉百人一首 100首のうち41首目。
平安時代中期の歌人、壬生忠見による「恋」の歌となります。

 

 

 

 

歌の意味

 

私が恋をしているという噂が、もう世間の人たちの間には広まってしまったようだ。誰にも知られないように、密かに思いはじめたばかりなのに。

 

恋すてふ
「てふ」は「~といふ(=という)」が短縮されたもの。
「”恋をしている”という」となる。

わが名はまだき
「名」はうわさ、評判を指す名詞。
「まだき」は「早くも」「もう」を意味する副詞。
よって、「私のうわさは早くも」の意。

立ちにけり
「立つ」は「知れ渡る」「ひろがる」の意。
この場合の「けり」は詠嘆。
「(恋をしているという私のうわさが)広まってしまったなあ」となる。

人知れずこそ
他動詞「知る」(=知られる)+打消の助動詞「ず」。
係助詞「こそ」は係り結びを起こし、ここでは逆接の用法となる。

思ひそめしか
「おもひそむ(思ひ初む)」は「思い始める」「恋し始める」の意。
文末は「こそ」を受けるため、已然形「しか」となる(もとは過去の助動詞「き」)。
前の句と全体で「人に知られないよう恋し始めたのに」となる。

※1~3句目、4・5句目が倒置されている。4・5句を強調するための倒置法。

 

 

作者について

 

壬生忠見(みぶのただみ・生没年不詳)

 

平安時代中期の歌人で、父である壬生忠岑(みぶのただむね)は百人一首30首目の作者です。また、父子共に三十六歌仙に選ばれています。

父・忠岑は身分の低い下級武官という貧しい家に生まれた忠見ですが、幼いころから歌の才能が評判となり、早くから内裏のお召しがありました。954年(天歴8年)に天皇の食事をつかさどる「御厨子所」(みずしどころ)に、その後958年(天徳2年)には六位・摂津大目(せっつだいさかん)に任命されたと伝えられていますが、詳細な経歴は残されていません。

歌人としては、953年(天暦7年)10月の内裏菊合、960年(天徳4年)の内裏歌合など多くの歌合に出詠したほか、「後撰和歌集」以降の勅撰和歌集に37首が入集されました。家集に「忠見集」があります。

前回ご紹介した凡河内躬恒のように、身分は低いものの、自分の歌の才能によって道を切り開いたといえる人物でしょう。

 

身分の低さゆえに経歴不詳の忠見ですが、逸話がいくつか残されています。
まずは本日の歌「恋すてふ」にまつわるもの。

 


 

早くから歌の才能を発揮していた忠見は、960年(天徳4年)、村上天皇が主催した内裏歌合に招かれました。
二十番の勝負、忠見に相対するのは同じく百人一首の歌人である平兼盛。
お題は「しのぶ恋」でした。

そこで、先攻・忠見が詠んだのが、
「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか」

対する後攻・兼盛が詠んだのは、
「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人のとふまで」

共に、後に百人一首へ選ばれるこれらの歌を詠んだのでした。
(兼盛の歌は40首目となります)

 

それぞれ魅力は大きく異なり、判定は難航しました。
判者は引き分けにしようと考えますが、帝から勝敗を付けるようにとのこと。

皆が頭を悩ませていたとき、
帝が御簾の奥で「しのぶれど…」と口ずさむ声が聞こえます。
これにより、勝者は兼盛となりました。 

負けてしまった忠見は、それはそれは落ち込んでしまい、
食欲もなくなって、ついには病で亡くなってしまった…

 

というエピソードが「沙石集」(鎌倉時代後期の仏教説話集)に伝わっています。

しかし、「忠見集」には晩年の歌も残されていることから、敗北が彼を死に至らしめたとの部分はさすがにフィクションのようです。

 


 

また、幼少期に関するエピソードが「袋草子」(平安後期の歌論書)に収録されています。

既述のとおり、家が貧しかった忠見ですが、歌の才能のおかげで幼いころから内裏より召される機会がありました。

しかし、他の貴族のように内裏へ赴くための乗り物がありません。
そのため辞退しようと内裏に伝えると、帝の戯れか、竹馬に乗ってくるよう言われてしまいました。

ここで自身の境遇に負けないのが彼の素晴らしいところ。
こんな歌を詠んで返します。 

竹馬は ふしかげにして いと弱し 今夕かげに 乗りて参らん

 

つまり、
「竹馬は鹿毛が節になっておりとても弱いので、これから夕日でできた影に乗って歩いて伺います」

竹馬:子供の遊び道具。葉のついた一本の笹竹にまたがり、竹の元の方つけた縄を手綱として、馬に見立てて遊ぶ。
鹿毛:読みは「かげ」。馬の毛色の一種。鹿に色が似ていることから。

 

と返事をしたのです。
幼いながらも身分の低さや貧しさに卑屈にならず、さらには趣ある対応までしてみせた忠見。彼の人柄や才能に思いを巡らさずにはいられません。

 

 

 

 

金銭消費貸借と利息制限法

 

さて・・・

 

ここまで述べたように、
忠見は貧しいながらも、自身の歌の実力によって道を切り開いていきました。

しかし、経済的に苦しい人々が皆そのようにできたわけではありません。

当時は収入も位階や家柄、役職により大きく異なりました。私たちが書籍などで目にするような有名貴族らは生活も安定していたかもしれませんが、下級貴族や没落した家柄となると収入は少なく、窮乏する者もいたことでしょう。

実際、金銭的に余裕のない貴族は多くいたようで、高利貸し(現在の消費者金融のような存在)から借金をすることもありました。
しかし、当時はかなり金利が高かったと考えられており、返済が滞って逆に借金が増えてしまうなんてこともあったとか。

 

現在、金利は法律で上限が定められています。

①上限を超えた金利が無効となる利息制限法
(上限金利は貸付け額に応じて15%~20%)
②刑事罰の対象となる上限金利を定めた出資法
(上限金利(改正前:29.2%))
※日本貸金業協会HPより

 

利息制限法は昭和29年に施行されましたが、当初は以下のとおり定めていました。

(利息の最高限)
第1条 金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は、その利息が左の利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分につき無効とする。
元本が10万円未満の場合 年2割
元本が10万円以上100万円未満の場合 年1割8分
元本が100万円以上の場合 年1割5分
2 債務者は、前項の超過部分を任意に支払ったときは、同行の規定にかかわらず、その返還を請求することができない。
国立公文書館デジタルアーカイブ参照

 

つまり、1条1項で「超過部分の利息は無効」としながら、同条2項は「任意で支払った場合は返還を請求できない」としていたのです。
そのため、超過部分の利息を任意で支払った場合の取り扱いについては、
・残元本に充てることができないか
・返還請求できないか
などの点が長らく問題となっていました。

このうち、元本充当により完済となった後に支払った金額は、不当利得として返還しなければならないのか、という点について判断がされた事例があります(最判昭和43年11月13日)。

  

昭和31年5月1日、Aは自宅に抵当権を設定し、かつ代物弁済の予約をして、翌月1日を弁済期限にYから50万円を借り受けました。
その際、Yは利息を月7分(年84%)と設定し、1か月分の利息として3万5000円を天引きした45万6000円を貸しました。

ところが、Aは返済期日までに返済することができず、弁済のため被告の請求に応じて支払いを続けたところ、昭和32年11月末までに計96万5000円を支払いました。
本来、元本は50万円であるため、適法な利息・遅延損害金の割合は年1割8分であり、これによって計算すれば、昭和32年11月末頃には完済して余剰が生じるはずでしたが、原告はこのことを知らず、その後も昭和34年1月26日までに計28万3700円を支払いました。
また、Yはその間である昭和33年11月に代物弁済の予約完結の意思表示をし、Aの自宅の所有権を取得したとして所有権移転登記手続をおこないました。加えて、同所有権の取得を理由に、Aに対して、別途家屋の明渡しを求める訴訟を提起しました。

そこで、Aは任意に支払った場合でも、利息制限法所定の制限を超える利息・遅延損害金は元本の支払いに充当すべきであると主張。
この原則に基づいて計算すれば債務は完済されたことになるから、
①元本である50万円の債務の不存在の確認
②不存在となった後に支払った28万3700円の返還
③債務が不存在にもかかわらず「あり」としてなされた代物弁済による自宅の所有権移転登記の抹消
を求めました。

 

第1審は、「債務者が利息制限法所定の制限をこえる金銭消費貸借上の利息・損害金を任意に支払つたとき、右制限をこえる金員は、当然残存元本に充当されるものと解すべきではない」とする判例(最大判昭和37年6月13日)に基づいて、Aの主張を容れませんでした。

Aは判決を不服として控訴しましたが、控訴審の事件係属中にAが死亡したため、その相続人らが手続を受け継ぎ、控訴人となりました。

ところが、第1審判決後、最高裁判例の見解が全く逆のものとなりました。

「債務者が利息制限法所定の制限をこえる金銭消費貸借上の利息、損害金を任意に支払つたときは、右制限をこえる部分は、民法第491条により、残存元本に充当されるものと解すべきである」(最大判昭和39年11月18日

そこで第2審は、この判例に基づき控訴人らの請求をほとんど全面的に認容。上記判例を超えて、計算上残存元本を超えて支払われた部分についても返還を認めました。

これを受け、被控訴人らが上告したところ、裁判所は次のとおり判示しました。

 

