法律で読み解く百人一首 7首目

春は、出会いと別れの季節。

進学や就職など、大きく環境が変わる方も多いはず。
年齢を重ねるごとにそのような機会も減りますが、それでも、春がくると何だか真新しい気持ちになります。

 

そして、出会いがあれば、必ず訪れるのが別れ。
切ないところですが、だからこそ共にある時間を大切にしたいものです。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 

 本日の歌  「天の原 ふりさけ見れば 春日なる

三笠の山に 出でし月かも」  

安倍仲麿


「あまのはら ふりさけみれば かすがなる

みかさのやまに いでしつきかも」

あべのなかまろ

 

 

 

小倉百人一首 100首のうち7首目。
奈良時代前期の遣唐留学生、安倍仲麿による「羇旅」の歌となります。

 

 

歌の意味

 

大空を仰いではるか遠くを見渡してみると、月が昇っている。
あの月は奈良の春日にある、三笠山に昇っていた月なのだなあ。

  

天の原
広々とした大空を指す名詞。

ふりさけ見れば
「振り放け見る」は「ふり仰いで遠くを望み見る」
(ふり仰ぐ=顔を上げて高いところを見る)
接続助詞「ば」は確定条件で「~と」と訳す。

春日なる
「春日」は現在の奈良市春日野町のあたり。
当時の平城京の東方一帯の地域。
助動詞「なる」は存在を表し、「~にある/いる」と訳す。

三笠の山に
春日大社の裏手にそびえる山。
笠の形に似ていることから「御蓋山(みかさやま)」とも。
仲麿が唐へ発つ際は、航海の無事を祈る祭祀がその南麓でおこなわれた。

出でし月かも
「いづ」は「中から外に出る」「出現する」の意。
「し」は助動詞「き」の連体形で、過去の出来事を回想している。
「かも」は感動・詠嘆の終助詞で「~ことよ/だなあ」となる。

 

作者について

 

安倍仲麿(あべのなかまろ・698-770)

 

正しくは阿倍仲麻呂。奈良時代の遣唐留学生です。中務大輔(律令制における役職のひとつ)を務める阿倍船守の長男として生まれました。

幼いころから学問に秀でていた仲麿は、716年に遣唐使として入唐留学生に選出され、翌717年には19歳にして遣唐使に同行。吉備真備や玄昉らと共に唐の都・長安に留学しました。

唐では「朝衡/晁衡」(ちょうこう)という名前を用いました。
太学といわれる高等教育期間で学び、科挙(中国の官僚登用試験)に合格または推挙で登用され、唐朝において数々の仕事をこなし、出世を重ねていきます。
その仕事ぶりによって当時の玄宗皇帝からも高く評価され、さらに上の位階に抜擢されるなどしました。

733年になると、再び日本から遣唐使がやってきます。
一緒に唐へ渡った吉備真備、玄昉はこの機会に帰国することが決まっていたため、仲麿も同行するつもりでした。しかし、その優秀さゆえに玄宗皇帝からは帰国許可の申し出を拒否されてしまい、引き続き留唐することとなりました。

752年、日本から再度遣唐使がやってきました。
このとき、仲麿は玄宗皇帝から遣唐使らの応対を命じられたため、この機会に再度帰国許可を申し出たところ、皇帝からは「唐からの使者」として何とか一時帰国の許可を得ることができました。
このとき、仲麿が唐に渡ってから35年が経過していました。

仲間との別れを惜しみながらも帰国の途に就きましたが、仲麿らの乗った船は暴風雨に巻き込まれ、安南(現在のベトナム北部から中部)に漂着してしまいます。
多くの者が現地民の襲撃にあい客死するなか、何とか唐まで戻ることができ、その後日本の朝廷から迎えが来たものの、唐朝は行路が危険であることを理由に彼の帰国を認めませんでした。

最終的に仲麿は日本へ帰ることを断念。
再び官吏の地位につき、玄宗皇帝を含む3代の皇帝に仕えたのちに、770年に73歳で亡くなりました。

 

 

 

 


 

