法律で読み解く百人一首 47首目

「ウィズコロナ」が浸透して、久しくなりました。
この数年で、私たち個人の生活や価値観は、一変してしまったように思います。

しかし、このような変化は、歴史上において幾度と繰り返されてきたとも言えます。

私たちは、想定外の出来事により大きなダメージを受けたとしても、その度に「よりよく生きる」ための道を模索することを繰り返してきたのではないでしょうか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「八重葎(むぐら) しげれる宿の  さびしきに

人こそ見えね  秋は来にけり」  

恵慶法師


「やへむぐら しげれるやどの さびしきに

ひとこそみえね あきはきにけり」

えぎょうほうし

 

小倉百人一首 100首のうち47首目。
平安時代中期の僧で歌人。恵慶法師の歌となります。

 

歌の意味

 

このような、幾重にも雑草の生い茂った宿は荒れて寂しく、人は誰も訪ねてはこないが、ここにも秋だけは訪れるようだ。

 

八重葎
葎(むぐら)=ツル状の雑草の総称。
八重=何重にも

※八重葎は、家が荒れ果てた姿を表すときに象徴的に使われる言葉。

しげれる宿の
宿(やど)=家
「八重葎が茂っている宿」とは、雑草(つる草)が何重にも重なって生い茂っているような、草が深く荒れ果てた家のこと。

人こそ見えね
人=訪ねてくる客
「ね」=打消しの助動詞「ず」の活用形。「こそ~ね」の用法で、逆接の意味を持つ。
「人こそ見えね」=訪ねてくる客は見当たらないけれどの意味。

秋は来にけり
けり=今初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞

 

作者について

 

恵慶法師(えぎょうほうし・生没年不明、10世紀頃)

平安時代中期の日本の僧、歌人で、中古三十六歌仙(※)の一人に数えられています。
出自・経歴は不明ですが、寛和年間 (985~987) を中心に活躍しました。

962年(応和2年)ごろより歌合などで活動し、986年花山院の熊野行幸に供奉したとの記録があり、大中臣能宣(おおなかとみの よしのぶ)・紀時文(きの ときぶみ)・清原元輔(きよはらの もとすけ)など中級の公家歌人と交流していました。

また、播磨の国分寺で経典の講義をする講師をつとめたと伝わっており、国分寺へ下向する際に天台座主尋禅から歌を送られたとのこと。

歌人としては『拾遺和歌集』に初出、家集『恵慶法師集』があります。

※中古三十六歌仙(ちゅうこさんじゅうろっかせん)
平安時代末期に藤原範兼(ふじわらののりかね)が『後六々撰(のちのろくろくせん)』に選び載せた和歌の名人36人の総称。三十六歌仙が選ばれた後に称されたもので、三十六歌仙に属されなかったが秀でた歌人とそれ以後の時代の歌人が選ばれています。

 

本日の歌

八重葎(むぐら) しげれる宿の  さびしきに
              人こそ見えね  秋は来にけり

 

この歌の詞書(ことばがき・和歌や俳句のまえがきとして、その作品の動機・主題・成立事情などを記したもの)には

「河原院にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を、人々詠み侍りけるに」
とあり、河原院を舞台に詠まれた歌であることが分かります。

 

河原院とは、京都六条にあった源融(みなもとのとおる)の邸宅。現在の鴨川ほとりの五条大橋の近辺にありました。
南は六条大路、北は六条坊門小路、東は東京極大路、西は萬里小路に囲まれた4町(一説には8町とも。※1町は一辺が約100mの正方形と同じ広さ。面積にして約100m×約100m=約10,000㎡)の広大な敷地で、陸奥国・塩竈の風景を模して庭園を作り、尼崎から毎月30石(※1石は約180.39リットル)の海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだといいます。

しかし、恵慶法師の時代には、河原院は荒廃しており、融の曾孫にあたる安法法師(あんぽうほうし)が住んでいました。廃園の風情を楽しむ歌人が集っては、歌を詠んでいたようです。

河原院には融の幽霊が出るということでも有名で、『今昔物語集』などに、以下をはじめいくつかの逸話が載っています。

東国から上京した夫婦が、荒廃した河原院で一夜を明かそうとしました。 夫が馬を繋いでいる間に、妻は建物の中から差し出された手に捕えられ、夫が戸を開けようとしても堅く閉ざされて開きません。 戸を壊して中に入ってみると、そこには血を吸いつくされた妻の死体が吊るされていました。。
『今昔物語集』27-17

 

宇多上皇が御息所と河原院で月を眺めていると、何物かが御息所を建物の中へ引き入れようとしました。上皇が「何物か」と問うと「融」と答えがあり、御息所は放されましたが、すでに御息所は息絶えていました。。
『紫明抄』

 

恵慶法師は、河原院について、他にも以下のような歌を詠んでいます。

「草しげみ 庭こそ荒れて 年経ぬれ  忘れぬものは秋の白露」

(草が茂って、庭も荒れ果ててしまった。忘れずに昔のままでいてくれるのは、秋の白露だけであるよ)

 

「すだきけむ 昔の人も なき宿に ただ影するは 秋の夜の月」

(昔は人がここに集まって賑やかであっただろうに、今は人影も絶えてしまった。この家に姿を見せるのは、ただ秋の夜の月だけであるよ。)
※すだく=群がり集まる  

 

かつては、多くの貴族が集まっては、美しい庭園を愛で、陸奥の塩焼きを楽しみ、和歌を詠んでいた程、華やかで美しかった時代もあった河原院。

次々に持ち主が変わり、数度の火災に見舞われるなどして、かつての持ち主の幽霊が出る、と噂されるまでにでに荒廃してしまうとは、浮世の無常を感じます。

 


 

さて・・・

平安時代は、貴族といえども激しい権力争いの末、敗れて落ちぶれることもあれば、殺されることもあり、また当時流行していた天然痘等の病により命を落とすなど、突如不幸に見舞われることが多かった時代。

河原院は、持ち主が変わるたび、主の栄枯盛衰をどのように見てきたのでしょうか。
また、こうして没落してしまった人々は、その後、どのように生活していったのでしょうか。。

当時は、人々の生活がどのように保障がされていたか、詳細は不明ですが、

現代においては、憲法で
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、
すなわち「生存権」が保障されています。

憲法25条
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

この「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とは何かについて、裁判で争われた事例があります(最大判昭和42年5月24日(朝日訴訟))。

国立岡山療養所に単身の肺結核患者として入所していた朝日氏(朝日茂氏:1913年7月18日~1964年2月14日)は、厚生大臣の設定した生活扶助基準で定められた最高金額である、月額600円の日用品費の生活扶助と、現物による全部給付の給食付医療扶助とを受けていました。

ところが、受給途中で、長年音信不通であった実兄の存在が明らかになったため、社会福祉事務所は、実兄に対して朝日氏への支援を命じ、朝日氏は実兄から扶養料として毎月1500円の送金を受けるようになりました。

そのため、社会福祉事務所長は、朝日氏への月額600円の生活扶助を打ち切り、実兄からの送金額1500円から日用品費600円を控除した残額900円を、医療費の一部として朝日氏に自己負担させる旨の保護変更決定をおこないました。

朝日氏は、これに対し県知事に不服申立をおこなったところ、却下され、さらには厚生大臣にも不服申立をおこなったところ、これも却下されたため、「月額600円」という支給基準金額では、憲法25条1項の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)が保障されないとして、憲法違反であると主張し、厚生大臣に対し訴えを提起しました。

 

第一審(東京地方裁判所)は、日用品費月額を600円に抑えているのは違法であるとし、裁決を取り消しましたが(朝日氏の全面勝訴)(東京地判昭和35年10月19日)、
第二審(東京高等裁判所)は、日用品費月600円はすこぶる低いが、不足額は70円に過ぎず憲法25条違反の域には達しないとして、原告の請求を棄却したため(東京高判昭和38年11月4日)、最終的な判断は最高裁へ持ち込まれることとなりました。

ところが、上告審の途中で、朝日氏が亡くなってしまいました。
そのため、養子夫妻が訴訟を承継して争う流れとなりましたが、

最高裁は
「生活保護法の規定に基づき要保護者または被保護者が国から生活保護を受けるのは、単なる国の恩恵ないし社会政策の実施に伴う反射的利益ではなく、法的権利であつて、保護受給権とも称すべきものと解すべきである。しかし、この権利は、被保護者自身の最低限度の生活を維持するために当該個人に与えられた一身専属の権利であつて、他にこれを譲渡し得ないし、相続の対象ともなり得ない」として、

相続人である養子夫妻には、「これを承継し得る余地はないもの」として、「本件訴訟は、上告人(朝日氏)の死亡と同時に終了」するとの判断を下しました。

しかし、最高裁は裁判を「終了」とはしたものの
「なお、念のために」「本件生活扶助基準の適否に関する当裁判所の意見」として、

・憲法25条1項は、
「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではな」く
・「具体的権利としては、憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によつて、はじめて与えられているというべきである。」

との、意見を付加しました。

生活保護法
(無差別平等)
2条 すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を、無差別平等に受けることができる。

(基準及び程度の原則)
8条
1 保護は、厚生労働大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基とし、そのうち、その者の金銭又は物品で満たすことのできない不足分を補う程度において行うものとする。
2 前項の基準は、要保護者の年齢別、性別、世帯構成別、所在地域別その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない。

 

さらに、

「厚生大臣の定める保護基準は、法8条2項所定の事項を遵守したものであることを要し、結局には憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるもの」でなければならないところ、

「健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるもの」であるから、

「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されて」おり、

「現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によつて与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない。」

と判断しました。

裁判は、途中で終了したにもかかわらず、傍論で生存権の性格について詳細に意見を述べた最高裁のこの判決は「念のため判決」と呼ばれています。

この裁判は、人間らしく生きるとは、個人に与えられた権利とは、という点で社会に波紋を投じることとなり、以後、生活保護基準の金額改善がおこなわれ、社会保障制度が大きく発展する嚆矢となりました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

時を経て、河原院はその後、どうなったのでしょうか?

本日の歌

八重葎 しげれる宿の さびしきに
             人こそ見えね 秋は来にけり

 

恵慶法師が歌を詠んだ頃の荒廃した時代以降、次々に主が変わりゆく中、江戸時代には河原院の跡地の一部に渉成園が作られ、寛永18年(1641年)徳川家光から東本願寺に寄進されることとなりました。

さらに承応2年(1653年)、石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭される等の経緯を経て、昭和11年(1936年)12月、国の名勝に指定されることとなり、現在は美しく復活を遂げたようです。

渉成園は、年間を通じて一般に公開されており、東本願寺でおこなわれる諸行事等の際には、種々の催しの会場として用いられているとのこと。

また、下京区木屋町通五条下ルには「河原院址」の石碑があるようです。

一帯は河原院の庭の中の島「籬の島」が鴨川の氾濫によって埋没したものと伝えられた「籬の森」の跡で、石碑の隣にある老木の榎は森にあった木の最後の1本だといわれています。
石碑の位置は河原院の推定地より少しだけ外れているとのこと。


京都を訪れた際には、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

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時節柄、お子さまの夏休みの宿題・課題をおこなう空間としてもご利用いただけます(夏休み以外でのお子さまのご来館も歓迎しております)。また、弊所の弁護士・スタッフが、みなさまの法律に関する疑問にお答えする特設コーナーも期間限定で設けております。

HPのお問い合わせフォームよりご予約の上、お越しください。また、蔵書に関するお問い合わせも同フォームへお願いいたします。

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弊所ホームページにてお知らせをしておりましたが、
代表・平山剛は慶應義塾大学総合政策学部にて下記講義をおこなっておりました。
・企業法(会社法)(2015, 2016)
・企業法演習   (2017)

これらの90分に及ぶ授業内容を
なんと、こちらのブログでもお伝えすることとなりました。

「学生時代にこんな授業とってた」
「これまで学ぶ機会がなかったな」
「知識として学んでみたいかも」

そんな気持ちをお持ちの方にぜひ、楽しんでお付き合いいただければ幸いです。

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