思うに、利息制限法一条、四条の各二項は、債務者が同法所定の利率をこえて利息・損害金を任意に支払つたときは、その超過部分の返還を請求することができない旨規定するが、この規定は、金銭を目的とする消費貸借について元本債権の存在することを当然の前提とするものである。けだし、元本債権の存在しないところに利息・損害金の発生の余地がなく、したがつて、利息・損害金の超過支払ということもあり得ないからである。この故に、消費貸借上の元本債権が既に弁済によつて消滅した場合には、もはや利息・損害金の超過支払ということはありえない。
したがつて、債務者が利息制限法所定の制限をこえて任意に利息・損害金の支払を継続し、その制限超過部分を元本に充当すると、計算上元本が完済となつたとき、その後に支払われた金額は、債務が存在しないのにその弁済として支払われたものに外ならないから、この場合には、右利息制限法の法条の適用はなく、民法の規定するところにより、不当利得の返還を請求することができるものと解するのが相当である。

 

このように、昭和39年11月18日の判決を正当として支持し、経済的弱者に対する保護を重視する姿勢が示されました(以上、金融法務事情528号19頁参照)。

 

そして、判例により既に空文化されていたものの、利息制限法1条2項の条文は、後の改正により削除され、現在の内容が平成22年6月18日より施行されました。

(利息の制限)
第1条 金銭を目的とする消費貸借における利息の契約は、その利息が次の各号に掲げる場合に応じ当該各号に定める利率により計算した金額を超えるときは、その超過部分について、無効とする。
一 元本の額が10万円未満の場合 年2割
二 元本の額が10万円以上100万円未満の場合 年1割8分
三 元本の額が100万円以上の場合 年1割5分

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて・・・

 

本日ご紹介した「恋すてふ」が詠まれた960年内裏歌合ですが、
歌のお題を提示してから開催当日まで1か月の期間をおいたり、進行や衣装、その他細部に至るまでかなり細かく念入りに準備されたそう。

「天徳内裏歌合」と呼ばれ、その風雅なさまから後の歌合の手本とされていたようですが、あの「源氏物語」にも天徳内裏歌合をモデルにしたとされるストーリーが描かれています。

それは、第17帖「絵合」。

「絵合」と聞くと一見優雅な遊びのようですが、時にはその裏に出世欲や勢力争いという要素が隠れており、当事者にとってはそうした意味でも負けられない対決だったようです。

源氏物語でも同様で、2人の女御がそれぞれ自慢の絵物語を持ち寄りその優劣を争うなかには、その他登場人物らを含めた激しいプライドのぶつかり合いが垣間見えます。
準備された数々のテーマにそってバトルが繰り広げられていきますが、なかなか勝敗がつかず、気づけば夜に。
これが最後の勝負というときに、光源氏が描いた須磨の絵日記が出品されました。
これは、光源氏が自身が退去した須磨(現在の兵庫県神戸市須磨区南西の海岸一帯)での辛い日々を描いたもの。その内容が一同の心を打ったことで、最終的にはこの作品を出した源氏方の女御が勝ちとなりました。

 

紫式部が源氏物語を書き始めたのは1002年頃とされていますから、当時からすれば40年程前の出来事を参考にストーリーを作り上げたことになります。

後世にも大きな影響を与えた天徳内裏歌合。

名歌を残した忠見らはもちろん素晴らしいのですが、実はそのような機会を設け、甲乙つけがたい勝負にビシッと決着をつけた帝こそが立役者、といっても過言ではないかもしれません。 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 

 

 

 

 

法律で読み解く百人一首 29首目

2024年も残すところわずかとなりました。

今年も法律に関するニュースが沢山あったように思います。
袴田事件の無罪確定、「不適正」と認定された特捜部検事の取調べなど、大々的に報道されたものは特に印象的だったのではないでしょうか。

 

しかし、このように話題になる事件はごく一部で、裁判所では日々多くの事件が取り扱われています。
新件を申し立てるときには、事件番号がふられるたび、その数の大きさに「世の中これだけトラブルがあるのか・・・」と実感させられるほど。

そして、こうした事件の数だけ「判決」が誕生するのですね。

 

この「判決」。
裁判所が一定の手続を経て出しているものであるだけに、
「一度出されたら絶対に変わることがない」という気がしませんか?

しかし、法律が時代・社会と共に変わっていくように、
判決もまた、そうした変化の中で見直されることがあります。

これを「判例変更」といいます。

ここで気になるのは、
「変更前に適法とされていたことが、「判例変更」によって違法になってしまったとき、その行為はどのように判断されてしまうのか」
という点ではないでしょうか。

変更前の行為であれば問題にならないのか、
はたまた、過去に遡って処罰対象となってしまうのか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「心あてに 折らばや折らむ 初霜の

置きまどはせる 白菊の花」  

凡河内躬恒


「こころあてに をらばやをらむ はつしもの

おきまどはせる しらぎくのはな」

おおしこうちのみつね

 

小倉百人一首 100首のうち29首目。
平安時代前期の歌人・官人、凡河内躬恒による「秋」の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

もし折るならあてずっぽうに折ってみようか。初霜が降りて見分けがつかなくなっている白菊の花を。

 

心あてに
心当て=当て推量、という意の名詞。
「当て推量に」「あてずっぽうに」となるが、その他「心をこめて」「よく注意して」と訳す説もある。

折らばや折らむ
接続助詞「ば」は仮定条件で訳す。
意志の助動詞「む」はすぐ前の係助詞「や」との係り結び(=疑問や反語、協調などで用いられる表現)。
「もし折るならば折ってみようか」と訳される。

初霜
その年の晩秋に初めて降りた霜。

置きまどはせる
「置く」は霜や露が「降りる」こと、
「まどはせる」は「混乱させる」「悩ませる」などの意。

白菊の花
上の句の「折らばや」に続く。倒置法。

 

 

作者について

 

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね・859?-925?)

 

平安時代前期の歌人・官人ですが、正確な生没年は分かっていません。
894年に甲斐国(現・山梨県)の役人に任命され、その後は丹波国(現・京都府中部、兵庫県北東部)、和泉国(現・大阪府南西部)、淡路国(現・兵庫県淡路島)などの役人を歴任しました。

役人としての官位は五位とそれほど高くありませんでしたが、歌人としての評価は高く、多くの歌会や歌合せに参加し、活躍しました。
その才能は紀貫之と並び称され、共に当時の代表的歌人として宮廷の宴に呼ばれたり、三十六歌仙に選ばれたり、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」を撰上するなどしました。

本来であれば昇殿も許されないような身分であり(それゆえに生没年などの情報も記録が残っていません)、役人としての給与も少なかったことでしょう。
しかし、「歌人」という職業がない頃に、躬恒は歌によって副収入を得ていました。
それほどの才能の持ち主でした。

朝廷に召されるたびに報奨を賜ったり、上級貴族の邸宅に招かれて屏風歌を詠むことで褒美を与えられたり。また、先に述べた「古今和歌集」の選者としても報奨を得られたと考えられます。

単なる役人の一人であれば、その名前が後世に残ることはなかったでしょう。躬恒の人気はそれほど高いものだったのです。

 

  

判例変更と遡及処罰の禁止

 

さて・・・

 

平安貴族の働き方というのは、実際どのようなものだったのでしょうか。

文学作品やドラマの影響が大きいように思いますが、

朝廷での宴に参加したり、
和歌を詠んだり、楽器を嗜んだり、
時には恋愛関係を楽しんだり・・・

そうしたことが「仕事」だったのではないか、という印象もあります。

一部の上流貴族にはあてはまることがあるかもしれません。
しかし、貴族・役人らというのは基本的に忙しかったようです。

 

平安時代の貴族は日記をつけるのが一般的でした。
現在では読み物として出版されている物もあります。

清少納言のエピソードで登場した藤原行成は「権記」、
大河ドラマで注目を集めた藤原実資は「小右記」を残しており、
そこには朝から晩まで働く日々のこと、朝廷において細やかに決められた作法や行事(年間約100ほどあり、月によっては毎日何かしらの行事がおこなわれる状態だったとのこと)について綴られています。

 

このように、実はかなり多忙な職場環境だったのです。
いまなら「ブラックな職場」と言われてしまうかもしれません。

 

そんなとき、今日では処遇改善を求めるための手段が複数ありますが、
そのひとつに「ストライキ」があります。

朝廷で働く彼らは、いわば公務員のような立場。

過去に、公務員による争議行為(※)について、判例変更と遡及処罰の禁止に関する判断がされた事例があります(最判平成8年11月18日)。

※同盟罷業、怠業、作業所閉鎖その他労働関係の当事者が、その主張を貫徹することを目的として行う行為及びこれに対抗する行為であって、業務の正常な運営を阻害するものをいいます(厚生労働省HPより)。

 


 

公務員の争議行為禁止については、以下の事件によって最高裁の基本的見解に変遷が生じました。なお、紹介事例の犯行時点は②と③の間となります。


①地方公務員法違反事件「都教組事件」(最大判昭和44年4月2日
1969年(昭和44年)、東京都教職員組合(都教組)が勤務評定制度に反対し、一斉に有給休暇を取って学校を休みにするというストライキを決行したところ、これが地方公務員法に違反する「同盟罷業」にあたるとして、都教組の執行部が起訴された事件。
裁判所は、処罰対象となるのは争議行為・あおり行為ともに違憲性の強いものに限られるという、いわゆる「二重のしぼり」の限定をし、被告人を無罪とした。
同日言い渡された国家公務員法違反事件である「全司法仙台事件」(最大判昭和44年4月2日)でもこの考えが明示されたため、「二重のしぼり」論は国家公務員法、地方公務員法の両方における判例となっていた。

②国家公務員法違反事件「全農林警職法事件」(最大判昭和48年4月25日
1958年、警察官職務執行法の改正案が提出され、この改正案に反対する運動が展開された。この運動に全農林労働組合も参加し、組合員に対して争議行為への参加を呼びかけましたところ、これが国家公務員法が禁止する「違法な争議のあおり行為」に該当するとして、組合役員が起訴された。
裁判所は「二重のしぼり」論を否定し、「全司法仙台事件」の解釈を明示的に変更したが、一方で地方公務員法違反である「都教組事件」判決については明示的に変更していなかった。

③地方公務員法違反事件「岩教組学力調査事件」(最大判昭和51年5月21日
1956年から1965年にかけて、文部省(現在の文部科学省)が実施した「全国中学校一斉学力調査」に対し、岩手県教職員組合(岩教組)が、その実施に反対し、学力調査のボイコットや、調査用紙の破棄などをおこない、当該行為が「争議行為等の禁止」に違反するとして組合役員らが起訴された。
裁判所は、この判決において地方公務員法違反についても「二重のしぼり」論を否定し、これによって「都教組事件」判決についての解釈が明示的に変更された。


被告人Xは、A県教職員組合の中央執行委員長であったところ、日本教職員組合(以下「日教組」)が昭和49年4月11日に全国規模でおこなった全一日ストライキに際し、傘下の公立学校教職員に対し、同盟罷業の遂行のあおりを企て、かつこれをあおったとして、地方公務員法違反の罪で起訴されました。

一審(盛岡地判昭和57年6月11日)は、被告人に対して無罪を言い渡し、控訴審(仙台高判昭和61年10月24日)もこれを是認。
これに対して、検察官から上告の申立てがあり、第一次上告審(最一小判平成1年12月18日)は原判決を破棄、仙台高裁に差し戻しました。

これを受けて原判決(仙台高判平成5年5月27日)が公訴事実の一部について有罪判決を言い渡したこところ、被告人から、処罰範囲を拡張する方向で判例を変更し、これを被告人に適用して処罰することは、遡及処罰を禁止した憲法39条に違反するとして上告が申し立てられました。

 

(遡及処罰、二重処罰等の禁止)
憲法39条「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」

 

これについて最高裁は、

行為当時の最高裁判所の判例の示す法解釈に従えば無罪となるべき行為を処罰することが憲法39条に違反する旨をいう点は、そのような行為であっても、これを処罰することが憲法の右規定に違反しないことは、当裁判所の判例の趣旨に徴して明らかであり、判例違反をいう点は、所論引用の判例は所論のような趣旨を判示したものではないから、前提を欠き、その余は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張

 

と判断し、「判例」とは「法」ではないため、憲法39条違反には当たらないとして上告を棄却しました。
なお、判決には裁判官による補足意見が付されました。

私は、被告人の行為が、行為当時の判例の示す法解釈に従えば無罪となるべきものであったとしても、そのような行為を処罰することが憲法に違反するものではないという法廷意見に同調するが、これに関連して、若干補足して述べておきたい。
判例、ことに最高裁判所が示した法解釈は、下級審裁判所に対し事実上の強い拘束力を及ぼしているのであり、国民も、それを前提として自己の行動を定めることが多いと思われる。この現実に照らすと、最高裁判所の判例を信頼し、適法であると信じて行為した者を、事情の如何を問わずすべて処罰するとすることには問題があるといわざるを得ない。しかし、そこで問題にすべきは、所論のいうような行為後の判例の「遡及的適用」の許否ではなく、行為時の判例に対する国民の信頼の保護如何である。私は、判例を信頼し、それゆえに自己の行為が適法であると信じたことに相当な理由のある者については、犯罪を行う意思、すなわち、故意を欠くと解する余地があると考える。もっとも、違法性の錯誤は故意を阻却しないというのが当審の判例であるが(最高裁昭和23年(れ)第202号同年7月14日大法廷判決・刑集2巻8号889頁、最高裁昭和24年(れ)第2276号同25年11月28日第三小法廷判決・刑集4巻12号2463頁等)、私は、少なくとも右に述べた範囲ではこれを再検討すべきであり、そうすることによって、個々の事案に応じた適切な処理も可能となると考えるのである。
この観点から本件をみると、被告人が犯行に及んだのは昭和49年3月であるが、当時、地方公務員法の分野ではいわゆるB教組事件に関する最高裁昭和41年(あ)第401号同44年4月2日大法廷判決・刑集23巻5号305頁が当審の判例となってはいたものの、国家公務員法の分野ではいわゆるC警職法事件に関する最高裁昭和43年(あ)第2780号同48年4月25日大法廷判決・刑集27巻4号547頁が出され、B教組事件判例の基本的な法理は明確に否定されて、同判例もいずれ変更されることが予想される状況にあったのであり、しかも、記録によれば、被告人は、このような事情を知ることができる状況にあり、かつ知った上であえて犯行に及んだものと認められるのである。したがって、本件は、被告人が故意を欠いていたと認める余地のない事案であるというべきである。
このように、被告人は、私見によっても処罰を免れないのであり、被告人に地方公務員法違反の犯罪の成立を認めた原判決に誤りはなく、刑訴法411条1号に当たるとすることはできないのである。

 

(以上、判例タイムズ926号153頁参照)

 

  

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

本日の歌の作者である躬恒。

上記のとおり、当時は評判が高かったものの
明治の歌人・正岡子規は「心あてに…」に辛口のコメントを出しています。

著書「歌よみに与ふる書」で確認することができるのですが
ざっくり、どのような内容かというと・・・

   

百人一首だから皆口ずさむけれど、一文半文の値打ちもない駄歌。
初霜くらいで白菊が見えなくなるわけない。趣向が嘘であれば趣もへちまもない。つまらない嘘だからつまらない。

 

かなりけちょんけちょんです。

さらには、同じ百人一首から中納言家持の歌(6首目)を引き合いに出してほめるなど、「躬恒に恨みでもあるのでは?」と思ってしまう書きぶりですが、子規に酷評されているのは躬恒だけではありません(あの紀貫之も、なかなか厳しいコメントをされています)。

色々な方の考察を拝見していると、子規は過去の歌人を文字通り否定していたわけではなく、旧派の歌人たちを攻撃するためにこのような記載をしていたとのことで、歌の近代化を目指す活動のひとつであったようです。

 

当時は良しとされていたものが、時代の流れによって異なる評価をされる。
法律も芸術も、そうした変化に柔軟に対応し、その時々のベター、ベストを模索していく必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 64首目

「長男」「長女」と聞くと、漠然と
・しっかりしている
・頼りになる
・面倒見が良い
などのイメージを抱く方が多いのではないでしょうか。

これらはステレオタイプにすぎません。

ですが、当事者自身も何気なくそのように自分を律しているところがあるように思います。

そして、そこから少しでも外れてしまうと「らしくない」とされてしまうのが、人間社会の難しいところです。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに

あらはれわたる 瀬々の網代木」  

権中納言定頼


「あさぼらけ うぢのかはぎり たえだえに

あらはれわたる せぜのあじろぎ」

ごんちゅうなごんさだより

 

小倉百人一首 100首のうち64首目。
平安時代中期の公卿・歌人、権中納言定頼による「冬」の歌となります。

 

 

 

 

歌の意味

  

明け方、だんだん明るくなってきた頃、宇治川に立ちこめた朝霧も薄らいできて、切れ間から瀬に打ち込まれた網代木が見えてくるなあ。

 

朝ぼらけ
夜明け方。夜がほのぼのと明ける頃。

宇治の川霧
宇治川は京都市伏見区を流れる川で、淀川の通称。
当時はリゾート地のような存在だった。

たえだえに
「絶え絶えに」とも書き、とぎれとぎれになっていること。
段々と霧が晴れ、切れ間ができる様子を表す。

あらはれわたる
「あらはる」は自動詞で、この場合「表面に出る」「はっきり見えるようになる」。
「わたる」は補助動詞で「一面に~する」「広く~する」。
よって「一面にあらわれてきた」の意。

瀬々の
瀬は浅い場所。「あちらこちらの瀬」を指す。

網代木
網代(竹や木を編み水中に立て魚を捕えるしかけ)を立てるために川に打つ杭。秋から冬にかけて宇治川を下る氷魚(鮎の稚魚)を獲るもので、当時は宇治の冬の風物詩で、歌枕のひとつであった。

 

 

作者について

 

権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより995-1045)

 

藤原定頼。平安時代中期の公卿・歌人で、中古三十六歌仙の一人に選ばれています。
藤原公任(=大納言公任。55首目の作者)の長男で、官位は正二位・権中納言であったことから、百人一首中では「権中納言定頼」とされています。

和歌などに秀でており、優れた文人だったと言われていますが、性格まで完璧とはいえず、特に若い頃の性格はやや軽薄であった様子。
そんなこともあってか、数々のトラブルが語り継がれています。

 