こればかりの情報でも
「どれだけ波瀾万丈だったのか」
と思わせるほどインパクトのある仲麿の生涯。

本日ご紹介する「天の原」ですが、この歌は、やっとのことで帰国することとなった仲麿のために開かれた、送別の宴にて詠まれたとされています。

唐で長い時間を過ごした仲麿は交友関係も広く、唐の時代を代表する詩人である李白、王維らとも親交がありました。きっとこの宴にも参加していて、思い出を語り合ったり別れを惜しんだりしていたことでしょう。

そんな友人らに対し、仲麿が日本語で贈った歌であると伝わっています。
(このあたりのエピソードは諸説あるようです)

友人たちと宴会の席を楽しみ、後ろ髪を引かれながらも、やっと帰れることとなった日本に思いを馳せた・・・
そんな情景が思い浮かび、なんだか胸に迫るものがあります。

 

 

 

酒類販売の免許制

 

さて・・・

 

仲麿が友人らとの時間を過ごした夜。
「宴」というくらいですから、きっとお酒も楽しんでいたはず。

仲麿もお酒が進んで、ほろりとしながらこの歌を詠んだのかも・・・
ついつい、そんな想像が膨らみます。

このように、人生の節目に彩を添える役割もある「酒」。
その販売や製造に免許がいることは、ご存知の方も多いはず。

過去に、酒類販売免許の申請に関して争われた事例があります(最判平成7年12月15日。いわゆる「酒類販売免許制事件」)。

 

 

Xは、「酒類並びに原料酒精の売買」等を目的とする株式会社。
昭和49年に酒税法9条1項の規定に基づき酒類販売業免許を申請したところ、所轄の税務署長Yはこの申請が同法10条10号に該当するとして、免許の拒否処分(以下「本件処分」)をしました。 

(酒類の販売業免許)
第9条 酒類の販売業又は販売の代理業若しくは媒介業(以下「販売業」と総称する。)をしようとする者は、政令で定める手続により、販売場(継続して販売業をする場所をいう。以下同じ。)ごとにその販売場の所在地(販売場を設けない場合には、住所地)の所轄税務署長の免許(以下「販売業免許」という。)を受けなければならない。ただし、酒類製造者がその製造免許を受けた製造場においてする酒類(当該製造場について第7条第1項の規定により製造免許を受けた酒類と同一の品目の酒類及び第44条第1項の承認を受けた酒類に限る。)の販売業及び酒場、料理店その他酒類をもつぱら自己の営業場において飲用に供する業については、この限りでない。

(製造免許等の要件)
第10条 第7条第1項、第8条又は前条第1項の規定による酒類の製造免許、酒母若しくはもろみの製造免許又は酒類の販売業免許の申請があつた場合において、次の各号のいずれかに該当するときは、税務署長は、酒類の製造免許、酒母若しくはもろみの製造免許又は酒類の販売業免許を与えないことができる。
(略)
10 酒類の製造免許又は酒類の販売業免許の申請者が破産手続開始の決定を受けて復権を得ていない場合その他その経営の基礎が薄弱であると認められる場合

 

そこでXは、酒類販売業について、所轄税務署長による免許制度を採用しその要件を定めた酒税法9条、10条各号の規定は、憲法22条1項所定の職業選択の自由の保障に違反し無効であるとして、Yによる免許拒否処分の取消しを求めて提訴しました。 

第22条1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

 

第一審は、Xが酒税法10条10号に該当するとは認められないとして、本件処分を違法とし、これを取り消しました。

これを受けてYは控訴。
第二審は、Xが酒税法10条10項に該当するという判断に違法はなく、酒税法が酒類販売業につき違憲無効とはいえないとして、第一審の判決を取り消し、Xの請求を棄却しました。

Xがこれを不服として上告したところ、裁判所は酒類の製造及び販売業の免許制について、 

酒税法は、酒税の確実な徴収とその税負担の消費者への円滑な転嫁を確保する必要から、このような制度を採用したものと解される。

 

としたうえで、

 

酒税が、沿革的に見て、国税全体に占める割合が高く、これを確実に徴収する必要性が高い税目であるとともに、酒類の販売代金に占める割合も高率であったことにかんがみると、酒税法が昭和13年法律第48号による改正により、酒税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという国家の財政目的のために、このような制度を採用したことは、当初は、その必要性と合理性があったというべきであり、酒税の納税義務者とされた酒類製造者のため、酒類の販売代金の回収を確実にさせることによって消費者への酒税の負担の円滑な転嫁を実現する目的で、これを阻害するおそれのある酒類販売業者を免許制によって酒類の流通過程から排除することとしたのも、酒税の適正かつ確実な賦課徴収を図るという重要な公共の利益のために採られた合理的な措置であったということができる。その後の社会状況の変化と租税法体系の変遷に伴い、酒税の国税全体に占める割合等が相対的に低下するに至った本件処分当時の時点においてもなお、酒類販売業について免許制度を存置しておくことの必要性及び合理性については、議論の余地があることは否定できないとしても、前記のような酒税の賦課徴収に関する仕組みがいまだ合理性を失うに至っているとはいえないと考えられることに加えて、酒税は、本来、消費者にその負担が転嫁されるべき性質の税目であること、酒類の販売業免許制度によって規制されるのが、そもそも、致酔性を有する嗜好品である性質上、販売秩序維持等の観点からもその販売について何らかの規制が行われてもやむを得ないと考えられる商品である酒類の販売の自由にとどまることをも考慮すると、当時においてなお酒類販売業免許制度を存置すべきものとした立法府の判断が、前記のような政策的、技術的な裁量の範囲を逸脱するもので、著しく不合理であるとまでは断定し難い。

 

のように判示し、上告を棄却しました。

なお、本件でXの請求は認められなかったものの、裁判官は以下のとおり補足意見及び反対意見を述べています。

 

<坂上寿夫裁判長による反対意見(抜粋)>
他方、酒類販売業の許可制が、許可を受けて実際に酒類の販売に当たっている既存の業者の権益を事実上擁護する役割を果たしていることに対する非難がある。酒税法上の酒類販売業の許可制により、右販売業を税務署長の監督の下に置くという制度は、酒税の徴収確保という財政目的の見地から設けられたものであることは、酒税法の関係規定に照らし明らかであり、右許可制における規制の手段・態様も、その立法目的との関係において、その必要性と合理性を有するものであったことは、多数意見の説示するとおりである。酒税法上の酒類販売業の許可制は、専ら財政目的の見地から維持されるべきものであって、特定の業種の育成保護が消費者ひいては国民の利益の保護にかかわる場合に設けられる、経済上の積極的な公益目的による営業許可制とはその立法目的を異にする。したがって、酒類販売業の許可制に関する規定の運用の過程において、財政目的を右のような経済上の積極的な公益目的と同一視することにより、既存の酒類販売業者の権益の保護という機能をみだりに重視するような行政庁の裁量を容易に許す可能性があるとすれば、それは、酒類販売業の許可制を財政目的以外の目的のために利用するものにほかならず、酒税法の立法目的を明らかに逸脱し、ひいては、職業選択の自由の規制に関する適正な公益目的を欠き、かつ、最小限度の必要性の原則にも反することとなり、憲法22条1項に照らし、違憲のそしりを免れないことになるものといわなければならない。

 

<園部逸夫裁判官による補足意見(抜粋)>
もっとも、この制度が導入された当時においては、酒税が国税全体に占める割合が高く、また酒類の販売代金に占める酒税の割合も大きかったことは、多数意見の説示するとおりであるし、当時の厳しい財政事情の下に、税収確保の見地からこのような制度を採用したことは、それなりの必要性と合理性があったということもできよう。しかし、その後40年近くを経過し、酒税の国税全体に占める割合が相対的に低下するに至ったという事情があり、社会経済状態にも大きな変動があった本件処分時において(今日においては、立法時との状況のかい離はより大きくなっている。)、税収確保上は多少の効果があるとしても、このような制度をなお維持すべき必要性と合理性が存したといえるであろうか。むしろ、酒類販売業の免許制度の採用の前後において、酒税の滞納率に顕著な差異が認められないことからすれば、私には、憲法22条1項の職業選択の自由を制約してまで酒類販売業の免許(許可)制を維持することが必要であるとも、合理的であるとも思われない。そして、職業選択の自由を尊重して酒類販売業の免許(許可)制を廃することが、酒類製造者、酒類消費者のいずれに対しても、取引先選択の機会の拡大にみちを開くものであり、特に、意欲的な新規参入者が酒類販売に加わることによって、酒類消費者が享受し得る利便、経済的利益は甚だ大きいものであろうことに思いを致すと、酒類販売業を免許(許可)制にしていることの弊害は看過できないものであるといわねばならない。

  

 

酒類の製造や販売が許可制とされているのは、公衆衛生や国民健康上の理由ではなく、単に「税金を確実に徴収するため」というのも意外なところではないでしょうか。
内閣府ホームページにも、財政収入確保が目的と記載されています)

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

 

酒税法に関する判例は複数あるなか、いわゆる「どぶろく裁判」(最一判平成元年12月14日)もご存知の方が多いのではないでしょうか。
自分が飲酒することを目的に無免許で清酒等を製造していた被告人が、酒税法に違反するとされたもの。

 

ところで、この事件の裁判要旨を読むと
自宅で梅酒を仕込むことも違法になってしまう気がしませんか?

実は、梅酒については例外が認められており、

消費者が自分で飲むために酒類(アルコール分20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのものに限ります。)に次の物品以外のものを混和する場合には、例外的に製造行為としない

 

とし、「次の物品」に梅は含まないとされています(国税庁HP)。

・アルコール分20度以上の酒類を使用する
・完成した梅酒は自分自身(+同居家族の範囲)で楽しむ
というのが大切なようです。

 

ちなみに・・・
この案内は国税庁HP内の「お酒に関する情報」というページにあるもの。

一見、行政機関のウェブサイトであることを忘れてしまいそうな見出しですが、その内容は読み物としても非常に面白いものとなっています。

なかには
「各地域の酒蔵マップ等」「日本ワイン産地マップ」
という旅行会社顔負けの特集も。

気になった方は、お時間のある際に是非覗いてみてください。

 

 

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 11首目

他人の行為によって、自分に危険が及ぶかもしれないと認識していたにもかかわらず、他人にその行為を許したことで、自らが被害を受けてしまった場合、
例え、それにより死に至る結果となったとしても、その行為を実行したことで、加害者となった人物は、果たして責任を負うのでしょうか?

 


 

「禍福は糾える縄の如し」といわれます。

悲しみもあれば、喜びもあり、それぞれが交互に繰り返されることで、
人生とは奥深く、味わい深いものとなるのではないでしょうか。

とはいうものの、社会においては
時に理不尽としか言いようのない事態が生じることもあるでしょう。

敢えてその状況に身を置かねばならなくなった時、
その事態が、自分の身に危険を及ぼす結果を引き起こすかもしれないとしたら?
そして最悪の場合、死に至る結果となるかもしれないとしたら?

最悪の結果が起こりうることを理解した上でも、
その状況に身を置くことを選択するでしょうか。

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

わたの原  八十島かけて  漕き出でぬと

          人には告げよ  あまのつりぶね 
                        参議篁


わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと
             ひとにはつげよ あまのつりぶね」
                      さんぎたかむら  


小倉百人一首 100首のうち11首目、
平安初期の公卿であり文人、参議篁の歌となります。


 

歌の意味

「この広い大海原(わたのはら・海の原)を、
私が、多くの島々(八十島)を目指して漕ぎ出して行ったと、都にいる親しい人に告げておくれ。釣り船の漁夫よ。」

今回ご紹介する歌のテーマは、百人一首5つのテーマのうち
「羇旅(きりょ)」=旅・旅情の歌。

旅といっても様々。

前途明るい旅もあれば、未来への不安を抱えた旅もあります。
さて、本日の歌は、どちらの旅情を詠んだものでしょうか?

 

 

作者について


参議篁(さんぎたかむら)(802-853)

本名は、小野篁(おののたかむら)。
百人一首においては「参議篁」の名で歌を詠んでいます。

「参議」とは、朝廷の最高機関、太政官の官職のひとつであり、
役人としての官職名。
百人一首においては、このように、本名ではなく官職名が
名前に付けられていることが多くあります。

篁は、歌人としてだけではなく、平安時代の公卿として国政を担っていました。
反骨精神の持ち主であることから「野狂」と称され、
更には、「野相公」、「野宰相」などの異名を持っています。

また、平安初期の篁の身長は、約188cmだったといいますから、
かなり大柄な人物だったようですね。
(ちなみに、現代の男性の平均身長は約170cmだそう。190cm近くとなれば、今でも十分目立ちそうです。)

加えて、文人としても活躍し、
学問においては、漢詩は白居易、書は王羲之と並び称されるほどだったとのこと。
文人としても、素晴らしい才能の持ち主だったことがうかがえます。

 

この時代、日本が力を入れていた外交といえば、遣唐使の派遣。

篁は、承和2年(834年)遣唐使の副使として任ぜられ、
承和3年(836年)、続く承和4年(837年)と、遣唐使として2度唐に渡ろうとするも、いずれも失敗に終わってしまいます。

承和5年(838年)、3度目の渡唐にあたり、遣唐大使である藤原常嗣の乗るはずだった船が、破損していた上に漏水した船であったため、篁が乗るはずであった船と交換させられました。
篁は、これに猛抗議し、乗船を拒否します。

遣唐使一行に加わらなかった上、遣唐使制度を批判する漢詩を発表したことで、嵯峨天皇の怒りを買ってしまいます。
結果、官位剥奪の上、隠岐の島へ流されることとなりました。

2度も渡唐に失敗している上、3度目は壊れた(しかも既に漏水している)船で行け、と言われれれば、この渡唐が失敗するのは、目に見えていますよね。
いくら上からの命令とは言え、命の危険を伴う任務。
誰もが躊躇することでしょう。

しかし、例え無理難題であっても、上からの命令に逆らうなどご法度の時代において、その命令に唯々諾々と従うのではなく、毅然と拒否したところが、篁の「野狂」と称される所以かもしれません。

 

本日ご紹介する、こちらの歌

わたの原  八十島かけて  漕き出でぬと 人には告げよ  あまのつりぶね

これは、篁が嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐の島へ流罪となった際、
難波~隠岐の島の瀬戸内海を通る船旅を思って詠んだ歌。

流罪へと向かう悲しい旅路を
「前途洋々、多くの島々を目指して、大海原へと漕ぎ出して行く旅だ」
と、詠んだ篁。

同じような状況下では、涙に暮れる歌人も多い中、禍をものともしない
篁の気の強さを感じられるような気がいたしますが、いかがでしょうか。

 

隠岐の島は、島根半島の北方約50kmの日本海にある諸島。
現在は島根県隠岐郡に所属しています。
流刑の地として、数々の貴族、政治犯がこの地へ送られ、鎌倉時代、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇も、この地で約19年間を過ごしました。

隠岐に流されても、篁は涙に暮れることなく、なんと島の女性たちと数々の恋を楽しんだというのですから、驚きます(特に阿古那という女性との恋物語は有名で、篁が帰京することになり、悲しい別れとなったとのお話もあります。)。
案外、篁は、流刑生活を楽しんでいたのかもしれません。。

しかし流刑となって2年後、篁はその優秀さを惜しまれ、再び京へと呼び戻されることになりました。
流刑になる前に比べ、更に力を増して帰京した篁。

京では、「この空白の2年間は、きっと閻魔大王と働いていたに違いない」
と、皆が口々に語り継いだとのことですから、その強靭ぶりがうかがえますね。

 

 

危険の引受け

 

さて。

このような、自分の身に危険が降りかかるかもしれない、と分かっていたにも関わらず、それでもあえてその危険に向かって行った場合、
または、誰かの行為が自分の身に危険を及ぼすかもしれない、と思いながらも、あえてそれを許してしまった場合、

それによって生じた結果について、
行為をおこなった者は、果たして罪に問われるのでしょうか。

 

このことについて、刑法では「危険の引受け」という言葉で説明がされます。

危ない行為だなと思いながら、第三者のおこなう行為を引受け、結果として自らが被害を受けた場合、その危ない行為自体は「危険だな」と思っていたものの、それによって生じた結果についてまでは覚悟しているわけではありません。

他人がその行為を実行したことで、自分に危険が生じるということを認識しながら、危険に身を晒したことで、発生した結果につき、その行為を実行した者は、刑法上の責任を負うか否かが問われた事例があります(千葉地判平成7年12月13日、ダートトライアル事件)。

 

事件名からも想像できるように、
この事件はダートトライアル競技の練習中に起こりました。

 

ダートトライアル(Dirt Trial)競技とは、モータースポーツの一種。
未舗装のダート路面(泥濘地、砂利等)のサーキットで走行タイムを競う自動車競技です。(Wikipediaより

ダートトライアルの初心者である男性が、約7年の競技歴を持つコーチを同乗させ、練習走行していたところ、高速ギアでの高速走行中、急な下り坂カーブを曲がりきれず、走行の自由を失い、丸太の防護柵に車両を激突させてしまいます。

そして、この激突により、防護柵の支柱がコーチの胸部を圧迫したことで、
結果として、運転者はコーチを死亡させてしまいました。

この場合、コーチは、運転者が初心者であることを知りながら、それでも初心者の運転する車に乗り、その結果、死亡してしまったとしたら、果たして初心者である運転者は罪に問われなければいけないのでしょうか?

 

(業務上過失致死傷等 ※事件当時)
刑法211条「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。」

 

これについて、裁判所は

「上級者が初心者の運転を指導するために同乗する場合、同乗者は運転者の暴走、転倒等によって自己の生命、身体に重大な損害が生じる危険性についての知識を有しており、技術の向上を目指す運転者が、一定の危険を冒すことを予見していることもある。また、そのような同乗者には、運転者への助言を通じて一定限度でその危険を制御する機会もある。したがって、ダートトライアル競技の危険性についての認識、予見等の事情の下で同乗していた者については、運転者が右予見の範囲内にある運転方法をとることを容認した上で、それに伴う危険を自己の危険として引き受けたとみることができ、右危険が現実化した事態については違法性の阻却を認める根拠がある。もっとも、死亡や重大な傷害についての意識は薄くても、転倒や衝突を予測しているのであれば、死亡等の結果発生の危険をも引き受けたものと認めうる。」

と判断し、運転者は罪を負わない、として無罪判決を言渡しました。

 

同乗していたコーチは、約7年の競技歴を持っていた、いわばベテランコーチ。

それ故、ダートトライアル走行の危険性については、十分な知識を持っており、
未熟な運転者が、技術の向上を目的として練習するにあたり、
自分の技術の限界を超えて暴走したり、時には転倒等の危険を冒す可能性もあることを、予想することができます。

またコーチは、同乗し、運転者へ適格なアドバイスをすることで、
予想し得る危険を逆に回避することもできます。

このように、危険な事態が生じることを予想・認識した上で、それでもコーチとして同乗した場合、それは、コーチがこれを「自己の危険として引き受けた」とみることができ、運転者による転倒や衝突により、たとえ死傷という結果に至ったとしても、運転者の責任は負わないとされたのです。

 

なお、この判決では、

「ダートトライアル競技は既に社会的に定着したモータースポーツであり、本件走行会も車両や走行方法、服装などJAFの定めたルールに準じて行われていたこと、競技に準じた形態でヘルメット着用等をした上で同乗する限り、他のスポーツに比べて格段に危険性が高いものとはいえないこと、スポーツ活動においては、引き受けた危険の中に死亡や重大な傷害が含まれていても、必ずしも相当性を否定することはできない」

として、
運転者の走行の範囲が、競技ルールに準じている必要があることも、必要な条件として示されました。

 

スポーツ競技とは、時に危険を伴うもの。真剣勝負とは、まさに命懸けなのです。

だからこそ、スポーツマンシップに則ったスポーツとは、観戦している
私たちにも感動を与えてくれるのではないでしょうか。

そのため、競技会場の条件や、使用する道具に至るまで、細かなルールが定められており、ルールを遵守した上で起きてしまった事故であれば、止むを得ないとされたのですね。

 

◇ ◇ ◇

 

さて、ここで話は平安時代に戻ります。

篁が、もし、上からの命令に逆らうことなく
危険を承知の上で、破損した船に乗り渡唐した結果、命を落としたとしたら?

渡唐のための手段として、壊れている船を与えられたという時点で
既に「ルール違反」となりますが。。

 

とはいえ、「閻魔大王と一緒に働いていた」との噂をもつ篁のこと。
恐らくは、危険を引き受けた結果、死の淵ヘ立ったとしても、そこから這い上がってきたかもしれません。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー