法律で読み解く百人一首 60首目

あらゆるものが、デジタル化しつつある現代。

デジタル化が進むにつれ、「時間の計測」という点でも
その正確さは精度を増す一方です。

「時間」が大きくかかわる勝負の世界においては、
1秒に歓喜する者もいれば、1秒に涙する者もいる。

とはいえ現代では、その差は「1秒」どころではなく
0.01秒、0.001秒…と、さらにシビアになっているのではないでしょうか。

 

ある時点より前となるか後となるか。

 

一瞬の差が、全てを決めてしまうことがあるのです。
それは、法律においても例外ではありません。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「大江山 いく野の道の 遠ければ

まだふみも見ず 天の橋立」  

小式部内侍


「おほえやま いくののみちの とほければ

まだふみもみず あまのはしだて」

こしきぶのないし

 

小倉百人一首 100首のうち60首目。
平安時代の女流歌人・小式部内侍の歌となります。

 

 

歌の意味

 

(母のいる丹後の国へは) 大江山(おおえやま)を越え、生野(いくの)を通って行かなければならない遠い道なので、まだ天橋立へは行ったことがありません (ですから、そこに住む母からの手紙など、まだ見ることができるはずもありません)。

 

大江山
丹波国桑田郡(現在の京都府西北部)の大枝山(源頼光の鬼退治で有名な大江山(丹後(京都府北部))とは異なります。)京都市西京区と亀岡市の境に位置し、標高は480メートル。「大江山」、「大井山」とも呼ばれます。
平安京から山陰道を下る場合、山城国と丹波国の国境にある大江坂に設けられた大江関を必ず越えて、京と別れを告げることになった事から、古くから歌枕の地として知られていました。
丹後は、現在の京都府北部。713年に丹波国北部にある5群を割いて「丹後国」として設置されました。この歌が詠まれたとき、作者・小式部内侍の母である和泉式部は夫と共に丹後国へ赴いていました。 

 

いく野の道
生野(いくの)=丹波(京都府福知山市)にある地名で、丹波は、現在の京都府西北部を指し、京都(平安京)の北西の出入口にあたる地理的条件から、古くより各時代の権力者から重視されました。「生野」は「行く」の掛詞となっています。

 

まだふみも見ず
ふみ=「文」と「踏み」の掛詞。母からの手紙が来ていないことと、母のいる天の橋立へは行ったことがないことを掛けています。
※「踏み」は「橋」の縁語。

 

天の橋立
丹後国与謝郡(現在の京都府宮津市)にある名勝で、日本三景のひとつ。
宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州。天橋立が観光地として認知され始めたのは8世紀初頭とのことです。

 

 

作者について

 

小式部内侍(こしきぶのないし・999頃-1025)

平安時代の女流歌人で、女房三十六歌仙の一人です。父は橘道貞、母は和泉式部で、寛弘6(1009)年ごろ、母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・藤原彰子に出仕しました。母と区別して「小式部」、内侍所(賢所)という機関で掌侍として仕えたため「内侍」という女房名で呼ばれるようになりました。

*内侍所(ないしどころ)(賢所(かしどころ))/三種の神器の一つである神鏡を安置した場所

*掌侍(ないしのじょう)/律令制における女官の一つ。尚侍(ないしのかみ)・典侍(ないしのすけ)に従って天皇に近侍し、内裏内部の儀礼や事務処理をおこなう役目。)。

 

母・和泉式部の美貌を受け継ぎ、また母同様に恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原頼宗・藤原範永・藤原定頼など多くの高貴な男性との交際で知られていましたが、万寿2年(1025年)、20代で藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に死去し、周囲を嘆かせました。

美しく、才能にあふれ、恋多き女性であった小式部内侍。
小式部内侍が仕えていた一条天皇の中宮・彰子をはじめ、多くの人がその死を嘆いたと言われています。 

母・和泉式部の悲しみは、どれほど深かったことでしょう。
前途有望であった娘・小式部内侍の死に際し、和泉式部は、以下の歌を詠んでいます。 

「とどめおきて誰を哀れと思ふらむ 子はまさりけり子はまさるらむ」

 

この歌には「小式部内侍みまかりて、むまご(孫)どもの侍るのを見て」との詞書が付いており、『後拾遺和歌集』における哀傷歌の傑作と言われています。

 


 

小式部内侍の母である和泉式部
平安随一の女流歌人と言われるほど、歌の才能がある人でした。

小式部内侍自身も、美人で若い上に歌の才能があると評判だったため、
「丹後にいる母・和泉式部が作っているのではないか」
との噂が絶えませんでした。

 

あるとき、歌合せの会が開催されることになりました。

その会の場で、藤原定頼は小式部内侍に 

「歌は如何せさせ給ふ。丹後へ人は遣しけむや。使、未だまうで来ずや」

(歌会で詠む歌はどうするんです? お母様のいらっしゃる丹後の国へは使いは出されましたか? まだ、使いは帰って来ないのですか?)

 

と言ってからかいました。
これに対する返歌として、彼女が即興で詠んだのが、本日のこちらの歌。 

「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」

 

「生野」を「行く」と掛け、「文」と「踏み」と掛ける。

意地の悪いからかいにも、各地名や歌の技法を織り交ぜながら、即興で機転の利いた歌を返すなど、優れた歌人でなくてはとてもなせる技ではありません。。

この一件により、小式部内侍の作品は、母による代作ではなく、小式部内侍自身、優れた才能の持ち主であることを、大勢の前で証明することとなりました。

 

 

人はいつから権利を持つのか

 

さて・・・

小式部内侍が、出産をきっかけとして命を落としてしまったように
出産とは、正に命がけなのです。

胎児の期間を経て、母子ともに健康で、出生という日を迎えるということは、
当たり前のことではなく、むしろ奇跡とも言えるでしょう。

 

ところで、人はいつから「人」としての権利を持つのでしょうか。
民法では、人の権利能力につき、以下のように定められています。

 

(権利能力)
第3条1項 私権の享有は出生により始まる。

 

このように、出生と同時に「人」として等しく権利をもつことになります。

しかし、「出生」と同時に権利を持つとなると
胎児には権利能力は認められていないということになります。 

 

では、胎児の出生前に
交通事故等の思わぬ事態が発生した場合はどうでしょうか。

例えば、妊娠中に胎児の親が不測の事故に遭遇し、被害者となってしまった場合。

事故発生が、出生時刻の
・「前」であったか
・「後」であったか
という僅かな時間の差により、胎児は損害賠償請求をできなくなる、という不公平が生じてしまいます。

 

このような不公平をなくすため、民法では以下のような例外を設けているのです。

 

(損害賠償請求権に関する胎児の権利能力)
民法721条
「胎児は、損害賠償の請求権については、既に生まれたものとみなす。」

 

(相続に関する胎児の権利能力)
民法886条1項
「胎児は、相続については、既に生まれたものとみなす。」


このように、損害賠償の請求及び相続については
例外的に、胎児を「既に生まれたもの」としてみなすことにしたのです。

 


 

これについて、以下のような事例があります。

交通事故発生時に胎児であった者が、出生後に、当該事故を原因として障害を生じ、重い後遺症が残ったとして、両親とともに、自家用自動車総合保険契約の無保険車傷害条項に基づく保険金の請求をする事案です(最三小判平成18年3月28日)。

 

平成11年1月5日午前10時ころ、交通整理のおこなわれていない交差点において、被害者(事故当時胎児)の母の運転する自動車が、加害者の運転する自動車(任意保険無加入)と衝突する事故が発生しました。

この事故は、加害者の過失に起因するものでした。 

事故当時、被害者母は妊娠34週目でしたが、事故後運ばれた病院で緊急帝王切開手術を受け、同日午後0時58分、被害者(子)を出産しました。
しかし、被害者は重度仮死状態での出生となり、「低酸素性脳症、てんかん」の傷害を負い、病院に入院して治療を受けたものの、平成12年12月5日、症状が固定し、重度の精神運動発達遅滞(痙性四肢麻痺)の後遺障害が残ってしまいました。

被害者の傷害及び後遺障害は、この事故に起因するものとなります。

 

事故当時、被害者父は、保険会社との間で、被害車両を被保険自動車、被害者父を記名被保険者とする自家用自動車総合保険契約を締結していました。

この契約にかかる保険約款には、以下の「無保険車傷害条項」がありました。

「保険会社は、無保険自動車の所有、使用又は管理に起因して,被保険者の生命が害されること、又は身体が害され、その直接の結果として後遺障害が生じることによって被保険者又はその父母、配偶者若しくは子が被る損害に対して、賠償義務者がある場合に限り、保険金を支払う。」

 

同条項は、加害車両が無保険車である場合、つまり任意保険に加入していない場合、保険会社は、加害者に対して賠償請求をすることができる額を保険金として支払うというものでした。
そして、加害車両はこの「無保険自動車」に該当したのです。

これにより、被害者らが保険会社に対して、被害者の損害につき、保険金等の支払を求める裁判を起こしたところ、被害者は事故当時胎児であったため、
胎児の時に発生した交通事故により出生後に傷害を生じ、その結果後遺障害が残存した場合、無保険車傷害条項に基づく保険金請求ができるかどうか、
が問題になりました。

 

これについて、最高裁判所は、

「民法721条により、胎児は、損害賠償の請求権については、既に生まれたものとみなされるから、胎児である間に受けた不法行為によって出生後に傷害が生じ、後遺障害が残存した場合には、それらによる損害については、加害者に対して損害賠償請求をすることができる」

そして、

「胎児である間に発生した本件事故により、出生後に本件障害等が生じたのであるから」、被害者らは、「本件傷害等による損害について、加害者に対して損害賠償請求をすることができ」、被害者らは、自家用自動車総合保険契約の無保険車傷害条項が、被保険者として定める「記名被保険者の同居の親族」に生じた傷害及び後遺障害による損害に準ずるものとして、同条項に基づく保険金の請求をすることができる、

との判断をしたのです。

 

◇ ◇ ◇

 

本日の歌
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」 

小式部内侍が、美しくも儚い生涯を閉じたのは、およそ28歳頃であったと言われています。

小式部内侍の子(頼忍阿闍梨)については、平安随一の女流歌人といわれる和泉式部を祖母、その美しさと聡明さを受け継いだ小式部内侍を母、そして藤原公成を父として生まれてきたという以外、歌の才能があったのか、どのような生涯を送ったか等、残念ながら詳細は残っていないようです。

小式部内侍は、数々の優れた歌集を残した和泉式部とは対照的に、歌集を残さなかったようですが、若くして命を落とさなければさぞかし多くの素晴らしい歌を残してくれたことでしょう。

 

また、和泉式部の晩年については、娘・小式部内侍の菩提を弔いつつ、自らの往生も考えるようになったといわれています。

こうして和泉式部が詠んだ歌が、

「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」

(よりいっそう暗い闇へ入り込んでしまいそうだ。はるか遠くまで照らしてください、山の端にいる月よ。)

この後、和泉式部は阿弥陀如来に帰依して出家し、専意法尼という戒名を授かったといわれます(京都にある誠心院によれば、初代住職を務めたとか)。

美しく、才能に溢れ、将来有望であった子を若くして失った和泉式部。
母としての気持はいかばかりであったでしょう。

彼女の決意表明とも言えるこの歌からは、娘を失った後、残りの人生をいかに生きるべきか、深い悲しみの中にも一筋の光を見つけた、とも読み取ることができ、それもまた、涙を誘うのではないでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 1首目

自分には解決出来ず、長い間頭を悩ませている問題を
他の人が、あっさり解決してくれた時。
爽快な気持ちになったという経験は、誰にでも一度はあることでしょう。

自分が得意とすることが、他の人にとっては不得意であったり、
また逆に、自分には出来ないことが、他の人にはいとも簡単に出来てしまったり。

人にはそれぞれ、得手不得手があります。
しかしそれもまた、個性の一つと言えるのではないでしょうか。

直面する問題が、自分の人生を左右するものであった場合、自分の代わりにあの人が解決してくれたら、どんなに楽だろう、、と感じることもありますが、時と場合によっては、これが問題になることも。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

「秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ

                 わが衣手は  露にぬれつつ」  

天智天皇

「あきのたの かりほのいほの とまをあらみ 

                    わがころもでは つゆにぬれつつ」

                   てんぢてんのう (てんじてんのう)

 

小倉百人一首 100首のうち1首目。
飛鳥時代(592年 – 710年)の天皇・天智天皇の歌となります。

 

歌の意味

 

「秋の田の側に作った仮小屋に泊まったところ、屋根を吹いた苫の目が粗いので、その隙間から、冷たい夜露が忍び込んできて、私の着物の袖をすっかり濡らしてしまっているなぁ」

かりほの庵(仮庵):農作業のための粗末な仮小屋のこと。
秋の刈入れの際には、刈入れた稲が獣に荒らされないよう、ここに泊まって番をすることがありました。

苫:藁(わら)やイグサ等で編んだ「莚(むしろ)」のこと。
寂しさや、侘(わび)しさ、貧しさ等を連想させる語として、歌では多く用いられています。

小倉百人一首100首のうち1首目としても有名なこの歌。
天智天皇といえば、誰もが一度はその名を聞いたことがあるのではないでしょうか。

小倉百人一首の歌番号(和歌番号)とは、実は、歌の詠まれた年代順(古い歌人から新しい歌人の順)に付されており、1首目の天智天皇(626-672)から100首目の順徳院(順徳天皇・1197-1242)まで、およそ550年間にも及びます。 

それ故、本日ご紹介する歌の作者、天智天皇とは、百人一首の登場人物の中では、最も古い時代の歌人となります。

 

作者について

 

天智天皇(てんじてんのう・626-672)

日本の第38代天皇であり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・なかのおおえのみこ)としても知られています。

43歳で即位し、その在位は10年に及びました。
斉明天皇を母とし、藤原鎌足(中臣鎌足)と共に豪族・蘇我氏を討ち、大化の改新をおこなったことで有名です。

「大化の改新」とは、645年に始まった日本の国政改革。

私有地の廃止、統一的な税制の実施等、中央集権的支配体制の形成を目指したもので、従来の豪族中心であった政治から、大化の改新を境に、天皇中心の政治が始まりました。
そしてここから、「日本」と言う国号、「天皇」という称号、そして日本の最初の元号である「大化」が始まったとされており(それ以前は「天智天皇●年」のように、元号として天皇の名前が付されていました。)、日本の歴史が大きく動き出した転換点といわれています。

天智天皇は、このような偉業を成し遂げた人物であることから、時を経て、百人一首が作られた平安時代においても、日本の基礎を築いた偉大なる天皇として、なお絶大な人気があったようです。

加えて、天智天皇は「万葉集」や「日本書紀」などにもその歌が記されるなど、才能豊かな歌人でもありました。


ところで。

百人一首の歌には、四季が織り込まれていますが、本日の歌に詠まれている季節は、文字通り「秋」となります。
実は、百人一首で詠まれている季節の中では秋が最も多く、その数は16首。
侘び寂びを大切に思う日本人の感性には、もしかしたら秋の持つイメージが一番合うのかもしれません。

「秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ わが衣手は  露にぬれつつ」

改めてこちらの歌を詠んでみると、
周りを田に囲まれ、四方から隙間風が吹き込むほどの、荒れ果てた仮小屋の中心に、衣を冷たい夜露で濡らし、天皇ともあろう高貴なお方が、一人でおられるお姿が目に浮かびます。

あまりにも有名な歌ながら、なんと寂寥感の漂う歌でしょうか。
これは、本当にあの天智天皇が詠んだ歌?
天皇という高貴な身分の方に、この歌のイメージが全くそぐわない。。

というのも、実はこちらの歌
本当の歌人(作者)は天智天皇ではない、というのが通説とされているようです。

ということは、誰かが「天智天皇」になりすまして詠んだ、ということでしょうか?

そこで…

 

 

私文書偽造と事実証明に関する文書

 

「他人になりすます」と言って思い浮かぶことのひとつに、
いわゆる「替え玉受験」があります。

「替え玉受験」とは、大学入学選抜試験において、別の人物が受験者本人に成りすまして試験を受けるというもの。
つまり、入学試験において、受験者本人名義の試験の答案を、別の人物が本人に成り代わって作成し、それを本人が作成したものとして提出する行為とされています。

 

この「替え玉受験」は、受験者本人と、別の人物である答案作成者双方の合意の上でなされる行為であるところ、本人の承諾を得た上で、別の人物が答案を作成したとしても、文書偽造に当たるのでしょうか。

受験者の代わりに、「替え玉」受験生が答案を作成して、受験者のものとして提出したことが、有印私文書偽造、同行使に該当するか否かが争われ、この入学選抜試験の答案が、刑法159条1項にいう「事実証明に関する文書」に当たるかどうかが問題となった事件があります(最三小決平成6年11月29日)。

(私文書偽造等)
刑法159条1項
「行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、3月以上5年以下の懲役に処する。」

 

この事件で、最高裁は

「本件入学選抜試験の答案は、試験問題に対し、志願者が正解と判断した内容を所定の用紙の解答欄に記載する文書であり、それ自体で志願者の学力が明らかになるものではないが、それが採点されて、その結果が志願者学力を示す資料となり、これを基に合否の判定が行われ、合格の判定を受けた志願者が入学を許可されるのであるから、志願者の学力の証明に関するものであって、「社会生活に交渉を有する事項」を証明する文書(最高裁昭和33年9月16日)に当たると解するのが相当である。したがって、本件答案が刑法159条1項にいう事実証明に関する文書に当たる」

と判断しました。

大学入学選抜試験の答案は、受験者の学力の証明に関する文書であって、
いわば受験者本人であることを証明するもの。

入学試験の結果は、その時の、受験者本人自身の学力を示す資料であり、答案の作成者は本人であることが前提とされていることから、本人以外の作成は認められておらず、「社会生活に交渉を有する事項」を証明する文書に当たります。
これはすなわち、刑法159条1項にいう「事実証明に関する文書」に当たるとされ、例え本人から承諾を得たとしても、他人が本人になりすまして作成した入学選抜試験の答案は偽造された文書となり、「替え玉受験」は私文書偽造罪に当たるとされたのです。

 

◇ ◇ ◇ 

 

本日の歌
「秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ わが衣手は  露にぬれつつ」

本来は万葉集の「詠み人知らず」の歌であったものが、天智天皇の歌とされたのは
「天智天皇は、貧しさに苦しむ庶民の姿と、ご自分のお姿を重ね合わせ、庶民と苦しみを分かち合ってくださっている、、」
というお話が伝わるうちに、いつしか、この歌は実際に天智天皇が詠まれた歌であるとの噂が広まったからだと言われています。

また一説には、天智天皇が御所の庭を散歩されていたところ、庭の草花にかかる露をご覧になり、「この夜露では、さぞかし庶民もつらい思いをしているだろう」と、庶民に思いを馳せられ、天智天皇自らこの歌を詠まれたのだとも伝えられています。

 

素晴らしい歌とは、時代を超えて、人々の心に響くもの。

「詠み人知らず」である一庶民が、もし、天智天皇の承諾を得た上で、天智天皇の歌としてこの歌を世に出したのだとしたら。。

そんな想像をしてみるのも、また歴史の楽しさのひとつかもしれません。

 

  文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 68首目

いつ終息を迎えるともわからないコロナ禍の現在。今ほど健康に関する意識が高まっている時代はないでしょう。

ひとたびメディアで、ある商品が「免疫力を高める」、「健康に良い」、「●●の症状に効果がある」等「健康」に結びつくとの紹介がなされれば、その商品は瞬く間に店頭から消えてしまう、という現象が起こることも珍しくありません。

「健康」にまつわる商品やサービスが巷に溢れかえっている現代社会においては、私たち消費者としては、何を信頼し、また何を基準にして選択すれば良いか、というのが一番難しいところではないでしょうか。

商品も情報も溢れている状況の中で、優れたキャッチコピーとは、いつの時代も私たちの心を惹きつけるものです。

商品やサービスがどのようなものか、詳しくは知らなくても、魅力的なキャッチコピーだけでつい目が留まり、心が動いてしまうことはないでしょうか?

とはいえ、そのキャッチコピーは、果たして正確か否か、というのはまた別の問題となりますが。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

「心にも あらでうき世に ながらへば

                 恋しかるべき 夜半の月かな」

三 条 院

「こころにも あらでうきよに ながらへば

                    こひしかるべき よはのつきかな」

                             さんじょういん

 

 

小倉百人一首 100首のうち68首目。
平安時代の天皇・三条院(三条天皇)の歌となります。

 

 

歌の意味

「(望みのないこの世ではあるけれど)心ならずも、この辛い浮き世を生き長らえたならば、きっと、この宮中で見た夜の月が、恋しく思 い出されることであろうなぁ。」

心にも あらず:本心ではないけれど
うき世にながらへば:浮き世・憂き世・現世(=儚い世、辛い世)を生きながらえたならば

この歌は、眼病を患っていた三条院の病状が悪化しつつある中
譲位の決意を固めたところ、宮中にて、明るい月の光を目にして詠んだ歌です。

この歌が詠まれた裏にあったものは、美しい月の光とは対称的な、三条院の心の深い闇。闇が深いほど、光はより美しく輝くものかもしれません。

その生涯を紐解いてみると、三条院にとって、現世を生きることがいかに辛かったかが伝わってきます。

 

作者について

 

三条院(さんじょういん・976-1017)

冷泉天皇(れいぜいてんのう)の第2皇子・居貞(いやさだ)親王であり、日本の第67代天皇(在位:1011年7月16日- 1016年3月10日)です。

母は藤原兼家の長女・贈皇太后超子。
その母をわずか7歳で失い、父帝・冷泉上皇は精神病を患っているという境遇で育ち、後見が薄弱でした。
986年7月16日、11歳で皇太子となったものの、25年後の1011年、36歳にてようやく即位することとなります。

やっとのことで即位したのも束の間、3年後の1014年に三条院は眼病を患います。
伝えられるところによると、これは「仙丹」の服用直後のことといわれています。


三条院が服用したこの「仙丹」とは、中国において古代より、服用すると不老不死となり、ついには仙人になれるといわれた霊薬です。
錬丹術という、中国の道教の術によるものですが、原材料には毒物の硫化水銀・硫化砒素が大量に含まれており、実際は人体に有害でした。

古代より、水銀は不老不死や美容などに効果があると妄信されていたことから、秦の始皇帝は永遠の命を求め、水銀入りの薬や食べ物を摂取していたことによって、逆に命を落としたとも言われており、他にも多数の権力者が、同様に水銀中毒で死亡したと伝わっています。

眼病を患った三条院に対し、時の権力者・藤原道長は、その眼病を理由に譲位を迫りますが、実際は、眼病が理由なのではなく、前天皇の一条院と自分の娘・彰子(しょうし)との間にできた皇子を即位させ、自分は摂政として政権を掌握するためであった、というのが裏の理由と言われています。

道長による圧力や権力闘争に疲れ果てた三条院は、眼病が悪化し失明寸前となり、ついに退位を決意します。

そのときに詠んだのが、この歌でした。


もともと病弱であったためか、心身ともに疲れ果ててしまった三条院。
在位わずか6年で、道長が勧めるまま、後一条天皇に譲位し(実際は皇位を奪われた状態)、その翌年、1017年に出家し42歳で崩御してしまいました。

短い在位の間に、眼病、病状が悪化する中、道長からの絶え間ない退位の圧力に加え、内裏が2度も焼失するなど、苦難に満ちた生涯でした。

「不老不死」との効果があるとのことで「仙丹」を服用したことで、眼病となり、
失明寸前まで病状が悪化した挙げ句に、それを口実として天皇の座を奪われる。。

というのも、三条院はたびたび物の怪や天狗に襲われているとのことで、患っていた眼病は、三条院に深い恨みのある僧侶が物の怪になってとりついたせいだとの噂も流れていた、とのこと。

実際のところはどうなのでしょうか。。

 

 

 

表現の自由と広告の制限

 

さて・・・

古代では、「不老不死」とのキャッチコピーで、時の権力者たちが「仙丹」を服用したように、現代では、「健康」に関する様々な情報を選択する際、どのような「効能」があるかを、判断基準の一つとすることもあるのではないでしょうか。

ところが、この「効能」についての広告に関して
憲法21条の「表現の自由」を侵害するか否か
について争われた事例があります。(最判昭和36年2月15日

 

きゅう業を営む男性が、きゅうの適応症であるとした「神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等」の病名を記載したビラを、各所に配布した行為は、あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法第7条に違反するとして、起訴されました。

男性はこれに対し、

あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(それぞれの資格の頭文字を取り、「あはき法」との通称があります。)7条及び柔道整復師法24条による広告の禁止は、憲法21条により保障される、表現の自由を侵害するものである、として争いました。

(憲法)
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

(あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(通称:あはき法))
第7条 あん摩業、マツサージ業、指圧業、はり業若しくはきゆう業又はこれらの施術所に関しては、何人も、いかなる方法によるを問わず、左に掲げる事項以外の事項について、広告をしてはならない。
1 施術者である旨並びに施術者の氏名及び住所
2 第一条に規定する業務の種類
3 施術所の名称、電話番号及び所在の場所を表示する事項
4 施術日又は施術時間
5 その他厚生労働大臣が指定する事項

(柔道整復師法)
第24条 柔道整復の業務又は施術所に関しては、何人も、文書その他いかなる方法によるを問わず、次に掲げる事項を除くほか、広告をしてはならない。
1 柔道整復師である旨並びにその氏名及び住所
2 施術所の名称、電話番号及び所在の場所を表示する事項
3 施術日又は施術時間
4 その他厚生労働大臣が指定する事項

あはき法7条及び柔道整復師法24条による広告の禁止は、憲法21条により保障される表現の自由を害するか否かにつき、裁判所は

「そして本件につき原審の適法に認定した事実は、被告人はきゆう業を営む者であるところその業に関しきゆうの適応症であるとした神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等の病名を記載したビラ約7030枚を判示各所に配布したというのであつて、その記載内容が前記列挙事項に当らないことは明らかであるから、右にいわゆる適応症の記載が被告人の技能を広告したものと認められるかどうか、またきゆうが実際に右病気に効果があるかどうかに拘らず、被告人の右所為は、同条に違反するものといわなければならない。」

「しかし本法があん摩、はり、きゆう等の業務又は施術所に関し前記のような制限を設け、いわゆる適応症の広告をも許さないゆえんのものは、もしこれを無制限に許容するときは、患者を吸引しようとするためややもすれば虚偽誇大に流れ、一般大衆を惑わす虞があり、その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来することをおそれたためであつて、このような弊害を未然に防止するため一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するためやむをえない措置として是認されなければならない」

と判示し、この広告の規制につき

「広告の制限をしても、これがため思想及び良心の自由を害するものではないし、また右広告の制限が公共の福祉のために設けられたものである」

として、当該広告を禁止することは、「憲法21条には違反しない」と判断しました。

 

きゅうの適応症として病名を記載したビラを配布するという行為につき、適応症として、病名等を記載することで、一般大衆に誤った期待を与えるおそれがあり、「国民の保健衛生上の見地から」「公共の福祉を維持するため」、虚偽または誇大広告の可能性があることから、違法であるとされたのです。

この判例では、広告を無制限に許容すると、患者を呼び込むため、虚偽誇大に流れてしまい、それにより一般大衆を惑わすおそれがあり、その結果として、適時適切な医療を受ける機会を逸する結果となることを避けるため、としており、このような事態を未然に防止するためには、一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するため止むを得ない措置として是認されなければならないとされました。

ちなみに、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師になるためには、あはき法において

第1条 医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業としようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許(以下免許という。)を受けなければならない。
第2条 免許は、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第九十条第一項の規定により大学に入学することのできる者(この項の規定により文部科学大臣の認定した学校が大学である場合において、当該大学が同条第二項の規定により当該大学に入学させた者を含む。)で、三年以上、文部科学省令・厚生労働省令で定める基準に適合するものとして、文部科学大臣の認定した学校又は次の各号に掲げる者の認定した当該各号に定める養成施設において解剖学、生理学、病理学、衛生学その他あん摩マツサージ指圧師、はり師又はきゆう師となるのに必要な知識及び技能を修得したものであつて、厚生労働大臣の行うあん摩マツサージ指圧師国家試験、はり師国家試験又はきゆう師国家試験(以下「試験」という。)に合格した者に対して、厚生労働大臣が、これを与える。

と定められていることから、免許制となっており、国家試験を受け、合格し、厚生労働大臣免許を取得しなければなりません。

なお、「あん摩マッサージ指圧師」、「はり師」、「きゆう師」、「鍼灸師」のほか、柔道整復師法で規定される「柔道整復師」は、法的な資格制度のある医業類似行為に分類されています。

 

◇ ◇ ◇

さて…

そもそも、古代より「仙丹は不老不死の霊薬である」とは誰が最初に言い始めたのでしょうか?
唐の皇帝は、何人もが丹薬の害により、命を落としたと言います。
薬と称して、密かに毒を盛り、それにより健康を害すると、物の怪の呪いによるものだとの噂を広める。。
犯人は皇帝の座を狙う者?それとも、、そこは陰謀渦巻く政治の世界。

真実は闇の中、ということでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 19首目

 

かつて、図らずもバラバラに分割される運命となってしまったものの、
昨年2019年、100年ぶりに一堂に会する事となり話題になった、国宝級の絵巻物「佐竹本三十六歌仙絵巻」。

鎌倉時代に制作されたもので、当初は上下2巻の絵巻物となっており、各巻に18名ずつ、計36名の歌人の肖像が描かれていました(絵の筆者は藤原信実・ふじわらのぶざね(1176年 – 1265年)、書の筆者は当ブログ91首目にてご紹介した、後京極良経・ごきょうごくよしつね(1169年 – 1206年)であるとも言われています。)。

以降、この絵巻物が佐竹侯爵家に伝来したことから、
「佐竹本」との名で呼ばれています。

 

明治維新以後、多くの大名家が没落する中、佐竹侯爵家も例外ではなく、収入源を失い、家宝を売却しなければ生き残ることができなくなってしまいました。

こうして、止む無く手放されることとなった貴重な絵巻物は、その後、数奇な運命を辿ることとなります。

次々に絵巻物の所有者が変遷する中、日本は戦争の時代へと突入。
社会における経済状況も、次第に悪化の一途を辿り、この大変高価な美術品は、我が国においては、個人の財力では、到底購入することができないものとなってしまったのです。

このままでは、国の宝とも言うべき貴重な絵巻が、海外へ流出するという危険が生じてしまう…

こうした危機的な状況の中、最悪の事態を防ごうと、
1919年12月20日、美術品コレクター・実業家である益田鈍翁の提案により、
「佐竹本三十六歌仙絵巻」は歌人ごと、バラバラに切り離され、それぞれが別々の所有者のもとで、所有されることとなりました。

いわゆる「絵巻切断事件」です。

絵巻が分割されるにあたっては、誰もが欲しい人気の歌人(逆に不人気の歌人も)がおり、果たして誰がどの歌人を手に入れるか、くじ引きによる抽選がおこなわれました。(実は、この提案をした益田鈍翁本人は、最も人気のない「僧侶」の絵が当たってしまい、すっかり不機嫌になってしまったとのこと・・・。一気に気まずくなった雰囲気の中、一番人気の「斎宮女御」を引き当てた古美術商が交換を申し出てくれたおかげで、益田氏のご機嫌も直り、その場もなんとか収まった、という裏話もあるようです。)

こうして海外流出の難を逃れた歌人たちは、
全国へと散らばることで、生き延びてゆきます。

その後、日本はさらなる戦争の混乱へと突き進むことになりました。

そして、それに伴う経済状況の悪化により、歌人たちの絵は、時代に翻弄されつつも、様々に所有者が変遷し、美術館や個人の手へと渡ることとなったのです。

 

そんな事件から、昨年でちょうど100年。
恐らく今後二度とないであろう、36人の歌仙たちの貴重な再会となったのでした。

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】
「難波潟 みじかき芦の ふしの間も

             逢はでこの世を 過ぐしてよとや」

伊 勢

「なにはがた みじかきあしの ふしのまも

                 あはでこのよを すぐしてよとや」

い せ

小倉百人一首 100首のうち19首目。
本日ご紹介するのは、百人一首に一番多く収められている
「恋」の歌の一つとなります。

 

 

歌の意味

「難波潟の短い芦の節と節の間ほどの短い時間でも、あなたに会いたいのに、
あなたはもう、会わずにこの世を過ごせとおっしゃるのですか?」

難波潟とは、現在の大阪市上町台地の西側に広がっていた、大阪湾の入り江あたりの、遠浅の海のこと。
旧淀川の河口にあたり、昔は干潟が広がり、芦が生い茂っていました。

現在は開発が進み、かつての干潟を見るのは難しいようですが、
大阪市・淀川の下流、長江橋のあたりには、辛うじて風景が残っているとのこと。

芦とは、現代でこそあまり馴染みがありませんが、古くから、水辺に生える芦に多く歌が詠まれております。
特に難波潟の芦は有名で、様々な歌に詠まれているようです。

 

 

作者について

 
伊勢(いせ・872-938)

平安時代の代表的な女流歌人であり、三十六歌仙、女房三十六歌仙のひとり。

宇多天皇の中宮温子に女房として仕え、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受け、その皇子を生んだことで「伊勢御息所」と呼ばれます(御息所・みやすどころとは天皇の子を生んだ女性のこと)。
しかしその皇子は、儚くも5歳で夭折。
その後、伊勢は宇多天皇の皇子敦慶(あつよし)親王と結婚して娘・中務(なかつかさ・後に女流歌人として活躍)を生みます。
彼女は情熱的な恋歌で知られ、”紀貫之と並び称されることもあった”というほどの才能の持ち主でした。

特に家集「伊勢集」は、
「和泉式部日記」などの後の女流日記文学の先駆けとされているほど。

この伊勢こそ、「佐竹本三十六歌仙絵巻」に描かれている歌人の一人であり、恋多き女性、情熱的な女性として多くの歌を詠み、名を馳せた歌人です。

 

さて・・・

昨今の世界情勢のように、社会情勢の変化により、収入源を失ってしまうことで、時に税金を収められなくなってしまう、という事態が生じることもあるでしょう。

そのような時、国は、資産の差押という手段によって、滞納している税金(租税債権)を回収することがあります。

ところが、その回収先にも、同様に債権があった場合はどうなるでしょうか。

 

 

相殺の範囲


この件に関し、裁判で争われた事例がありますので、ご紹介いたします。

税金を滞納していた、とある会社の銀行預金を国が差押えたところ、銀行がこの会社に対しては貸付金を持っているので、これと相殺して預金を差押えすることはできない、と主張してきたため、国が、銀行の貸付債権(自働債権)については、返済する期限が後に来る預金債権(受働債権)については相殺できないとして訴えた事例です(最判昭和45年6月24日)。

相殺には、相殺する債権(自働債権)と、相殺される債権(受働債権)があり、
相殺を可能にする条件については、民法505条に定められています。

(相殺の要件等)
民法505条
「二人が互いに同種の目的を有する債務を負担する場合において、双方の債務が弁済期にあるときは、各債務者は、その対当額について相殺によってその債務を免れることができる。ただし、債務の性質がこれを許さないときは、この限りでない。」

 

この条文では、相殺適状の要件として次の内容が規定されています。

・同種の対立する債権があること
・双方の債務が弁済期にあること
・債権が相殺できるものであること

相殺を可能にするためには、これらの要件が必要とされており、双方の債権がこの要件を満たしていなければなりません。

そして、これらの要件全てを満たし、相殺ができる状態であることを
「相殺適状」といいます。

 

さて、ご紹介の事例において、最高裁は

「相殺の制度は、互いに同種の債権を有する当事者間において、相対立する債権債務を簡易な方法によつて決済し、もって両者の債権関係を円滑かつ公平に処理することを目的とする合理的な制度であって、相殺権を行使する債権者の立場からすれば、債務者の資力が不十分な場合においても、自己の債権については確実かつ十分な弁済を受けたと同様な利益を受けることができる点において、受働債権につきあたかも担保権を有するにも似た地位が与えられるという機能を営むものである。」

として、相殺制度の趣旨を説明した上で、相殺の効力の範囲について、

「第三債務者(※銀行)が債務者(※会社)に対して有する債権をもって差押債権者に対し、相殺をなしうることを当然の前提としたうえ、差押後に発生した債権または差押後に他から取得した債権を自働債権とする相殺のみを例外的に禁止することによって、その限度において、差押債権者と第三債務者の間の利益の調節を図ったものと解するのが相当である。
したがって、第三債務者は、その債権が差押後に取得されたものでないかぎり、自働債権および受働債権の弁済期の前後を問わず、相殺適状に達しさえすれば、差押後においても、これを自働債権として相殺をなしうるものと解すべきである。」

とし、その範囲を限定しました。

 

差押と相殺につき、旧民法では、第三債務者が差押え後に取得した債権における相殺については規定していたものの、差押え前に取得した債権における相殺については明確に規定していませんでした。

しかし、この判決では、第三債務者の債権が差押え後に取得されたものでなければ、自働債権の弁済期及び受働債権の弁済期の前後を問わず、相殺適状に達していれば、差押後においても相殺できることとしたのです。

 

これを受け、改正民法511条1項では

・差押えを受けた債権を、差押え後に取得した債権で相殺することは出来ないものの、差押え前に取得した債権で相殺することはできること

・差押え後に取得した債権につき、差押え前の原因に基づいて生じた債権であるときは、差押による債権と相殺できること

が明文化されました。

<改正前民法>
(支払の差止めを受けた債権を受働債権とする相殺の禁止)
第511条  支払の差止めを受けた第三債務者は、その後に取得した債権による相殺をもって差押債権者に対抗することができない。
<改正民法>
(差押えを受けた債権を受働債権とする相殺の禁止)
第511条 差押えを受けた債権の第三債務者は、差押え後に取得した債権による相殺をもって差押債権者に対抗することはできないが、差押え前に取得した債権による相殺をもって対抗することができる。
2 前項の規定にかかわらず、差押え後に取得した債権が差押え前の原因に基づいて生じたものであるときは、その第三債務者は、その債権による相殺をもって差押債権者に対抗することができる。ただし、第三債務者が差押え後に他人の債権を取得したときは、この限りでない。

 

 

さて、本日ご紹介いたしました歌、

「難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや」

そして作者である、恋多き情熱的な女流歌人、伊勢。

 

冒頭で触れました「佐竹本三十六歌仙絵巻」で描かれている歌人は、女性歌人5名、男性歌人31名となっておりますが、絵巻切断事件以降、所有者が変わるたび、それぞれの歌人に値が付けられるにあたっては、やはり華やかな女性の絵に高値がついたと言われています。

伊勢の絵も、恐らく高額にて取り引きされ、
所有者の手から手へ渡ってきたものと思われます。

100年の節目に、昨年「佐竹本三十六歌仙絵巻」の特別展が開催されたのは、全国でただ1箇所、京都国立博物館のみ(巡回なし)であった、という稀有な機会にもかかわらず、それでも出品されることのなかった、大変貴重な作品。

伊勢の絵は、美術館蔵ではなく、個人蔵となりますので、実物を目にすることのできる機会は、今後いつになるか、果たしてその機会はあるか否かも定かではありません。

その上残念なことに、今年に入ってからは、美術館に足を運ぶことも難しい状況となってしまいました。

この先、実物に出会える機会は、益々遠のいてしまいましたが、
もし、そのような機会が訪れたならば、何をおいても観に行きたいものです。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 91首目

被害者が死亡に至った直接の原因が、加害者によるものではなく
第三者(またはその他の要因)によるものであった場合。

被害者が死亡に至る過程において、
加害者による行為が起因していたとあれば、被害者死亡という事実と
加害者による行為には相当因果関係が認められるのでしょうか?




誰でも一度は経験したことがあるでしょう。
「青天の霹靂」とも言える、想像だにしていない、突然の出来事。

しかし、それが人の命を左右するものだとしたら。。

物ごとには、すべて「原因」と「結果」があり、
この2つは、1本の線で繋がっていると言われています。

点と点を繋げてゆけば、必ず線になるように。

一見、全く無関係のように思われる出来事も、
元を辿れば、必ず「原因」に行き当たります。

それが、例え想定外に起きてしまった「結果」だとしても。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに

               衣かたしき ひとりかも寝む」
                     後京極摂政前太政大臣

「きりぎりす なくやしもよの さむしろに

                 ころもかたしき ひとりかもねむ」

            ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん


小倉百人一首 100首のうち91首目。
平安末期から鎌倉初期にかけての公卿・歌人である
後京極摂政前太政大臣(藤原良経)の歌となります。

 

 

歌の意味

「霜の降るこの寒い夜、こおろぎがしきりに鳴いている。
こんな夜に、筵(むしろ)の上に衣の片袖を敷いて、わたしはたった独り、寂しく寝るのだろうか。。」


この歌にある「きりぎりす」とは、現在の「コオロギ」のこと。
私たちが知っている、現在の「キリギリス」とは異なります。

漢字では「蟋蟀」と書き(「きりぎりす」とも、「こおろぎ」とも読みます。)、平安時代から中世には、秋に鳴く虫のことを指し、秋の季語とされておりました。

それ故、この歌の季節は「秋」となります。

 

さて

平安時代には、男性と女性が一緒に寝る時は、お互いの着物(衣)の袖を敷きあって寝るという習慣がありました。

「衣片敷き(ころもかたしき)」とは、
共に寝る相手(衣を敷き交わす相手)がいないため、自分の衣を敷き、その袖を枕代わりにして、独りで寝ることを意味しています。

 

霜の降る晩秋の寒い夜
むしろ(わらで編んだ粗末な敷物)の上で、
きりぎりすの声を聞きながら、独り寂しく眠る…

想像するだけで、寂しく孤独な様子がひしひしと伝わってまいります。
(「さむしろ」とは「寒い」と「むしろ」を掛けていることからも、
なお一層、寂寥感が募りますね。)

 

しかし、実はこの歌を詠む直前、良経は妻を失っています。

そのような背景を知った上で、改めてこの歌を詠んでみると
先ほどまでとは、また違った印象を受けるのではないでしょうか。

 

 

作者について


後京極摂政前太政大臣
(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん・1169-1206)

彼は、
本名:九条(藤原)良経(くじょう(ふじわら)よしつね)
別名:後京極殿(ごきょうごくどの)
通称:後京極摂政(ごきょうごくせっしょう)
と、いくつもの呼び名を持っています。

政治家としては、内大臣(左大臣・右大臣に次ぐ官職)まで昇りつめるも、
派閥争いに破れて、朝廷から追放されてしまいます。
しかし、その後再び政権に返り咲き、
1204年、ついに官僚の最高位である太政大臣となりました。

ところが、そのわずか2年後、38歳の若さで急死してしまいます。

 

また、良経は歌人としても、新古今和歌集(後鳥羽院の命によって1201年より編纂された勅撰和歌集)の「仮名序」を書いたことで有名です。

「仮名序」とは、「真名序」とともに、新古今和歌集の序文として大変重要な位置づけであり、仮名序を任されるということは、多くの人から尊敬を集める、当時は大変名誉な任務でした。

新古今和歌集は、1205年3月26日に完成しますが…
その翌年、1206年4月16日の深夜、良経に突如死が訪れます。

宮廷内の自邸で一人休んでいるところを、天井から槍で刺し殺されたことから
良経の死は、暗殺によるものだとされています。

政敵か、または
新古今和歌集の「仮名序」の執筆者に選ばれなかった者の逆恨みか、それとも…

 

真実は闇の中、とされておりますが
和歌や漢詩に優れ、とりわけ書においては、のちに「後京極流」との流派ができるほど優れた才能を持っていた良経。

38歳といえば、政治の世界においても、歌の世界においても、まさに絶頂期。

いよいよこれから、、という時の
あまりにも突然で、惜しまれる死となりました。

 

今でこそ、耳にすることも少なくなりましたが、
昔の日本においては、「暗殺」という物騒な事件は、日常の出来事でした。

暗殺の恐怖に怯えながら、戦々恐々として暮らす毎日とは、
どんなものだったでしょうか。。

例えば良経のように、真夜中、暗殺者に襲われた場合…

いつ暗殺されるか知れない、という命の危険を感じながら暮らす日常にあって、
殺害当夜も、危険を察知し、部屋から飛び出したことで、
危うく暗殺という難を逃れたとしても、飛び出したその先に別の危険が待ち受け、
それによって、良経が死に至ったとしたら?

このような場合、暗殺者は、良経の死に関し、
罪に問われることになるのでしょうか?

 

 

被害者の逃走中の事故死と因果関係


さて

現代においても、「生命の危険を感じて逃走する途中で起きた死亡事故」
における因果関係について、争われた事例がありますので、ご紹介いたします。


複数の加害者らに長時間に渡り暴行を加えられた被害者が、加害者らの隙を見て逃走する途中で、高速道路に進入してしまったことで、結果、交通事故により死亡した場合、加害者らの暴行と、被害者の交通事故による死亡との間には、因果関係があるか否か、について争われました。(最決平成15年7月16日

この事件で、加害者6人は、被害者に対し、深夜の公園において、約2時間に渡り激しい暴行を繰り返した後、引き続きマンションの一室で、約45分に渡って断続的に激しい暴行を加え続けました。

その後、極度の恐怖状態にあった被害者は、隙を見て、暴行現場のマンション居室から逃走しました。

逃走を続けること約10分。
被害者は、マンションから約800メートル離れた高速道路に進入してしまい、高速道路上で、走行してきた自動車に轢かれて死亡しました。

加害者らは、被害者の死因は暴行によるものではなく、自動車事故によるものであって、刑法205条には当たらず、自分たちに責任はないと訴えました。

(傷害致死)
刑法205条
「身体を傷害し、よって人を死亡させた者は、3年以上の有期懲役に処する。」

 

これにつき裁判所は、

「被害者が逃走しようとして高速道路に進入したことは、それ自体極めて危険な行為であるというほかないが、被害者は、被告人らから長時間激しくかつ執ような暴行を受け、被告人らに対し極度の恐怖感を抱き、必死に逃走を図る過程で、とっさにそのような行動を選択したものと認められ、その行動が、被告人らの暴行から逃れる方法として、著しく不自然、不相当であったとはいえない。そうすると、被害者が高速道路に進入して死亡したのは、被告人らの暴行に起因するものと評価することができる」

とし、被害者は、加害者ら(被告人ら)の暴行によって死亡したと判断しました。

 

現場からの逃走途中において、高速道路に進入するということは、通常であれば考えられない、極めて危険な行動です。
それにも関わらず、なぜ、加害者の暴行によって被害者は死亡したものと判断されたのでしょうか?

 

判決では、被被害者の行動は

加害者らからの長時間激しく執拗な暴行を受けており、
②その結果として、極度の恐怖を抱き、命の危険を感じて、必死に逃走を図ったもので
③このような、通常ではあり得ない行動をとってしまうという、冷静さを欠いた心理状態おいて、とっさに選択された行動であった

という事情が重視されたようです。

このような場合は、被害者が「高速道路に進入する」という、通常では考えられない行動に出た結果として、交通事故に遭遇し、死に至ったとしても、それは加害者の暴行から生じたものとして、「著しく不自然、不相当であったとはいえない」とされるのですね。

被害者の直接の死因が、加害者らの傷害によるものではなく、交通事故によるものであったとしても、加害者らの行為それ自体が、被害者の心理状況に強度の影響を与えた「原因」により起こった「結果」である、加害者らによる暴行と、被害者の交通事故による死亡との間には相当因果関係がある、とされるところに少し違和感がないこともないですが、深夜の公園で2時間、マンションで45分も暴行を受け続けること自体、通常であれば考えられないことですから、その結果として被害者が高速道路に飛び出すなんてことをしても因果の中に含めてしまっても良いのかもしれません。


さて

本日ご紹介する、こちらの歌

「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む」

寂寥感漂うこちらの歌とは対象的に、良経は、「仮名序」を記した新古今和歌集においては、次のような歌を詠み、華々しい第1首目を飾りました。

 

「み吉野は 山もかすみて 白雪の ふりにし里に 春はきにけり」

(吉野は山も霞んでいる。
ついこの間までは白雪が降っていた里にも、ついに春が来たんだなあ。)

こちらの歌にあるように、まさにこれから春を迎え、
人生を謳歌しようとしていた良経。

 

捉え方によっては、
良経暗殺という「結果」における「原因」とは、ある意味「歌」にあったと言えるかも知れません。

歌とは、嘗ては人の運命を左右するほどの威力を持っていました。
それは、歌が持つ力の恐るべき一面、とも言えるのではないでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 52首目

国の指導のもと、「予防接種法」に基づいて実施された予防接種を受けた結果、
その副作用により、後遺障害を負い、若しくは死亡するに至ったとしたら。。

その場合、憲法29条3項に定められている財産権により、国に補償請求をすることはできるのでしょうか。


 

生命あるところ、そこには必ず感染症が存在します。

長い歴史において、人類は、常に感染症に悩まされてきました。
一つの病気が収束したかと思えば、すぐにまた新たな病気が発生する。

決して終わることのない、人類と感染症との戦い。
人類の医学における戦いとは、感染症との戦いであるとも言えるでしょう。

高度な医学が発達した現代社会においてさえ、人間の叡智をもってして、
なお撲滅することのできないもの。
それが感染症なのです。

 

有史以来、人類が撲滅できた感染症とは、
ただ一つ、天然痘のみだと言われています
(WHO・地球上からの天然痘根絶宣言・1980年5月8日)。

今年は、パンデミックした新たな感染症により、個人の人生のみならず、
社会が、そして世界が大きく様変わりしたように思います。

世界中で、マスクの着用、ソーシャルディスタンスが当然の光景となり、
昨年までの生活が一変した世界。
そう考えますと、今年は、人類史における大きな転換点と言っても過言ではないでしょう。

この感染症にはワクチンが存在しないため、私たちはなお一層、未来への不安を掻き立てられており、一刻も早くワクチンが開発されることを期待されています。

しかし、その開発の裏には、実は、知られざる事実もあるのです。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

本日の歌】

「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら

             なほうらめしき 朝ぼらけかな」
                        藤原道信朝臣

「あけぬれば くるるものとは しりながら
              なほうらめしき あさぼらけかな」
                       ふじわらのみちのぶあそん 


小倉百人一首 100首のうち52首目。
平安中期の貴族・歌人、藤原道信朝臣(藤原道信)の歌となります。

 

 

歌の意味

 

「夜が明けてしまったら、やがてはまた日が暮れて夜になり、あなたに会えるものだと分かってはいるけれど、それでもやはり、あなたとお別れする夜明けは、恨めしく思われるものです。」

平安時代において、夜明けとは別れを、日暮れとは再会を意味します。

「朝ぼらけ」とは、夜がほんのり明けるころ。
秋や冬の歌に多く用いられています。

和歌の世界における「朝ぼらけ」とは、男女が一夜を共に過ごした後、男性が女性の元から立ち去る頃という特別な意味があります。

そして、男性は帰宅すると、女性に歌を送ることが習慣となっており、
こうして詠まれた歌は、「後朝の歌(きぬぎぬのうた)」と言われます。

 

 

作者について

 
藤原道信朝臣(ふじわらみちのぶあそん)972~994

本名は、藤原道信(ふじわらのみちのぶ)。
平安中期の貴族・歌人で、中古三十六歌仙(三十六歌仙に選ばれなかったが、優れた歌人と、それ以後の時代の歌人が選ばれた)の一人。

太政大臣・藤原為光(ふじわらためみつ)の三男で、藤原兼家(かねいえ)の養子となりました。
従四位上・左近衛中将に昇進するなど、若くして武官を歴任します。

 

和歌に秀でており、14歳で父・為光を亡くした際には、

限りあれば 今日ぬぎすてつ 藤衣 はてなきものは 涙なりけり

「喪があけるので喪服は脱ぎ捨てたけれど、悲しみの涙は果てしなく続くよ」
※「藤衣」は喪服のこと

と詠んで、悲しみを表現し、多くの人に賞賛されました。

 

大鏡には「いみじき和歌の上手」と伝えられるほど、その才能を期待されておりましたが、当時流行していた天然痘により、惜しくも23歳の若さで、短い生涯を閉じました。

天然痘とは、かのインカ帝国やアステカ帝国をも滅亡させた、と言われているほどの恐ろしい病気。
道信が生きた平安時代にも、庶民のみならず、貴族を含め多くの人々が、この天然痘により死に至りました。

 

 

予防接種ワクチン禍事件


さて。

世界を危険に陥れた天然痘を撲滅することが出来た要因の一つに、
有効なワクチンが開発されたことがあります。

ワクチンとは、ご存知のとおり体内に摂取することで、感染症の発生と拡大を未然に防ぐための薬ですが、多くの人に効果があるとされてはいるものの、やはり何事にも100%はありません。

予防するための薬が、ある人にとってはかえって毒となり、
最悪の場合には生命を奪うこともある。。

 

我が国においても、国の指導のもと、「予防接種法」という法律に基づいて実施された予防接種を受けた結果、一部の児童は、その副作用により、後遺障害を負ったり死亡する事態に至ってしまいました。
そのため、被害に遭った児童らとその両親ら約160名が、国に対し、憲法29条3項に基づいて、損失補償を求めて争った、という事例があります。
(東京地裁昭和59年5月18日判決)

この事件において、裁判所は、被害児童らとその両親らの訴えに対し、
以下のように判断を下しました。


「一般社会を伝染病から集団的に防衛するためになされた予防接種により、その生命、身体について特別の犠牲を強いられた各被害児及びその両親に対し、右犠牲による損失を、これら個人の者のみの負担に帰せしめてしまうことは、生命・自由・幸福追求権を規定する憲法13条、法の下の平等と差別の禁止を規定する同14条1項、更には、国民の生存権を保障する旨を規定する同25条のそれらの法の精神に反するということができ、

そのような事態を等閑視することは到底許されるものではなく、かかる損失は、本件各被害児らの特別犠牲によって、一方では利益を受けている国民全体、即ちそれを代表する被告国が負担すべきものと解するのが相当である。そのことは、価値の根元を個人に見出し、個人の尊厳を価値の原点とし、国民すべての自由・生命・幸福追求を大切にしようとする憲法の基本原理に合致するというべきである。

 更に、憲法29条3項は「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。」と規定しており、公共のためにする財産権の制限が社会生活上一般に受忍すべきものとされる限度を超え、特定の個人に対し、特別の財産上の犠牲を強いるものである場合には、これについて損失補償を認めた規定がなくても、直接憲法29条3項を根拠として補償請求をすることができないわけではないと解される。

憲法13条後段、25条1項の規定の趣旨に照らせば、財産上特別の犠牲が課せられた場合と生命、身体に対し特別の犠牲が課せられた場合とで、後者の方を不利に扱うことが許されるとする合理的理由は全くない。

 従って、生命、身体に対して特別の犠牲が課せられた場合においても、右憲法29条3項を類推適用し、かかる犠牲を強いられた者は、直接憲法29条3項に基づき、被告国に対し正当な補償を請求することができると解するのが相当である。」

憲法29条3項
「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。」


 

「予防接種法」とは、国民を伝染病から守り、公衆衛生を向上させることを目的として、国が、国民に予防接種を受けることを義務付けていたものです。

しかし時として、その副作用で後遺障害、若しくは死亡に至る事態を引き起こすこともあるということが、当時すでに統計的に明らかになっていました。

国はそのような事実を知りながら、公共の福祉、つまり「国民全体の利益」を優先させたことで、一部の国民の「生命や身体」に特別の犠牲が課せられたのです。

 

このような場合、その一部の国民に課せられた犠牲は、

  • 「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を規定する憲法13条
  • 「すべて国民は、法の下に平等であって」、「差別されない」と規定する同14条1項
  • 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定する同25条1項

に反するものであることから、

  • 財産権の制限が、特定の個人に対し、特別の財産上の犠牲を強いるものである場合は、憲法29条3項に基づき、補償請求することができること
  • 国民全体の利益が、これら個人の犠牲の上に成立するものであるならば、一方では利益を受けている国民全体、即ちそれを代表する被告国が負担すべきものと解するのが相当である

とされました。

憲法13条
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

憲法14条1項
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」

憲法25条1項
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

 

感染症も、時代を経るごとに複雑に変化し、その数も増加の一途を辿ることから、法律においても、数々の改正がなされてきました。

「伝染病」との呼び名も「感染症」へと変わり、これまでの「伝染病予防法」に代わって 「感染症予防法(正式名称:感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)」と言う呼び名に改正されています(1998年制定・公布、1999年4月1日施行)。

なお、現在も予防接種法は存在しますが、
1948年成立当初こそ「罰則規定ありの義務接種」であったものの
1976年には「罰則規定なしの義務接種」となり、
さらに1994年には「努力義務」に改正されています(予防接種法 第9条(予防接種を受ける努力義務))。

 

◇ ◇ ◇

 

さて
本日ご紹介する、こちらの歌

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな

こちらは、雪が降った日の朝、道信が女性の家から帰って贈った、
後朝の歌とされています。

 

道信は、女性に宛て、この1首に加えて、更に次の1首を贈っているようで。。

帰るさの  道やはかるか  からねどと  来るにまどふ  けさの淡雪

「あなたの家からの帰り道が、いつもと変わったわけではないのですが、迷ってしまうのです。まるで今朝の淡雪のように、あなたが打ち解けてくださったから。」

この歌は、2つ併せて1首といえるでしょう。

 

季節は冬でありながら、どことなく春を感じさせるような、若々しい恋の歌。

未来のある才能豊かな若者が、遥か昔、伝染病によりその将来を断たれてしまったこと、生きていれば、どれほど素晴らしい歌が後世に残されただろうか、、
と考えると、残念でなりません。

現在猛威を奮っている伝染病も、嘗て撲滅された天然痘のように、いつかは終わりが来るのでしょうか?

 

◇ ◇ ◇

 

今、世界中で、一日も早いワクチンの開発が叫ばれています。

しかし、ワクチンの開発や改良が繰り返されてきたその歴史の裏には、恩恵を受ける者ばかりではなく、知られざる多くの犠牲もあった。。

その事実もまた、思いに留めておく必要があるのではないでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 11首目

他人の行為によって、自分に危険が及ぶかもしれないと認識していたにもかかわらず、他人にその行為を許したことで、自らが被害を受けてしまった場合、
例え、それにより死に至る結果となったとしても、その行為を実行したことで、加害者となった人物は、果たして責任を負うのでしょうか?

 


 

「禍福は糾える縄の如し」といわれます。

悲しみもあれば、喜びもあり、それぞれが交互に繰り返されることで、
人生とは奥深く、味わい深いものとなるのではないでしょうか。

とはいうものの、社会においては
時に理不尽としか言いようのない事態が生じることもあるでしょう。

敢えてその状況に身を置かねばならなくなった時、
その事態が、自分の身に危険を及ぼす結果を引き起こすかもしれないとしたら?
そして最悪の場合、死に至る結果となるかもしれないとしたら?

最悪の結果が起こりうることを理解した上でも、
その状況に身を置くことを選択するでしょうか。

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

わたの原  八十島かけて  漕き出でぬと

          人には告げよ  あまのつりぶね 
                        参議篁


わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと
             ひとにはつげよ あまのつりぶね」
                      さんぎたかむら  


小倉百人一首 100首のうち11首目、
平安初期の公卿であり文人、参議篁の歌となります。


 

歌の意味

「この広い大海原(わたのはら・海の原)を、
私が、多くの島々(八十島)を目指して漕ぎ出して行ったと、都にいる親しい人に告げておくれ。釣り船の漁夫よ。」

今回ご紹介する歌のテーマは、百人一首5つのテーマのうち
「羇旅(きりょ)」=旅・旅情の歌。

旅といっても様々。

前途明るい旅もあれば、未来への不安を抱えた旅もあります。
さて、本日の歌は、どちらの旅情を詠んだものでしょうか?

 

 

作者について


参議篁(さんぎたかむら)(802-853)

本名は、小野篁(おののたかむら)。
百人一首においては「参議篁」の名で歌を詠んでいます。

「参議」とは、朝廷の最高機関、太政官の官職のひとつであり、
役人としての官職名。
百人一首においては、このように、本名ではなく官職名が
名前に付けられていることが多くあります。

篁は、歌人としてだけではなく、平安時代の公卿として国政を担っていました。
反骨精神の持ち主であることから「野狂」と称され、
更には、「野相公」、「野宰相」などの異名を持っています。

また、平安初期の篁の身長は、約188cmだったといいますから、
かなり大柄な人物だったようですね。
(ちなみに、現代の男性の平均身長は約170cmだそう。190cm近くとなれば、今でも十分目立ちそうです。)

加えて、文人としても活躍し、
学問においては、漢詩は白居易、書は王羲之と並び称されるほどだったとのこと。
文人としても、素晴らしい才能の持ち主だったことがうかがえます。

 

この時代、日本が力を入れていた外交といえば、遣唐使の派遣。

篁は、承和2年(834年)遣唐使の副使として任ぜられ、
承和3年(836年)、続く承和4年(837年)と、遣唐使として2度唐に渡ろうとするも、いずれも失敗に終わってしまいます。

承和5年(838年)、3度目の渡唐にあたり、遣唐大使である藤原常嗣の乗るはずだった船が、破損していた上に漏水した船であったため、篁が乗るはずであった船と交換させられました。
篁は、これに猛抗議し、乗船を拒否します。

遣唐使一行に加わらなかった上、遣唐使制度を批判する漢詩を発表したことで、嵯峨天皇の怒りを買ってしまいます。
結果、官位剥奪の上、隠岐の島へ流されることとなりました。

2度も渡唐に失敗している上、3度目は壊れた(しかも既に漏水している)船で行け、と言われれれば、この渡唐が失敗するのは、目に見えていますよね。
いくら上からの命令とは言え、命の危険を伴う任務。
誰もが躊躇することでしょう。

しかし、例え無理難題であっても、上からの命令に逆らうなどご法度の時代において、その命令に唯々諾々と従うのではなく、毅然と拒否したところが、篁の「野狂」と称される所以かもしれません。

 

本日ご紹介する、こちらの歌

わたの原  八十島かけて  漕き出でぬと 人には告げよ  あまのつりぶね

これは、篁が嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐の島へ流罪となった際、
難波~隠岐の島の瀬戸内海を通る船旅を思って詠んだ歌。

流罪へと向かう悲しい旅路を
「前途洋々、多くの島々を目指して、大海原へと漕ぎ出して行く旅だ」
と、詠んだ篁。

同じような状況下では、涙に暮れる歌人も多い中、禍をものともしない
篁の気の強さを感じられるような気がいたしますが、いかがでしょうか。

 

隠岐の島は、島根半島の北方約50kmの日本海にある諸島。
現在は島根県隠岐郡に所属しています。
流刑の地として、数々の貴族、政治犯がこの地へ送られ、鎌倉時代、承久の乱に敗れた後鳥羽上皇も、この地で約19年間を過ごしました。

隠岐に流されても、篁は涙に暮れることなく、なんと島の女性たちと数々の恋を楽しんだというのですから、驚きます(特に阿古那という女性との恋物語は有名で、篁が帰京することになり、悲しい別れとなったとのお話もあります。)。
案外、篁は、流刑生活を楽しんでいたのかもしれません。。

しかし流刑となって2年後、篁はその優秀さを惜しまれ、再び京へと呼び戻されることになりました。
流刑になる前に比べ、更に力を増して帰京した篁。

京では、「この空白の2年間は、きっと閻魔大王と働いていたに違いない」
と、皆が口々に語り継いだとのことですから、その強靭ぶりがうかがえますね。

 

 

危険の引受け

 

さて。

このような、自分の身に危険が降りかかるかもしれない、と分かっていたにも関わらず、それでもあえてその危険に向かって行った場合、
または、誰かの行為が自分の身に危険を及ぼすかもしれない、と思いながらも、あえてそれを許してしまった場合、

それによって生じた結果について、
行為をおこなった者は、果たして罪に問われるのでしょうか。

 

このことについて、刑法では「危険の引受け」という言葉で説明がされます。

危ない行為だなと思いながら、第三者のおこなう行為を引受け、結果として自らが被害を受けた場合、その危ない行為自体は「危険だな」と思っていたものの、それによって生じた結果についてまでは覚悟しているわけではありません。

他人がその行為を実行したことで、自分に危険が生じるということを認識しながら、危険に身を晒したことで、発生した結果につき、その行為を実行した者は、刑法上の責任を負うか否かが問われた事例があります(千葉地判平成7年12月13日、ダートトライアル事件)。

 

事件名からも想像できるように、
この事件はダートトライアル競技の練習中に起こりました。

 

ダートトライアル(Dirt Trial)競技とは、モータースポーツの一種。
未舗装のダート路面(泥濘地、砂利等)のサーキットで走行タイムを競う自動車競技です。(Wikipediaより

ダートトライアルの初心者である男性が、約7年の競技歴を持つコーチを同乗させ、練習走行していたところ、高速ギアでの高速走行中、急な下り坂カーブを曲がりきれず、走行の自由を失い、丸太の防護柵に車両を激突させてしまいます。

そして、この激突により、防護柵の支柱がコーチの胸部を圧迫したことで、
結果として、運転者はコーチを死亡させてしまいました。

この場合、コーチは、運転者が初心者であることを知りながら、それでも初心者の運転する車に乗り、その結果、死亡してしまったとしたら、果たして初心者である運転者は罪に問われなければいけないのでしょうか?

 

(業務上過失致死傷等 ※事件当時)
刑法211条「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。」

 

これについて、裁判所は

「上級者が初心者の運転を指導するために同乗する場合、同乗者は運転者の暴走、転倒等によって自己の生命、身体に重大な損害が生じる危険性についての知識を有しており、技術の向上を目指す運転者が、一定の危険を冒すことを予見していることもある。また、そのような同乗者には、運転者への助言を通じて一定限度でその危険を制御する機会もある。したがって、ダートトライアル競技の危険性についての認識、予見等の事情の下で同乗していた者については、運転者が右予見の範囲内にある運転方法をとることを容認した上で、それに伴う危険を自己の危険として引き受けたとみることができ、右危険が現実化した事態については違法性の阻却を認める根拠がある。もっとも、死亡や重大な傷害についての意識は薄くても、転倒や衝突を予測しているのであれば、死亡等の結果発生の危険をも引き受けたものと認めうる。」

と判断し、運転者は罪を負わない、として無罪判決を言渡しました。

 

同乗していたコーチは、約7年の競技歴を持っていた、いわばベテランコーチ。

それ故、ダートトライアル走行の危険性については、十分な知識を持っており、
未熟な運転者が、技術の向上を目的として練習するにあたり、
自分の技術の限界を超えて暴走したり、時には転倒等の危険を冒す可能性もあることを、予想することができます。

またコーチは、同乗し、運転者へ適格なアドバイスをすることで、
予想し得る危険を逆に回避することもできます。

このように、危険な事態が生じることを予想・認識した上で、それでもコーチとして同乗した場合、それは、コーチがこれを「自己の危険として引き受けた」とみることができ、運転者による転倒や衝突により、たとえ死傷という結果に至ったとしても、運転者の責任は負わないとされたのです。

 

なお、この判決では、

「ダートトライアル競技は既に社会的に定着したモータースポーツであり、本件走行会も車両や走行方法、服装などJAFの定めたルールに準じて行われていたこと、競技に準じた形態でヘルメット着用等をした上で同乗する限り、他のスポーツに比べて格段に危険性が高いものとはいえないこと、スポーツ活動においては、引き受けた危険の中に死亡や重大な傷害が含まれていても、必ずしも相当性を否定することはできない」

として、
運転者の走行の範囲が、競技ルールに準じている必要があることも、必要な条件として示されました。

 

スポーツ競技とは、時に危険を伴うもの。真剣勝負とは、まさに命懸けなのです。

だからこそ、スポーツマンシップに則ったスポーツとは、観戦している
私たちにも感動を与えてくれるのではないでしょうか。

そのため、競技会場の条件や、使用する道具に至るまで、細かなルールが定められており、ルールを遵守した上で起きてしまった事故であれば、止むを得ないとされたのですね。

 

◇ ◇ ◇

 

さて、ここで話は平安時代に戻ります。

篁が、もし、上からの命令に逆らうことなく
危険を承知の上で、破損した船に乗り渡唐した結果、命を落としたとしたら?

渡唐のための手段として、壊れている船を与えられたという時点で
既に「ルール違反」となりますが。。

 

とはいえ、「閻魔大王と一緒に働いていた」との噂をもつ篁のこと。
恐らくは、危険を引き受けた結果、死の淵ヘ立ったとしても、そこから這い上がってきたかもしれません。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 16首目

民法では
「意思表示は、その通知が相手方に到達した時からその効力を生ずる」
と定められており、「到達主義」を原則としています。

意思表示には、
・電話等により相手に直接意思を伝える「対話者間における意思表示」
・書面を郵送する方法で、隔地者に対してなす「隔地者間における意思表示」
があります。

書面にて意思表示をする場合は、書面を発送した時点ではなく、
その書面が相手方に到達した時点で効力が発生することとなるところ
「書面が相手方に到達した時点」とは、一体いつの時点を指すのでしょう。

受け取った本人が書面を手にした時点?又は書面の内容を知った時点でしょうか?

 


 

人生とは、出会いと別れの繰り返し。
誰と出会うか、によって人生とは大きく変わってしまうものです。

今年の出会いと別れの季節とは、桜の咲く季節とはならず、
例年とは異なるかたちで過ぎていったように感じます。
しかし、これもまた、記憶に残る新たなる出会いと別れの
季節となったのではないでしょうか。

「袖振り合うも多生の縁」ということわざもあるように、人生における出会いとは、偶然ではなく、すべてが繋がっており、意味のあること。
そう考えますと、一つ一つの出会いがとても大切なものに思えますね。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】
「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる

              まつとし聞かば 今帰り来む
                         中納言行平

たちわかれ いなばのやまのみねにおふる

            まつとしきかば いまかえりこむ
                      ちゅうなごんゆきひら

 

 


小倉百人一首 100首のうち16首目、
平安初期の貴族であり歌人 中納言行平(在原行平)の歌となります。

 

 

歌の意味

 

「あなたと別れて(因幡の国へ)行ってしまうけれど、
稲葉山の峰に生えている松の木のように、あなたが「待っている」と聞いたなら、すぐに都に帰ってまいります。」

百人一首に収められている歌は、テーマ別に5つの種類に分けられています。
歌の数の多い順に、

①恋の歌 43首
②四季の歌 32首
③羇旅(きりょ)=旅・旅情の歌 4首
④離別の歌 1首
⑤雑(その他)の歌 20首

といったテーマで詠まれており、今回はその内の貴重な1首、
「離別」をテーマにした歌となります。

 

 

作者について

 

在原行平(ありわらのゆきひら)(818-893)

平城天皇の皇子阿保親王の子で、
在原業平(ありわらのなりひら)の異母兄弟です。
平安時代「稀代のプレイボーイ」との異名を持っていた弟・業平とは違い、
様々な職を経験し、中納言にまで昇りつめた真面目で有能な官僚。

中納言とは、天皇の近くに仕え、大臣、大納言に次ぐ官職であり、
当時の官僚のトップ3といえる役職でしたから、相当のエリートだったようです。

そんな行平でしたが、
855年に因幡国の国守(地方官)に任ぜられ、京を離れることになりました。

 

本日ご紹介する歌は、行平が送別の宴の席で詠んだ、挨拶の歌です。

因幡国とは、現在の鳥取県。
ワニザメを欺いたウサギが痛い目にあったところを、大国主神に救われる…
という、古事記「因幡の白兎」のお話で有名ですね。

 

 

意思表示の到達


さて

官僚・行平が、辞令をもとに因幡へ行くことを命ぜられ、弟の業平が多くの恋文を送っていたように、今も昔も手紙は気持ちを伝える大事な手段。
そんな、手紙で書いた辞令や恋文が相手に伝わるのは、一体どの瞬間でしょうか。

口頭や直接手渡しできるのであれば、その瞬間に伝わることになりますが、遠く離れた人に送った場合には、いつ手紙の中身に書かれた意思が伝わることになるのでしょうか。当たり前といえば当たり前ですが、相手が知ったときですよね。

これについては、民法でも、「意思表示の効力」という名前で、

民法97条1項
「意思表示は、その通知が相手方に到達した時からその効力を生ずる」

としてちゃんと定められており、これは「到達主義」と呼ばれています。

とはいえ、この「その通知が相手方に到達した時」とは、
一体どの時点を指すのでしょうか。
受け取った本人が書面を手にした時点か、または書面の内容を知り得た時点か、
それとも・・・

この「意思表示の到達」に関し、しっかりと裁判で争われたものがありますので、
今回はそちらを紹介します。

自分の相続権を侵害されたとする相続人(実子)が、その侵害権を時効期間(遺留分減殺請求権の時効期間として相続を知ったときから1年とされている。)が経過する前に、亡くなった被相続人(父親)から全財産を相続したもうひとりの相続人(養子)に対して、自分の相続分が侵害されたので侵害された分を返せ、といった内容を記載した内容証明郵便を送付したところ、配達時に養子が不在だったため、この内容証明を受領しなかった
不在配達通知書の記載により、内容証明郵便が送付されたことを知りながら、仕事が多忙であるとして受領に赴かなかったことで、内容証明郵便は、留置期間経過により相続分が侵害された実子に返送された。その後、色々なやり取りを経ているうちに、時効期間が既に経過してしまった、という事例(最判平成10年6月11日)。

(意思表示の効力発生時期等)
民法97条1項
「意思表示は、その通知が相手方に到達した時からその効力を生ずる。」

民法97条2項
「相手方が正当な理由なく意思表示の通知が到達することを妨げたときは、その通知は、通常到達すべきであった時に到達したものとみなす。」

民法1048条(旧民法1031条)
「遺留分侵害額の請求権は、遺留分権利者が、相続の開始及び遺留分を侵害する贈与又は遺贈があったことを知った時から1年間行使しないときは、時効によって消滅する。相続開始の時から10年を経過したときも、同様とする。」

 

最高裁の判断では、養子が

————————————————————————————-
①内容証明郵便の不在配達通知により、
実子から内容証明郵便が送付されたことを知っていた。

②以前より、弁護士から遺留分減殺についての説明を受けていた。

③実子からの内容証明郵便の内容が、遺留分減殺の意思表示又は少なくともこれを含む遺産分割協議の申入れであることを十分に推知することができた。

④仕事で多忙であったとしても、
受領の意思があれば内容証明郵便を受領することができた。
————————————————————————————-

等の事情から、
実子の内容証明郵便の内容である「遺留分減殺の意思表示」は、養子において知ることが可能な状態に置かれていたといえ、

「隔地者に対する意思表示は相手方に到達することによってその効力を生ずるものであるところ、この「到達」とは意思表示を記載した書面が、相手方に直接受領され、又は了知されることを要するものではなく、相手方の了知可能な状態に置かれることをもって足りるものと解される。(最判昭和36年4月20日)*」
とし、

「内容証明郵便の内容である、遺留分減殺の意思表示は、社会通念上、(養子の)了知可能な状態に置かれ、遅くとも留置期間が満了した時点で(養子に)到達したものであると認めるのが相当である。」
としました。

これにより、「隔地者間における意思表示」における、意思表示到達の効力が発生する時点を、「遅くとも留置期間が満了した時点」と明確にしました。

意思表示の書面が送達されたとき、受領する側が故意に受領をしなかったとしたとしても、その内容が本人に推測できるとしたならば、然るべき期間が経過した後に、意思表示は到達されたとみなされるのですね。

 

これにより、平成29年改正民法(2020年4月1日施行)においては、
受け取る側が正当な理由なく意思表示の通知が到達することを妨げたとき、
つまり、原因が受け取る側にあるときは、意思表示は到達されたとみなされる、
という新たな規定が追加されました。

民法97条2項
「相手方が正当な理由なく意思表示の通知が到達することを妨げたときは、その通知は、通常到達すべきであった時に到達したものとみなす。」

 

これは、改正前民法97条1項を明確に規定したものだといえるでしょう。

(改正前民法97条)
1 隔地者に対する意思表示は、その通知が相手方に到達した時からその効力を生ずる。
2 隔地者に対する意思表示は、表意者が通知を発した後に死亡し、又は行為能力を喪失したときであっても、そのためにその効力を妨げられない。
(改正民法97条)
1 意思表示は、その通知が相手方に到達した時からその効力を生ずる。
2 相手方が正当な理由なく意思表示の通知が到達することを妨げたときは、その通知は、通常到達すべきであった時に到達したものとみなす。
3 意思表示は、表意者が通知を発した後に死亡し、意思能力を喪失し、又は行為能力の制限を受けたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。

 

さて…

本人の意思に関わらず、受取拒否など不可能な「辞令」
在原行平も辞令が下りたとき、
華やかな京を離れ、因幡国に行くことをどう思ったでしょうか?

 

本日ご紹介する、こちらの歌

「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」

この歌は「離別」の歌とされていますが、あらためて一度その意味を考えてみますと、「恋人との離別」のようにも感じられ、これは「恋」の歌とも言えるのでは?
とも思われますが、いかがでしょうか?

100首のうち、敢えてこの1首のために「離別」というジャンルが設けられたこと。
これは、作者が真面目な行平だったからかもしれません。
(もし業平だったら、恐らく「恋」のジャンルになっていたでしょう。。)

行平は因幡から戻った後、役人になる貴族の子弟に住居を与えて子弟を教育するための学問所として大学別曹奨学院を創設するなど、後進の育成にも力を注いだ人でした。

 

ちなみにこの歌は、現代においても、
迷いネコが帰ってくるおまじないとして使われているようです。

例えば…
・出入り口に猫の使っていた食器を伏せ、この歌を書いた紙を貼っておく。
・猫の餌を入れている食器の下に、この歌の上の句を書いた紙を置く。
 猫が帰ってきたら、上の句を書いた紙に下の句を書いて燃やす。
・この歌を半紙に書いて、東の壁に貼る。
・この歌を紙に書いて、玄関の人目につかない所に貼っておく。

昔の歌が、おまじないとして現代に生きているというのもまた、興味深いですね。
皆さまも、そのような折(出来ればあって欲しくないですが)には是非このおまじないを使ってみてはいかがでしょうか。

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 


 

*(最判昭36.4.20)
「相手方の了知可能な状態に置かれること」につき、会社に届けられた会社宛の意思表示の催告書が、代表取締役本人が不在であったため、たまたま居合わせた代表取締役の娘が、代表取締役の机の上の印を勝手に使用して催告書を受領した上、その催告書を代表取締役の机の抽斗に入れておいた場合、会社の社員でもない代表取締役の娘に催告書を受領する権限がなく、また娘が社員にその旨を告げなかったとしても、了知可能の状態におかれたものと認め、催告書の到達があつたものと解すべきである、とされ、必ずしも本人が受け取らなくても良いとされた事例。

法律で読み解く百人一首 65首目

もし、自分の知られたくない秘密が、インターネット上に公表された場合
個人のプライバシーに属する事実であることを理由に、その不名誉な検索結果を削除するようウェブ事業者に求めることができるのでしょうか・・・?

 


 

今も昔も、恋についての話題が人の関心を集めるのは、世の常。

このブログで紹介している小倉百人一首も、
100首中なんと半数近くの43首が恋の歌となります。

それにしても、恋の噂というものは
恐ろしいほど瞬く間に広まってしまうもの。。

あたかも、水面に落とした一滴の水が
小さな漣を立てながら、どこまでも果てしなく広がっていくかのよう。。

世間に名前を知られる人の恋の噂ともなれば
広まる勢いも、加速する一方ではないでしょうか。

しかし、そうして広まった恋の噂とは、時に
当事者の名前や評判を大きく傷つけてしまうこともあります。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

 

「恨みわび ほさぬ袖だにあるものを

            恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ」 相模

「うらみわび ほさぬそでだにあるものを

         こひにくちなん(む) なこそお(を)しけれ」 さがみ

 

小倉百人一首 100首のうち65首目、
平安後期の女流歌人、相模による歌となります。

 

 

歌の意味

 

「あなたの冷たさを恨み続け、もう恨む気力も失った末に
涙に濡れて、乾くこともなくなった、この着物の袖ですら惜しいのに
ましてや、この恋が世間に知られてしまうことで私の名が朽ちてしまうとは
なんとも惜しいことです。」

この歌は、女性が実際に恋人に送るために詠んだ歌ではなく、
予め用意された「お題」にそって歌を詠む
「題詠」(だいえい)
という詠み方で詠まれています。 

平安時代には、身分の高い貴族が、時に客人を招待し、用意した「お題」に沿って招待客に即興で歌を詠んでもらうという会を催すことがありました。

これが、「歌会」といわれる催しです。

平安時代の歌会においては、誰が優れた歌を詠めるか
勝敗をつけて競わせることがありました。

実際に、歌会で優れた歌を詠むことができた者には褒美が与えられることもあり、
また、高位の貴族の目に留まって、出世のチャンスとなることもありましたので、「歌を上手に詠む」ということは、平安時代の貴族にとって、人生を左右しかねない非常に重要なことだったのです。

その年の始めにおこなわれる歌会は、「歌会始」と言われ、
現在でも毎年新年になると、宮中「松の間」において「歌会始の儀」がおこなわれておりますので、御存知の方もいらっしゃることでしょう。

ちなみに、今年2020年、令和初の歌会始のお題は「望」。
令和3年のお題は、既に「実」と決定したそうです。

現在では皇族のみならず、広く国民からも和歌を募集し、著名な歌人たちからなる選者により「選歌」がおこなわれているとのこと。
平安時代から続くといわれる長い歴史のあるこの催し、皆さまも、是非応募されてみてはいかがでしょうか?

 

 

作者について

相模(さがみ)生没年不詳(998?-1061頃?)

相模は10代の頃、橘則長(たちばなののりなが・清少納言と橘則光の息子)と結婚しましたが、やがて離婚。

その後、20代前半の頃、大江公資(おおえのきみより)と結婚し、
夫の任国の相模国(さがみのくに)に随行します。
そこで4年間過ごしたことで、以降「相模」との女房名(仕事上の呼び名)で呼ばれるようになります。

しかし、あろうことか夫・公資は相模の国で他の女性と浮気してしまいます。
結局、相模の2度目のこの結婚生活も、残念ながら僅か5年で破綻となってしまいました。。

 

本日ご紹介する、こちらの歌

「恨みわび ほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ」 

この歌には、相模自身の
恋にまつわる様々な悩みや苦しみが込められているようでなりません。

相模国とは、今で言うと箱根を越えてすぐの、
小田原や海老名の辺りといわれています。

当時、文化の中心であった京都で、一流の歌人たちと関わりながら、
自身も優れた歌人と讃えられ、日々華やかな生活をしていた相模にとって
夫に随行しての相模行きは、相当に不本意なものだったことでしょう。

相模国から京に戻った後、相模は天皇の皇女に女房として仕えることになったものの、ここで付けられた女房名は、なんと嘗ての夫の任国「相模」でした。

元夫にまつわる名前で、日々呼ばれ続けることになるとは
何とも悲しい話ではないでしょうか。。

この後、相模は
これまでの結婚生活の恨みつらみを100首の歌に詠み
箱根権現に奉納しています。

これに対し、「権現からの返歌」と称する100首の歌が相模に送られ
(この100首を詠んだのが誰なのかは今なお不明だそう。。)
相模は、これに対する返歌として
更に100首の歌を詠み、後世に数多くの歌を残した、、

というのですから、人生とはどう転ぶか分からないものですね。

しかし、またそれも、人生の面白さなのかもしれません。

 

 

 

忘れられる権利


この歌で相模が危惧したように、もし自分の悪い噂が広まってしまったら、
誰もが、一刻も早く、その噂が忘れ去られることを願うことでしょう。

「人の噂も75日」という言葉がありますが
現代において、この言葉はどれだけ意味を持っているでしょうか。

平安時代と現代とでは、情報の流通方法も、そのスピードも全く異なります。

現代では、秘密にしておきたい個人の情報が
インターネットを通じ、一瞬にして世界中に拡散されてしまいます。

昨今では、誹謗中傷がSNS上に書き込まれ、
瞬時に、世界中に拡散されるという事件もあり、
情報を削除したその瞬間から、さらなる情報が広まってしまうなど
削除と拡散が繰り返されるといういたちごっこが続いていく恐ろしさ。。

結局、隠しておきたい秘密とは
75日どころか永久的にインターネット上に残存することとなります。

このような状況では、検索すれば、いつでも情報が出てきてしまうため、
「いずれ時間が過ぎればみんな忘れてくれるだろう」
という希望的観測も、全く意味をなしませんね。

 

そこで、本日のテーマは

人には「忘れられる権利(*1)」があるか?

 

ここで、実際に裁判で争われた事件をご紹介いたします。

男性は、児童買春をしたとして、平成23年11月に逮捕され、その後罰金刑に処せられた。男性が児童買春をした疑いで逮捕された事実は、逮捕当日に報道され、
その内容はインターネット上のウェブサイトの電子掲示板に多数回、不特定多数人によって書き込まれた。
それにより、男性の住む県名と、男性の氏名を、世界最大シェアを占める検索サイトの検索窓に打ち込んで検索すると、男性が児童買春で逮捕された事実等が書き込まれたウェブサイトのURLが検索結果として表示されるようになった。
検索結果には、URLのみならず、サイトの表題や、事件の抜粋が記載されており、男性が、過去に児童買春の容疑で逮捕された事実をうかがわせる内容となっていた。
男性は、インターネット上で、自分に関する知られたくない情報が不特定多数の人の目に晒されないように、検索サイトを運営するウェブ事業者に対し、検索結果を削除するように求めて裁判を起こした。(最決平成29年1月31日

この裁判では、以下の2点が争われました。
①インターネット上にある、自分の知られたくない秘密を消してもらうことはできるか
②不名誉な検索結果が表示されないよう、ウェブ事業者に対策を求めることはできるか

その結果は、、

最高裁は、男性の主張を認めず、
「ウェブ事業者による、検索結果削除の必要はないと判断したことで、
男性にとっては厳しい結果となりました。

判決の中で最高裁は
①男性の有する
「自身が逮捕された事実を公表されない利益」が、法的な保護を受けることを示した上で(最高裁は、男性逮捕の事実については、プライバシーに属するものだとして詳述せず簡潔に指摘しています。)
②男性の有する
・「個人のプライバシーに属する事実を公表しないことによって守られる利益」
・「公表することで得られる利益」
の2つを比較し、前者が優越する場合には、ウェブ事業者に検索結果の削除を求めることができる、としました。

その結果、
男性個人のプライバシーに属する事実を
「公表しないことによって守られる利益」は、
「公表することで得られる利益」よりも明らかに優越するとはいえないとして、男性の請求を認めませんでした

最高裁のこの判断では、男性逮捕の事実が
①児童買春は、児童に対する性的搾取及び性的虐待と位置付けられている
②児童買春は、社会的に強い非難の対象とされ、罰則をもって禁止されている
といった理由により、
公共の利害に関する事項」であるため、事実を公表することで「公共の利益に資する情報」を提供するということになり、「公表することで得られる利益」とは、社会的に価値があるものと判断したと思われます。

他方で、
①今回の検索結果は、男性の居住する県の名称、及び男性の氏名を入力して検索した場合に表示される検索結果の一部分にすぎない
②男性の事件についての事実が伝達される範囲はある程度限られている
といった理由により、
男性個人のプライバシーに属する事実を「公表しないことによって守られる利益」については、「公表することで得られる利益」より明らかに優越するとは言えないと判断しました。

 

私たちは「自分の知られたくない情報を公表されない権利」を持っているものの、
この権利は、時に情報を発信したい人の表現行為(*2)と衝突することがあります。

両者の権利は、どちらも非常に重要でありながら、非常に難しい問題となっています。(これは表現の自由とプライバシー権の衝突として論じられます)

この事件において最高裁が示した、
「インターネット検索におけるプライバシー権を守ることによる利益が
逮捕された事実についての情報を公表する利益よりも明らかに優越する
と言えなければ、検索結果を削除させることはできない」

という基準は、一見、
「公表することで得られる利益」の方を有利に扱っているようにも見えます


これは仮の地位を定める仮処分(本件ではウェブ検索結果の削除)が認められるために、被保全権利」及び「保全の必要性」の2つの要件が充たされている必要があることから、この2つの要件充足の有無を判断するために、最高裁は「明らかに優越する」という枠組みを設けたのだと思われ、実際その価値判断を明示していないとも言えるのではないでしょうか。

 

(仮処分命令の必要性等)
民事保全法23条2項
仮の地位を定める仮処分命令は、争いがある権利関係について債権者に生ずる著しい損害又は急迫の危険を避けるためこれを必要とするときに発することができる。

 

誰しも、忘れたい過去とは、1つや2つあるもの。。

記憶の中にだけある過去ならば
時とともに忘却の彼方へと過ぎ去ってくれることを、ひたすら願うばかりです。。

 文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

 


 

*1)「忘れられる権利」、その意義は明確ではないが、「インターネットの検索サービスとの関連で語られる「忘れられる権利」における忘却は、日常用語における忘却とはかなり意味が異なり、情報の拡散の防止を目的としている」宇賀克也『忘れられる権利』について――検索サービス事業者の削除義務に焦点を当てて(論及ジュリスト18号24頁)より。

*2) 最高裁は、「表現の自由(憲法21条1項)で保証される」と明言せずに、「表現行為」と言い、「情報の収集、整理及び提供はプログラムにより自動的に行われるものの、同プログラムは検索結果の提供に関する検索事業者の方針に沿った結果を得ることができるように作成されたものであるから、検索結果の提供は検索事業者自身による表現行為という側面を有する」として「表現行為」という言葉を慎重に選択したものと思われる。
プログラムにより自動的になされる情報収集及び提供は、一見すると表現の自由の保護を受けないとも思えるが、この最高裁の判示は、同プログラムを作成した事業者の方針が、情報の収集及び提供にあらわれているとして、「表現行為の側面を有する」としたのであろう。

法律で読み解く百人一首 42首目

———やまと歌は、人の心を種として、             □□□□□□□□   □よろづの言(こと)の葉(は)とぞなれりける

これは、当ブログで紹介しようとしている小倉百人一首ではなく、
古今和歌集の冒頭部分である。

意味は、
「和歌は、人の心がもとになって、それが様々な言葉になってできたものだ」
というもの。

小倉百人一首の中の和歌も
その一首一首が、人の心が言葉になってできたものといえる。


さて、本日紹介する歌は、こちらである。

【本日の歌】

 

「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波超さじとは」 清原元輔

「ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ
□□□□□□□□すゑのまつやま なみこさじとは」 きよはらのもとすけ

-意味-
「約束したのに。たがいに涙で濡らした袖をしぼっては、どんなに高い波でも末の松山を超すことができないことから、波が末の松山を超えることがないように、自分たち2人の恋心が変わることはない、と」

【作者はこんな人】

この歌の詠人は「枕草子」おなじみの清少納言の父、清原元輔であり、
この人については古典の教科書でお馴染み「今昔物語集」に載せられるような
興味深いエピソードがある。

平安時代、男性は人前に出るときに頭に烏帽子や冠といったかぶりものをつけていなければ、大変恥ずかしいことだとされた。

ところが、清原元輔は人前で馬から落ちた拍子に、
頭のかぶりものが落ちてしまった。周りの人間は大笑いである。
(現代でいうと、人前でパンツ1丁でいるようなものだろうか)

普通の人なら、ここで恥ずかしさのあまり、消え入りたくなるものだが・・・

清原元輔は違った。

従者が急いで冠を拾って渡しても、すぐにそれを受け取らず、

「冠を落としはしたが、馬も悪くないし、
冠もとれやすいものだから冠も悪くない。
自分には冠を結わえ付ける頭の左右の髪の毛もないから、自分も悪くない。
だから、冠を落としたことで笑ってはならん!」

と、その場で滔々と説いたあとに、やっと冠を被ったのである。

常識では考えられない行動をする元輔に、
ますます周囲の人の笑い声は大きくなった。

おそらく元輔は、本気で真面目に道理を説こうとしたのではなく、
面白さを狙ってこのような行動に出たのであろう。

ただ、恥ずかしい失敗をしただけで終わらせてしまわず
“面白おかしい話にしてしまおう…!”という、
現代の芸人のようなスピリッツがあったのか…

それがどうかはともかく、この話に表れているように
どこか憎めない、お茶目でひょうきんなおじさんが清原元輔であった。

【大津波にも負けない?!「末の松山」伝説】

この歌に出てくる「末の松山」というのは、
現代でいうと宮城県多賀城市にあたりにあったとされる。

標高10メートル程度で、「山」というより小さな「丘」であり、
堂々とした松の木々が枝を伸ばしている。

一説によれば、この歌が詠まれる前に起きた貞観地震で大津波が押し寄せ、
その規模は町が飲み込まれるほどであった。
それなのに、小山である「末の松山」の松は無事であったことから

「『末の松山』に波が到達することは絶対ないのではないか!!」

と人々は思った。

その話が都の人々にも伝わって、
“「末の松山」に波が来ること=ありえないこと”のたとえとなり、
「末の松山」は、平安歌人のイマジネーションを掻き立てる歌枕となった。

なお、平安歌人は、基本的に引きこもりがちの生活を送るので
歌の題材がある現地に赴いたりはしない。女性ともなれば特に家の外には出ない。

官吏として現地に赴いた貴族が伝える話から、
みやこびとは自邸の中で、想像力の翼を歌枕の地まで広げて歌を詠(よ)んだ。
清原元輔も、「末の松山」というダイナミックな題材に想像力を掻き立てられ、

“ひとつ、男女の恋愛のさまを詠んでみよう…”

と思って作られたのが本日紹介した歌である。

【人の代わりに歌を詠む…歌詠みの代理】

さて、実はこの歌、清原元輔が友人に頼まれて代わりに詠んだものである。

その友人は、恋人であったのに心変わりしてしまった女性に対して、
恨み言の一つも言ってやりたい!と思ったのか、
歌の名手であった元輔に、代理して歌を詠んでくれるように頼んだ。

平安時代、和歌は恋愛において最も重要なものであった。
(言ってしまえば歌が下手だと全くモテない…)
ゆえに、代理で歌の上手い人に詠んでもらうようなことは数多くあった。

唐突になって恐縮だが、本日のメインテーマはこの「代理」である。

今までずっと歌の紹介や作者の紹介を長々としてきたが、
だれが何と言おうと、本日のメインディッシュは、「代理」である。
大事なことなのであえて繰り返させていただいた。

【法律上の代理とは?】

現代民法には、「代理」という制度がある。

代理という言葉を耳にしたとき
皆様は、ありとあらゆる行為の代理を思い浮かべることと思う。

歌の代筆はもちろん、
代わりに買い物に行って来てもらう、
気になるあの人に代わりにスマホでメッセージを打ってもらう…等々。

これらは全て、民法上の代理に含まれるのだろうか。

民法上の代理は、法律行為を代理することをいう。

【たのしい法律行為】

ここで、「“法律行為”って何?何?」と皆様は疑問を持たれたことと思う。

法律行為とは講学上、
「人が私法上の権利の発生・変更・消滅(法律効果)を望む意思(効果意思)に
基づいてする行為」のことをいう。

また新しい言葉が出てきてしまったが、
上記の私法とは、われわれ「人類の生活関係を規定する」[1]法律である。
この生活関係というのは、親子夫婦の関係や財産の関係等である。

財産の関係とは、
「われわれの衣食住その他の経済的欲望を満足させる有形無形の手段(財貨)を
自分のものとしてもち、これを取引する関係」[2]のことをいう。

簡単な例をあげると、
「小倉百人一首を読み上げる専用の機械」(以下、「読み上げ機」)[3]
という財産を自分のものとして持っている人がおり、
これを4万5000円で売ると言ったとする。

「読み上げ機」を、4万5000円という財産を支払って、買う人がいる。
この取引が、財産の関係である。

取引により、「読み上げ機」を「自分のものとして持つ権利」が、
売った人から買った人へと移転すると同時に、
4万5000円という経済的価値が買った人から売った人へと移転する。

つまり“「読み上げ機」という財産を売る、買う”という行為は
私法上の財産的権利を移転させようとする法律行為なのである。

【そして再び本日のメインテーマへ】

ここまで、法律行為と私法の説明をしてきたが、話を代理に戻そう。

先ほども述べたように、代理とは“法律行為を代理すること”をいうから
それ以外の行為は代理の対象とはならないことになる[4]

つまり、
・友だちに和歌を代わりに詠んでもらうこと
・スマホでメッセージを打ってもらうこと
これらは法律行為ではないので、通常民法上の代理の対象にはならない[5]

以上長々と説明してきてしまったが、今回一番言いたかったことは、

歌を詠むことも、法律行為も、「全て人の心が決める」という点に違いはない。
しかしながら、

「財産権の移転を含む私法上の権利の発生・消滅等の意思を伴うかどうか」

さらには

「民法上の代理の対象になるか否か」

以上の点において、両者は異なるのである。


[1] 全訂第一版 『民法案内』1私法の道しるべ 我妻栄著 遠藤浩補訂 p.55

[2] 同 p.60

[3]  競技かるたには試合をする二人の他に歌の詠み手が必須だが、人数的に詠み手が確保できない場合などに、これを用いる。私は対戦相手がいないときに、一人でこれを使って練習したことがある。だだっ広い畳の部屋に、一人ぽつねんと箱型機械のボタンを押し、札を払っている様子を想像してみてほしい。あの日は寒かった。

[4]  最判昭和35.2.19民集14.2.250も参照されたい。

[5]  なお、こういった法律行為ではない行為のことを、講学上、「事実行為」という。

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー