いつの時代、またどのような分野においても
それまでの伝統や習慣に重きをおく保守的な姿勢をとるか
あるいは、新しいものに変えていこうとする革新的な姿勢とるか
選択の機会が訪れるものではないでしょうか。
自分にとって何が大切か、大切にしたいか、といった考え方から選ぶ対象が決まってくるのかもしれません。
そこで、本日ご紹介する歌は・・・
小倉百人一首 100首のうち75首目。
平安後期の貴族・歌人・書家である藤原基俊の歌となります。
契りおきし
「契り置く(=約束しておく)」の連用形で、「約束しておいた」の意。
「露」は葉に「置く」ものであり、縁語の関係。
させも
「させも草」を指し、ヨモギのこと。
平安時代には万能薬とされた。
命にて
「命」は「唯一のよりどころ」という意味を持つ名詞でもあり、
「恃みにする」となる。
あはれ
嘆きを表す感動詞。「ああ」などと訳す。
いぬめり
「往ぬ(=過ぎる)」の終止形。
「めり」は推定の助動詞で「秋は過ぎてしまうようだ」の意。
藤原基俊
(ふじわらのもととし・1060-1142)
平安時代後期の貴族・歌人・書家で、右大臣・藤原俊家の四男。
藤原道長のひ孫にあたるという家柄でしたが、彼自身はなかなか官位に恵まれることはありませんでした。
歌壇に登場したのは46歳と遅かったものの、和歌には秀でていた基俊。鳥羽朝に入ると、歌合では作者のほかに判者も数多く務め、74番の作者である源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍しました。
なお、革新派であった俊頼に対し、基俊は伝統的な歌風を重んじる保守派であったといいます。そのため、俊頼とは対立関係にありました。また、自負心の強い学識派であった基俊は自身の才能を鼻にかけ、俊頼を見下す態度をとっていたのだとか。
一方、76番の歌の作者である藤原忠通とは親しい間柄にあったようで、贈答歌も残っています。忠通は、基俊・俊頼それぞれの歌の能力を認めていましたが、それと同時にライバルであった両者を同じ歌合の判者に招き、両者のなす評価の違いを楽しむ、ということもあったのだそうです。
基俊は和歌の他にも、書道・漢字に精通しており、「万葉集」に訓点をつける作業をおこなった一人でもあります。
また、弟子には同じく百人一首に歌が選ばれた藤原俊成がいたり(皇太后宮大夫俊成として83番に選出)、また、その弟子の息子は百人一首の選者である藤原定家であるなど、人間関係においても和歌との繋がりがあったようです。
さて・・・
伝統的な和歌の形式を大切にしていた、保守派の基俊。
「保守」「革新」などの言葉を耳にすると、
多くの方がイメージするひとつに、「政治」というテーマがあるのではないでしょうか。
「保守主義」とは、従来からの伝統・習慣・制度・考え方を維持し、社会的もしくは政治的な改革・革新・革命に反対する思想のことを意味します(Wikipedia参照)。
ところで、私立大学とはそれぞれに独自の校風、伝統、教育方針等を打ち出しており、受験する側もそれを考慮して入学するものですが、そのため、大学は校風と伝統を守るため独自に規則を設けており、規則を破り校風を乱した上、指導説得を与えても改善しない学生には、時に退学処分を課すこともあります。
過去に、保守的・非政治的な校風をとっていた私立大学と退学処分を受けた学生との間で、その退学処分が憲法違反だとして争われた事例があります(最判昭和49年7月19日(昭和女子大事件))。
昭和36年当時、Y私立大学に在学していた学生X1、X2は、
「署名運動をするときは、事前に学生課に届け出て指示を受けなければならない。」
「補導部の許可なく学外団体に加入してはならない。」
という学則の細則として定められた「生活要録」に違反して、
・無届出のまま学内にて政治的暴力行為防止法案反対嘆願の署名を収集
・学校の許可を受けずに民主青年同盟に加入
といった政治的活動をおこなっていました。
こうした理由により、Y大学教授はXらに登校禁止を言い渡したほか、「補導」と称して呼び出し取調べをおこないました。
すると、Xらは以下のような行動をとりました。
・仮名を使い、事件に関して週刊誌で日誌を掲載
・学生集会やテレビ放送の場で事件について発言
これを受けて大学側はXらが反省していないと判断。Xらは、大学学則の「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反したもの」に該当するものとして、退学処分を受けたのです。
そこで、Xらは大学側を相手に、学生たる身分確認請求訴訟を提起しました。
一審はXらの請求を認容
二審は一審判決を取り消し、Xらの請求を棄却しました。
これに対し、Xらは「生活要録」そのものが違憲であり、大学側による退学処分も違憲であるとし、憲法及び法令の解釈適用を誤ってものであると主張のうえ上告しました。
これに対し、最高裁は
「憲法19条、21条、23条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であつて、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでない」
とした上で、大学とは
「学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによつて在学する学生を規律する包括的権能を有するもの」
としました。そして、
「私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによつて社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針のもとで教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受けるかぎり、かかる規律に服することを義務づけられる」
「私立大学のなかでも、学生の勉学専念を特に重視しあるいは比較的保守的な校風を有する大学が、その教育方針に照らし学生の政治的活動はできるだけ制限するのが教育上適当であるとの見地から、学内及び学外における学生の政治的活動につきかなり広範な規律を及ぼすこととしても、これをもつて直ちに社会通念上学生の自由に対する不合理な制限であるということはできない」
のように示し、特に私立大学とは、特に伝統・校風により社会的存在意義が認められ、学生もその教育方針を希望して入学するのであるから、大学がかなり広範な規律を及ぼすとしても、これをもって直ちに社会通念上不合理な制限であるとはいえず、憲法の人権規定を私人間の問題に類推適用することは出来ないとし、大学の「生活要録」の規定は、違憲か否かを論じる余地はなく、退学処分を大学の懲戒権の裁量の範囲内であると判断。上告は棄却されました。
◇ ◇ ◇
さて。
基俊が詠んだ本日の「契りおきし」ですが、
一見すると「何か裏切りにあったことを嘆いているんだろうか」「恋人に恨み言を並べているんだろうか」という印象があり、その背景を読み取るのはなかなか難しい歌ではないかと思います。
実は、この歌は藤原忠通にあてて詠んだものとされています。
自分の出世には恵まれなかった基俊でしたが、子供のこととなれば話は別。
忠通に対して自分の息子の出世を頼みましたが、その約束は果たされなかったため、その物哀しさや「改めて頼みますよ!」という気持ちが込められています。
自分の才能をいいことに周囲の人間を見下していたのですから、因果応報な気もいたしますが・・・
いつの時代も子煩悩な人というのはそういうものかもしれません。
文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー