特定の基準で「優れたもの」を選出し、世間の評価を決定づける方法は様々あります。
例えば「賞」に選ばれたり、絶大な影響力を持つ人物・団体によって「お墨付き」をもらったり、特定の専門誌・メディアへ抜擢されたり・・・
対象となればすぐさま高い注目を集め、それまでなかなか日の目を見なかったものが評価されたり、あるいは既に著名なものが改めて広く評価されたりなど、各芸術文化をより高める好機となっているのではないでしょうか。
平安時代にも、話題性や大衆性にとらわれず「その分野で本当に優れているもの」を選定し、評価の基準を作った人物がいます。
自らの審美眼を磨き、優れたものを評価・普及したことで、多くの作者やその作品たちが1000年以上もの間にわたり様々な時代・場所で親しまれています。
そこで、本日ご紹介する歌は・・・
小倉百人一首 100首のうち55首目。
平安時代中期の歌人、大納言公任による「雑」の歌となります。

滝の音は
この「滝」は、平安初期に嵯峨天皇の離宮・嵯峨院(現・大覚寺)に作られた日本最古の庭池にあった滝のこと。公任が訪れた当時は水が枯れていた。
絶えて久しくなりぬれど
「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形。
「ど」は逆説確定条件(~けれども/~のに)をあらわす接続助詞。
「(滝の音が)絶えてから長い時間が経ったが」となる。
名こそ流れて
「名」は評判や名声の意。
「こそ」は強調の係助詞。
自動詞「流る」は「広まる/次第に伝わる」の意。
なほ聞こえけれ
副詞「なお」は「それでもやはり」、
自動詞「聞こゆ」は「評判になる/世間に知られる」の意。
「けれ」は詠嘆の助動詞(「けり」の已然形)なので、全体で「それでもやはり、評判になっているなあ」となる。
※「音」「流れ」「聞こえ」は、「滝」の縁語。
大納言公任(だいなごんきんとう・966-1041)
本名は藤原公任。平安時代中期の公卿・歌人で、中古三十六歌仙の一人です。
関白太政大臣である父・藤原頼忠と、醍醐天皇の孫である母・厳子女王の長男として生まれました。
父方の祖父は元・関白太政大臣の藤原実頼。さらに、従兄弟には
具平親王:漢詩、歌、管絃、書道、陰陽道、医術に精通した当代随一の教養人
藤原実資:三代の天皇に仕えた朝廷の御意見番的人物
藤原佐理:日本書道史における「三跡」の一人
が揃うなど、政治的・芸術的に名門一族の出身でした。
周囲からの期待も大きく、15歳の元服直後には異例の正五位下に叙せられ(例えるなら、新卒入社後に部長・次長クラスへ出世するようなもの)、実に輝かしい貴族社会デビューを果たしました。
親の七光りかと思いきや、高い実力も備わっていた公任。
18歳(あるいは19歳)で参加した花山天皇主催の大規模な歌合において、若いながらベテラン歌人たちと互角以上に渡り合うなど、その教養・才能も発揮していきました。
事務能力も非常に優れていたため、当初は順調に昇進。さらには姉が円融天皇の皇后になっていたこともあり、まさに向かうところ敵なしでした。
しかし、順風満帆と思われたその歩みに、徐々に影が差し始めます。
当時の藤原家は、父・頼忠がトップにいたことからその家系である「小野宮流」が優位にありましたが、唯一の弱みは【天皇との外戚関係がないこと】でした。
公任が24歳の頃、寛和の変によって花山天皇が出家したため、まだ幼い一条天皇が即位。すると、外祖父である藤原兼家(道長の父。九条流)が摂政となって朝政を牛耳るようになり、頼忠は関白を辞職。失意のなか989年に亡くなり、公任は後ろ盾を失ってしまいました。
こうして政治の実権は「九条流」へと移り、一族は重要なポストを独占。公任の昇進は完全に停滞してしまいました。
最終的には、公任の又従兄弟(親同士が従兄弟)である道長が実権を握るに至り、公任はその政権を支える立場となったのです。
50代になると昇進の望みもなくなり、さらに2人の娘が立て続けに亡くなったことから、政治の舞台から引退して出家しました。
晩年には山荘を営み、現在はその跡に「朗詠谷」(標石)が残されています。
華々しい生まれながら、政治的には大成することができなかった公任。
しかし、芸術的には圧倒的に優れた感性を持っていました。その守備範囲は和歌のみならず、漢詩、管弦のすべてに精通し、文化人として名を馳せたのです。
その功績は、平安時代の「美の規範」を作り上げたと称されるほど。
道長にも負けない、数々のエピソードが残されています。
①自己評価も高め「三舟の才」
道長が大堰川(現在の桂川)で舟遊びを催した際、「漢詩の舟」「管絃の舟」「和歌の舟」と3つに分け、各分野で秀でた人たちを乗せるということがありました。
道長が公任にどの舟に乗るのかを尋ねると、「和歌の舟」を選び、次の歌を詠んで称賛されました。
(小倉山や嵐山から吹き下ろす風が冷たいので、紅葉の葉が散って人々にかかり、皆が錦の着物を着ているようだ。)
その後、公任は
「漢詩の舟を選んで、この和歌くらい良い漢詩を作っていたら、もっと名声が上がっただろうに。残念なことをした。」
「それにしても、道長殿に乗る舟を聞かれたときは気分がよかった。(道長の発言は漢詩・管絃・和歌いずれも才能があると見越したものだから)得意にならずにいられなかった。」
と言ったそうです(「大鏡」より)。
②ほんのわずかに貢献?「源氏物語」との繋がり
1008年11月1日、土御門殿(道長の邸宅)で宴が開かれたときのこと。
酒に酔った公任は、紫式部を見つけると声をかけました。
(恐れ入りますが、このあたりに若紫の姫君がおられるのでは?)
他の人との話していたところを割り込まれた紫式部。公任の野暮な態度に、
(光源氏に似ている人がいないのに、まして紫の上がいるかしら)
と、聞き流したのでした(「紫式部日記」より)。
この一件、公任は自分の教養を誇示するため一方的に声をかけました。
酒失ともいえるこの行動、実は源氏物語の作者が紫式部である(※諸説あり)ことを後世に伝える役割を果たしています。
当時は書物に作者の名前が記されませんでしたが、源氏物語は、紫式部が自分の日記に作者であることの「匂わせ」をしたことで彼女が作者だと判明した経緯があり、公任とのエピソードもその「匂わせ」の一つなのです。
公任の失態も、歴史の謎を解明したほんの少しの功績といえるでしょうか。
③司法に物申した「着釱勘文」
法律繋がりでひとつ、興味深いエピソードがあります。
検非違使別当、つまり現代でいう警察と裁判所を兼ねたような官職のトップにあった公任は、当時の判決文である「着釱勘文(ちゃくだいかんもん)」に懲役の年数を明記する運用を初めておこなったとされています。
公任は、窃盗等はその被害額の総額に応じて徒(律令制度における刑罰のひとつ。懲役刑に相当)の年数が定められているにもかかわらず、検非違使らは単に「徒刑に処す」と言うだけで、具体的な年数が計算・明記されない運用となっていたことに異を唱えました(「権記」より)。
当時の朝廷では大きな議論を呼んだものの、公任の「法に忠実な姿勢」は高く評価されたといいます。
④和歌の評価基準を確立「三十六人撰」
公任が撰者となった秀歌撰「三十六人撰」があります。万葉集をはじめ古今和歌集や後撰和歌集に歌が採用された36名を選び、計150首の歌をとりまとめたものです。よく耳にする「三十六歌仙」とはこの作者らを指す言葉で、うち25名が百人一首に選ばれています。
これは単に優れた歌人・和歌を集めた歌集ではありません。公任は、万葉の時代から自身の現代に至るまでを俯瞰し、「歴史上本当に偉大な歌人は誰か」という視点で36名を選んだのです。
その後盛んに作られた三十六歌仙形式の「元祖」となり、この歌集で公任が「優れている」としたものは、後の歌人の評価基準となりました。
⑤公任の審美眼が認められた「拾遺抄」
公任による私撰和歌集「拾遺抄」は、花山上皇が勅撰和歌集(拾遺和歌集)の目安にするため編纂を命じられたと考えられています。当時の歌壇は人材不足であったため、まだ30代前半であった公任に白羽の矢が立ちました。
「拾遺抄」が世に出ると、宮中では大人気となります。
花山上皇はこれをもとに「拾遺和歌集」を編纂し、公任自身の歌も15首採用されましたが、「拾遺抄」の評判があまりにも良かったため、この勅撰歌集はその影に隠れてしまったんだとか。この成功により、公任は和歌の歌壇で一目置かれる存在となりました。
⑥美しさの基準を築いた「和漢朗詠集」
詩文集「和漢朗詠集」は、公任が漢詩文・和歌を集めて朗詠(漢詩の秀句に旋律をつけて歌うこと)のために編纂したものです。
もともとは道長の娘・威子入内の際に、贈り物の屏風絵に添える歌として編纂されたもの。その後、今度は公任の娘が道長の息子と結婚することになり、屏風絵の際に選定した和漢の詩文を娘の引き出物とすることにしました。そこで、当代随一の書家であった藤原行成に清書を依頼し、冊子のかたちにしたのだそうです。
近年では、皇居三の丸尚蔵館が所蔵する和漢朗詠集が国宝に指定されています。
公任の功績を一部ご紹介しました。
彼が官僚として成功していたら、日本の文化や歴史はどのように変わっていたでしょうか。
さて・・・
名門出身で才能にあふれながらも、政界では主導する側ではなく、同じ藤原氏(九条流)である道長を支える立場となった公任。
何が彼らの運命を分けたのかはわかりません。
道長の勢力拡大はとどまるところを知らず、摂関政治などの戦略を経て、その地位を確固たるものにしていきました。
貴族として力を持つためには、才能だけでなく財力も必要です。
道長の総資産は、現代の価値に置き換えると数十億円以上あったとされ、その収入源は「荘園」でした。全国から多くの荘園を寄進させていたことにより、広大な私有地及び莫大な収入を得ていたのです。
この「寄進地系荘園」。
簡単にいえば、国司の課税に苦しむ荘園の所有者が貴族等に近づき
と「寄進した」形をとることで、国司の干渉を受けにくくしたもの。
名義と実態をずらすことで(現代でいえば「名義貸し」)、苦しい税金から逃れようとしたのです。
朝廷も黙って見ているわけにはいかず、違法な荘園を廃止・整備すべく、度々「荘園整理令」を発布しました。
すぐには上手く機能しなかったものの、道長の死から40年ほど経った頃に発布された「延久の整理令」(1069年)では、ルールの厳格化や藤原氏の縁の薄い後三条天皇の主導により、最終的には摂関家や大寺社の経済力削減や皇室経済の復興などの成果を上げることができました。
このように、「形式上の名義」と「実際の支配・利益」がずれるとき、法や権力はその実質に目を向ける必要があります。
「法人格否認の法理」もその一例です。
会社が独立した法人であるのが原則でも、その法人格が形骸化していたり、法律回避のために濫用されていたりする場合には、その「会社」という入れ物をこえて、実体を問うことがあります。
条文としては明文化されておらず、民法の信義則や権利濫用禁止といった一般条項を理論的基盤として、実質的公平を確保するために発展してきた法理です 。
1969年に最高裁で公式に認められて以降、多くの下級審判例の積み重ねによって、現在では裁判所や学説において確固たる地位を築いた判例法理として確立されています。
本日は、最高裁が初めて「法人格否認の法理」を明確に求めた判例をご紹介いたします(最一小判昭和44年2月27日)。
昭和36年、個人Xと株式会社Yの間で、Xが所有する建物の賃貸借契約が締結されました。
契約のきっかけは、Yの代表者であるAの従兄弟からXへ、従兄弟が店を電気屋を営んでいるので店を貸してほしい、と申し入れがあったことでした。
Xは法律に明るくなく、その「電気屋」が会社組織なのか個人経営なのかを明確に認識しないまま、「電気屋のA」に貸したものと考えていました 。一方、借り主側も株式会社という形態をとってはいたものの、実質的にはAの個人企業であり、税金対策のために会社組織にしていたに過ぎませんでした 。
その後、Xは自分が営む化粧品販売店を拡張するため、Aに対して期間満了に伴う明渡しを申し入れました。すると、昭和41年2月にAは原告に「昭和41年8月19日までに必ず明渡す」とA個人名義の念書を差し入れました。
しかし、約束の期日を過ぎてもAは明け渡しをおこなわず、賃料の支払いも滞ったため、XはA個人を被告として店舗明渡請求訴訟を提起しました。
そして、この訴訟の係属中である昭和42年3月、以下の内容で和解が成立しました。
・賃貸借契約を合意解除すること
・Aは昭和43年1月末日までに店舗を明渡すこと
・明渡しと引き換えに、XはAに5万円を支払うこと
ところが、この和解成立から数日後、Aは「店舗は会社が借りているのだから、個人として使用している四畳半は明渡すが、会社の使っている部分は明け渡さない」などと主張し始めました。
これを受け、Xは改めて「株式会社」としてのYを相手取り、所有権に基づいて建物の明け渡しと使用損害金の支払いを求める本訴を提起するに至りました。
第一審は、Yは実質的にAの個人企業であり、昭和42年3月の和解をもって賃貸借契約は合意解除されたと認めるのが相当であると判断。
その結果、被告会社に対し、昭和43年1月末日までの店舗明渡し及び損害金支払いを命じました。
Y側はこれを不服として控訴。
Aは、第二審でも引き続き「この念書への署名も、その後の和解も、控訴人(Y)としては拒絶した上で、あくまでA個人としておこなった」と供述しましたが、裁判所はこれを到底信用できないとし、控訴の訴えを棄却しました。
すると、Y側は再度これを不服として上告しました。
そして迎えた上告審。
最高裁はまず、会社と個人が別の人格であるという大原則を認めつつも、「法人格」とはそもそも何のためにあるのか、その本質を述べました。
さらに、その「法人格」を否認するための要件として「形骸化」「濫用」の2つを提示し、この法理が適用されるとどのような結果になるのかを述べました。
そして、本件については、原審が認定した以下の事実を法理に照らし、
①被上告人(家主)は、本件店舗の契約書上の賃借人を「上告会社」として貸し出したが、この会社は本来、Aが自身の経営する「電気屋」の税金を安くする目的で設立したものであった 。
②A自身が代表取締役となってはいるが、会社とは名ばかりで、その実質は「全くのAの個人企業」に他ならない 。
③家主側も、実態は「電気屋のA」に貸したと考えていた 。
④店舗の明け渡しを求めた際も、Aは「必ず明け渡す」という個人名義の書面を差し入れ、その後の訴訟でも「Aは昭和43年1月末までに明け渡す」という裁判上の和解を個人として結んでいる 。
被告の主張を、法人格という形式を悪用して相手方の利益を不当に害するものであると判断。上告は棄却されました。
◇ ◇ ◇
さて。
本日の歌「滝の音は」について、その詞書は次のように記されています。
(大覚寺へ、大勢の人々と一緒に参上いたしました折に、古い滝を題材として詠み申し上げました)
大覚寺(京都市右京区嵯峨大沢町)はもともと、嵯峨天皇が檀林皇后との新居として建立した離宮。当時、唐の湖を模した日本最古の人工庭池である大沢池が築造され、その際に高低差を利用した人工の滝が造られました。
それからおよそ180年。999年9月に道長が嵯峨を訪れた際に公任も同行し、この歌を詠んだといいます。
彼が目にしたその「古い滝」は、すでに水が枯れてしまっていました。
しかし、公任が「滝の音は」を詠んだことによって、この場所は「名古曽の滝」として人々に知られることとなり、一度は役目を終えた滝が公任の手によって蘇ったのでした。
現在、大覚寺は開創から何と1150年。公任が詠んだ滝は、国指定の名勝地(大沢池附・名古曽滝跡)となっています。
嵯峨天皇が美しさを求めて作った場所が、時を経て公任により新たな価値を加えられ、さらにその後もこの土地に息づき、現代の私たちにその軌跡を伝えています。
(ちなみに、過去には切絵御朱印「名古曽滝跡と公任」が作られるなど、授与品にもたびたび公任が登場しているようです)
個人的に、大覚寺はいつか訪れてみたい寺社仏閣のひとつでした。
参拝の折にはぜひ大沢池エリアにも足を運び、公任が目にした風景を想像しながらこの歌をそらんじてみたいものです。

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー
