法律で読み解く百人一首 29首目

2024年も残すところわずかとなりました。

今年も法律に関するニュースが沢山あったように思います。
袴田事件の無罪確定、「不適正」と認定された特捜部検事の取調べなど、大々的に報道されたものは特に印象的だったのではないでしょうか。

 

しかし、このように話題になる事件はごく一部で、裁判所では日々多くの事件が取り扱われています。
新件を申し立てるときには、事件番号がふられるたび、その数の大きさに「世の中これだけトラブルがあるのか・・・」と実感させられるほど。

そして、こうした事件の数だけ「判決」が誕生するのですね。

 

この「判決」。
裁判所が一定の手続を経て出しているものであるだけに、
「一度出されたら絶対に変わることがない」という気がしませんか?

しかし、法律が時代・社会と共に変わっていくように、
判決もまた、そうした変化の中で見直されることがあります。

これを「判例変更」といいます。

ここで気になるのは、
「変更前に適法とされていたことが、「判例変更」によって違法になってしまったとき、その行為はどのように判断されてしまうのか」
という点ではないでしょうか。

変更前の行為であれば問題にならないのか、
はたまた、過去に遡って処罰対象となってしまうのか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「心あてに 折らばや折らむ 初霜の

置きまどはせる 白菊の花」  

凡河内躬恒


「こころあてに をらばやをらむ はつしもの

おきまどはせる しらぎくのはな」

おおしこうちのみつね

 

小倉百人一首 100首のうち29首目。
平安時代前期の歌人・官人、凡河内躬恒による「秋」の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

もし折るならあてずっぽうに折ってみようか。初霜が降りて見分けがつかなくなっている白菊の花を。

 

心あてに
心当て=当て推量、という意の名詞。
「当て推量に」「あてずっぽうに」となるが、その他「心をこめて」「よく注意して」と訳す説もある。

折らばや折らむ
接続助詞「ば」は仮定条件で訳す。
意志の助動詞「む」はすぐ前の係助詞「や」との係り結び(=疑問や反語、協調などで用いられる表現)。
「もし折るならば折ってみようか」と訳される。

初霜
その年の晩秋に初めて降りた霜。

置きまどはせる
「置く」は霜や露が「降りる」こと、
「まどはせる」は「混乱させる」「悩ませる」などの意。

白菊の花
上の句の「折らばや」に続く。倒置法。

 

 

作者について

 

凡河内躬恒(おおしこうちのみつね・859?-925?)

 

平安時代前期の歌人・官人ですが、正確な生没年は分かっていません。
894年に甲斐国(現・山梨県)の役人に任命され、その後は丹波国(現・京都府中部、兵庫県北東部)、和泉国(現・大阪府南西部)、淡路国(現・兵庫県淡路島)などの役人を歴任しました。

役人としての官位は五位とそれほど高くありませんでしたが、歌人としての評価は高く、多くの歌会や歌合せに参加し、活躍しました。
その才能は紀貫之と並び称され、共に当時の代表的歌人として宮廷の宴に呼ばれたり、三十六歌仙に選ばれたり、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である「古今和歌集」を撰上するなどしました。

本来であれば昇殿も許されないような身分であり(それゆえに生没年などの情報も記録が残っていません)、役人としての給与も少なかったことでしょう。
しかし、「歌人」という職業がない頃に、躬恒は歌によって副収入を得ていました。
それほどの才能の持ち主でした。

朝廷に召されるたびに報奨を賜ったり、上級貴族の邸宅に招かれて屏風歌を詠むことで褒美を与えられたり。また、先に述べた「古今和歌集」の選者としても報奨を得られたと考えられます。

単なる役人の一人であれば、その名前が後世に残ることはなかったでしょう。躬恒の人気はそれほど高いものだったのです。

 

  

判例変更と遡及処罰の禁止

 

さて・・・

 

平安貴族の働き方というのは、実際どのようなものだったのでしょうか。

文学作品やドラマの影響が大きいように思いますが、

朝廷での宴に参加したり、
和歌を詠んだり、楽器を嗜んだり、
時には恋愛関係を楽しんだり・・・

そうしたことが「仕事」だったのではないか、という印象もあります。

一部の上流貴族にはあてはまることがあるかもしれません。
しかし、貴族・役人らというのは基本的に忙しかったようです。

 

平安時代の貴族は日記をつけるのが一般的でした。
現在では読み物として出版されている物もあります。

清少納言のエピソードで登場した藤原行成は「権記」、
大河ドラマで注目を集めた藤原実資は「小右記」を残しており、
そこには朝から晩まで働く日々のこと、朝廷において細やかに決められた作法や行事(年間約100ほどあり、月によっては毎日何かしらの行事がおこなわれる状態だったとのこと)について綴られています。

 

このように、実はかなり多忙な職場環境だったのです。
いまなら「ブラックな職場」と言われてしまうかもしれません。

 

そんなとき、今日では処遇改善を求めるための手段が複数ありますが、
そのひとつに「ストライキ」があります。

朝廷で働く彼らは、いわば公務員のような立場。

過去に、公務員による争議行為(※)について、判例変更と遡及処罰の禁止に関する判断がされた事例があります(最判平成8年11月18日)。

※同盟罷業、怠業、作業所閉鎖その他労働関係の当事者が、その主張を貫徹することを目的として行う行為及びこれに対抗する行為であって、業務の正常な運営を阻害するものをいいます(厚生労働省HPより)。

 


 

公務員の争議行為禁止については、以下の事件によって最高裁の基本的見解に変遷が生じました。なお、紹介事例の犯行時点は②と③の間となります。


①地方公務員法違反事件「都教組事件」(最大判昭和44年4月2日
1969年(昭和44年)、東京都教職員組合(都教組)が勤務評定制度に反対し、一斉に有給休暇を取って学校を休みにするというストライキを決行したところ、これが地方公務員法に違反する「同盟罷業」にあたるとして、都教組の執行部が起訴された事件。
裁判所は、処罰対象となるのは争議行為・あおり行為ともに違憲性の強いものに限られるという、いわゆる「二重のしぼり」の限定をし、被告人を無罪とした。
同日言い渡された国家公務員法違反事件である「全司法仙台事件」(最大判昭和44年4月2日)でもこの考えが明示されたため、「二重のしぼり」論は国家公務員法、地方公務員法の両方における判例となっていた。

②国家公務員法違反事件「全農林警職法事件」(最大判昭和48年4月25日
1958年、警察官職務執行法の改正案が提出され、この改正案に反対する運動が展開された。この運動に全農林労働組合も参加し、組合員に対して争議行為への参加を呼びかけましたところ、これが国家公務員法が禁止する「違法な争議のあおり行為」に該当するとして、組合役員が起訴された。
裁判所は「二重のしぼり」論を否定し、「全司法仙台事件」の解釈を明示的に変更したが、一方で地方公務員法違反である「都教組事件」判決については明示的に変更していなかった。

③地方公務員法違反事件「岩教組学力調査事件」(最大判昭和51年5月21日
1956年から1965年にかけて、文部省(現在の文部科学省)が実施した「全国中学校一斉学力調査」に対し、岩手県教職員組合(岩教組)が、その実施に反対し、学力調査のボイコットや、調査用紙の破棄などをおこない、当該行為が「争議行為等の禁止」に違反するとして組合役員らが起訴された。
裁判所は、この判決において地方公務員法違反についても「二重のしぼり」論を否定し、これによって「都教組事件」判決についての解釈が明示的に変更された。


被告人Xは、A県教職員組合の中央執行委員長であったところ、日本教職員組合(以下「日教組」)が昭和49年4月11日に全国規模でおこなった全一日ストライキに際し、傘下の公立学校教職員に対し、同盟罷業の遂行のあおりを企て、かつこれをあおったとして、地方公務員法違反の罪で起訴されました。

一審(盛岡地判昭和57年6月11日)は、被告人に対して無罪を言い渡し、控訴審(仙台高判昭和61年10月24日)もこれを是認。
これに対して、検察官から上告の申立てがあり、第一次上告審(最一小判平成1年12月18日)は原判決を破棄、仙台高裁に差し戻しました。

これを受けて原判決(仙台高判平成5年5月27日)が公訴事実の一部について有罪判決を言い渡したこところ、被告人から、処罰範囲を拡張する方向で判例を変更し、これを被告人に適用して処罰することは、遡及処罰を禁止した憲法39条に違反するとして上告が申し立てられました。

 

(遡及処罰、二重処罰等の禁止)
憲法39条「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」

 

これについて最高裁は、

行為当時の最高裁判所の判例の示す法解釈に従えば無罪となるべき行為を処罰することが憲法39条に違反する旨をいう点は、そのような行為であっても、これを処罰することが憲法の右規定に違反しないことは、当裁判所の判例の趣旨に徴して明らかであり、判例違反をいう点は、所論引用の判例は所論のような趣旨を判示したものではないから、前提を欠き、その余は、違憲をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張

 

と判断し、「判例」とは「法」ではないため、憲法39条違反には当たらないとして上告を棄却しました。
なお、判決には裁判官による補足意見が付されました。

私は、被告人の行為が、行為当時の判例の示す法解釈に従えば無罪となるべきものであったとしても、そのような行為を処罰することが憲法に違反するものではないという法廷意見に同調するが、これに関連して、若干補足して述べておきたい。
判例、ことに最高裁判所が示した法解釈は、下級審裁判所に対し事実上の強い拘束力を及ぼしているのであり、国民も、それを前提として自己の行動を定めることが多いと思われる。この現実に照らすと、最高裁判所の判例を信頼し、適法であると信じて行為した者を、事情の如何を問わずすべて処罰するとすることには問題があるといわざるを得ない。しかし、そこで問題にすべきは、所論のいうような行為後の判例の「遡及的適用」の許否ではなく、行為時の判例に対する国民の信頼の保護如何である。私は、判例を信頼し、それゆえに自己の行為が適法であると信じたことに相当な理由のある者については、犯罪を行う意思、すなわち、故意を欠くと解する余地があると考える。もっとも、違法性の錯誤は故意を阻却しないというのが当審の判例であるが(最高裁昭和23年(れ)第202号同年7月14日大法廷判決・刑集2巻8号889頁、最高裁昭和24年(れ)第2276号同25年11月28日第三小法廷判決・刑集4巻12号2463頁等)、私は、少なくとも右に述べた範囲ではこれを再検討すべきであり、そうすることによって、個々の事案に応じた適切な処理も可能となると考えるのである。
この観点から本件をみると、被告人が犯行に及んだのは昭和49年3月であるが、当時、地方公務員法の分野ではいわゆるB教組事件に関する最高裁昭和41年(あ)第401号同44年4月2日大法廷判決・刑集23巻5号305頁が当審の判例となってはいたものの、国家公務員法の分野ではいわゆるC警職法事件に関する最高裁昭和43年(あ)第2780号同48年4月25日大法廷判決・刑集27巻4号547頁が出され、B教組事件判例の基本的な法理は明確に否定されて、同判例もいずれ変更されることが予想される状況にあったのであり、しかも、記録によれば、被告人は、このような事情を知ることができる状況にあり、かつ知った上であえて犯行に及んだものと認められるのである。したがって、本件は、被告人が故意を欠いていたと認める余地のない事案であるというべきである。
このように、被告人は、私見によっても処罰を免れないのであり、被告人に地方公務員法違反の犯罪の成立を認めた原判決に誤りはなく、刑訴法411条1号に当たるとすることはできないのである。

 

(以上、判例タイムズ926号153頁参照)

 

  

◇ ◇ ◇

 

 

さて。

本日の歌の作者である躬恒。

上記のとおり、当時は評判が高かったものの
明治の歌人・正岡子規は「心あてに…」に辛口のコメントを出しています。

著書「歌よみに与ふる書」で確認することができるのですが
ざっくり、どのような内容かというと・・・

   

百人一首だから皆口ずさむけれど、一文半文の値打ちもない駄歌。
初霜くらいで白菊が見えなくなるわけない。趣向が嘘であれば趣もへちまもない。つまらない嘘だからつまらない。

 

かなりけちょんけちょんです。

さらには、同じ百人一首から中納言家持の歌(6首目)を引き合いに出してほめるなど、「躬恒に恨みでもあるのでは?」と思ってしまう書きぶりですが、子規に酷評されているのは躬恒だけではありません(あの紀貫之も、なかなか厳しいコメントをされています)。

色々な方の考察を拝見していると、子規は過去の歌人を文字通り否定していたわけではなく、旧派の歌人たちを攻撃するためにこのような記載をしていたとのことで、歌の近代化を目指す活動のひとつであったようです。

 

当時は良しとされていたものが、時代の流れによって異なる評価をされる。
法律も芸術も、そうした変化に柔軟に対応し、その時々のベター、ベストを模索していく必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 64首目

「長男」「長女」と聞くと、漠然と
・しっかりしている
・頼りになる
・面倒見が良い
などのイメージを抱く方が多いのではないでしょうか。

これらはステレオタイプにすぎません。

ですが、当事者自身も何気なくそのように自分を律しているところがあるように思います。

そして、そこから少しでも外れてしまうと「らしくない」とされてしまうのが、人間社会の難しいところです。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに

あらはれわたる 瀬々の網代木」  

権中納言定頼


「あさぼらけ うぢのかはぎり たえだえに

あらはれわたる せぜのあじろぎ」

ごんちゅうなごんさだより

 

小倉百人一首 100首のうち64首目。
平安時代中期の公卿・歌人、権中納言定頼による「冬」の歌となります。

 

 

 

 

歌の意味

  

明け方、だんだん明るくなってきた頃、宇治川に立ちこめた朝霧も薄らいできて、切れ間から瀬に打ち込まれた網代木が見えてくるなあ。

 

朝ぼらけ
夜明け方。夜がほのぼのと明ける頃。

宇治の川霧
宇治川は京都市伏見区を流れる川で、淀川の通称。
当時はリゾート地のような存在だった。

たえだえに
「絶え絶えに」とも書き、とぎれとぎれになっていること。
段々と霧が晴れ、切れ間ができる様子を表す。

あらはれわたる
「あらはる」は自動詞で、この場合「表面に出る」「はっきり見えるようになる」。
「わたる」は補助動詞で「一面に~する」「広く~する」。
よって「一面にあらわれてきた」の意。

瀬々の
瀬は浅い場所。「あちらこちらの瀬」を指す。

網代木
網代(竹や木を編み水中に立て魚を捕えるしかけ)を立てるために川に打つ杭。秋から冬にかけて宇治川を下る氷魚(鮎の稚魚)を獲るもので、当時は宇治の冬の風物詩で、歌枕のひとつであった。

 

 

作者について

 

権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより995-1045)

 

藤原定頼。平安時代中期の公卿・歌人で、中古三十六歌仙の一人に選ばれています。
藤原公任(=大納言公任。55首目の作者)の長男で、官位は正二位・権中納言であったことから、百人一首中では「権中納言定頼」とされています。

和歌などに秀でており、優れた文人だったと言われていますが、性格まで完璧とはいえず、特に若い頃の性格はやや軽薄であった様子。
そんなこともあってか、数々のトラブルが語り継がれています。

 

【小式部内侍へのからかい】
歌合せの会で、若い小式部内侍に対し
「お母様に代作は詠んでもらえましたか?」などとからかったところ
小式部内侍が即興で「大江山…」の見事な歌を詠み、やり返したというもの。
とはいえ、結局のところ両者は恋愛関係にあり(あるいは定頼の片想い)、小式部内侍のために定頼が一芝居打ったとする説もあるようです。
60首目のブログ記事でもご紹介したエピソードです)

【皇族との揉め事】
1014年には自分の従者と皇族の従者の間で乱闘が発生。最終的に皇族側の従者が重傷により死亡してしまうという事件がありました。このため、定頼は世間から「殺害人」などと呼ばれてしまいます。
この時の相手は敦明親王という皇族で、自分の従者が亡くなった後には、報復のためか定頼に殴りかかったのだとか。なお、敦明親王はこの他にも暴力沙汰を起こしていたようですから、気性の荒い人だったのかもしれません。

【暴力沙汰に巻き込まれる】
1018年に御所で開かれた宴会に参加した際、藤原兼房という人が定頼に対して暴行をはたらくという事件がありました。
兼房は突然定頼に対して暴言を吐き、定頼の前に置かれていた料理を蹴散らしたり、その頭から被り物を奪おうとしたりしました。その後定頼が控室に逃げ込むと、兼房はそこに向かって石を投げつけ、さらにはその場で定頼を大声で罵るなどの行動をとりました。

文字だけ見ると定頼がたいそう恨みを買っていたのでは…などと考えてしまいますが、兼房がこのような行動に至った原因はわかっていないそうです。定頼にしてみれば大変迷惑な事件に巻き込まれたのでした。

【謹慎処分】
最終的には権中納言の地位まで出世した定頼ですが、若い頃には宮中で軽率な発言をしてしまったこともありました。その内容が当時の摂政・藤原頼通の怒りにふれ、その年(1019年)の後半は謹慎させられることとなりました。

【不正の発覚】
1030年、清涼殿での宴において御前作文の探韻(列席者が韻にする字を出し、くじ引きで1字ずつをもらい受けて漢詩を作ること)を命じられた際に、定頼は不正をおこない、さらにはそれが露見してしまいました。それでもなお不正を隠匿しようとしたところ、当時の関白である藤原頼通から「不正直」と批判されてしまいました。
こちらの事件を見ると、それなりに年を重ねても性格が変わらなかったのでは…と思ってしまいますね。

 

そんな定頼ですが、ご紹介した小式部内侍のほかには相模や大弐三位など、百人一首に登場する女性との交際があったとされています。定頼は和歌の才能だけでなく音楽、読経、書にも秀でており、また眉目秀麗であったようですから、惹かれる女性も多かったのですね。

その一方で、藤原道長からは「怠慢」と評されていたのだとか。
政では成果を残せなかったようです。

 

  

 

消滅の時効の援用と権利濫用

 

さて・・・

 

貴族の長男として生まれた定頼。

この時代は、「嫡男」(特に正室の女性が生んだ最も年上の男子)であることが大切であったようですが、
その他にも「長子相続」「家制度」が存在したことから、どの時代においても、基本的に長男とは重責を担う存在だったのではないでしょうか。

しかし、そんなことはお構いなしの人も存在します。
定頼のように問題行動を起こす人もいたり、「長男」であることを権力として家族を抑圧する人がいたり、はたまた役割そのものを放棄してしまう人がいたり・・・

 

特に上に述べた「家制度」の時代であれば、父親が亡くなった際に「戸主」となる長男に問題があるようでは、残りの家族はさらに不安であったことでしょう。

実際、家制度のもと家督相続した長男が、母から農地法3条にかかる許可申請につき協力請求をされ、その許可申請協力請求権の消滅時効を援用したところ、これが権利濫用にあたると認められた事例があります(最判昭和51年5月25日)。

 


 

訴外Aはその住所地において農業に従事していた者で、妻である母X1との間に7人の子どもがいました。
しかし、Aは昭和22年4月5日に死亡。
その時をもって、家督相続により長男YがAの有した権利義務一切を承継取得し、Aの遺産全部を長男Y名義にしました。

母X1と長男Yは折り合いが悪かったため、母X1及び子どもらは同年頃から分家した四男と同じ家に暮らしており、(二男、三男は既に死亡していたため)四男が家族の面倒をみることになりました。

そこで母X1らが長男Yに対し物件贈与の調停を申し立てた結果、昭和24年6月2日に、長男Yから当時分家した四男に遺産の一部を贈与し、母X1にはその老後の生活の資を得させる目的で本件農地を贈与し、あわせて四女X2、五女の扶養及び婚姻等に関する費用は母X1において負担すること等を内容とする調停が成立しました。

ところが、四男は母X1の反対を押し切ってかねてからの交際相手と結婚、Xらと別居することになったため、昭和27年2月25日に妹へ自身が贈与を受けていた本件山林を贈与し、母X1及び妹らの面倒を託しました。

そうして、母X1は四女X2と共に10年以上にわたってこれらの土地の耕作を続け、母X1は娘たちの扶養及び婚姻等の諸費用を負担しました。

 

ところで、農地について所有権の移転等するときは、当事者が農業委員会の許可を受けなければなりません。

(農業法)
3条1項 農地又は採草放牧地について所有権を移転し、又は地上権、永小作権、質権、使用貸借による権利、賃借権若しくはその他の使用及び収益を目的とする権利を設定し、若しくは移転する場合には、政令で定めるところにより、当事者が農業委員会の許可を受けなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当する場合及び第五条第一項本文に規定する場合は、この限りでない。
一第四十六条第一項又は第四十七条の規定によつて所有権が移転される場合
二削除
三第三十七条から第四十条までの規定によつて農地中間管理権(農地中間管理事業の推進に関する法律第二条第五項に規定する農地中間管理権をいう。以下同じ。)が設定される場合

 

Xらは長男Yに対し、自らが耕作してきた土地の所有権移転許可申請手続に協力を求めたところ、長男Yは、Xらの主張する所有権移転登記手続請求権は時効により消滅しているとして、これを拒みました。

(民法)
166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。
一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。
二 権利を行使することができる時から十年間行使しないとき。
2 債権又は所有権以外の財産権は、権利を行使することができる時から二十年間行使しないときは、時効によって消滅する。

 

そこで、Xらは所有権移転登記手続を求めて提訴。
第一審、第二審共に裁判所はXらの請求を容認しました。

(民法)
162条 二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
2 十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然と他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に、善意であり、かつ、過失がなかったときは、その所有権を取得する。

 

これに対して、Yは上告。すると裁判所は、

原審が確定した事実関係によれば、上告人が家督相続により亡父の遺産全部を相続したのち、家庭裁判所における調停の結果、上告人から母である被上告人Aに対しその老後の生活の保障と幼い子女(上告人の妹ら)の扶養及び婚姻費用等に充てる目的で本件第二の土地(第一審判決別紙目録第二記載の土地)を贈与し、その引渡もすみ、同被上告人が、二十数年間にわたつてこれを耕作し、子女の扶養、婚姻等の諸費用を負担したこと、その間、同被上告人が上告人に対し右土地につき農地法三条所定の許可申請手続に協力を求めなかつたのも、既にその引渡を受けて耕作しており、かつ、同被上告人が老齢であり、右贈与が母子間においてされたなどの事情によるものであること、が認められるというのである。

 

のように判断し、

この事実関係のもとにおいて、上告人が同被上告人の右所有権移転許可申請協力請求権につき消滅時効を援用することは、信義則に反し、権利の濫用として許されないとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

 

と示し、上告を棄却しました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

 

これまでご紹介した内容だけでは、定頼に対してネガティブな印象を抱いてしまうことでしょう。
彼の名誉のためにも、ひとつ心穏やかになるエピソードを発見しましたので、最後にそちらをご紹介したいと思います。

 

本日の「朝ぼらけ」は、もともと「千載和歌集」(平安時代末期に編纂された勅撰和歌集)に収録されている歌です。

千載和歌集では、この歌の前に定頼の娘からの歌が掲載されており、父である定頼を心配する内容となっています。

詞書は
「中納言定頼 世をのがれてのち、山里に侍りけるころ、つかはしける」

つまり、出家した定頼が俗世間を避けて山里におられたころ、(娘が歌を)お遣わしになった、とあります。

その歌がこちら。

  

都だに さびしさまさる 木枯らしに 峰の松風 思ひこそやれ

(木枯らしの音を聞くと、都にいてさえも寂しさがつのります。お父様がいらっしゃる山里の峰の松風の音はどんなに寂しいかと心配でなりません。)

 

定頼は1044年になると病のため出家しました。
都から離れていた父に対し、娘がその身を案じて歌を詠んだところ、定頼が本日の歌「朝ぼらけ」を返したとされています。

単に風景の美しさを詠んだ叙景歌というだけではなく、
「宇治にはこうした美しさがあるから、寂しいばかりではないよ(だから心配するのはおよし)」
という気持ちが込められた、娘に応える歌になっているという説のようです。

現代の連絡手段ではなかなか真似することのできない、和歌であるからこその素敵なエピソードなのでした。

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 58首目

突然ですが、「有馬温泉百人一首」というかるたをご存知でしょうか。

当ブログを書くにあたり百人一首の調べ物をしていたところ偶然見つけたのですが、兵庫県・有馬について詠んだ和歌のみで構成されている、というものなのだそうです。

ひとつのテーマについて百首もの歌が集められるなんて、和歌の表現の可能性というのは広いのだなあ、と改めて感動しています。

この中には、本家の百人一首に選定されている歌も含まれているのです。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「有馬山 猪名の笹原 風吹けば

いでそよ人を 忘れやはする」  

大弐三位


「ありまやま ゐなのささはら かぜふけば

いでそよひとを わすれやはする」

だいにのさんみ

 

小倉百人一首 100首のうち58首目。
平安時代中期の女流歌人・大弐三位による「恋」の歌となります。

 

 

 

 

 

歌の意味

 

有馬山のふもとにある猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと鳴ります。そうです、その音のように、どうして私があなたを忘れたりするものでしょうか。

 

有馬山
摂津国有馬郡に位置する山で、六甲山の一部。昔から「猪名」との組み合わせで、歌枕で揃って歌に詠まれることが多い。

猪名の笹原
猪名川に沿った平地(有馬山の南東。現在の兵庫県尼崎市、伊丹市、川西市周辺)。昔は一面に笹が生えていた。

風吹けば
動詞の已然形+接続詞「ば」で順接の確定条件。「風が吹いたら」の意。
上の句全体が、下の句にある「そよ」という言葉を導く序詞になっている。
(風が吹くと笹原がそよぐことから)

いでそよ
感動詞「いで」は、誘い出しや促しの「さあ」の意。
「そよ」は二重の意味を持つ掛詞。ひとつは笹の葉ずれの擬音語「さらさら」を表す。もうひとつは感動詞「そうよ」「そうなのよ」といった思い出し・同意などを表す。

人を忘れやはする
「人」は相手の男性を指す。
「やは」は反語の助詞で「どうして~だろうか(いや、そうではない)」の意。

 

 

作者について

 

大弐三位(だいにのさんみ・999?-1082?)

 

平安時代中期の歌人で、女房三十六歌仙のひとりとして知られています。
本名を「藤原賢子(ふじわらの・かたいこ/けんし)」といい、藤原宣孝・紫式部の娘として生まれました。

18歳になると、母と同じように一条天皇の中宮彰子(上東門院)の女房として出仕するようになり、祖父為時の官名から越後弁(えちごのべん)などと呼ばれました。
20代半ばで藤原兼隆(道長の兄・道兼の息子)と結婚し、娘をもうけましたが離婚しています。

1025年に後冷泉天皇(親仁親王)が誕生するとその乳母を命ぜられます。30代半ばになると高階成章と再婚、後冷泉天皇が即位した際に従三位に叙せられ、後に夫・成章も大宰大弐に就任したことから、大弐三位と呼ばれるようになりました。

中宮彰子の女房として仕えていたころには、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったとされています。また、残されている歌などからも、恋多き女性であり恋愛の駆け引きが上手かったというイメージを持たれているようです。

 

    

権利の濫用

 

さて・・・

 

冒頭でふれた「有馬温泉百人一首」。

有馬温泉についてはご存知の方が多いかと思いますが、兵庫県神戸市北区有馬町に所在している、日本三古湯の温泉です。
その存在が知られるようになったのは第34代舒明天皇(593〜641年)、第36代孝徳天皇(596〜654年)の行幸がきっかけとのこと。
日本書紀をはじめとする、数々の古文書にその名が登場しています。

そして、その歴史の長さから、有馬のことを詠んでいる和歌は2000首以上も存在するとのこと。そこから100首を厳選し、2011年4月に発行されたものが「有馬温泉百人一首」なのだそうです。
(以上、有馬温泉観光協会HP神戸有馬温泉元湯龍泉閣HPより)

歴史がある土地だからこそ実現できる、素晴らしいアイデアですね。
ちなみに、本日の歌「有馬山」は有馬温泉百人一首の7首目に選ばれています。

 

そんな「温泉」の繋がりで・・・
権利の濫用が判決文中で初めて用いられた事例である「宇奈月温泉事件」(大判昭和10年10月5日)があります。

 


 

「宇奈月温泉」は富山県黒部市に位置しており、7.5km先の黒部川上流にある黒薙温泉から湯が引かれ、1923年に開湯しました。

この引湯管は地下に埋没されていましたが、これは宇奈月温泉を経営するY社が現在に換算すると数億円程度の費用を投じて工事をおこない、また経由する土地の利用権を獲得するなどして完成させたものでした。
しかし、引湯管のうち一部が通る乙土地については、Y社は利用権を取得せず経由してしまっていたのです。なお、引湯管が通っていたのは乙土地のうち2坪程度でしたが、その部分を含め、112坪ほどある乙土地は全体が急傾斜しており利用が難しい場所でした。

これに着目したXは、乙土地の所有者であるBから、乙土地を1坪あたり26銭で購入。
乙土地の所有者となったXは、不法占拠を理由に、Y社に対して引湯管の撤去あるいは乙土地周辺の土地を含めた計3,000坪の買取りを求めましたが、その際に1坪7円、計2万円という金額を提示しました。
(様々な計算がなされていますが、当時の1円は現在の2,000円前後ぐらいと算出されているものが多いことから、10万円にも満たない額で購入した土地を、その周辺を含め数千万円で売り渡そうとした、といった金額感になるようです)

そしてY社がこの要求に応じなかったため、Xは所有権に基づく妨害排除を求めて提訴。しかし、第1審・第2審ともにY社が勝訴したため、Xは上告しました。

これに対して大審院は、Xの請求(所有権の行使)は権利の濫用にあたるため認められない、としてその請求を棄却しました。

所󠄃有權ニ對スル侵󠄃害󠄆又ハ其ノ危險ノ存スル以上所󠄃有者ハ斯ル狀態ヲ除去又ハ禁止セシムル爲メ裁判󠄄上ノ保護ヲ請󠄃求シ得ヘキヤ勿論ナレトモ該侵󠄃害󠄆ニ因ル損失云フニ足ラス而モ侵󠄃害󠄆ノ除去著シク困難ニシテ縱令之ヲ爲シ得トスルモ莫大ナル費用ヲ要󠄃スヘキ場合ニ於テ第三者ニシテ斯ル事實アルヲ奇貨トシ不當ナル利得ヲ圖ノ殊更侵󠄃害󠄆ニ關係アル物件ヲ買收セル上一面ニ於テ侵󠄃害󠄆者ニ對シ侵󠄃害󠄆狀態ノ除去ヲ迫󠄃リ他面ニ於テハ該物件其ノ他ノ自己所󠄃有物件ヲ不相當ニ巨󠄃額ナル代金ヲ以テ買取ラレタキ旨ノ要󠄃求ヲ提示シ他ノ一切ノ協調ニ應セスト主張スルカ如キニ於テハ該除去ノ請󠄃求ハ單ニ所󠄃有權ノ行使タル外形ヲ構󠄃フルニ止マリ眞ニ權利ヲ救濟セムトスルニアラス卽チ如上ノ行爲ハ全體ニ於テ專ラ不當ナル利益ノ摑得ヲ目的トシ所󠄃有權ヲ以テ其ノ具ニ供スルニ歸スルモノナレハ社會觀念上所󠄃有權ノ目的ニ違󠄅背シ其ノ權能トシテ許サルヘキ範圍ヲ超脫スルモノニシテ權利ノ濫用ニ外ナラス

 

権利の濫用と判断されるにあたりポイントとなったのは以下のような点でした。

・乙土地はもともと利用が難しい場所であったこと
・Y社にとって乙土地は重要なものであること(失えば損害は大きい)
・それに対し、Xにとってはそれほど重要なものではないこと
・Xのとった手段が悪質であったこと(Y社に請求する目的で土地を購入し、法外な価格を設定した等)

 

そして、「権利ノ濫用」という言葉が初めて判決文中で用いられることとなりました。

<判示事項>
所󠄃有權ニ對スル侵󠄃害󠄆除去ノ請󠄃求ト權利ノ濫用

  

(民法1条3項)
権利の濫用は、これを許さない。

 

この「許さない」が示すのは、例え正当に権利を持つ者がその権利を行使するという場合でも、その法律的な効力を認めない、無効にしてしまうということです。

なお、権利の濫用にかかる事例として、最高裁昭和50年2月28日判決(所有権留保と権利濫用)などもあります。

  

◇ ◇ ◇

 

さて。

宇奈月温泉は2023年に開湯100周年を迎えたとのことですが、

なんと、これを記念して宇奈月温泉事件をモチーフとした「権利ノ濫用除お守り」が企画されました。

■「権利ノ濫用除お守り」とは
パワハラ、セクハラなどのハラスメントはもちろん、嫌がらせやいじめなど、立場などを利用して、あなたに害を与える人やことを除けてくれるお守りです。 肌身離さず携帯することで、良い人・環境・縁に恵まれるよう宇奈月神社にて祈祷しています。苦しい境遇におかれた時、新しい生活を始める時、お友達がパワハラやセクハラなどに悩まされている時、これから社会へ出るお子様への贈り物を探している時には、ぜひ「権利ノ濫用除お守り」をお迎えください。

黒部・宇奈月温泉観光局公式サイト「黒部めぐり」より)

毎月1日に、宇奈月神社となりにある黒部市芸術創造センターにて手に入れることができるそうです。
ご利益を求める人のみならず、弁護士の方や法学部生などにも人気の様子。

デザインも素敵ですし、我々法律事務所スタッフにも活力を与えてくれそうな気がしてしまいます。
機会があれば、ぜひいただいて帰りたいと思います。

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 

 

法律で読み解く百人一首 75首目

いつの時代、またどのような分野においても
それまでの伝統や習慣に重きをおく保守的な姿勢をとるか
あるいは、新しいものに変えていこうとする革新的な姿勢とるか
選択の機会が訪れるものではないでしょうか。

自分にとって何が大切か、大切にしたいか、といった考え方から選ぶ対象が決まってくるのかもしれません。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「契りおきし させもが露を 命にて

あはれ今年の 秋もいぬめり」  

藤原基俊


「ちぎりおきし させもがつゆを いのちにて

あはれことしの あきもいぬめり」

ふじわらのもととし

 

小倉百人一首 100首のうち75首目。
平安後期の貴族・歌人・書家である藤原基俊の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

あなたがお約束してくださいました、させも草についた恵みの露のような言葉に望みを託しておりましたが、ああ、今年の秋も過ぎてしまうようです。

 

契りおきし
「契り置く(=約束しておく)」の連用形で、「約束しておいた」の意。
「露」は葉に「置く」ものであり、縁語の関係。

させも
「させも草」を指し、ヨモギのこと。
平安時代には万能薬とされた。

命にて
「命」は「唯一のよりどころ」という意味を持つ名詞でもあり、
「恃みにする」となる。

あはれ
嘆きを表す感動詞。「ああ」などと訳す。

いぬめり
「往ぬ(=過ぎる)」の終止形。
「めり」は推定の助動詞で「秋は過ぎてしまうようだ」の意。

 

 

作者について

 

藤原基俊
(ふじわらのもととし・1060-1142)

 

平安時代後期の貴族・歌人・書家で、右大臣・藤原俊家の四男。
藤原道長のひ孫にあたるという家柄でしたが、彼自身はなかなか官位に恵まれることはありませんでした。

歌壇に登場したのは46歳と遅かったものの、和歌には秀でていた基俊。鳥羽朝に入ると、歌合では作者のほかに判者も数多く務め、74番の作者である源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍しました。

なお、革新派であった俊頼に対し、基俊は伝統的な歌風を重んじる保守派であったといいます。そのため、俊頼とは対立関係にありました。また、自負心の強い学識派であった基俊は自身の才能を鼻にかけ、俊頼を見下す態度をとっていたのだとか。

一方、76番の歌の作者である藤原忠通とは親しい間柄にあったようで、贈答歌も残っています。忠通は、基俊・俊頼それぞれの歌の能力を認めていましたが、それと同時にライバルであった両者を同じ歌合の判者に招き、両者のなす評価の違いを楽しむ、ということもあったのだそうです。

基俊は和歌の他にも、書道・漢字に精通しており、「万葉集」に訓点をつける作業をおこなった一人でもあります。

また、弟子には同じく百人一首に歌が選ばれた藤原俊成がいたり(皇太后宮大夫俊成として83番に選出)、また、その弟子の息子は百人一首の選者である藤原定家であるなど、人間関係においても和歌との繋がりがあったようです。

 

 

私立大学と基本的人権

 

さて・・・

 

伝統的な和歌の形式を大切にしていた、保守派の基俊。

「保守」「革新」などの言葉を耳にすると、
多くの方がイメージするひとつに、「政治」というテーマがあるのではないでしょうか。

「保守主義」とは、従来からの伝統・習慣・制度・考え方を維持し、社会的もしくは政治的な改革・革新・革命に反対する思想のことを意味します(Wikipedia参照)。

ところで、私立大学とはそれぞれに独自の校風、伝統、教育方針等を打ち出しており、受験する側もそれを考慮して入学するものですが、そのため、大学は校風と伝統を守るため独自に規則を設けており、規則を破り校風を乱した上、指導説得を与えても改善しない学生には、時に退学処分を課すこともあります。
過去に、保守的・非政治的な校風をとっていた私立大学と退学処分を受けた学生との間で、その退学処分が憲法違反だとして争われた事例があります(最判昭和49年7月19日(昭和女子大事件))。

 


 

昭和36年当時、Y私立大学に在学していた学生X1、X2は、

「署名運動をするときは、事前に学生課に届け出て指示を受けなければならない。」
「補導部の許可なく学外団体に加入してはならない。」

という学則の細則として定められた「生活要録」に違反して、

・無届出のまま学内にて政治的暴力行為防止法案反対嘆願の署名を収集
・学校の許可を受けずに民主青年同盟に加入

といった政治的活動をおこなっていました。
こうした理由により、Y大学教授はXらに登校禁止を言い渡したほか、「補導」と称して呼び出し取調べをおこないました。

すると、Xらは以下のような行動をとりました。
・仮名を使い、事件に関して週刊誌で日誌を掲載
・学生集会やテレビ放送の場で事件について発言

これを受けて大学側はXらが反省していないと判断。Xらは、大学学則の「学校の秩序を乱しその他学生としての本分に反したもの」に該当するものとして、退学処分を受けたのです。

そこで、Xらは大学側を相手に、学生たる身分確認請求訴訟を提起しました。

一審はXらの請求を認容

二審は一審判決を取り消し、Xらの請求を棄却しました。
これに対し、Xらは「生活要録」そのものが違憲であり、大学側による退学処分も違憲であるとし、憲法及び法令の解釈適用を誤ってものであると主張のうえ上告しました。

 

これに対し、最高裁は

「憲法19条、21条、23条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障することを目的とした規定であつて、専ら国又は公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互間の関係について当然に適用ないし類推適用されるものでない」

とした上で、大学とは

「学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによつて在学する学生を規律する包括的権能を有するもの」

としました。そして、

「私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによつて社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針のもとで教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受けるかぎり、かかる規律に服することを義務づけられる」

「私立大学のなかでも、学生の勉学専念を特に重視しあるいは比較的保守的な校風を有する大学が、その教育方針に照らし学生の政治的活動はできるだけ制限するのが教育上適当であるとの見地から、学内及び学外における学生の政治的活動につきかなり広範な規律を及ぼすこととしても、これをもつて直ちに社会通念上学生の自由に対する不合理な制限であるということはできない」

のように示し、特に私立大学とは、特に伝統・校風により社会的存在意義が認められ、学生もその教育方針を希望して入学するのであるから、大学がかなり広範な規律を及ぼすとしても、これをもって直ちに社会通念上不合理な制限であるとはいえず、憲法の人権規定を私人間の問題に類推適用することは出来ないとし、大学の「生活要録」の規定は、違憲か否かを論じる余地はなく、退学処分を大学の懲戒権の裁量の範囲内であると判断。上告は棄却されました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

基俊が詠んだ本日の「契りおきし」ですが、
一見すると「何か裏切りにあったことを嘆いているんだろうか」「恋人に恨み言を並べているんだろうか」という印象があり、その背景を読み取るのはなかなか難しい歌ではないかと思います。

実は、この歌は藤原忠通にあてて詠んだものとされています。

自分の出世には恵まれなかった基俊でしたが、子供のこととなれば話は別。
忠通に対して自分の息子の出世を頼みましたが、その約束は果たされなかったため、その物哀しさや「改めて頼みますよ!」という気持ちが込められています。 

自分の才能をいいことに周囲の人間を見下していたのですから、因果応報な気もいたしますが・・・

いつの時代も子煩悩な人というのはそういうものかもしれません。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 53首目

今日において、「結婚」というものに関する選択は少しずつ幅広くなっているように感じられます。

そもそも、日本における結婚とはどのように定義されているか、という点ですが、その答えは憲法にあります。

憲法では、「婚姻」を次のように定めています。

 

日本国憲法24条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

しかし、時代によってその制度は様々です。

明治時代は、旧憲法下の民法に規定された「家制度」に基づき、婚姻には戸主の同意が必要であったり・・・
江戸時代には、「家父長制」のもと、親から身分が同格の相手との婚姻を命じられることがほとんどであったり・・・

では、平安時代における結婚とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は

いかに久しき ものとかは知る」  

右大将道綱母


「なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは

いかにひさしき ものとかはしる」

うだいしょうみちつなのはは

 

小倉百人一首 100首のうち53首目。
平安時代中期の歌人・右大将道綱母の歌となります。

 

 

 

歌の意味

 

(あなたが来てくださらないことを)嘆きながらひとりで孤独に寝ている夜をすごす私にとって、夜が明けるまでの時間がどれほど長く感じられるものか、あなたはご存じなのでしょうか。ご存じないでしょうね。

 

嘆きつつ
「つつ」は反復を表す接続助詞。「何度も~ては」の意。

ひとり寝る夜
読みは「ひとりぬるよ」。
平安時代は男性が女性のもとに通う「通い婚(妻問い婚)」が慣習であったため、これは夫が訪ねてこず一人で寝る夜を指す。

明くる間は
「夜が明けるまでの間は」の意。「は」は強調の係助詞。

いかに久しきものとかは知る
「いかに」は程度が大きいこと表す、または程度を尋ねる副詞。「どれほど」「どんなにか」などと訳す。
「かは」は反語を表す複合の係助詞。「~だろうか。いや~ではない。」との意味。本作では連体形の動詞「知る」と係り結びの関係。

 

 

 

作者について

 

右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは・936?-995)

 

平安時代中期の歌人で、「蜻蛉日記」の作者。
藤原倫寧の娘として936年頃に誕生したと言われており、本名は不明ですが、藤原道綱の母であることから、「藤原道綱母」とも呼ばれています。

日本初期の系図集である「尊卑分脈」に「本朝第一美人三人内也」と記されており、つまり「日本で最も美しい女性三人のうちの一人である」言われるほどの美貌の持ち主でした。954年に藤原兼家の第二夫人となり、翌955年に道綱を生んでいます。

一方、夫である兼家は女性関係が派手な人でした。道綱母を妻に迎えた際も既に正妻がおり、その生涯で10人程の女性を妻・妾としています。

「蜻蛉日記」には、このような兼家との約20年にわたる結婚生活をはじめ、彼のもうひとりの妻である藤原時姫(藤原道長の母)との争い、その他妻妾に関するエピソード、上流貴族との交流、息子道綱の成長や結婚について記されています。

また歌人との交流についても記されており、和歌は261首掲載されています。
そのうちの一首が、本日の「なげきつつ…」です。
この歌は「拾遺和歌集」にもとられており、歌人としては、中古三十六歌仙にも選ばれています。

「蜻蛉日記」は現存する最古の女流日記とされ、後の女流文学・物語にも影響を与えていることから、その先駆けとなる存在であったと言えます。

 


 

 

本日の歌

嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

 

この歌には、掲載された作品ごとにエピソードが存在します。

「拾遺和歌集」では、兼家が道綱母を訪ねてきた際、彼女はわざと門を開けず兼家を待たせました。そんな兼家が「立ち疲れてしまった」とぼやいた際に応えて詠んだ歌、とされています。

また「蜻蛉日記」では、浮気性の兼家に新しい女性ができたことを知った道綱母は、兼家が訪ねてきた際も門を開けませんでした。すると兼家は早々に違う女性のところへ。そんな兼家に対し、道綱母は翌朝色褪せた菊の花と一緒にこの歌を贈ったとされています。

 

兼家によって大きく心が乱されてしまった道綱母。

その原因は兼家のみならず、平安時代の結婚制度、それに対する社会の認識にもあったのではないでしょうか。

 

平安における結婚は、夫が妻のもとに通う「通い婚」のスタイルで、男性が女性の家に入る「婿取り婚」でした。
また、文学作品などの影響から「一夫多妻制」のイメージがありますが、実際は「一夫一妻制」であり、平安貴族が多くの女性と恋愛関係をもつことが公認されていた、ということのようです。
(養老律令は重婚を禁じる旨を定めていますから、道綱母が生きた時代も同様であったはずです)

また当時の「結婚」は社会的な意味合いが強く、家と家の結びつきを重要視するものでした。男性は出世のチャンスをつかむため自分の生家よりも身分の高い家との結婚を求め、女性の両親に認められる必要がありました。一方、女性は男性が通ってくる際に持参する金銭等が生活費となったため、相手の立場というのは非常に重要でした。
(今年の大河ドラマでも、主人公が相手の男性に対し「正妻にしてくれるのか」と詰める場面が話題となりました)

正妻の場合は、夫が妻の家に住むほか、晩年は夫の家で同居するというスタイルだったようです。
一方、公式には認められない「妾」はいわば内縁の妻といった存在であり、同居はできず、いつ来るかわからない男性の来訪を待つしかありませんでした。

道綱母は、この「内縁の妻」の立場だったのです。

こうした事情を考えると、道綱母の気持ちもよくわかります。
なお、一夫一妻制にもかかわらず多くの妾をかかえていた理由としては、子を多く持つという目的があったようです。

 

  

内縁の解消と財産分与

 

さて・・・

「内縁関係」という言葉について、実は法律上の定義はありません。
一般的には、法律上の婚姻手続きはとらないものの、実態的には法律上の夫婦と変わらない結婚生活を送っている関係を指します。
また「事実婚」という言葉もありますが、こちらは主体的に婚姻手続きを選択しない場合に用いられ、「内縁関係」は家庭の事情等を理由とする場合に用いる、とする場合もあるようです。

婚姻届を出す・出さないという選択から、その後夫婦が置かれる法律上の立場が大きく変わってくるのです。
その結果、影響することの一つに「相続」があるのではないでしょうか。

例えば、内縁関係にある夫婦の一方が死亡してしまった場合は・・・?

最近では、内縁関係は準婚とされ、法律婚に準じ、法律的にも保護されるようになってきています。そのような中で、夫婦関係解消の際、内縁関係の解消と、法律婚の解消では如何なる点が異なるのでしょうか。

 

この点に関し、内縁関係にある夫婦において、離別ではなく一方の死亡により内縁関係が解消したことで、内縁の妻が、内縁の夫の相続人に対して財産分与を請求した事例があります(最決平成12年3月10日)。

Aは、昭和22年にBと婚姻し、Bとの間にY1とY2との2名の子をもうけていた男性。
Xは昭和45年に夫と死別した女性で、昭和46年3月頃から働き始めた勤務先でAと知り合い、親密な関係となりました。
Xは昭和46年5月頃から平成9年1月にAが死亡するまで、毎月一定額の生活費の援助を受けていました。また、現金で300万円の贈与も受けていました。 

昭和60年12月頃になると、Aは病気により入退院を繰り返すようになりました。XはAの入院期間中ほとんど毎日にように病院に行き、Aの身の周りの世話をおこないました。
また、昭和62年8月にBが死亡すると、AはY1及びその家族と住む自宅よりもX方で過ごす時間が長くなっていきました。
その後、Aは平成9年1月19日に死亡。XとAの関係は27年にも及びました。

すると、1億8500万円にものぼるAの遺産はY1とY2がそれぞれ相続し、Xには1円も支払われませんでした。

そこでXは、Aの負う内縁の妻に対する財産分与義務をYらが相続したとして、平成9年5月、Y1、Y2に対し財産分与として各1000万円の支払いを求める家事調整を家庭裁判所に申し立て、その後審判手続きに移行しました。

 

本件は、内縁の配偶者の一方が死亡した場合に離婚による財産分与に関する民法768条が類推適用されるか否かという法律問題を含む事件でした。

(財産分与)
第768条1項 協議上の離婚をした者の一方は、相手方に対して財産の分与を請求することができる。

2項 前項の規定による財産の分与について、当事者間に協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、当事者は、家庭裁判所に対して協議に代わる処分を請求することができる。ただし、離婚の時から二年を経過したときは、この限りでない。

 

高松家裁は審判において、死亡による内縁の消滅の場合にも、生存配偶者は財産分与の規定の準用又は類推適用により財産分与請求権を有するものと解するのが相当である、と述べ、Y1とY2に対し、財産分与として各500万円を支払うよう命じました。

これに対してYらは抗告。高松高裁は、内縁夫婦の一方が死亡することによって内縁関係が消滅した場合に、法律上の夫婦の離婚に伴う財産分与の規定を準用ないし類推適用することはできない、と述べて、家裁の審判を取り消し、本件申立てを却下しました。そして、同高裁は、民訴法337条1項に基づき、Xがこの決定に対して最高裁に抗告することを許可しました。

(許可抗告)
第337条1項 高等裁判所の決定及び命令(第330条の抗告及び次項の申立てについての決定及び命令を除く。)に対しては、前条第1項の規定による場合のほか、その高等裁判所が次項の規定により許可したときに限り、最高裁判所に特に抗告をすることができる。ただし、その裁判が地方裁判所の裁判であるとした場合に抗告をすることができるものであるときに限る。

 

Xが抗告したところ、最高裁は

内縁の夫婦について、離別による内縁解消の場合に民法の財産分与の規定を類推適用することは、準婚的法律関係の保護に適するものとしてその合理性を承認し得るとしても、死亡による内縁解消のときに、相続の開始した遺産につき財産分与の法理による遺産清算の道を開くことは、相続による財産承継の構造の中に異質の契機を持ち込むもので、法の予定しないところである。

 

とし、離別による内縁関係の解消の場合には、財産分与の規定が類推適用されると考えても良いとされた一方で、離別ではなく、死亡により内縁関係が解消した際の相続には財産分与の規定を持ち込むことはできないとしました。

さらに、

また、死亡した内縁配偶者の扶養義務が遺産の負担となってその相続人に承継されると解する余地もない。

 

とし、夫婦が死別した場合の財産に関しては、相続人に対する相続によってのみ承継されると判示しました(以上、判例タイムズ1037号107頁参照)。

(相続の一般的効力)
民法896条 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。

 


 

 

本日の歌
「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」

 

移り気な兼家に対し、道綱母が皮肉をこめて詠んだこの歌。
対して、兼家は次の歌を返しました。

げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も 遅くあくるは わびしかりけり

(本当におっしゃるとおりです。冬の長い夜が明けるのを待つのはつらいものだが、そんな冬の夜でない真木の戸をなかなか開けてもらえないのもつらいことです。)


その後、兼家は道綱母のところには全く通わなくなったばかりか、他の女性との間に次々と子供をもうけ、さらには新しい愛人もできていきました。
この歌をきっかけに、二人の仲は険悪になってしまったようです。

晩年の道綱母は、病を患っていた一方で歌合せに出詠するなどしていましたが、995年頃に亡くなったとされています。

不実であった兼家との生活を(多少脚色はあるでしょうが)、後の女流文学に大きな影響を与える作品にまで落とし込むほどの才能があった道綱母。

夫の浮気癖のせいで身も心もボロボロ・・・というよりは、
「このエピソードをもとに日記文学を書き上げてしまおう!」
くらいに勝気でいてくれたら良いな、と思わずにはいられません。

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 17首目

少し前に話題を集めた「老後2000万円問題」。
これを受け、投資への関心が高まった方もいらっしゃるかと思います。
諸制度も改正が重ねられており、最近では「新NISA」が始まりました。

このように、現在は若い年齢であっても、また少額からのスタートでも、投資に挑戦できる制度が多く、かかる情報もインターネットで気軽に収集することができます。

 

その一方で、
証券会社にしてみれば、顧客を獲得するのに苦労しているのかもしれません。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川

からくれなゐに 水くくるとは」  

在原業平朝臣


「ちはやぶる かみよもきかず たつたがは

からくれなゐに みづくくるとは」

ありわらのなりひらあそん

  

 

 

小倉百人一首 100首のうち17首目、
平安初期~中期の貴族・歌人、在原業平朝臣の歌となります。

 

 

歌の意味

 

(川面に紅葉が流れていますが)遠い昔の神々の時代にさえ、こんなことは聞いたことがありません。
竜田川一面に紅葉が散り浮いて流れ、水を鮮やかな紅色の絞り染めにするなどということは。

 

ちはやぶる(千早ぶる)
「神」にかかる枕詞。
「いち=激い勢いで」「はや=敏捷に」「ぶる=ふるまう」という言葉を縮めたもので、勢いが激しい、強力で恐ろしいことを表す。

神代
「遠い昔」や「(太古の)神々の時代」の意。
「神々の時代でさえ聞いたことがない」とすることで、下の句の内容がそれほど不思議な現象であることを指す。

竜田川
奈良県生駒郡を流れる川で、紅葉の名所。

からくれなゐ
「唐紅」や「韓紅」と表記し、濃く鮮やかな紅色を指す。

水くくるとは
「くくる」は絞り染めの技法である「くくり染め」にする、ということ。
「竜田川が水をくくり染めにする」という擬人法が用いられている。

 

 

 

作者について

 

在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん・825-880)

 

平安の初期から前期にかけての貴族・歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。
天城天皇の孫にあたる人物で、母方の血筋では桓武天皇の孫にあたるなど、出自としては非常に高貴な身分でした。しかし、父である阿保親王が政権争いの連帯処罰を受けて左遷されたことなどから、生まれて間もなく、兄たちと共に皇族を離れて「在原」の姓を名乗ることとなりました。

貴族としては、出仕を初めてからもなかなか昇進できず、官職についた記録もありません。このように、朝廷における長い不遇の時代が業平を和歌に没頭させたのでした。
のちに御代が変わると、蔵人頭に任ぜられるなど要職を務めました。
一方、歌人としては、「古今和歌集」に収録された30首のほか、勅撰和歌種に87首が入首するほどの名手であったようです。

そして、業平といえば容姿端麗・恋多き男性として知られています。「ちはやぶる…」の歌も、かつて恋愛関係にあった藤原高子(二条后。清和天皇の女御)に捧げたものだとか。

業平は平安の恋愛小説「伊勢物語」の主人公ともいわれていますが、その中には、業平と高子が身分違い許されぬ恋に落ちて駆け落ちを試みるものの、途中で失敗して高子が連れ戻されてしまう場面が描かれています。
「ちはやぶる…」は、高子の持つ屏風を見た業平が詠んだ「屏風歌」(実際の風景を見ずに、屏風に描かれた絵を主題として詠まれた和歌)です。
業平はこの歌で彼が変わらず高子への気持ちを抱いていることを暗に示した、とする説もあります。

 


 

そんな業平が詠んだ、本日の歌

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

 

漫画作品のタイトルに用いられたことから、耳にしたことのある方も多いかと思います。ところで、落語の演目があるのはご存じでしょうか?

 

「千早振る」という古典落語で、別題「百人一首」「無学者」ともいいます。
そのストーリーはというと・・・

 

ある日、長屋で物知りと知られる「ご隠居」のもとに、「八五郎」がやってきます。娘に「ちはやぶる」の歌の意味を聞かれたがわからない、教えてくれというのです。
ところが・・・実はご隠居もこの歌の意味を知りません。しかし、物知りといわれる手前、知らないなどとは口が裂けても言えません。
そこで、ご隠居は即興で次のような解釈を考えます。

・「竜田川」という相撲取りが吉原で「千早」という花魁に一目ぼれするものの振られてしまう。(=千早振る)

・それならと、竜田川は妹分の「神代」に言い寄るものの、こちらも千早に倣って竜田川を相手にしない。(=神代も聞かず竜田川)

・その後、相撲取りを廃業して豆腐屋になった竜田川のもとに、偶然、物乞いとなった千早がやってくる。おからを恵んでほしいという千早に怒った竜田川は彼女を突き飛ばし、自身の過去の行いを悔いた千早は、近くにあった井戸に身投げする。なお、千早の本名は「永遠(とわ)」であった。(=からくれなゐに 水くくるとは)

 

所々無茶に聞こえるものの、最後には八五郎も納得してしまいます。
これだけの嘘をスラスラ述べてしまうご隠居には驚きです。

 

 

先物取引「客殺し商法」による詐欺

  

さて・・・

 

ご隠居の意のまま、すっかり騙されてしまった八五郎。
思惑どおり、沽券を保つための「カモ」にされてしまったのですね。

もし八五郎が先々でこの話を披露し、大恥をかいてしまったとしても、体面が守られたご隠居には関係ありません。
自分の利益を守るために嘘をついたご隠居は、「詐欺罪」とみなされてしまうのでしょうか。

 


 

 

商品先物取引に関して、いわゆる「客殺し商法」により、業者が顧客から委託証拠金名義で現金等の交付を受けた行為について、詐欺罪の成立が認められた事例があります(最決平成4年2月18日)。

「客殺し商法」とは、外務員の思惑通りに顧客に取引をおこなわせ、顧客に損失を発生させ、顧客への委託証拠金の返還及び利益の支払を免れる商法のこと。
業者が利益を得る一方、客が大きな損失を抱えることになるものであり、業者が意図的に仕掛ける方法です。

 

本件は昭和45年から47年にかけての時期において、商品取引員(顧客からの商品取引所における売買注文を執行するための受託業務をおこなう者)として営業していた株式会社Aの社員らが顧客を勧誘し、総額5000万円に上る委託証拠金の交付を受けた行為に関連して、その幹部、管理職、外務員ら合計11名が詐欺により起訴された事案です。

一審判決は、被告人らが客殺し商法をとることを営業方針としていた点は認められず、具体的な欺罔文言とともに勧誘がおこなわれた4件のみについて詐欺罪の成立を認めました。
これに対して検察側が控訴し、控訴審判決は、検察側の主張を全面的に採用。上記争点に関する原判断を破棄しました。

被告人らが上告したところ、本決定は、原判決の認定した事実関係を摘示した上で、それらの事実に照らせば、被告人らの行為は詐欺罪を構成するとの職権判断を示し、上告を棄却しました(以上、判例タイムズ781号117頁参照)。

本件において、被告人らの用いた「客殺し商法」の手口は以下となります。

 

①勧誘に当たっては、いわゆる「飛び込み」と称し、一定地域の家庭を無差別に訪問して勧誘する方法を採る。

②勧誘対象の多くは、先物取引に無知な家庭の主婦や老人となり、これらの者を勧誘するに際しては、外務員の指示どおりに売買すれば先物取引はもうかるものであることを強調する。

③右の言葉を信用した顧客に対して、外務員の意のままの売買を行わせることとし、具体的には、相場の動向に反し、あるいはこれと無関係に取引を仲介し、しかも、頻繁に売買を繰り返させる。

④取引の結果、顧客の建て玉に利益を生じた場合には、一定の利幅内で仕切ることを顧客に承諾させて、利益が大きくならないようにする一方で、利益金を委託証拠金に振り替えて取引を拡大、継続するよう顧客を説得し、顧客からの利益の支払要求等を可能な限り引き延ばしたりしつつ、それまでとは逆の建て玉をするなどして、頻繁に売買を繰り返させる。

⑤以上の方法により、顧客に損失を生じさせるとともに、委託手数料を増大させて、委託証拠金の返還及び利益金の支払を免れる。

 

 

最高裁は、

「客殺し商法」により、先物取引において顧客にことさら損失等を与えるとともに、向かい玉を建てることにより顧客の損失に見合う利益を会社に帰属させる意図であるのに、自分達の勧めるとおりに取引すれば必ずもうかるなどと強調し、顧客の利益のために受託業務を行う商品取引員であるかのように装って、取引の委託方を勧誘し、その旨信用した被告者らから委託証拠金名義で現金等の交付を受けたものということができる

 

とし、被告人らの本件行為は詐欺罪を構成すると判断しました。

 

(詐欺)
刑法246条1項 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。

 

 

◇ ◇ ◇

 

ご隠居の嘘にまんまと騙されてしまった八五郎。
かつての恋人に詠んだ歌を落語でネタにされるなんて、ましてや元の影も形もないストーリーにされてしまうなんて・・・
業平もさぞ驚くことでしょう。

 

このように、落語は、熊五郎、八五郎、与太郎あたりが、「ご隠居」や「先生」など年長者の口の上手さに丸め込まれてしまう、という噺が多いですよね。

「客殺し商法」に負けずとも劣らない、ご隠居たちの見事な手法。
あなたなら何と名付けますか?

 

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 9首目

改元から早くも5年以上が経過しました。

令和に入ってから、特に「価値観」というものを考える機会が多くなったように思います。
人種や性別、環境についてなど、その視点は様々。
自分にとって心地の良い回答を探そうにも、ソースが多いからこそ、情報の選択も難しくなってきていると感じる今日この頃です。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「花の色は 移りにけりな いたづらに

我が身世にふる ながめせしまに」  

小野小町


「はなのいろは うつりにけりな いたづらに

わがみよにふる ながめせしまに」

おののこまち

 

 

小倉百人一首 100首のうち9首目。
平安時代前期の歌人・小野小町の歌となります。

 

歌の意味

 

(桜の)花の色は、春の長雨が降っている間にむなしく衰え色あせてしまいました。
ちょうど私の容姿も衰えてしまいました。恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。

  

花の色
古典における「花」は「桜」の意(または様々な春の花)。
「花の色」は女性の若さや美しさも暗示する。

うつりにけりな
ここでは「花」に対して「色あせる、衰える」ことを指す。
「な」は詠嘆の終助詞。この場合は「~してしまったなあ」と訳す。

いたづらに
形容動詞「いたづらなり」の連用形。「むなしく」「無駄に」という意味。

世にふる
それぞれ、
世 :「世代」と「男女の仲」
ふる:「降る」と「経る(=時間が過ぎる)」
のように、2つの意味がかけられており、
「降り続く雨」と「年を重ねていく私」という2重の意味になる。

ながめせしまに
「ながめ」は「長雨」と「眺め(=物思い)」の掛詞。
つまり「長雨で物思いにふけっている間に」の意。
「我身世にふる」へ続く倒置法になっている。

 

 

作者について

 

小野小町(おののこまち・生没年未詳)

平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に数えられています。
生没年は不詳ですが、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族「小野氏」の一族とされています(小野妹子、でピンとくる方もいるのではないでしょうか)。
平安時代初期の公卿である小野篁の娘とする説、あるいはその息子・小野良真の娘とする説などがあります。

また、「小町」は本名ではなく「町」の字があてられていることから、後宮に仕える女性であったと考えられています。

歌人としては、在原業平や文屋康秀、良岑宗貞との贈答歌も多く残っており、また、『小町集』という歌集も伝わっています。

その歌風は情熱的な恋愛感情が反映されており、恋多き女性であったとか。

有名な逸話としては、深草少将の「百夜通い伝説」があります。
深草少将からの求愛に困っていた小野小町は、諦めさせようと「私のもとに100日通ったら、その時は想いに応えましょう」と告げます。毎日通い続ける深草少将に、小野小町も少しずつ心惹かれていたところ、99日目の夜、深草少将はその道中で亡くなってしまうという、何とも切ない内容です。

 

 

私的団体における女性差別

 

さて・・・

平安は、現在よりも人の寿命が短い時代。
諸説あるものの、その平均寿命は男性が50歳、女性が40歳であったと言われています。
また早婚であったことから、一般的な結婚適齢期は、男性が17~18歳前後、女性が13歳ほどとされていました。

さらに、日本において男女差別が始まったのは平安時代からなのだそうです。
社会制度の変化などから、表面的には男女における役割が分かれはじめ、男女差別の意識が生まれ始めたとのこと。

このような事情を考えると、年齢を重ねていくことを悲観して歌を詠む小野小町の気持ちも分かるような気がいたします。

 

性別による不平等は今日でも多くの課題が残るテーマですが、企業における男女別の定年制に関して裁判で争われた事例があります。

 

原告はA社に勤める女性従業員。ある日、A社はY社に吸収合併されました。

合併前、A社は従業員の定年を男女共に55歳と定めていたところ、Y社では男性が55歳、女性が50歳と定められており、合併後にY社の就業規則が採用されたことによって、Xは満50歳のタイミングで退職を命じられました。
これに対し、Xは従業員である地位の確認を求める仮処分申請を起こしたところ、一審・二審ともに請求棄却。
そのためXは、就業規則中、女子の定年年齢を男子より低く定めた部分につき、性別で定年年齢が異なることは不合理な差別であるとして提訴。すると、一審・二審ともに男女別定年制が違法であると認められました。

これに対し、被告Y社は憲法14条、民法90条の解釈が誤っていると主張し、上告審に至ることとなりました(最判昭和26年3月24日)。

日本国憲法14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

民法90条 公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。

 

被告Y社は、女性の定年を男性より引き下げることの合理性の根拠として、

・女性の担当業務は補助的業務に限られ、労働の質量とも向上がなくなり、賃金と労働の不均衡を生ずること

・女子は50歳になれば労働能力の減退が著しく従業員として不適格となること

などを主張しました(判タ440号53頁参照)。

しかし、憲法14条の平等権に即し、民法90条の公序良俗の規定に反しているとされ無効とされました。
最高裁は次のとおり判断しています。

女子従業員の担当職務は相当広範囲にわたつていて、従業員の努力と上告会社の活用策いかんによつては貢献度を上げうる職種が数多く含まれており、女子従業員各個人の能力等の評価を離れて、その全体を上告会社に対する貢献度の上がらない従業員と断定する根拠はないこと、しかも、女子従業員について労働の質量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡が生じていると認めるべき根拠はないこと、少なくとも60歳前後までは、男女とも通常の職務であれば企業経営上要求される職務遂行能力に欠けるところはなく、各個人の労働能力の差異に応じた取扱がされるのは格別、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はないことなど、上告会社の企業経営上の観点から定年年齢において女子を差別しなければならない合理的理由は認められない

 

上告会社の就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、専ら女子であることのみを理由として差別したことに帰着するものであり、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法90条の規定により無効であると解するのが相当である

 

女子従業員個人の担当職種や労働能力の評価等の事情を考慮すれば、性別によってのみ定年年齢に格差を設けることは合理性がなく、差別に当たるとされました。

そして、上告を棄却する判決がなされたのです。

その後、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(通称:男女雇用機会均等法)により、性別により異なる定年制を導入することを禁止する旨が定められることとなりました。

 

◇ ◇ ◇

  

本日の歌
「花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」

自分の若さ、美しさが衰えていくこと、その儚さを歌に落とし込んだ小野小町。

日本では「世界三大美人」に数えられているイメージから、
「どれほど美しい女性だったのか」とその姿を想像する方も多いでしょう。

 

しかし、美しさの基準は時代によっても異なるもの。

平安時代、「容姿」という点でいうと
・切れ長で細い目
・きめの細かい白い肌
・小柄でややふくよか
・艶やかで長い髪
・小さな口と鉤鼻
といった特徴が、美人の基準とされていたようです。

また、内面的なところでは、何よりも教養が重要視されていました。
平安の女性における教養とは、主に
和歌(内容+字の美しさ)、管弦(楽器の演奏)でした。


「花の色は…」は、現代人の私たちからみても、技術の高さを感じる歌。
小野小町の祖父(あるいは父)とされる小野篁ですが、実は彼も「花の色は」で始まる歌を詠んでいます。
(ちなみに、小野篁は11首目の作者である「参議篁」です)

花の色は 雪にまじりて 見えずとも かおだににほへ 人のしるべく

((梅の)花の色が雪に紛れて見えないとしても、香りだけでも漂わせて欲しいものだ。見る人が咲く場所を気付くほどには。)

 

古今和歌集第6巻に収録された歌です。

小野小町がこの歌に思いを馳せていたとしたら・・・?
単に自身の美しさ、若さの衰えを嘆いただけでなく、
一族の衰えを嘆く気持ちを重ねたのかもしれない・・・
そのような想像を掻き立てられる繋がりです。

 

平安貴族の恋愛には和歌が欠かせませんでした。
六歌仙の紅一点であったこと、著名な男性歌人たちとも多く歌を交わしていたことなど、和歌の技術の高さを感じられるポイントを鑑みれば、小野小町がモテる女性であったことも納得というわけです。

 


 

そんな小野小町ですが、多くの能、歌舞伎等の題材にもされており
そうした作品を総称して「小町物」といいます。

内容は大きく2パターンあり、
・和歌の名手として讃えたり、深草少将の百夜通いを題材にしたもの
・年老いて乞食となった小野小町を題材にしたもの
に分かれているようです。

実際の晩年はというと、秋田県湯沢市小野で過ごしたという説、京都市山科区小野で過ごしたという説があります。その他、小野小町のものとされる墓も全国に点在しており、その史跡は数多く存在しているようです。

  

このように、ほとんどの情報がベールに包まれている小野小町。
それにもかかわらず、千年以上の時を超えて歌が親しまれたり、その人生が作品として人々に語り継がれているなんて、本人が知ったらさぞ驚くことでしょう。

もし彼女が現代に生きていたら、昨今のSDGs、ジェンダー論争、ポリコレ等々、一体どのように読み解いていたでしょうか。

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 47首目

「ウィズコロナ」が浸透して、久しくなりました。
この数年で、私たち個人の生活や価値観は、一変してしまったように思います。

しかし、このような変化は、歴史上において幾度と繰り返されてきたとも言えます。

私たちは、想定外の出来事により大きなダメージを受けたとしても、その度に「よりよく生きる」ための道を模索することを繰り返してきたのではないでしょうか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「八重葎(むぐら) しげれる宿の  さびしきに

人こそ見えね  秋は来にけり」  

恵慶法師


「やへむぐら しげれるやどの さびしきに

ひとこそみえね あきはきにけり」

えぎょうほうし

 

小倉百人一首 100首のうち47首目。
平安時代中期の僧で歌人。恵慶法師の歌となります。

 

歌の意味

 

このような、幾重にも雑草の生い茂った宿は荒れて寂しく、人は誰も訪ねてはこないが、ここにも秋だけは訪れるようだ。

 

八重葎
葎(むぐら)=ツル状の雑草の総称。
八重=何重にも

※八重葎は、家が荒れ果てた姿を表すときに象徴的に使われる言葉。

しげれる宿の
宿(やど)=家
「八重葎が茂っている宿」とは、雑草(つる草)が何重にも重なって生い茂っているような、草が深く荒れ果てた家のこと。

人こそ見えね
人=訪ねてくる客
「ね」=打消しの助動詞「ず」の活用形。「こそ~ね」の用法で、逆接の意味を持つ。
「人こそ見えね」=訪ねてくる客は見当たらないけれどの意味。

秋は来にけり
けり=今初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞

 

作者について

 

恵慶法師(えぎょうほうし・生没年不明、10世紀頃)

平安時代中期の日本の僧、歌人で、中古三十六歌仙(※)の一人に数えられています。
出自・経歴は不明ですが、寛和年間 (985~987) を中心に活躍しました。

962年(応和2年)ごろより歌合などで活動し、986年花山院の熊野行幸に供奉したとの記録があり、大中臣能宣(おおなかとみの よしのぶ)・紀時文(きの ときぶみ)・清原元輔(きよはらの もとすけ)など中級の公家歌人と交流していました。

また、播磨の国分寺で経典の講義をする講師をつとめたと伝わっており、国分寺へ下向する際に天台座主尋禅から歌を送られたとのこと。

歌人としては『拾遺和歌集』に初出、家集『恵慶法師集』があります。

※中古三十六歌仙(ちゅうこさんじゅうろっかせん)
平安時代末期に藤原範兼(ふじわらののりかね)が『後六々撰(のちのろくろくせん)』に選び載せた和歌の名人36人の総称。三十六歌仙が選ばれた後に称されたもので、三十六歌仙に属されなかったが秀でた歌人とそれ以後の時代の歌人が選ばれています。

 

本日の歌

八重葎(むぐら) しげれる宿の  さびしきに
              人こそ見えね  秋は来にけり

 

この歌の詞書(ことばがき・和歌や俳句のまえがきとして、その作品の動機・主題・成立事情などを記したもの)には

「河原院にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を、人々詠み侍りけるに」
とあり、河原院を舞台に詠まれた歌であることが分かります。

 

河原院とは、京都六条にあった源融(みなもとのとおる)の邸宅。現在の鴨川ほとりの五条大橋の近辺にありました。
南は六条大路、北は六条坊門小路、東は東京極大路、西は萬里小路に囲まれた4町(一説には8町とも。※1町は一辺が約100mの正方形と同じ広さ。面積にして約100m×約100m=約10,000㎡)の広大な敷地で、陸奥国・塩竈の風景を模して庭園を作り、尼崎から毎月30石(※1石は約180.39リットル)の海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだといいます。

しかし、恵慶法師の時代には、河原院は荒廃しており、融の曾孫にあたる安法法師(あんぽうほうし)が住んでいました。廃園の風情を楽しむ歌人が集っては、歌を詠んでいたようです。

河原院には融の幽霊が出るということでも有名で、『今昔物語集』などに、以下をはじめいくつかの逸話が載っています。

東国から上京した夫婦が、荒廃した河原院で一夜を明かそうとしました。 夫が馬を繋いでいる間に、妻は建物の中から差し出された手に捕えられ、夫が戸を開けようとしても堅く閉ざされて開きません。 戸を壊して中に入ってみると、そこには血を吸いつくされた妻の死体が吊るされていました。。
『今昔物語集』27-17

 

宇多上皇が御息所と河原院で月を眺めていると、何物かが御息所を建物の中へ引き入れようとしました。上皇が「何物か」と問うと「融」と答えがあり、御息所は放されましたが、すでに御息所は息絶えていました。。
『紫明抄』

 

恵慶法師は、河原院について、他にも以下のような歌を詠んでいます。

「草しげみ 庭こそ荒れて 年経ぬれ  忘れぬものは秋の白露」

(草が茂って、庭も荒れ果ててしまった。忘れずに昔のままでいてくれるのは、秋の白露だけであるよ)

 

「すだきけむ 昔の人も なき宿に ただ影するは 秋の夜の月」

(昔は人がここに集まって賑やかであっただろうに、今は人影も絶えてしまった。この家に姿を見せるのは、ただ秋の夜の月だけであるよ。)
※すだく=群がり集まる  

 

かつては、多くの貴族が集まっては、美しい庭園を愛で、陸奥の塩焼きを楽しみ、和歌を詠んでいた程、華やかで美しかった時代もあった河原院。

次々に持ち主が変わり、数度の火災に見舞われるなどして、かつての持ち主の幽霊が出る、と噂されるまでにでに荒廃してしまうとは、浮世の無常を感じます。

 


 

さて・・・

平安時代は、貴族といえども激しい権力争いの末、敗れて落ちぶれることもあれば、殺されることもあり、また当時流行していた天然痘等の病により命を落とすなど、突如不幸に見舞われることが多かった時代。

河原院は、持ち主が変わるたび、主の栄枯盛衰をどのように見てきたのでしょうか。
また、こうして没落してしまった人々は、その後、どのように生活していったのでしょうか。。

当時は、人々の生活がどのように保障がされていたか、詳細は不明ですが、

現代においては、憲法で
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、
すなわち「生存権」が保障されています。

憲法25条
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

この「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とは何かについて、裁判で争われた事例があります(最大判昭和42年5月24日(朝日訴訟))。

国立岡山療養所に単身の肺結核患者として入所していた朝日氏(朝日茂氏:1913年7月18日~1964年2月14日)は、厚生大臣の設定した生活扶助基準で定められた最高金額である、月額600円の日用品費の生活扶助と、現物による全部給付の給食付医療扶助とを受けていました。

ところが、受給途中で、長年音信不通であった実兄の存在が明らかになったため、社会福祉事務所は、実兄に対して朝日氏への支援を命じ、朝日氏は実兄から扶養料として毎月1500円の送金を受けるようになりました。

そのため、社会福祉事務所長は、朝日氏への月額600円の生活扶助を打ち切り、実兄からの送金額1500円から日用品費600円を控除した残額900円を、医療費の一部として朝日氏に自己負担させる旨の保護変更決定をおこないました。

朝日氏は、これに対し県知事に不服申立をおこなったところ、却下され、さらには厚生大臣にも不服申立をおこなったところ、これも却下されたため、「月額600円」という支給基準金額では、憲法25条1項の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)が保障されないとして、憲法違反であると主張し、厚生大臣に対し訴えを提起しました。

 

第一審(東京地方裁判所)は、日用品費月額を600円に抑えているのは違法であるとし、裁決を取り消しましたが(朝日氏の全面勝訴)(東京地判昭和35年10月19日)、
第二審(東京高等裁判所)は、日用品費月600円はすこぶる低いが、不足額は70円に過ぎず憲法25条違反の域には達しないとして、原告の請求を棄却したため(東京高判昭和38年11月4日)、最終的な判断は最高裁へ持ち込まれることとなりました。

ところが、上告審の途中で、朝日氏が亡くなってしまいました。
そのため、養子夫妻が訴訟を承継して争う流れとなりましたが、

最高裁は
「生活保護法の規定に基づき要保護者または被保護者が国から生活保護を受けるのは、単なる国の恩恵ないし社会政策の実施に伴う反射的利益ではなく、法的権利であつて、保護受給権とも称すべきものと解すべきである。しかし、この権利は、被保護者自身の最低限度の生活を維持するために当該個人に与えられた一身専属の権利であつて、他にこれを譲渡し得ないし、相続の対象ともなり得ない」として、

相続人である養子夫妻には、「これを承継し得る余地はないもの」として、「本件訴訟は、上告人(朝日氏)の死亡と同時に終了」するとの判断を下しました。

しかし、最高裁は裁判を「終了」とはしたものの
「なお、念のために」「本件生活扶助基準の適否に関する当裁判所の意見」として、

・憲法25条1項は、
「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではな」く
・「具体的権利としては、憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によつて、はじめて与えられているというべきである。」

との、意見を付加しました。

生活保護法
(無差別平等)
2条 すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を、無差別平等に受けることができる。

(基準及び程度の原則)
8条
1 保護は、厚生労働大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基とし、そのうち、その者の金銭又は物品で満たすことのできない不足分を補う程度において行うものとする。
2 前項の基準は、要保護者の年齢別、性別、世帯構成別、所在地域別その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない。

 

さらに、

「厚生大臣の定める保護基準は、法8条2項所定の事項を遵守したものであることを要し、結局には憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるもの」でなければならないところ、

「健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるもの」であるから、

「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されて」おり、

「現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によつて与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない。」

と判断しました。

裁判は、途中で終了したにもかかわらず、傍論で生存権の性格について詳細に意見を述べた最高裁のこの判決は「念のため判決」と呼ばれています。

この裁判は、人間らしく生きるとは、個人に与えられた権利とは、という点で社会に波紋を投じることとなり、以後、生活保護基準の金額改善がおこなわれ、社会保障制度が大きく発展する嚆矢となりました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

時を経て、河原院はその後、どうなったのでしょうか?

本日の歌

八重葎 しげれる宿の さびしきに
             人こそ見えね 秋は来にけり

 

恵慶法師が歌を詠んだ頃の荒廃した時代以降、次々に主が変わりゆく中、江戸時代には河原院の跡地の一部に渉成園が作られ、寛永18年(1641年)徳川家光から東本願寺に寄進されることとなりました。

さらに承応2年(1653年)、石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭される等の経緯を経て、昭和11年(1936年)12月、国の名勝に指定されることとなり、現在は美しく復活を遂げたようです。

渉成園は、年間を通じて一般に公開されており、東本願寺でおこなわれる諸行事等の際には、種々の催しの会場として用いられているとのこと。

また、下京区木屋町通五条下ルには「河原院址」の石碑があるようです。

一帯は河原院の庭の中の島「籬の島」が鴨川の氾濫によって埋没したものと伝えられた「籬の森」の跡で、石碑の隣にある老木の榎は森にあった木の最後の1本だといわれています。
石碑の位置は河原院の推定地より少しだけ外れているとのこと。


京都を訪れた際には、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 62首目

「勘違い」や「間違い」とは、誰にでも起こりうることかもしれません。

気づいた時点で、すぐに軌道修正できれば良いのですが、「勘違い」や「間違い」が修正されないまま進んでゆくと、事態はより複雑になってしまうことも。

自分の間違いであると、他人の間違いであるとに関わらず、途中(あるいは最初から)、それが実は「間違い」であることに気づいたとして、例えばその「間違い」が自分の利益になる場合、

最後まで、それが間違っていることに気づかない振りをして、結果他人を騙し、他人に損害を与えてしまうという事態になったとしたら。。

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも

よに逢坂の 関はゆるさじ」  

清少納言


「よをこめて とりのそらねは はかるとも

よにおうさかの せきはゆるさじ」

せいしょうなごん

 

 

小倉百人一首 100首のうち62首目。
平安時代中期の作家で歌人・清少納言の歌となります。


歌の意味

 

夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き声を真似て、夜が明けたとだまそうとしても、(あの中国の函谷関ならいざ知らず、あなたとわたしの間にある) この逢坂(おおさか)の関(せき)は、決して開くことはありません。

 

夜をこめて
夜が深い(明けない)うちに、の意。

鳥のそらね
鶏の鳴き真似、の意。
鳥は鶏(にわとり)、そらね(空音)は鳴き真似のこと。

はかるとも
謀る(はかる)=だます
とも=逆接の接続助詞「~としても」
「鶏の鳴き真似をしてだます」とは、函谷関(かんこくかん)の故事にまつわるエピソードを指す。

※中国の史記(中国前漢の武帝の時代に司馬遷(しば せん:紀元前145/135年頃~紀元前87/86年頃)によって編纂された歴史書)にある斉の孟嘗君(もうしょうくん)の話。
秦国に入って捕まった孟嘗君が逃亡する際、一番鶏が鳴くまで開かないことになっている函谷関の関所を、部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせ、無事通過できた、という故事。

よに逢坂の関はゆるさじ
よに=決して、絶対に
逢坂の関=逢坂の関と、逢瀬(おうせ・男女が密かに逢うこと)の掛詞。

※逢坂の関は、山城(現在の京都府)と近江(現在の滋賀県)の境にあった関所であり、京都への入り口とされ、古くから交通の要所だった。
逢坂の関を通ることは許さないことと、あなたが私に会いに来ることは許さない、という二つの意味を掛けている。

 

 

作者について

 

清少納言(せいしょうなごん・966頃-1025頃)

平安時代中期の女流作家・歌人で、「梨壺の五人」の一人である清原元輔(908-990年)を父に持ちます。

梨壺の五人とは、天暦5年(951年)村上天皇の勅により、平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎(その庭に梨の木が植えられていたことから「梨壺」と呼ばれていました)に和歌所を設け、『万葉集』の解読、『後撰和歌集』の編纂などをおこなった五歌仙(坂上望城(さかのうえのもちき)・紀時文(きのときぶみ)・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・清原元輔(きよはらのもとすけ)・源順(みなもとのしたごう)を指しました。

彼女自身も、中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、『清少納言集』に42首、『後拾遺和歌集』以降の勅撰和歌集に15首入集、また漢学にも通じるなどの才女であったとのことです。平安文学の代表作である、随筆『枕草子』の作者としても有名です。
『枕草子』(まくらのそうし)は、鴨長明の『方丈記』(鎌倉時代)、兼好の『徒然草』(鎌倉時代)と並んで日本三大随筆と称され、執筆時期は正確には判明していないものの、長保3年(1001年)にはほぼ完成したとされています。

なお、「清少納言」の名で知られているところ、これは女房名(貴人に出仕する女房が仕える主人や同輩への便宜のために名乗った通称)であり、「清」は「清原」の姓に由来するとされていることから、「せい・しょうなごん」と区切ることとなります。

また、本名は「清原諾子(きよはらのなぎこ)」とする説もあるところ、実証する一級史料は現存しないことから、「不明」とされているとのことです。

清少納言は、15歳の頃、陸奥守(むつのかみ)・橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し一児をもうけたものの、やがて離婚。その後、一条天皇の皇后・中宮定子に仕えました。博学で才気煥発であったため、中宮定子の恩寵を受けたばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬を交わすなどし、宮廷社会に名を残しました。

長保2年(1000年)、中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞め、枕草子を執筆しましたが、その後の清少納言の人生についての詳細は、残念ながら不明となっているとのことです。。

 


 

本日の歌

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
              よに逢坂の 関はゆるさじ

 

この歌の詠まれた背景には、こんなエピソードがあったと言われています。

 

ある夜、藤原行成(ふじわらのゆきなり)が清少納言のもとにやってきて、

「明日の帝の御物忌み(ものいみ:ある期間中、ある種の日常的な行為を控え、穢れを避けること)に籠もらなければ」と話して慌てて帰りますが、翌朝、行成から清少納言のもとに、「鶏の声に急かされてしまいました」などと、言い訳めいた文が届き、これを読んだ清少納言は「それは函谷関の故事にある、鶏の鳴き真似でしょう」(それは、言い訳でしょう)と返事をしました、すると

「関は関でも、中国にある函谷関のことではなく、私たちの間にある逢坂の関のことですよ」と返してきました。

そこで清少納言が返したのが、本日の歌。

「(函谷関の関守のように)鶏の鳴き真似でごまかそうとしても、逢坂の関守は、だまされて関を開くことは決してありません(あなたには絶対逢ってあげません)」
という意味です。

当意即妙に返したこの歌には、中国史のエピソードを始め様々な教養が盛り込まれており、清少納言の知性が光る一首となっています。

なお、清少納言と藤原行成は冗談を言い合うような、気の置けない友人関係だったそうです。

 

 

 

誤振込と詐欺罪

 

さて・・・

さて、中国の函谷関では、孟嘗君の部下が鶏の鳴き真似をして関守をだまし、関所を開かせたことで事なきを得ましたが、他人をだまして金品などを奪ったり、損害を与えたりする行為は、「詐欺罪」に当たります。

このことに関し、自分の銀行預金口座に誤った振込(誤振込)があったことを知った受取人が、それが誤振込である事実を隠して、銀行の窓口担当者に預金の払戻しを請求し、その払戻しを受けた場合、刑法246条にいう「詐欺罪」に当たるかどうか裁判で争われた事例があります(最判平成15年3月12日)。

(詐欺)
刑法第246条
1 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。
2 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

 

ある税理士が、(誤振込を受けた受取人を含む)顧問先からの税理士顧問料等を、集金事務代行業者に委託して徴収していました。

徴収方法は、集金事務代行業者が、税理士の顧問先の各預金口座から、自動引落しの方法により顧問料等を集金し、これを一括して、税理士が指定した銀行預金口座に振込送金するかたちでおこなっていました。

しかし、税理士の妻が、指定振込送金先を、誤振込を受けた受取人の普通預金口座に変更する旨、誤って届出てしまったため、集金事務代行業者は、この届けに基づいて、本来であれば税理士が受取るべき顧問料等を、誤振込を受けた受取人の銀行口座に振り込んでしまいました。

この受取人が、通帳の記帳をしたところ、入金される予定にない(身に覚えのない)、集金事務代行業者からの誤った振込みがあったことを知りましたが、これを自分の借金の返済に充てようと考え、自分の銀行預金口座に誤って振込があった旨を銀行の窓口担当者に告げることなく、現金の交付を受けました。

 

なお、銀行実務においては、振込先の口座を誤って振込依頼をした振込依頼人からの申出があれば、受取人の預金口座への入金処理が完了している場合であっても、受取人の承諾を得て振込依頼前の状態に戻す「組戻し」という手続が執られており、また、受取人から誤った振込みがある旨の指摘があった場合にも、自行の入金処理に誤りがなかったかどうかを確認する一方、振込依頼先の銀行及び同銀行を通じて、振込依頼人に対し、当該振込みの過誤の有無に関する照会をおこなうなどの措置が講じられています。

このような事情もあることから、裁判所は、受取人の義務につき

「銀行との間で普通預金取引契約に基づき継続的な預金取引を行っている者として、自己の口座に誤った振込みがあることを知った場合には、」

銀行に組戻し等の措置を講じさせるため、
「誤った振込みがあった旨を銀行に告知すべき信義則上の義務」があり、

また、
「社会生活上の条理からしても、誤った振込みについては、受取人において、これを振込依頼人等に返還しなければならず、誤った振込金額相当分を最終的にじこのものとすべき実質的な権利はないのであるから、上記の告知義務があることは当然」
だとしました。

その上で、
「誤った振込みがあることを知った受取人が、その情を秘して預金の払戻しを請求することは、詐偽罪の欺罔行為に当たり、また、誤った振込みの有無に関する錯誤は同罪の錯誤に当たるというべきであるから、錯誤に陥った銀行窓口係員から受取人が預金の払戻しを受けた場合には、詐欺罪が成立する。」
とし、受取人は、誤振込である旨、告知すべき義務があるところ、告知をおこなわないことは欺罔行為に当たるとし、詐欺罪が成立すると判示しました。

(詐欺)
刑法第246条
1 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。
2 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

詐欺罪の構成要件とは、

①欺罔行為又は詐欺行為
一般社会通念上、相手方を錯誤に陥らせて財物ないし財産上の利益の処分させるような行為をすること

②錯誤
相手方が錯誤に陥ること

③処分行為
錯誤に陥った相手方が、その意思に基づいて財物ないし財産上の利益の処分をすること

④占有移転、利益の移転
財物の占有又は財産上の利益が行為者ないし第三者に移転すること

 

であり、これら全ての間に因果関係が認められ、また、行為者に行為時においてその故意及び不法領得の意思があったと認められることが必要です。

なお、①の欺罔行為については、積極的欺罔(虚偽の事実を表示する事による欺罔)のみならず、消極的欺罔(真実を告げない事による欺罔)であっても、欺罔行為とみなされます。

今回の事例で言えば、

①受取人が、銀行窓口担当に誤振込があったと言わなかった(欺罔行為・消極的欺罔)ことで

②銀行窓口担当が、受取人の正当な振込金であると判断(錯誤)

③銀行窓口担当が、受取人に誤振込金を交付(処分行為)

④受取人が、誤振込金を受領した(利益の移転)

という因果関係となり、且つ受取人の故意が認められることから、詐欺罪の構成要件を満たすこととなります。

 

記憶に新しいところでは、山口県阿武町が、新型コロナウイルス対策の臨時特別給付金463世帯分(4630万円)を、誤って一人の男性に給付(誤振込)してしまい、この男性が誤振込金である4630万円全額をオンラインカジノで使用しまった、という事件がありました。

この場合は、男性は銀行窓口で誤振込金の交付を受けたのではなく、ネットバンキングを利用し、オンラインカジノの決済代行業者に振込んだとして、電子計算機使用詐欺罪(刑法第246条の2)に問われることとなりました。

(電子計算機使用詐欺)
刑法第246条の2 
前条に規定するもののほか、人の事務処理に使用する電子計算機に虚偽の情報若しくは不正な指令を与えて財産権の得喪若しくは変更に係る不実の電磁的記録を作り、又は財産権の得喪若しくは変更に係る虚偽の電磁的記録を人の事務処理の用に供して、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者は、10年以下の懲役に処する。


 

さて、本日の歌

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
              よに逢坂の 関はゆるさじ

 

今では知らない人がいない程、歴史に名を残した才女である清少納言。

からかってきた藤原行成に

「よに逢坂の 関はゆるさじ(逢坂の関守は、だまされて関を開くことは決してありません=あなたには絶対逢ってあげません)」

とは言ったものの、その実、仲が良かったとの噂の行成と清少納言のことですから、この歌が生まれる二人のやり取りはさておき、本当のところは、清少納言が敢えて「だまされて」逢ってあげた、というストーリーも、あり得なくはない、、のではないでしょうか。

それにしてもだまされてしまった側の函谷関の関守。。

一体どんな結末になったのか、気になります。。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 20首目

人生とは、会者定離。

出会いがあったならば、別れる時は必ずやって来ます。
しかし「その時」が、「いつ」なのかは、当人たちでさえ予測もつきません。

別れの原因とはさまざまありますが、いずれも相手があってのこと。

別れるべきか?別れぬべきか?
自分の気持ちはどうあれ、自分勝手に結論を出すわけには行かないようです。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「わびぬれば 今はた同じ 難波なる

みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」  

元良親王


「わびぬれば いまはたおなじ なにはなる

みをつくしても あはむとぞおもふ」

もとよししんのう

 

小倉百人一首 100首のうち20首目。
平安時代前期から中期にかけての皇族・歌人である、元良親王の歌となります。

 

歌の意味

 

(あなたにお逢いできなくて) このように思いわびて(思い悩んで)暮らしていると、今はもう身を捨てたのと同じことです。 いっそのこと、あの難波の、澪標(みおつくし)のように、この身を捨てても、お会いしたいと思っています。

 

わびぬれば(侘びぬれば):
思い悩んでいると

難波(なにわ):
難波潟(なにわがた・大阪湾の入り江のあたりの遠浅の海)

みをつくし(みおつくし):
「身を尽くし(身を捧げる)」と、「澪標(みおつくし)」の掛詞

※澪標=船の航行の目印にたてられた杭のことで、難波潟を印象づけるものとなっています。

 

 

作者について

 

元良親王
(もとよししんのう・寛平2年(890年)- 天慶6年(943年))

平安時代前期から中期にかけての皇族・歌人で、官位は三品・兵部卿です。

*三品/日本の律令制において定められていた親王・内親王の位階「品位(ほんい)」のひとつで、一品(いっぽん)から四品(しほん)まで存在する。
*兵部省(ひょうぶしょう、つわもののつかさ)/かつて日本にあった軍政(国防)を司る行政機関。兵部卿は、兵部省の長官。親王等の皇族がこの官職に就任することも多いとのこと。

陽成天皇の第一皇子として生まれた元良親王。
父の陽成天皇は日本の第57代天皇でありましたが、僅か9歳で父・清和天皇から譲位され、17歳(満15歳)で退位しました。

幼少であった陽成天皇には、奇矯な振る舞いが見られたともいわれています。
それが原因かどうか定かではありませんが、次期天皇には長老格の皇族へと継承されることになり、数々の議論が交わされたのち、最終的には、第一皇子の元良親王ではなく、藤原基経の推薦により、仁明天皇の皇子(陽成天皇の祖父・文徳天皇の異母弟)である大叔父・時康親王(光孝天皇)が884年、55歳で即位することになりました。

このような経緯で、元良親王は、本来ならば帝位につく立場ではありましたが、惜しくも天皇になることは叶いませんでした。

また、元良親王は、風流で好色な皇子として名高く、それについては『大和物語』や『今昔物語集』に逸話も残っているようですが、特に有名なエピソードとして、時の権力者である宇多法皇の御息所(妃)である、京極御息所(きょうごくのみやすんどころ)=藤原時平の娘・藤原褒子(ほうし)との恋愛が知られています。

なお、この藤原褒子、『俊頼髄脳』によると、当初、醍醐天皇に入内する予定だったところ、その父である宇多法皇に見初められて、そのまま宇多法皇に仕えることとなったらしい、とのことですので、とても美しい女性だったのだと思われます。

 

元良親王について、『今昔物語集』には、以下のように記されています。

「今は昔、陽成院の御子に、元良親王と申す人御座しけり。極じき好色にて有りければ、世に有る女の美麗なりと聞こゆるには、会ひたるにも未だ会はぬにも、常に文を遣るを以て業としける。」

(意味)
今は昔、陽成天皇の御子に元良親王と申す人がいらっしゃった。大変な色好みであったので、世間で美人と噂がある女性には、会ったことがある女性にも、まだ会ったことのない女性にも、常に恋文を送ることを仕事のようにしていた。

 

世間で美人との噂があれば、会ったことがあってもなくても、恋文を送ることを仕事のようにしていた、とは驚きますね。。

 

また、『徒然草』にも

元良親王が、よく通る美しい声をしており、元日の奏賀(元日の朝賀の儀で、諸臣の代表者が賀詞を天皇に奏上すること)の声は非常にすばらしく、大極殿から鳥羽の作道までその声が響き渡ったと聞こえた

 

と紹介されており、
元良親王は、恋多き事のみならず、美声もまた有名であったようです。

加えて、『後撰和歌集』には7首、以降の勅撰和歌集も含めると和歌作品20首が入集し、『元良親王集』という歌集も後世になって作られるほど、歌の上手さもまた、有名でありました。

 


 

本日の歌

わびぬれば 今はた同じ 難波なる
              みをつくしても  逢はむとぞ思ふ

 

この歌について、後撰和歌集の詞書(ことばがき:和歌の前書き)には、

「事出できてのちに京極御息所につかはしける」
(元良親王と京極御息所の関係が世間に知られてから後に、元良親王が使者に持たせて京極御息所に贈った歌)

とあり、先ほどの、京極御息所(=宇多天皇の妃・藤原褒子)との道ならぬ恋が露見してしまった後に、元良親王から京極御息所に送られた歌であるとされています。

そして、二人の恋が世間に広まってしまった後
京極御息所については、宇多法皇の寵妃として権勢を振るい、宇多法皇亡き後、晩年は仁和寺で出家した、とされています。

 

ということは…

結局、この歌が元良親王から京極御息所に捧げられた後、元良親王との恋は悲しくも終わりを迎えてしまったということになりますね。。

 

 

 

 

有責配偶者からの離婚請求

 

さて…

結婚とは、始まりであり、スタートラインに立つことである、とも言われておりますが、結婚後の二人の行く先には、どのような未来が待ち受けているのでしょうか。

結婚が生涯一度で終わる人、あるいは複数回となる人など、「結婚」には多種多様なかたちがあります。例えば宇多法皇と京極御息所のように、途中世間に知られるほどのスキャンダルが起きてしまった場合であっても、最後まで離婚しない、というケースもあります。

結婚が、双方の合意により成立するように、離婚についてもまた、双方の合意で成立すれば問題ないのですが、話合いを経ても合意に至らなかった場合、最終的には裁判をすることになります。 

離婚の原因が、例えば一方の配偶者が不貞行為をしたことによるものであった場合、不貞行為をされた側が、離婚を請求するというのであれば理解できますが、逆に、不貞行為をした側(非のある側)から、された側(非のない側)の配偶者に対し、離婚請求をすることはできるのでしょうか。

 


 

夫婦間において、不貞行為をした配偶者のように、離婚原因を作った側の配偶者のことを「有責配偶者」といいますが、有責配偶者の側から離婚請求を出来るかどうかについて、裁判で争われた事例があります。

有責配偶者である夫が、不倫をした末に、妻と居住していた家を出て、不倫相手と住むようになり、その後、不倫相手と結婚したいがために、夫から妻に対し離婚請求をしたという事例です(最大判昭和62年9月2日)。

昭和12年2月、夫と妻は婚姻届を提出して、夫婦となりましたが、二人には子どもがいなかったため、昭和23年12月、養子を迎えることになりました。
それまで夫婦は平穏な結婚生活を送っていたものの、夫が養子の母親と不貞関係にあることが発覚した昭和24年頃、二人の関係は悪化し、同年8月、夫は家を出て不倫相手と住むようになり、以来、夫婦は別居状態となっていました。
その後、夫は不倫相手との間に2人の子をもうけ、昭和29年認知をしました。

夫は二つの会社の社長であり安定した生活、一方妻は人形店に勤務して生計を立てていましたが、無職となり、生活に困窮するようになりました。

夫は、不倫相手との結婚を希望していたため、昭和26年、東京地裁に対し、離婚の訴えを起こしましたが、婚姻関係の破綻は夫に原因がある(有責配偶者である)として棄却され、さらに昭和59年東京家裁に対し、離婚の調停を申し立てましたが、これも成立しなかったとして、本件に至りました。
この時、夫は74歳、妻は70歳となっており、別居後、既に36年が経過していました。

 

民法では、以下の場合、離婚の訴えを提起することができると定められています。

 

(裁判上の離婚)
第770条 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
1 配偶者に不貞な行為があったとき。
2 配偶者から悪意で遺棄されたとき。
3 配偶者の生死が3年以上明らかでないとき。
4 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。
5 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。

 

このうち「5 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。」が問題となりましたが、本件につき、裁判所は有責配偶者である夫からの離婚を、事情を総合的に判断した上で、「認める」としたのです。

なお、有責配偶者からの離婚請求が認められる場合の要件として、裁判所は以下のとおり判示しました。

「そこで、五号所定の事由による離婚請求がその事由につき専ら責任のある一方の当事者(以下「有責配偶者」という。)からされた場合において、当該請求が信義誠実の原則に照らして許されるものであるかどうかを判断するに当たつては、有責配偶者の責任の態様・程度を考慮すべきであるが、相手方配偶者の婚姻継続についての意思及び請求者に対する感情、離婚を認めた場合における相手方配偶者の精神的・社会的・経済的状態及び夫婦間の子、殊に未成熟の子の監護・教育・福祉の状況、別居後に形成された生活関係、たとえば夫婦の一方又は双方が既に内縁関係を形成している場合にはその相手方や子らの状況等が斟酌されなければならず、更には、時の経過とともに、これらの諸事情がそれ自体あるいは相互に影響し合つて変容し、また、これらの諸事情のもつ社会的意味ないしは社会的評価も変化することを免れないから、時の経過がこれらの諸事情に与える影響も考慮されなければならないのである。
 そうであつてみれば、有責配偶者からされた離婚請求であつても、夫婦の別居が両当事者の年齢及び同居期間との対比において相当の長期間に及び、その間に未成熟の子が存在しない場合には、相手方配偶者が離婚により精神的・社会的・経済的に極めて苛酷な状態におかれる等離婚請求を認容することが著しく社会正義に反するといえるような特段の事情の認められない限り、当該請求は、有責配偶者からの請求であるとの一事をもつて許されないとすることはできないものと解するのが相当である。」

 

本判決以前は、以下の判例に代表されるように、夫が不倫関係にあったことが原因で妻との婚姻関係継続が困難になった場合、有責配偶者である夫からの離婚請求は認められていませんでした(最判昭和27年2月19日)。

「論旨では本件は新民法770条1項5号にいう婚姻関係を継続し難い重大な事由ある場合に該当するというけれども、原審の認定した事実によれば、婚姻関係を継続し難いのは上告人(夫)が妻たる被上告人を差し置いて他に情婦を有するからである。上告人(夫)さえ情婦との関係を解消し、よき夫として被上告人(妻)のもとに帰り来るならば、 何時でも夫婦関係は円満に継続し得べき筈である」


「結局上告人(夫)が勝手に情婦を持ち、その為め最早被上告人(妻)とは同棲出来ないから、これを追い出すということに帰着するのであつて、もしかかる請求が是認されるならば、被上告人(妻)は全く俗にいう踏んだり蹴たりである。法はかくの如き不徳義勝手気儘を許すものではない。道徳を守り、不徳義を許さないことが法の最重要な職分である。総て法はこの趣旨において解釈されなければならない。」

 

しかし、本判決以降、

「有責配偶者の責任の態様・程度を考慮」し、

「相手方配偶者の婚姻継続についての意思及び請求者に対する感情」

「離婚を認めた場合における相手方配偶者の精神的・社会的・経済的状態及び夫婦間の子、殊に未成熟の子の監護・教育・福祉の状況、別居後に形成された生活関係、たとえば夫婦の一方又は双方が既に内縁関係を形成している場合にはその相手方や子らの状況等」

を斟酌したうえで、

「夫婦の別居が両当事者の年齢及び同居期間との対比において相当の長期間に及び」

「その間に未成熟の子が存在しない場合」

「相手方配偶者が離婚により精神的・社会的・経済的に極めて苛酷な状態におかれる等離婚請求を認容することが著しく社会正義に反するといえるような特段の事情の認められない限り」

有責配偶者からの離婚の請求を
「有責配偶者からの請求であるとの一事をもつて許されないとすることはできない」

とし、事情を総合的に判断した結果、有責配偶者からの離婚を認容する可能性もある、との判断がされました。

この判決により、有責配偶者からなされた離婚請求について、従来の判例を変更し、新しい判断がなされたとされています。

 


 

本日の歌

わびぬれば 今はた同じ 難波なる
              みをつくしても  逢はむとぞ思ふ

 

京極御息所との恋が終わった後、元良親王の次なる恋の行方について、詳細は不明ですが、何といっても「極じき好色にて有りければ、世に有る女の美麗なりと聞こゆるには、会ひたるにも未だ会はぬにも、常に文を遣る」御方とのことですから、

おそらく、「相当の長期間」思い悩んだりすることもなく、次なる恋へ進まれたのではないかと、勝手ながら想像しておりますが、いかがでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー