新人弁護士”まりえ”が行く!六法全書を探してみた②

2回目になる「六法全書を探してみた」シリーズ。

1回目では意気揚々と神保町を探索するも、
まさかの収穫なしという悲しいスタートをきりました。

果たしてまだ見ぬ六法へたどり着くことができるのでしょうか。

 


 

お昼ごはんを終えた私たちは、さっそく大本命である丸沼書店へ。

(実はその前に寄り道も。詳しくは近日公開の百人一首ブログをお楽しみに。)

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水道橋からすぐの場所にお店を構えるこちらは、

「法律書専門」と検索すれば必ず上位に出てくる書店さんです。

ただ、新書・古書どちらも扱っているため、どれ程古書が置いてあるのか……

 

 

ドキドキしながら店内へ。

さすが法律書専門というだけあって、どこもかしこも法、法、法!

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(まりえ先生すっかり夢中です)

古書もなかなかのボリューム。これは期待が高まります!

 

と思いきや・・・

 

 

うーん・・・

 

 

見当たりません。

「いや、需要が少ないから店頭にないのかも」

恐る恐る店員さんに聞いてみると、

「ものすごく古くて良ければありますが昭和は・・・」

 

なぜでしょう。昭和の六法全書はそんなに希少なのでしょうか。

 

お店を出て呆然とする我々。

このままでは神保町にランチしにきただけになってしまうではないか!!

そこで最後の最後に望みをかけ、赤門近くの伸松堂書店へ行くことにしました。

(こちらも法律関係専門古書店)

時間的にもこれがラストチャンスです。

 

果たして求めているものは見つかるのか!?次回へ続く!

法律で読み解く百人一首 1首目

———やまと歌は、人の心を種として、             □□□□□□□□□□よろづの言(こと)の葉(は)とぞなれりける

 

これは、当ブログで紹介しようとしている小倉百人一首ではなく、
古今和歌集の冒頭部分である。

意味は、
「和歌は、人の心がもとになって、それが様々な言葉になってできたものだ」
というもの。

小倉百人一首の中の和歌も
その一首一首が、人の心が言葉になってできたものといえる。

 


 

さて、本日紹介する歌は、こちらである。

【本日の歌】

「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波超さじとは」 清原元輔

「ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ
□□□□□□□□すゑのまつやま なみこさじとは」 きよはらのもとすけ

 

-意味-
「約束したのに。たがいに涙で濡らした袖をしぼっては、どんなに高い波でも末の松山を超すことができないことから、波が末の松山を超えることがないように、自分たち2人の恋心が変わることはない、と」

 

 

【作者はこんな人】

この歌の詠人は「枕草子」おなじみの清少納言の父、清原元輔であり、
この人については古典の教科書でお馴染み「今昔物語集」に載せられるような
興味深いエピソードがある。

平安時代、男性は人前に出るときに頭に烏帽子や冠といったかぶりものをつけていなければ、大変恥ずかしいことだとされた。

ところが、清原元輔は人前で馬から落ちた拍子に、
頭のかぶりものが落ちてしまった。周りの人間は大笑いである。
(現代でいうと、人前でパンツ1丁でいるようなものだろうか)

普通の人なら、ここで恥ずかしさのあまり、消え入りたくなるものだが・・・

 

清原元輔は違った。

従者が急いで冠を拾って渡しても、すぐにそれを受け取らず、

「冠を落としはしたが、馬も悪くないし、
冠もとれやすいものだから冠も悪くない。
自分には冠を結わえ付ける頭の左右の髪の毛もないから、自分も悪くない。
だから、冠を落としたことで笑ってはならん!」

と、その場で滔々と説いたあとに、やっと冠を被ったのである。

常識では考えられない行動をする元輔に、
ますます周囲の人の笑い声は大きくなった。

 

おそらく元輔は、本気で真面目に道理を説こうとしたのではなく、
面白さを狙ってこのような行動に出たのであろう。

ただ、恥ずかしい失敗をしただけで終わらせてしまわず
“面白おかしい話にしてしまおう…!”という、
現代の芸人のようなスピリッツがあったのか…

それがどうかはともかく、この話に表れているように
どこか憎めない、お茶目でひょうきんなおじさんが清原元輔であった。

 

 

【大津波にも負けない?!「末の松山」伝説】

この歌に出てくる「末の松山」というのは、
現代でいうと宮城県多賀城市にあたりにあったとされる。

標高10メートル程度で、「山」というより小さな「丘」であり、
堂々とした松の木々が枝を伸ばしている。

一説によれば、この歌が詠まれる前に起きた貞観地震で大津波が押し寄せ、
その規模は町が飲み込まれるほどであった。
それなのに、小山である「末の松山」の松は無事であったことから

「『末の松山』に波が到達することは絶対ないのではないか!!」

と人々は思った。

その話が都の人々にも伝わって、
“「末の松山」に波が来ること=ありえないこと”のたとえとなり、
「末の松山」は、平安歌人のイマジネーションを掻き立てる歌枕となった。

なお、平安歌人は、基本的に引きこもりがちの生活を送るので
歌の題材がある現地に赴いたりはしない。女性ともなれば特に家の外には出ない。

官吏として現地に赴いた貴族が伝える話から、
みやこびとは自邸の中で、想像力の翼を歌枕の地まで広げて歌を詠(よ)んだ。
清原元輔も、「末の松山」というダイナミックな題材に想像力を掻き立てられ、

“ひとつ、男女の恋愛のさまを詠んでみよう…”

と思って作られたのが本日紹介した歌である。

 

 

【人の代わりに歌を詠む…歌詠みの代理】

さて、実はこの歌、清原元輔が友人に頼まれて代わりに詠んだものである。

その友人は、恋人であったのに心変わりしてしまった女性に対して、
恨み言の一つも言ってやりたい!と思ったのか、
歌の名手であった元輔に、代理して歌を詠んでくれるように頼んだ。

平安時代、和歌は恋愛において最も重要なものであった。
(言ってしまえば歌が下手だと全くモテない…)
ゆえに、代理で歌の上手い人に詠んでもらうようなことは数多くあった。

唐突になって恐縮だが、本日のメインテーマはこの「代理」である。

今までずっと歌の紹介や作者の紹介を長々としてきたが、
だれが何と言おうと、本日のメインディッシュは、「代理」である。
大事なことなのであえて繰り返させていただいた。

 

 

【法律上の代理とは?】

現代民法には、「代理」という制度がある。

代理という言葉を耳にしたとき
皆様は、ありとあらゆる行為の代理を思い浮かべることと思う。

歌の代筆はもちろん、
代わりに買い物に行って来てもらう、
気になるあの人に代わりにスマホでメッセージを打ってもらう…等々。

 

これらは全て、民法上の代理に含まれるのだろうか。

民法上の代理は、法律行為を代理することをいう。

 

 

【たのしい法律行為】

ここで、「“法律行為”って何?何?」と皆様は疑問を持たれたことと思う。

 

法律行為とは講学上、
「人が私法上の権利の発生・変更・消滅(法律効果)を望む意思(効果意思)に
基づいてする行為」のことをいう。

 

また新しい言葉が出てきてしまったが、
上記の私法とは、われわれ「人類の生活関係を規定する」[1]法律である。
この生活関係というのは、親子夫婦の関係や財産の関係等である。

 

財産の関係とは、
「われわれの衣食住その他の経済的欲望を満足させる有形無形の手段(財貨)を
自分のものとしてもち、これを取引する関係」[2]のことをいう。

 

簡単な例をあげると、
「小倉百人一首を読み上げる専用の機械」(以下、「読み上げ機」)[3]
という財産を自分のものとして持っている人がおり、
これを4万5000円で売ると言ったとする。

「読み上げ機」を、4万5000円という財産を支払って、買う人がいる。
この取引が、財産の関係である。

取引により、「読み上げ機」を「自分のものとして持つ権利」が、
売った人から買った人へと移転すると同時に、
4万5000円という経済的価値が買った人から売った人へと移転する。

つまり“「読み上げ機」という財産を売る、買う”という行為は
私法上の財産的権利を移転させようとする法律行為なのである。

 

 

【そして再び本日のメインテーマへ】

ここまで、法律行為と私法の説明をしてきたが、話を代理に戻そう。

先ほども述べたように、代理とは“法律行為を代理すること”をいうから
それ以外の行為は代理の対象とはならないことになる[4]

つまり、
・友だちに和歌を代わりに詠んでもらうこと
・スマホでメッセージを打ってもらうこと
これらは法律行為ではないので、通常民法上の代理の対象にはならない[5]

 

以上長々と説明してきてしまったが、今回一番言いたかったことは、

歌を詠むことも、法律行為も、「全て人の心が決める」という点に違いはない。
しかしながら、

「財産権の移転を含む私法上の権利の発生・消滅等の意思を伴うかどうか」

さらには

「民法上の代理の対象になるか否か」

以上の点において、両者は異なるのである。

 


 

[1] 全訂第一版 『民法案内』1私法の道しるべ 我妻栄著 遠藤浩補訂 p.55

[2] 同 p.60

[3]  競技かるたには試合をする二人の他に歌の詠み手が必須だが、人数的に詠み手が確保できない場合などに、これを用いる。私は対戦相手がいないときに、一人でこれを使って練習したことがある。だだっ広い畳の部屋に、一人ぽつねんと箱型機械のボタンを押し、札を払っている様子を想像してみてほしい。あの日は寒かった。

[4]  最判昭和35.2.19民集14.2.250も参照されたい。

[5]  なお、こういった法律行為ではない行為のことを、講学上、「事実行為」という。