【小式部内侍へのからかい】
歌合せの会で、若い小式部内侍に対し
「お母様に代作は詠んでもらえましたか?」などとからかったところ
小式部内侍が即興で「大江山…」の見事な歌を詠み、やり返したというもの。
とはいえ、結局のところ両者は恋愛関係にあり(あるいは定頼の片想い)、小式部内侍のために定頼が一芝居打ったとする説もあるようです。
60首目のブログ記事でもご紹介したエピソードです)

【皇族との揉め事】
1014年には自分の従者と皇族の従者の間で乱闘が発生。最終的に皇族側の従者が重傷により死亡してしまうという事件がありました。このため、定頼は世間から「殺害人」などと呼ばれてしまいます。
この時の相手は敦明親王という皇族で、自分の従者が亡くなった後には、報復のためか定頼に殴りかかったのだとか。なお、敦明親王はこの他にも暴力沙汰を起こしていたようですから、気性の荒い人だったのかもしれません。

【暴力沙汰に巻き込まれる】
1018年に御所で開かれた宴会に参加した際、藤原兼房という人が定頼に対して暴行をはたらくという事件がありました。
兼房は突然定頼に対して暴言を吐き、定頼の前に置かれていた料理を蹴散らしたり、その頭から被り物を奪おうとしたりしました。その後定頼が控室に逃げ込むと、兼房はそこに向かって石を投げつけ、さらにはその場で定頼を大声で罵るなどの行動をとりました。

文字だけ見ると定頼がたいそう恨みを買っていたのでは…などと考えてしまいますが、兼房がこのような行動に至った原因はわかっていないそうです。定頼にしてみれば大変迷惑な事件に巻き込まれたのでした。

【謹慎処分】
最終的には権中納言の地位まで出世した定頼ですが、若い頃には宮中で軽率な発言をしてしまったこともありました。その内容が当時の摂政・藤原頼通の怒りにふれ、その年(1019年)の後半は謹慎させられることとなりました。

【不正の発覚】
1030年、清涼殿での宴において御前作文の探韻(列席者が韻にする字を出し、くじ引きで1字ずつをもらい受けて漢詩を作ること)を命じられた際に、定頼は不正をおこない、さらにはそれが露見してしまいました。それでもなお不正を隠匿しようとしたところ、当時の関白である藤原頼通から「不正直」と批判されてしまいました。
こちらの事件を見ると、それなりに年を重ねても性格が変わらなかったのでは…と思ってしまいますね。

 

そんな定頼ですが、ご紹介した小式部内侍のほかには相模や大弐三位など、百人一首に登場する女性との交際があったとされています。定頼は和歌の才能だけでなく音楽、読経、書にも秀でており、また眉目秀麗であったようですから、惹かれる女性も多かったのですね。

その一方で、藤原道長からは「怠慢」と評されていたのだとか。
政では成果を残せなかったようです。

 

  

 

消滅の時効の援用と権利濫用

 

さて・・・

 

貴族の長男として生まれた定頼。

この時代は、「嫡男」(特に正室の女性が生んだ最も年上の男子)であることが大切であったようですが、
その他にも「長子相続」「家制度」が存在したことから、どの時代においても、基本的に長男とは重責を担う存在だったのではないでしょうか。

しかし、そんなことはお構いなしの人も存在します。
定頼のように問題行動を起こす人もいたり、「長男」であることを権力として家族を抑圧する人がいたり、はたまた役割そのものを放棄してしまう人がいたり・・・

 

特に上に述べた「家制度」の時代であれば、父親が亡くなった際に「戸主」となる長男に問題があるようでは、残りの家族はさらに不安であったことでしょう。

実際、家制度のもと家督相続した長男が、母から農地法3条にかかる許可申請につき協力請求をされ、その許可申請協力請求権の消滅時効を援用したところ、これが権利濫用にあたると認められた事例があります(最判昭和51年5月25日)。

 


 

訴外Aはその住所地において農業に従事していた者で、妻である母X1との間に7人の子どもがいました。
しかし、Aは昭和22年4月5日に死亡。
その時をもって、家督相続により長男YがAの有した権利義務一切を承継取得し、Aの遺産全部を長男Y名義にしました。

母X1と長男Yは折り合いが悪かったため、母X1及び子どもらは同年頃から分家した四男と同じ家に暮らしており、(二男、三男は既に死亡していたため)四男が家族の面倒をみることになりました。

そこで母X1らが長男Yに対し物件贈与の調停を申し立てた結果、昭和24年6月2日に、長男Yから当時分家した四男に遺産の一部を贈与し、母X1にはその老後の生活の資を得させる目的で本件農地を贈与し、あわせて四女X2、五女の扶養及び婚姻等に関する費用は母X1において負担すること等を内容とする調停が成立しました。

ところが、四男は母X1の反対を押し切ってかねてからの交際相手と結婚、Xらと別居することになったため、昭和27年2月25日に妹へ自身が贈与を受けていた本件山林を贈与し、母X1及び妹らの面倒を託しました。

そうして、母X1は四女X2と共に10年以上にわたってこれらの土地の耕作を続け、母X1は娘たちの扶養及び婚姻等の諸費用を負担しました。

 

ところで、農地について所有権の移転等するときは、当事者が農業委員会の許可を受けなければなりません。

(農業法)
3条1項 農地又は採草放牧地について所有権を移転し、又は地上権、永小作権、質権、使用貸借による権利、賃借権若しくはその他の使用及び収益を目的とする権利を設定し、若しくは移転する場合には、政令で定めるところにより、当事者が農業委員会の許可を受けなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当する場合及び第五条第一項本文に規定する場合は、この限りでない。
一第四十六条第一項又は第四十七条の規定によつて所有権が移転される場合
二削除
三第三十七条から第四十条までの規定によつて農地中間管理権(農地中間管理事業の推進に関する法律第二条第五項に規定する農地中間管理権をいう。以下同じ。)が設定される場合

 

Xらは長男Yに対し、自らが耕作してきた土地の所有権移転許可申請手続に協力を求めたところ、長男Yは、Xらの主張する所有権移転登記手続請求権は時効により消滅しているとして、これを拒みました。

(民法)
166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。
一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。
二 権利を行使することができる時から十年間行使しないとき。
2 債権又は所有権以外の財産権は、権利を行使することができる時から二十年間行使しないときは、時効によって消滅する。

 

そこで、Xらは所有権移転登記手続を求めて提訴。
第一審、第二審共に裁判所はXらの請求を容認しました。

(民法)
162条 二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
2 十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。

 

これに対して、Yは上告。すると裁判所は、

原審が確定した事実関係によれば、上告人が家督相続により亡父の遺産全部を相続したのち、家庭裁判所における調停の結果、上告人から母である被上告人Aに対しその老後の生活の保障と幼い子女(上告人の妹ら)の扶養及び婚姻費用等に充てる目的で本件第二の土地(第一審判決別紙目録第二記載の土地)を贈与し、その引渡もすみ、同被上告人が、二十数年間にわたつてこれを耕作し、子女の扶養、婚姻等の諸費用を負担したこと、その間、同被上告人が上告人に対し右土地につき農地法三条所定の許可申請手続に協力を求めなかつたのも、既にその引渡を受けて耕作しており、かつ、同被上告人が老齢であり、右贈与が母子間においてされたなどの事情によるものであること、が認められるというのである。

 

のように判断し、

この事実関係のもとにおいて、上告人が同被上告人の右所有権移転許可申請協力請求権につき消滅時効を援用することは、信義則に反し、権利の濫用として許されないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

 

と示し、上告を棄却しました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

 

これまでご紹介した内容だけでは、定頼に対してネガティブな印象を抱いてしまうことでしょう。
彼の名誉のためにも、ひとつ心穏やかになるエピソードを発見しましたので、最後にそちらをご紹介したいと思います。

 

本日の「朝ぼらけ」は、もともと「千載和歌集」(平安時代末期に編纂された勅撰和歌集)に収録されている歌です。

千載和歌集では、この歌の前に定頼の娘からの歌が掲載されており、父である定頼を心配する内容となっています。

詞書は
「中納言定頼 世をのがれてのち、山里に侍りけるころ、つかはしける」

つまり、出家した定頼が俗世間を避けて山里におられたころ、(娘が歌を)お遣わしになった、とあります。

その歌がこちら。

  

都だに さびしさまさる 木枯らしに 峰の松風 思ひこそやれ

(木枯らしの音を聞くと、都にいてさえも寂しさがつのります。お父様がいらっしゃる山里の峰の松風の音はどんなに寂しいかと心配でなりません。)

 

定頼は1044年になると病のため出家しました。
都から離れていた父に対し、娘がその身を案じて歌を詠んだところ、定頼が本日の歌「朝ぼらけ」を返したとされています。

単に風景の美しさを詠んだ叙景歌というだけではなく、
「宇治にはこうした美しさがあるから、寂しいばかりではないよ(だから心配するのはおよし)」
という気持ちが込められた、娘に応える歌になっているという説のようです。

現代の連絡手段ではなかなか真似することのできない、和歌であるからこその素敵なエピソードなのでした。

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 58首目

突然ですが、「有馬温泉百人一首」というかるたをご存知でしょうか。

当ブログを書くにあたり百人一首の調べ物をしていたところ偶然見つけたのですが、兵庫県・有馬について詠んだ和歌のみで構成されている、というものなのだそうです。

ひとつのテーマについて百首もの歌が集められるなんて、和歌の表現の可能性というのは広いのだなあ、と改めて感動しています。

この中には、本家の百人一首に選定されている歌も含まれているのです。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「有馬山 猪名の笹原 風吹けば

いでそよ人を 忘れやはする」  

大弐三位


「ありまやま ゐなのささはら かぜふけば

いでそよひとを わすれやはする」

だいにのさんみ

 

小倉百人一首 100首のうち58首目。
平安時代中期の女流歌人・大弐三位による「恋」の歌となります。

 

 

 

 

 

歌の意味

 

有馬山のふもとにある猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと鳴ります。そうです、その音のように、どうして私があなたを忘れたりするものでしょうか。

 

有馬山
摂津国有馬郡に位置する山で、六甲山の一部。昔から「猪名」との組み合わせで、歌枕で揃って歌に詠まれることが多い。

猪名の笹原
猪名川に沿った平地(有馬山の南東。現在の兵庫県尼崎市、伊丹市、川西市周辺)。昔は一面に笹が生えていた。

風吹けば
動詞の已然形+接続詞「ば」で順接の確定条件。「風が吹いたら」の意。
上の句全体が、下の句にある「そよ」という言葉を導く序詞になっている。
(風が吹くと笹原がそよぐことから)

いでそよ
感動詞「いで」は、誘い出しや促しの「さあ」の意。
「そよ」は二重の意味を持つ掛詞。ひとつは笹の葉ずれの擬音語「さらさら」を表す。もうひとつは感動詞「そうよ」「そうなのよ」といった思い出し・同意などを表す。

人を忘れやはする
「人」は相手の男性を指す。
「やは」は反語の助詞で「どうして~だろうか(いや、そうではない)」の意。

 

 

作者について

 

大弐三位(だいにのさんみ・999?-1082?)

 

平安時代中期の歌人で、女房三十六歌仙のひとりとして知られています。
本名を「藤原賢子(ふじわらの・かたいこ/けんし)」といい、藤原宣孝・紫式部の娘として生まれました。

18歳になると、母と同じように一条天皇の中宮彰子(上東門院)の女房として出仕するようになり、祖父為時の官名から越後弁(えちごのべん)などと呼ばれました。
20代半ばで藤原兼隆(道長の兄・道兼の息子)と結婚し、娘をもうけましたが離婚しています。

1025年に後冷泉天皇(親仁親王)が誕生するとその乳母を命ぜられます。30代半ばになると高階成章と再婚、後冷泉天皇が即位した際に従三位に叙せられ、後に夫・成章も大宰大弐に就任したことから、大弐三位と呼ばれるようになりました。

中宮彰子の女房として仕えていたころには、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったとされています。また、残されている歌などからも、恋多き女性であり恋愛の駆け引きが上手かったというイメージを持たれているようです。

 

    

権利の濫用

 

さて・・・

 

冒頭でふれた「有馬温泉百人一首」。

有馬温泉についてはご存知の方が多いかと思いますが、兵庫県神戸市北区有馬町に所在している、日本三古湯の温泉です。
その存在が知られるようになったのは第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)の行幸がきっかけとのこと。
日本書紀をはじめとする、数々の古文書にその名が登場しています。

そして、その歴史の長さから、有馬のことを詠んでいる和歌は2000首以上も存在するとのこと。そこから100首を厳選し、2011年4月に発行されたものが「有馬温泉百人一首」なのだそうです。
(以上、有馬温泉観光協会HP神戸有馬温泉元湯龍泉閣HPより)

歴史がある土地だからこそ実現できる、素晴らしいアイデアですね。
ちなみに、本日の歌「有馬山」は有馬温泉百人一首の7首目に選ばれています。

 

そんな「温泉」の繋がりで・・・
権利の濫用が判決文中で初めて用いられた事例である「宇奈月温泉事件」(大判昭和10年10月5日)があります。

 


 

「宇奈月温泉」は富山県黒部市に位置しており、7.5km先の黒部川上流にある黒薙温泉から湯が引かれ、1923年に開湯しました。

この引湯管は地下に埋没されていましたが、これは宇奈月温泉を経営するY社が現在に換算すると数億円程度の費用を投じて工事をおこない、また経由する土地の利用権を獲得するなどして完成させたものでした。
しかし、引湯管のうち一部が通る乙土地については、Y社は利用権を取得せず経由してしまっていたのです。なお、引湯管が通っていたのは乙土地のうち2坪程度でしたが、その部分を含め、112坪ほどある乙土地は全体が急傾斜しており利用が難しい場所でした。

これに着目したXは、乙土地の所有者であるBから、乙土地を1坪あたり26銭で購入。
乙土地の所有者となったXは、不法占拠を理由に、Y社に対して引湯管の撤去あるいは乙土地周辺の土地を含めた計3,000坪の買取りを求めましたが、その際に1坪7円、計2万円という金額を提示しました。
(様々な計算がなされていますが、当時の1円は現在の2,000円前後ぐらいと算出されているものが多いことから、10万円にも満たない額で購入した土地を、その周辺を含め数千万円で売り渡そうとした、といった金額感になるようです)

そしてY社がこの要求に応じなかったため、Xは所有権に基づく妨害排除を求めて提訴。しかし、第1審・第2審ともにY社が勝訴したため、Xは上告しました。

これに対して大審院は、Xの請求(所有権の行使)は権利の濫用にあたるため認められない、としてその請求を棄却しました。

所󠄃有權ニ對スル侵󠄃害󠄆又ハ其ノ危險ノ存スル以上所󠄃有者ハ斯ル狀態ヲ除去又ハ禁止セシムル爲メ裁判󠄄上ノ保護ヲ請󠄃求シ得ヘキヤ勿論ナレトモ該侵󠄃害󠄆ニ因ル損失云フニ足ラス而モ侵󠄃害󠄆ノ除去著シク困難ニシテ縱令之ヲ爲シ得トスルモ莫大ナル費用ヲ要󠄃スヘキ場合ニ於テ第三者ニシテ斯ル事實アルヲ奇貨トシ不當ナル利得ヲ圖ノ殊更侵󠄃害󠄆ニ關係アル物件ヲ買收セル上一面ニ於テ侵󠄃害󠄆者ニ對シ侵󠄃害󠄆狀態ノ除去ヲ迫󠄃リ他面ニ於テハ該物件其ノ他ノ自己所󠄃有物件ヲ不相當ニ巨󠄃額ナル代金ヲ以テ買取ラレタキ旨ノ要󠄃求ヲ提示シ他ノ一切ノ協調ニ應セスト主張スルカ如キニ於テハ該除去ノ請󠄃求ハ單ニ所󠄃有權ノ行使タル外形ヲ構󠄃フルニ止マリ眞ニ權利ヲ救濟セムトスルニアラス卽チ如上ノ行爲ハ全體ニ於テ專ラ不當ナル利益ノ摑得ヲ目的トシ所󠄃有權ヲ以テ其ノ具ニ供スルニ歸スルモノナレハ社會觀念上所󠄃有權ノ目的ニ違󠄅背シ其ノ權能トシテ許サルヘキ範圍ヲ超脫スルモノニシテ權利ノ濫用ニ外ナラス

 

権利の濫用と判断されるにあたりポイントとなったのは以下のような点でした。

・乙土地はもともと利用が難しい場所であったこと
・Y社にとって乙土地は重要なものであること(失えば損害は大きい)
・それに対し、Xにとってはそれほど重要なものではないこと
・Xのとった手段が悪質であったこと(Y社に請求する目的で土地を購入し、法外な価格を設定した等)

 

そして、「権利ノ濫用」という言葉が初めて判決文中で用いられることとなりました。

<判示事項>
所󠄃有權ニ對スル侵󠄃害󠄆除去ノ請󠄃求ト權利ノ濫用

  

(民法1条3項)
権利の濫用は、これを許さない。

 

この「許さない」が示すのは、例え正当に権利を持つ者がその権利を行使するという場合でも、その法律的な効力を認めない、無効にしてしまうということです。

なお、権利の濫用にかかる事例として、最高裁昭和50年2月28日判決(所有権留保と権利濫用)などもあります。

  

◇ ◇ ◇

 

さて。

宇奈月温泉は2023年に開湯100周年を迎えたとのことですが、

なんと、これを記念して宇奈月温泉事件をモチーフとした「権利ノ濫用除お守り」が企画されました。

■「権利ノ濫用除お守り」とは
パワハラ、セクハラなどのハラスメントはもちろん、嫌がらせやいじめなど、立場などを利用して、あなたに害を与える人やことを除けてくれるお守りです。 肌身離さず携帯することで、良い人・環境・縁に恵まれるよう宇奈月神社にて祈祷しています。苦しい境遇におかれた時、新しい生活を始める時、お友達がパワハラやセクハラなどに悩まされている時、これから社会へ出るお子様への贈り物を探している時には、ぜひ「権利ノ濫用除お守り」をお迎えください。

黒部・宇奈月温泉観光局公式サイト「黒部めぐり」より)

毎月1日に、宇奈月神社となりにある黒部市芸術創造センターにて手に入れることができるそうです。
ご利益を求める人のみならず、弁護士の方や法学部生などにも人気の様子。

デザインも素敵ですし、我々法律事務所スタッフにも活力を与えてくれそうな気がしてしまいます。
機会があれば、ぜひいただいて帰りたいと思います。

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 

 

法律で読み解く百人一首 75首目

いつの時代、またどのような分野においても
それまでの伝統や習慣に重きをおく保守的な姿勢をとるか
あるいは、新しいものに変えていこうとする革新的な姿勢とるか
選択の機会が訪れるものではないでしょうか。

自分にとって何が大切か、大切にしたいか、といった考え方から選ぶ対象が決まってくるのかもしれません。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「契りおきし させもが露を 命にて

あはれ今年の 秋もいぬめり」  

藤原基俊


「ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて

あはれことしの あきもいぬめり」

ふじわらのもととし

 

小倉百人一首 100首のうち75首目。
平安後期の貴族・歌人・書家である藤原基俊の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

あなたがお約束してくださいました、させも草についた恵みの露のような言葉に望みを託しておりましたが、ああ、今年の秋も過ぎてしまうようです。

 

契りおきし
「契り置く(=約束しておく)」の連用形で、「約束しておいた」の意。
「露」は葉に「置く」ものであり、縁語の関係。

させも
「させも草」を指し、ヨモギのこと。
平安時代には万能薬とされた。

命にて
「命」は「唯一のよりどころ」という意味を持つ名詞でもあり、
「恃みにする」となる。

あはれ
嘆きを表す感動詞。「ああ」などと訳す。

いぬめり
「往ぬ(=過ぎる)」の終止形。
「めり」は推定の助動詞で「秋は過ぎてしまうようだ」の意。

 

 

作者について

 

藤原基俊
(ふじわらのもととし・1060-1142)

 

平安時代後期の貴族・歌人・書家で、右大臣・藤原俊家の四男。
藤原道長のひ孫にあたるという家柄でしたが、彼自身はなかなか官位に恵まれることはありませんでした。

歌壇に登場したのは46歳と遅かったものの、和歌には秀でていた基俊。鳥羽朝に入ると、歌合では作者のほかに判者も数多く務め、74番の作者である源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍しました。

なお、革新派であった俊頼に対し、基俊は伝統的な歌風を重んじる保守派であったといいます。そのため、俊頼とは対立関係にありました。また、自負心の強い学識派であった基俊は自身の才能を鼻にかけ、俊頼を見下す態度をとっていたのだとか。

一方、76番の歌の作者である藤原忠通とは親しい間柄にあったようで、贈答歌も残っています。忠通は、基俊・俊頼それぞれの歌の能力を認めていましたが、それと同時にライバルであった両者を同じ歌合の判者に招き、両者のなす評価の違いを楽しむ、ということもあったのだそうです。

基俊は和歌の他にも、書道・漢字に精通しており、「万葉集」に訓点をつける作業をおこなった一人でもあります。

また、弟子には同じく百人一首に歌が選ばれた藤原俊成がいたり(皇太后宮大夫俊成として83番に選出)、また、その弟子の息子は百人一首の選者である藤原定家であるなど、人間関係においても和歌との繋がりがあったようです。

 

 

私立大学と基本的人権

 

さて・・・

 

伝統的な和歌の形式を大切にしていた、保守派の基俊。

「保守」「革新」などの言葉を耳にすると、
多くの方がイメージするひとつに、「政治」というテーマがあるのではないでしょうか。

「保守主義」とは、従来からの伝統・習慣・制度・考え方を維持し、社会的もしくは政治的な改革・革新・革命に反対する思想のことを意味します(Wikipedia参照)。

ところで、私立大学とはそれぞれに独自の校風、伝統、教育方針等を打ち出しており、受験する側もそれを考慮して入学するものですが、そのため、大学は校風と伝統を守るため独自に規則を設けており、規則を破り校風を乱した上、指導説得を与えても改善しない学生には、時に退学処分を課すこともあります。
過去に、保守的・非政治的な校風をとっていた私立大学と退学処分を受けた学生との間で、その退学処分が憲法違反だとして争われた事例があります(最判昭和49年7月19日(昭和女子大事件))。

 


 

昭和36年当時、Y私立大学に在学していた学生X1、X2は、

「署名運動をするときは、事前に学生課に届け出て指示を受けなければならない。」
「補導部の許可なく学外団体に加入してはならない。」

という学則の細則として定められた「生活要録」に違反して、

・無届出のまま学内にて政治的暴力行為防止法案反対嘆願の署名を収集
・学校の許可を受けずに民主青年同盟に加入

といった政治的活動をおこなっていました。
こうした理由により、Y大学教授はXらに登校禁止を言い渡したほか、「補導」と称して呼び出し取調べをおこないました。

すると、Xらは以下のような行動をとりました。
・仮名を使い、事件に関して週刊誌で日誌を掲載
・学生集会やテレビ放送の場で事件について発言

これを受けて大学側はXらが反省していないと判断。Xらは、大学学則の「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反したもの」に該当するものとして、退学処分を受けたのです。

そこで、Xらは大学側を相手に、学生たる身分確認請求訴訟を提起しました。

一審はXらの請求を認容

二審は一審判決を取り消し、Xらの請求を棄却しました。
これに対し、Xらは「生活要録」そのものが違憲であり、大学側による退学処分も違憲であるとし、憲法及び法令の解釈適用を誤ってものであると主張のうえ上告しました。

 

これに対し、最高裁は

「憲法19条、21条、23条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であつて、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでない」

とした上で、大学とは

「学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによつて在学する学生を規律する包括的権能を有するもの」

としました。そして、

「私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによつて社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針のもとで教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受けるかぎり、かかる規律に服することを義務づけられる」

「私立大学のなかでも、学生の勉学専念を特に重視しあるいは比較的保守的な校風を有する大学が、その教育方針に照らし学生の政治的活動はできるだけ制限するのが教育上適当であるとの見地から、学内及び学外における学生の政治的活動につきかなり広範な規律を及ぼすこととしても、これをもつて直ちに社会通念上学生の自由に対する不合理な制限であるということはできない」

のように示し、特に私立大学とは、特に伝統・校風により社会的存在意義が認められ、学生もその教育方針を希望して入学するのであるから、大学がかなり広範な規律を及ぼすとしても、これをもって直ちに社会通念上不合理な制限であるとはいえず、憲法の人権規定を私人間の問題に類推適用することは出来ないとし、大学の「生活要録」の規定は、違憲か否かを論じる余地はなく、退学処分を大学の懲戒権の裁量の範囲内であると判断。上告は棄却されました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

基俊が詠んだ本日の「契りおきし」ですが、
一見すると「何か裏切りにあったことを嘆いているんだろうか」「恋人に恨み言を並べているんだろうか」という印象があり、その背景を読み取るのはなかなか難しい歌ではないかと思います。

実は、この歌は藤原忠通にあてて詠んだものとされています。

自分の出世には恵まれなかった基俊でしたが、子供のこととなれば話は別。
忠通に対して自分の息子の出世を頼みましたが、その約束は果たされなかったため、その物哀しさや「改めて頼みますよ!」という気持ちが込められています。 

自分の才能をいいことに周囲の人間を見下していたのですから、因果応報な気もいたしますが・・・

いつの時代も子煩悩な人というのはそういうものかもしれません。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 53首目

今日において、「結婚」というものに関する選択は少しずつ幅広くなっているように感じられます。

そもそも、日本における結婚とはどのように定義されているか、という点ですが、その答えは憲法にあります。

憲法では、「婚姻」を次のように定めています。

 

日本国憲法24条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

しかし、時代によってその制度は様々です。

明治時代は、旧憲法下の民法に規定された「家制度」に基づき、婚姻には戸主の同意が必要であったり・・・
江戸時代には、「家父長制」のもと、親から身分が同格の相手との婚姻を命じられることがほとんどであったり・・・

では、平安時代における結婚とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は

いかに久しき ものとかは知る」  

右大将道綱母


「なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは

いかにひさしき ものとかはしる」

うだいしょうみちつなのはは

 

小倉百人一首 100首のうち53首目。
平安時代中期の歌人・右大将道綱母の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

(あなたが来てくださらないことを)嘆きながらひとりで孤独に寝ている夜をすごす私にとって、夜が明けるまでの時間がどれほど長く感じられるものか、あなたはご存じなのでしょうか。ご存じないでしょうね。

 

嘆きつつ
「つつ」は反復を表す接続助詞。「何度も~ては」の意。

ひとり寝る夜
読みは「ひとりぬるよ」。
平安時代は男性が女性のもとに通う「通い婚(妻問い婚)」が慣習であったため、これは夫が訪ねてこず一人で寝る夜を指す。

明くる間は
「夜が明けるまでの間は」の意。「は」は強調の係助詞。

いかに久しきものとかは知る
「いかに」は程度が大きいこと表す、または程度を尋ねる副詞。「どれほど」「どんなにか」などと訳す。
「かは」は反語を表す複合の係助詞。「~だろうか。いや~ではない。」との意味。本作では連体形の動詞「知る」と係り結びの関係。

 

 

 

作者について

 

右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは・936?-995)

 

平安時代中期の歌人で、「蜻蛉日記」の作者。
藤原倫寧の娘として936年頃に誕生したと言われており、本名は不明ですが、藤原道綱の母であることから、「藤原道綱母」とも呼ばれています。

日本初期の系図集である「尊卑分脈」に「本朝第一美人三人内也」と記されており、つまり「日本で最も美しい女性三人のうちの一人である」言われるほどの美貌の持ち主でした。954年に藤原兼家の第二夫人となり、翌955年に道綱を生んでいます。

一方、夫である兼家は女性関係が派手な人でした。道綱母を妻に迎えた際も既に正妻がおり、その生涯で10人程の女性を妻・妾としています。

「蜻蛉日記」には、このような兼家との約20年にわたる結婚生活をはじめ、彼のもうひとりの妻である藤原時姫(藤原道長の母)との争い、その他妻妾に関するエピソード、上流貴族との交流、息子道綱の成長や結婚について記されています。

また歌人との交流についても記されており、和歌は261首掲載されています。
そのうちの一首が、本日の「なげきつつ…」です。
この歌は「拾遺和歌集」にもとられており、歌人としては、中古三十六歌仙にも選ばれています。

「蜻蛉日記」は現存する最古の女流日記とされ、後の女流文学・物語にも影響を与えていることから、その先駆けとなる存在であったと言えます。

 


 

 

本日の歌

嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

 

この歌には、掲載された作品ごとにエピソードが存在します。

「拾遺和歌集」では、兼家が道綱母を訪ねてきた際、彼女はわざと門を開けず兼家を待たせました。そんな兼家が「立ち疲れてしまった」とぼやいた際に応えて詠んだ歌、とされています。

また「蜻蛉日記」では、浮気性の兼家に新しい女性ができたことを知った道綱母は、兼家が訪ねてきた際も門を開けませんでした。すると兼家は早々に違う女性のところへ。そんな兼家に対し、道綱母は翌朝色褪せた菊の花と一緒にこの歌を贈ったとされています。

 

兼家によって大きく心が乱されてしまった道綱母。

その原因は兼家のみならず、平安時代の結婚制度、それに対する社会の認識にもあったのではないでしょうか。

 

平安における結婚は、夫が妻のもとに通う「通い婚」のスタイルで、男性が女性の家に入る「婿取り婚」でした。
また、文学作品などの影響から「一夫多妻制」のイメージがありますが、実際は「一夫一妻制」であり、平安貴族が多くの女性と恋愛関係をもつことが公認されていた、ということのようです。
(養老律令は重婚を禁じる旨を定めていますから、道綱母が生きた時代も同様であったはずです)

また当時の「結婚」は社会的な意味合いが強く、家と家の結びつきを重要視するものでした。男性は出世のチャンスをつかむため自分の生家よりも身分の高い家との結婚を求め、女性の両親に認められる必要がありました。一方、女性は男性が通ってくる際に持参する金銭等が生活費となったため、相手の立場というのは非常に重要でした。
(今年の大河ドラマでも、主人公が相手の男性に対し「正妻にしてくれるのか」と詰める場面が話題となりました)

正妻の場合は、夫が妻の家に住むほか、晩年は夫の家で同居するというスタイルだったようです。
一方、公式には認められない「妾」はいわば内縁の妻といった存在であり、同居はできず、いつ来るかわからない男性の来訪を待つしかありませんでした。

道綱母は、この「内縁の妻」の立場だったのです。

こうした事情を考えると、道綱母の気持ちもよくわかります。
なお、一夫一妻制にもかかわらず多くの妾をかかえていた理由としては、子を多く持つという目的があったようです。

 

  

内縁の解消と財産分与

 

さて・・・

「内縁関係」という言葉について、実は法律上の定義はありません。
一般的には、法律上の婚姻手続きはとらないものの、実態的には法律上の夫婦と変わらない結婚生活を送っている関係を指します。
また「事実婚」という言葉もありますが、こちらは主体的に婚姻手続きを選択しない場合に用いられ、「内縁関係」は家庭の事情等を理由とする場合に用いる、とする場合もあるようです。

婚姻届を出す・出さないという選択から、その後夫婦が置かれる法律上の立場が大きく変わってくるのです。
その結果、影響することの一つに「相続」があるのではないでしょうか。

例えば、内縁関係にある夫婦の一方が死亡してしまった場合は・・・?

最近では、内縁関係は準婚とされ、法律婚に準じ、法律的にも保護されるようになってきています。そのような中で、夫婦関係解消の際、内縁関係の解消と、法律婚の解消では如何なる点が異なるのでしょうか。

 

この点に関し、内縁関係にある夫婦において、離別ではなく一方の死亡により内縁関係が解消したことで、内縁の妻が、内縁の夫の相続人に対して財産分与を請求した事例があります(最決平成12年3月10日)。

Aは、昭和22年にBと婚姻し、Bとの間にY1とY2との2名の子をもうけていた男性。
Xは昭和45年に夫と死別した女性で、昭和46年3月頃から働き始めた勤務先でAと知り合い、親密な関係となりました。
Xは昭和46年5月頃から平成9年1月にAが死亡するまで、毎月一定額の生活費の援助を受けていました。また、現金で300万円の贈与も受けていました。 

昭和60年12月頃になると、Aは病気により入退院を繰り返すようになりました。XはAの入院期間中ほとんど毎日にように病院に行き、Aの身の周りの世話をおこないました。
また、昭和62年8月にBが死亡すると、AはY1及びその家族と住む自宅よりもX方で過ごす時間が長くなっていきました。
その後、Aは平成9年1月19日に死亡。XとAの関係は27年にも及びました。

すると、1億8500万円にものぼるAの遺産はY1とY2がそれぞれ相続し、Xには1円も支払われませんでした。

そこでXは、Aの負う内縁の妻に対する財産分与義務をYらが相続したとして、平成9年5月、Y1、Y2に対し財産分与として各1000万円の支払いを求める家事調整を家庭裁判所に申し立て、その後審判手続きに移行しました。

 

本件は、内縁の配偶者の一方が死亡した場合に離婚による財産分与に関する民法768条が類推適用されるか否かという法律問題を含む事件でした。

(財産分与)
第768条1項 協議上の離婚をした者の一方は、相手方に対して財産の分与を請求することができる。

2項 前項の規定による財産の分与について、当事者間に協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、当事者は、家庭裁判所に対して協議に代わる処分を請求することができる。ただし、離婚の時から二年を経過したときは、この限りでない。

 

高松家裁は審判において、死亡による内縁の消滅の場合にも、生存配偶者は財産分与の規定の準用又は類推適用により財産分与請求権を有するものと解するのが相当である、と述べ、Y1とY2に対し、財産分与として各500万円を支払うよう命じました。

これに対してYらは抗告。高松高裁は、内縁夫婦の一方が死亡することによって内縁関係が消滅した場合に、法律上の夫婦の離婚に伴う財産分与の規定を準用ないし類推適用することはできない、と述べて、家裁の審判を取り消し、本件申立てを却下しました。そして、同高裁は、民訴法337条1項に基づき、Xがこの決定に対して最高裁に抗告することを許可しました。

(許可抗告)
第337条1項 高等裁判所の決定及び命令(第330条の抗告及び次項の申立てについての決定及び命令を除く。)に対しては、前条第1項の規定による場合のほか、その高等裁判所が次項の規定により許可したときに限り、最高裁判所に特に抗告をすることができる。ただし、その裁判が地方裁判所の裁判であるとした場合に抗告をすることができるものであるときに限る。

 

Xが抗告したところ、最高裁は

内縁の夫婦について、離別による内縁解消の場合に民法の財産分与の規定を類推適用することは、準婚的法律関係の保護に適するものとしてその合理性を承認し得るとしても、死亡による内縁解消のときに、相続の開始した遺産につき財産分与の法理による遺産清算の道を開くことは、相続による財産承継の構造の中に異質の契機を持ち込むもので、法の予定しないところである。

 

とし、離別による内縁関係の解消の場合には、財産分与の規定が類推適用されると考えても良いとされた一方で、離別ではなく、死亡により内縁関係が解消した際の相続には財産分与の規定を持ち込むことはできないとしました。

さらに、

また、死亡した内縁配偶者の扶養義務が遺産の負担となってその相続人に承継されると解する余地もない。

 

とし、夫婦が死別した場合の財産に関しては、相続人に対する相続によってのみ承継されると判示しました(以上、判例タイムズ1037号107頁参照)。

(相続の一般的効力)
民法896条 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。

 


 

 

本日の歌
「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」

 

移り気な兼家に対し、道綱母が皮肉をこめて詠んだこの歌。
対して、兼家は次の歌を返しました。

げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も 遅くあくるは わびしかりけり

(本当におっしゃるとおりです。冬の長い夜が明けるのを待つのはつらいものだが、そんな冬の夜でない真木の戸をなかなか開けてもらえないのもつらいことです。)


その後、兼家は道綱母のところには全く通わなくなったばかりか、他の女性との間に次々と子供をもうけ、さらには新しい愛人もできていきました。
この歌をきっかけに、二人の仲は険悪になってしまったようです。

晩年の道綱母は、病を患っていた一方で歌合せに出詠するなどしていましたが、995年頃に亡くなったとされています。

不実であった兼家との生活を(多少脚色はあるでしょうが)、後の女流文学に大きな影響を与える作品にまで落とし込むほどの才能があった道綱母。

夫の浮気癖のせいで身も心もボロボロ・・・というよりは、
「このエピソードをもとに日記文学を書き上げてしまおう!」
くらいに勝気でいてくれたら良いな、と思わずにはいられません。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 17首目

少し前に話題を集めた「老後2000万円問題」。
これを受け、投資への関心が高まった方もいらっしゃるかと思います。
諸制度も改正が重ねられており、最近では「新NISA」が始まりました。

このように、現在は若い年齢であっても、また少額からのスタートでも、投資に挑戦できる制度が多く、かかる情報もインターネットで気軽に収集することができます。

 

その一方で、
証券会社にしてみれば、顧客を獲得するのに苦労しているのかもしれません。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川

からくれなゐに 水くくるとは」  

在原業平朝臣


「ちはやぶる かみよもきかず たつたがは

からくれなゐに みづくくるとは」

ありわらのなりひらあそん

  

 

 

小倉百人一首 100首のうち17首目、
平安初期~中期の貴族・歌人、在原業平朝臣の歌となります。

 

 

歌の意味

 

(川面に紅葉が流れていますが)遠い昔の神々の時代にさえ、こんなことは聞いたことがありません。
竜田川一面に紅葉が散り浮いて流れ、水を鮮やかな紅色の絞り染めにするなどということは。

 

ちはやぶる(千早ぶる)
「神」にかかる枕詞。
「いち=激い勢いで」「はや=敏捷に」「ぶる=ふるまう」という言葉を縮めたもので、勢いが激しい、強力で恐ろしいことを表す。

神代
「遠い昔」や「(太古の)神々の時代」の意。
「神々の時代でさえ聞いたことがない」とすることで、下の句の内容がそれほど不思議な現象であることを指す。

竜田川
奈良県生駒郡を流れる川で、紅葉の名所。

からくれなゐ
「唐紅」や「韓紅」と表記し、濃く鮮やかな紅色を指す。

水くくるとは
「くくる」は絞り染めの技法である「くくり染め」にする、ということ。
「竜田川が水をくくり染めにする」という擬人法が用いられている。

 

 

 

作者について

 

在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん・825-880)

 

平安の初期から前期にかけての貴族・歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。
天城天皇の孫にあたる人物で、母方の血筋では桓武天皇の孫にあたるなど、出自としては非常に高貴な身分でした。しかし、父である阿保親王が政権争いの連帯処罰を受けて左遷されたことなどから、生まれて間もなく、兄たちと共に皇族を離れて「在原」の姓を名乗ることとなりました。

貴族としては、出仕を初めてからもなかなか昇進できず、官職についた記録もありません。このように、朝廷における長い不遇の時代が業平を和歌に没頭させたのでした。
のちに御代が変わると、蔵人頭に任ぜられるなど要職を務めました。
一方、歌人としては、「古今和歌集」に収録された30首のほか、勅撰和歌種に87首が入首するほどの名手であったようです。

そして、業平といえば容姿端麗・恋多き男性として知られています。「ちはやぶる…」の歌も、かつて恋愛関係にあった藤原高子(二条后。清和天皇の女御)に捧げたものだとか。

業平は平安の恋愛小説「伊勢物語」の主人公ともいわれていますが、その中には、業平と高子が身分違い許されぬ恋に落ちて駆け落ちを試みるものの、途中で失敗して高子が連れ戻されてしまう場面が描かれています。
「ちはやぶる…」は、高子の持つ屏風を見た業平が詠んだ「屏風歌」(実際の風景を見ずに、屏風に描かれた絵を主題として詠まれた和歌)です。
業平はこの歌で彼が変わらず高子への気持ちを抱いていることを暗に示した、とする説もあります。

 


 

そんな業平が詠んだ、本日の歌

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

 

漫画作品のタイトルに用いられたことから、耳にしたことのある方も多いかと思います。ところで、落語の演目があるのはご存じでしょうか?

 

「千早振る」という古典落語で、別題「百人一首」「無学者」ともいいます。
そのストーリーはというと・・・

 

ある日、長屋で物知りと知られる「ご隠居」のもとに、「八五郎」がやってきます。娘に「ちはやぶる」の歌の意味を聞かれたがわからない、教えてくれというのです。
ところが・・・実はご隠居もこの歌の意味を知りません。しかし、物知りといわれる手前、知らないなどとは口が裂けても言えません。
そこで、ご隠居は即興で次のような解釈を考えます。

・「竜田川」という相撲取りが吉原で「千早」という花魁に一目ぼれするものの振られてしまう。(=千早振る)

・それならと、竜田川は妹分の「神代」に言い寄るものの、こちらも千早に倣って竜田川を相手にしない。(=神代も聞かず竜田川)

・その後、相撲取りを廃業して豆腐屋になった竜田川のもとに、偶然、物乞いとなった千早がやってくる。おからを恵んでほしいという千早に怒った竜田川は彼女を突き飛ばし、自身の過去の行いを悔いた千早は、近くにあった井戸に身投げする。なお、千早の本名は「永遠(とわ)」であった。(=からくれなゐに 水くくるとは)

 

所々無茶に聞こえるものの、最後には八五郎も納得してしまいます。
これだけの嘘をスラスラ述べてしまうご隠居には驚きです。

 

 

先物取引「客殺し商法」による詐欺

  

さて・・・

 

ご隠居の意のまま、すっかり騙されてしまった八五郎。
思惑どおり、沽券を保つための「カモ」にされてしまったのですね。

もし八五郎が先々でこの話を披露し、大恥をかいてしまったとしても、体面が守られたご隠居には関係ありません。
自分の利益を守るために嘘をついたご隠居は、「詐欺罪」とみなされてしまうのでしょうか。

 


 

 

商品先物取引に関して、いわゆる「客殺し商法」により、業者が顧客から委託証拠金名義で現金等の交付を受けた行為について、詐欺罪の成立が認められた事例があります(最決平成4年2月18日)。

「客殺し商法」とは、外務員の思惑通りに顧客に取引をおこなわせ、顧客に損失を発生させ、顧客への委託証拠金の返還及び利益の支払を免れる商法のこと。
業者が利益を得る一方、客が大きな損失を抱えることになるものであり、業者が意図的に仕掛ける方法です。

 

本件は昭和45年から47年にかけての時期において、商品取引員(顧客からの商品取引所における売買注文を執行するための受託業務をおこなう者)として営業していた株式会社Aの社員らが顧客を勧誘し、総額5000万円に上る委託証拠金の交付を受けた行為に関連して、その幹部、管理職、外務員ら合計11名が詐欺により起訴された事案です。

一審判決は、被告人らが客殺し商法をとることを営業方針としていた点は認められず、具体的な欺罔文言とともに勧誘がおこなわれた4件のみについて詐欺罪の成立を認めました。
これに対して検察側が控訴し、控訴審判決は、検察側の主張を全面的に採用。上記争点に関する原判断を破棄しました。

被告人らが上告したところ、本決定は、原判決の認定した事実関係を摘示した上で、それらの事実に照らせば、被告人らの行為は詐欺罪を構成するとの職権判断を示し、上告を棄却しました(以上、判例タイムズ781号117頁参照)。

本件において、被告人らの用いた「客殺し商法」の手口は以下となります。

 

①勧誘に当たっては、いわゆる「飛び込み」と称し、一定地域の家庭を無差別に訪問して勧誘する方法を採る。

②勧誘対象の多くは、先物取引に無知な家庭の主婦や老人となり、これらの者を勧誘するに際しては、外務員の指示どおりに売買すれば先物取引はもうかるものであることを強調する。

③右の言葉を信用した顧客に対して、外務員の意のままの売買を行わせることとし、具体的には、相場の動向に反し、あるいはこれと無関係に取引を仲介し、しかも、頻繁に売買を繰り返させる。

④取引の結果、顧客の建て玉に利益を生じた場合には、一定の利幅内で仕切ることを顧客に承諾させて、利益が大きくならないようにする一方で、利益金を委託証拠金に振り替えて取引を拡大、継続するよう顧客を説得し、顧客からの利益の支払要求等を可能な限り引き延ばしたりしつつ、それまでとは逆の建て玉をするなどして、頻繁に売買を繰り返させる。

⑤以上の方法により、顧客に損失を生じさせるとともに、委託手数料を増大させて、委託証拠金の返還及び利益金の支払を免れる。

 

 

最高裁は、

「客殺し商法」により、先物取引において顧客にことさら損失等を与えるとともに、向かい玉を建てることにより顧客の損失に見合う利益を会社に帰属させる意図であるのに、自分達の勧めるとおりに取引すれば必ずもうかるなどと強調し、顧客の利益のために受託業務を行う商品取引員であるかのように装って、取引の委託方を勧誘し、その旨信用した被告者らから委託証拠金名義で現金等の交付を受けたものということができる

 

とし、被告人らの本件行為は詐欺罪を構成すると判断しました。

 

(詐欺)
刑法246条1項 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。

 

 

◇ ◇ ◇

 

ご隠居の嘘にまんまと騙されてしまった八五郎。
かつての恋人に詠んだ歌を落語でネタにされるなんて、ましてや元の影も形もないストーリーにされてしまうなんて・・・
業平もさぞ驚くことでしょう。

 

このように、落語は、熊五郎、八五郎、与太郎あたりが、「ご隠居」や「先生」など年長者の口の上手さに丸め込まれてしまう、という噺が多いですよね。

「客殺し商法」に負けずとも劣らない、ご隠居たちの見事な手法。
あなたなら何と名付けますか?

 

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー