法律で読み解く百人一首 17首目

少し前に話題を集めた「老後2000万円問題」。
これを受け、投資への関心が高まった方もいらっしゃるかと思います。
諸制度も改正が重ねられており、最近では「新NISA」が始まりました。

このように、現在は若い年齢であっても、また少額からのスタートでも、投資に挑戦できる制度が多く、かかる情報もインターネットで気軽に収集することができます。

 

その一方で、
証券会社にしてみれば、顧客を獲得するのに苦労しているのかもしれません。

 

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川

からくれなゐに 水くくるとは」  

在原業平朝臣


「ちはやぶる かみよもきかず たつたがは

からくれなゐに みづくくるとは」

ありわらのなりひらあそん

  

 

 

小倉百人一首 100首のうち17首目、
平安初期~中期の貴族・歌人、在原業平朝臣の歌となります。

 

 

歌の意味

 

(川面に紅葉が流れていますが)遠い昔の神々の時代にさえ、こんなことは聞いたことがありません。
竜田川一面に紅葉が散り浮いて流れ、水を鮮やかな紅色の絞り染めにするなどということは。

 

ちはやぶる(千早ぶる)
「神」にかかる枕詞。
「いち=激い勢いで」「はや=敏捷に」「ぶる=ふるまう」という言葉を縮めたもので、勢いが激しい、強力で恐ろしいことを表す。

神代
「遠い昔」や「(太古の)神々の時代」の意。
「神々の時代でさえ聞いたことがない」とすることで、下の句の内容がそれほど不思議な現象であることを指す。

竜田川
奈良県生駒郡を流れる川で、紅葉の名所。

からくれなゐ
「唐紅」や「韓紅」と表記し、濃く鮮やかな紅色を指す。

水くくるとは
「くくる」は絞り染めの技法である「くくり染め」にする、ということ。
「竜田川が水をくくり染めにする」という擬人法が用いられている。

 

 

 

作者について

 

在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん・825-880)

 

平安の初期から前期にかけての貴族・歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。
天城天皇の孫にあたる人物で、母方の血筋では桓武天皇の孫にあたるなど、出自としては非常に高貴な身分でした。しかし、父である阿保親王が政権争いの連帯処罰を受けて左遷されたことなどから、生まれて間もなく、兄たちと共に皇族を離れて「在原」の姓を名乗ることとなりました。

貴族としては、出仕を初めてからもなかなか昇進できず、官職についた記録もありません。このように、朝廷における長い不遇の時代が業平を和歌に没頭させたのでした。
のちに御代が変わると、蔵人頭に任ぜられるなど要職を務めました。
一方、歌人としては、「古今和歌集」に収録された30首のほか、勅撰和歌種に87首が入首するほどの名手であったようです。

そして、業平といえば容姿端麗・恋多き男性として知られています。「ちはやぶる…」の歌も、かつて恋愛関係にあった藤原高子(二条后。清和天皇の女御)に捧げたものだとか。

業平は平安の恋愛小説「伊勢物語」の主人公ともいわれていますが、その中には、業平と高子が身分違い許されぬ恋に落ちて駆け落ちを試みるものの、途中で失敗して高子が連れ戻されてしまう場面が描かれています。
「ちはやぶる…」は、高子の持つ屏風を見た業平が詠んだ「屏風歌」(実際の風景を見ずに、屏風に描かれた絵を主題として詠まれた和歌)です。
業平はこの歌で彼が変わらず高子への気持ちを抱いていることを暗に示した、とする説もあります。

 


 

そんな業平が詠んだ、本日の歌

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは

 

漫画作品のタイトルに用いられたことから、耳にしたことのある方も多いかと思います。ところで、落語の演目があるのはご存じでしょうか?

 

「千早振る」という古典落語で、別題「百人一首」「無学者」ともいいます。
そのストーリーはというと・・・

 

ある日、長屋で物知りと知られる「ご隠居」のもとに、「八五郎」がやってきます。娘に「ちはやぶる」の歌の意味を聞かれたがわからない、教えてくれというのです。
ところが・・・実はご隠居もこの歌の意味を知りません。しかし、物知りといわれる手前、知らないなどとは口が裂けても言えません。
そこで、ご隠居は即興で次のような解釈を考えます。

・「竜田川」という相撲取りが吉原で「千早」という花魁に一目ぼれするものの振られてしまう。(=千早振る)

・それならと、竜田川は妹分の「神代」に言い寄るものの、こちらも千早に倣って竜田川を相手にしない。(=神代も聞かず竜田川)

・その後、相撲取りを廃業して豆腐屋になった竜田川のもとに、偶然、物乞いとなった千早がやってくる。おからを恵んでほしいという千早に怒った竜田川は彼女を突き飛ばし、自身の過去の行いを悔いた千早は、近くにあった井戸に身投げする。なお、千早の本名は「永遠(とわ)」であった。(=からくれなゐに 水くくるとは)

 

所々無茶に聞こえるものの、最後には八五郎も納得してしまいます。
これだけの嘘をスラスラ述べてしまうご隠居には驚きです。

 

 

先物取引「客殺し商法」による詐欺

  

さて・・・

 

ご隠居の意のまま、すっかり騙されてしまった八五郎。
思惑どおり、沽券を保つための「カモ」にされてしまったのですね。

もし八五郎が先々でこの話を披露し、大恥をかいてしまったとしても、体面が守られたご隠居には関係ありません。
自分の利益を守るために嘘をついたご隠居は、「詐欺罪」とみなされてしまうのでしょうか。

 


 

 

商品先物取引に関して、いわゆる「客殺し商法」により、業者が顧客から委託証拠金名義で現金等の交付を受けた行為について、詐欺罪の成立が認められた事例があります(最決平成4年2月18日)。

「客殺し商法」とは、外務員の思惑通りに顧客に取引をおこなわせ、顧客に損失を発生させ、顧客への委託証拠金の返還及び利益の支払を免れる商法のこと。
業者が利益を得る一方、客が大きな損失を抱えることになるものであり、業者が意図的に仕掛ける方法です。

 

本件は昭和45年から47年にかけての時期において、商品取引員(顧客からの商品取引所における売買注文を執行するための受託業務をおこなう者)として営業していた株式会社Aの社員らが顧客を勧誘し、総額5000万円に上る委託証拠金の交付を受けた行為に関連して、その幹部、管理職、外務員ら合計11名が詐欺により起訴された事案です。

一審判決は、被告人らが客殺し商法をとることを営業方針としていた点は認められず、具体的な欺罔文言とともに勧誘がおこなわれた4件のみについて詐欺罪の成立を認めました。
これに対して検察側が控訴し、控訴審判決は、検察側の主張を全面的に採用。上記争点に関する原判断を破棄しました。

被告人らが上告したところ、本決定は、原判決の認定した事実関係を摘示した上で、それらの事実に照らせば、被告人らの行為は詐欺罪を構成するとの職権判断を示し、上告を棄却しました(以上、判例タイムズ781号117頁参照)。

本件において、被告人らの用いた「客殺し商法」の手口は以下となります。

 

①勧誘に当たっては、いわゆる「飛び込み」と称し、一定地域の家庭を無差別に訪問して勧誘する方法を採る。

②勧誘対象の多くは、先物取引に無知な家庭の主婦や老人となり、これらの者を勧誘するに際しては、外務員の指示どおりに売買すれば先物取引はもうかるものであることを強調する。

③右の言葉を信用した顧客に対して、外務員の意のままの売買を行わせることとし、具体的には、相場の動向に反し、あるいはこれと無関係に取引を仲介し、しかも、頻繁に売買を繰り返させる。

④取引の結果、顧客の建て玉に利益を生じた場合には、一定の利幅内で仕切ることを顧客に承諾させて、利益が大きくならないようにする一方で、利益金を委託証拠金に振り替えて取引を拡大、継続するよう顧客を説得し、顧客からの利益の支払要求等を可能な限り引き延ばしたりしつつ、それまでとは逆の建て玉をするなどして、頻繁に売買を繰り返させる。

⑤以上の方法により、顧客に損失を生じさせるとともに、委託手数料を増大させて、委託証拠金の返還及び利益金の支払を免れる。

 

 

最高裁は、

「客殺し商法」により、先物取引において顧客にことさら損失等を与えるとともに、向かい玉を建てることにより顧客の損失に見合う利益を会社に帰属させる意図であるのに、自分達の勧めるとおりに取引すれば必ずもうかるなどと強調し、顧客の利益のために受託業務を行う商品取引員であるかのように装って、取引の委託方を勧誘し、その旨信用した被告者らから委託証拠金名義で現金等の交付を受けたものということができる

 

とし、被告人らの本件行為は詐欺罪を構成すると判断しました。

 

(詐欺)
刑法246条1項 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。

 

 

◇ ◇ ◇

 

ご隠居の嘘にまんまと騙されてしまった八五郎。
かつての恋人に詠んだ歌を落語でネタにされるなんて、ましてや元の影も形もないストーリーにされてしまうなんて・・・
業平もさぞ驚くことでしょう。

 

このように、落語は、熊五郎、八五郎、与太郎あたりが、「ご隠居」や「先生」など年長者の口の上手さに丸め込まれてしまう、という噺が多いですよね。

「客殺し商法」に負けずとも劣らない、ご隠居たちの見事な手法。
あなたなら何と名付けますか?

 

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 9首目

改元から早くも5年以上が経過しました。

令和に入ってから、特に「価値観」というものを考える機会が多くなったように思います。
人種や性別、環境についてなど、その視点は様々。
自分にとって心地の良い回答を探そうにも、ソースが多いからこそ、情報の選択も難しくなってきていると感じる今日この頃です。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「花の色は 移りにけりな いたづらに

我が身世にふる ながめせしまに」  

小野小町


「はなのいろは うつりにけりな いたづらに

わがみよにふる ながめせしまに」

おののこまち

 

 

小倉百人一首 100首のうち9首目。
平安時代前期の歌人・小野小町の歌となります。

 

歌の意味

 

(桜の)花の色は、春の長雨が降っている間にむなしく衰え色あせてしまいました。
ちょうど私の容姿も衰えてしまいました。恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。

  

花の色
古典における「花」は「桜」の意(または様々な春の花)。
「花の色」は女性の若さや美しさも暗示する。

うつりにけりな
ここでは「花」に対して「色あせる、衰える」ことを指す。
「な」は詠嘆の終助詞。この場合は「~してしまったなあ」と訳す。

いたづらに
形容動詞「いたづらなり」の連用形。「むなしく」「無駄に」という意味。

世にふる
それぞれ、
世 :「世代」と「男女の仲」
ふる:「降る」と「経る(=時間が過ぎる)」
のように、2つの意味がかけられており、
「降り続く雨」と「年を重ねていく私」という2重の意味になる。

ながめせしまに
「ながめ」は「長雨」と「眺め(=物思い)」の掛詞。
つまり「長雨で物思いにふけっている間に」の意。
「我身世にふる」へ続く倒置法になっている。

 

 

作者について

 

小野小町(おののこまち・生没年未詳)

平安時代前期9世紀頃の女流歌人で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に数えられています。
生没年は不詳ですが、7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した氏族「小野氏」の一族とされています(小野妹子、でピンとくる方もいるのではないでしょうか)。
平安時代初期の公卿である小野篁の娘とする説、あるいはその息子・小野良真の娘とする説などがあります。

また、「小町」は本名ではなく「町」の字があてられていることから、後宮に仕える女性であったと考えられています。

歌人としては、在原業平や文屋康秀、良岑宗貞との贈答歌も多く残っており、また、『小町集』という歌集も伝わっています。

その歌風は情熱的な恋愛感情が反映されており、恋多き女性であったとか。

有名な逸話としては、深草少将の「百夜通い伝説」があります。
深草少将からの求愛に困っていた小野小町は、諦めさせようと「私のもとに100日通ったら、その時は想いに応えましょう」と告げます。毎日通い続ける深草少将に、小野小町も少しずつ心惹かれていたところ、99日目の夜、深草少将はその道中で亡くなってしまうという、何とも切ない内容です。

 

 

私的団体における女性差別

 

さて・・・

平安は、現在よりも人の寿命が短い時代。
諸説あるものの、その平均寿命は男性が50歳、女性が40歳であったと言われています。
また早婚であったことから、一般的な結婚適齢期は、男性が17~18歳前後、女性が13歳ほどとされていました。

さらに、日本において男女差別が始まったのは平安時代からなのだそうです。
社会制度の変化などから、表面的には男女における役割が分かれはじめ、男女差別の意識が生まれ始めたとのこと。

このような事情を考えると、年齢を重ねていくことを悲観して歌を詠む小野小町の気持ちも分かるような気がいたします。

 

性別による不平等は今日でも多くの課題が残るテーマですが、企業における男女別の定年制に関して裁判で争われた事例があります。

 

原告はA社に勤める女性従業員。ある日、A社はY社に吸収合併されました。

合併前、A社は従業員の定年を男女共に55歳と定めていたところ、Y社では男性が55歳、女性が50歳と定められており、合併後にY社の就業規則が採用されたことによって、Xは満50歳のタイミングで退職を命じられました。
これに対し、Xは従業員である地位の確認を求める仮処分申請を起こしたところ、一審・二審ともに請求棄却。
そのためXは、就業規則中、女子の定年年齢を男子より低く定めた部分につき、性別で定年年齢が異なることは不合理な差別であるとして提訴。すると、一審・二審ともに男女別定年制が違法であると認められました。

これに対し、被告Y社は憲法14条、民法90条の解釈が誤っていると主張し、上告審に至ることとなりました(最判昭和26年3月24日)。

日本国憲法14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

民法90条 公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。

 

被告Y社は、女性の定年を男性より引き下げることの合理性の根拠として、

・女性の担当業務は補助的業務に限られ、労働の質量とも向上がなくなり、賃金と労働の不均衡を生ずること

・女子は50歳になれば労働能力の減退が著しく従業員として不適格となること

などを主張しました(判タ440号53頁参照)。

しかし、憲法14条の平等権に即し、民法90条の公序良俗の規定に反しているとされ無効とされました。
最高裁は次のとおり判断しています。

女子従業員の担当職務は相当広範囲にわたつていて、従業員の努力と上告会社の活用策いかんによつては貢献度を上げうる職種が数多く含まれており、女子従業員各個人の能力等の評価を離れて、その全体を上告会社に対する貢献度の上がらない従業員と断定する根拠はないこと、しかも、女子従業員について労働の質量が向上しないのに実質賃金が上昇するという不均衡が生じていると認めるべき根拠はないこと、少なくとも60歳前後までは、男女とも通常の職務であれば企業経営上要求される職務遂行能力に欠けるところはなく、各個人の労働能力の差異に応じた取扱がされるのは格別、一律に従業員として不適格とみて企業外へ排除するまでの理由はないことなど、上告会社の企業経営上の観点から定年年齢において女子を差別しなければならない合理的理由は認められない

 

上告会社の就業規則中女子の定年年齢を男子より低く定めた部分は、専ら女子であることのみを理由として差別したことに帰着するものであり、性別のみによる不合理な差別を定めたものとして民法90条の規定により無効であると解するのが相当である

 

女子従業員個人の担当職種や労働能力の評価等の事情を考慮すれば、性別によってのみ定年年齢に格差を設けることは合理性がなく、差別に当たるとされました。

そして、上告を棄却する判決がなされたのです。

その後、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(通称:男女雇用機会均等法)により、性別により異なる定年制を導入することを禁止する旨が定められることとなりました。

 

◇ ◇ ◇

  

本日の歌
「花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」

自分の若さ、美しさが衰えていくこと、その儚さを歌に落とし込んだ小野小町。

日本では「世界三大美人」に数えられているイメージから、
「どれほど美しい女性だったのか」とその姿を想像する方も多いでしょう。

 

しかし、美しさの基準は時代によっても異なるもの。

平安時代、「容姿」という点でいうと
・切れ長で細い目
・きめの細かい白い肌
・小柄でややふくよか
・艶やかで長い髪
・小さな口と鉤鼻
といった特徴が、美人の基準とされていたようです。

また、内面的なところでは、何よりも教養が重要視されていました。
平安の女性における教養とは、主に
和歌(内容+字の美しさ)、管弦(楽器の演奏)でした。


「花の色は…」は、現代人の私たちからみても、技術の高さを感じる歌。
小野小町の祖父(あるいは父)とされる小野篁ですが、実は彼も「花の色は」で始まる歌を詠んでいます。
(ちなみに、小野篁は11首目の作者である「参議篁」です)

花の色は 雪にまじりて 見えずとも かおだににほへ 人のしるべく

((梅の)花の色が雪に紛れて見えないとしても、香りだけでも漂わせて欲しいものだ。見る人が咲く場所を気付くほどには。)

 

古今和歌集第6巻に収録された歌です。

小野小町がこの歌に思いを馳せていたとしたら・・・?
単に自身の美しさ、若さの衰えを嘆いただけでなく、
一族の衰えを嘆く気持ちを重ねたのかもしれない・・・
そのような想像を掻き立てられる繋がりです。

 

平安貴族の恋愛には和歌が欠かせませんでした。
六歌仙の紅一点であったこと、著名な男性歌人たちとも多く歌を交わしていたことなど、和歌の技術の高さを感じられるポイントを鑑みれば、小野小町がモテる女性であったことも納得というわけです。

 


 

そんな小野小町ですが、多くの能、歌舞伎等の題材にもされており
そうした作品を総称して「小町物」といいます。

内容は大きく2パターンあり、
・和歌の名手として讃えたり、深草少将の百夜通いを題材にしたもの
・年老いて乞食となった小野小町を題材にしたもの
に分かれているようです。

実際の晩年はというと、秋田県湯沢市小野で過ごしたという説、京都市山科区小野で過ごしたという説があります。その他、小野小町のものとされる墓も全国に点在しており、その史跡は数多く存在しているようです。

  

このように、ほとんどの情報がベールに包まれている小野小町。
それにもかかわらず、千年以上の時を超えて歌が親しまれたり、その人生が作品として人々に語り継がれているなんて、本人が知ったらさぞ驚くことでしょう。

もし彼女が現代に生きていたら、昨今のSDGs、ジェンダー論争、ポリコレ等々、一体どのように読み解いていたでしょうか。

 

 

 

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 47首目

「ウィズコロナ」が浸透して、久しくなりました。
この数年で、私たち個人の生活や価値観は、一変してしまったように思います。

しかし、このような変化は、歴史上において幾度と繰り返されてきたとも言えます。

私たちは、想定外の出来事により大きなダメージを受けたとしても、その度に「よりよく生きる」ための道を模索することを繰り返してきたのではないでしょうか。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「八重葎(むぐら) しげれる宿の  さびしきに

人こそ見えね  秋は来にけり」  

恵慶法師


「やへむぐら しげれるやどの さびしきに

ひとこそみえね あきはきにけり」

えぎょうほうし

 

小倉百人一首 100首のうち47首目。
平安時代中期の僧で歌人。恵慶法師の歌となります。

 

歌の意味

 

このような、幾重にも雑草の生い茂った宿は荒れて寂しく、人は誰も訪ねてはこないが、ここにも秋だけは訪れるようだ。

 

八重葎
葎(むぐら)=ツル状の雑草の総称。
八重=何重にも

※八重葎は、家が荒れ果てた姿を表すときに象徴的に使われる言葉。

しげれる宿の
宿(やど)=家
「八重葎が茂っている宿」とは、雑草(つる草)が何重にも重なって生い茂っているような、草が深く荒れ果てた家のこと。

人こそ見えね
人=訪ねてくる客
「ね」=打消しの助動詞「ず」の活用形。「こそ~ね」の用法で、逆接の意味を持つ。
「人こそ見えね」=訪ねてくる客は見当たらないけれどの意味。

秋は来にけり
けり=今初めて気付いたことを表す詠嘆の助動詞

 

作者について

 

恵慶法師(えぎょうほうし・生没年不明、10世紀頃)

平安時代中期の日本の僧、歌人で、中古三十六歌仙(※)の一人に数えられています。
出自・経歴は不明ですが、寛和年間 (985~987) を中心に活躍しました。

962年(応和2年)ごろより歌合などで活動し、986年花山院の熊野行幸に供奉したとの記録があり、大中臣能宣(おおなかとみの よしのぶ)・紀時文(きの ときぶみ)・清原元輔(きよはらの もとすけ)など中級の公家歌人と交流していました。

また、播磨の国分寺で経典の講義をする講師をつとめたと伝わっており、国分寺へ下向する際に天台座主尋禅から歌を送られたとのこと。

歌人としては『拾遺和歌集』に初出、家集『恵慶法師集』があります。

※中古三十六歌仙(ちゅうこさんじゅうろっかせん)
平安時代末期に藤原範兼(ふじわらののりかね)が『後六々撰(のちのろくろくせん)』に選び載せた和歌の名人36人の総称。三十六歌仙が選ばれた後に称されたもので、三十六歌仙に属されなかったが秀でた歌人とそれ以後の時代の歌人が選ばれています。

 

本日の歌

八重葎(むぐら) しげれる宿の  さびしきに
              人こそ見えね  秋は来にけり

 

この歌の詞書(ことばがき・和歌や俳句のまえがきとして、その作品の動機・主題・成立事情などを記したもの)には

「河原院にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を、人々詠み侍りけるに」
とあり、河原院を舞台に詠まれた歌であることが分かります。

 

河原院とは、京都六条にあった源融(みなもとのとおる)の邸宅。現在の鴨川ほとりの五条大橋の近辺にありました。
南は六条大路、北は六条坊門小路、東は東京極大路、西は萬里小路に囲まれた4町(一説には8町とも。※1町は一辺が約100mの正方形と同じ広さ。面積にして約100m×約100m=約10,000㎡)の広大な敷地で、陸奥国・塩竈の風景を模して庭園を作り、尼崎から毎月30石(※1石は約180.39リットル)の海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだといいます。

しかし、恵慶法師の時代には、河原院は荒廃しており、融の曾孫にあたる安法法師(あんぽうほうし)が住んでいました。廃園の風情を楽しむ歌人が集っては、歌を詠んでいたようです。

河原院には融の幽霊が出るということでも有名で、『今昔物語集』などに、以下をはじめいくつかの逸話が載っています。

東国から上京した夫婦が、荒廃した河原院で一夜を明かそうとしました。 夫が馬を繋いでいる間に、妻は建物の中から差し出された手に捕えられ、夫が戸を開けようとしても堅く閉ざされて開きません。 戸を壊して中に入ってみると、そこには血を吸いつくされた妻の死体が吊るされていました。。
『今昔物語集』27-17

 

宇多上皇が御息所と河原院で月を眺めていると、何物かが御息所を建物の中へ引き入れようとしました。上皇が「何物か」と問うと「融」と答えがあり、御息所は放されましたが、すでに御息所は息絶えていました。。
『紫明抄』

 

恵慶法師は、河原院について、他にも以下のような歌を詠んでいます。

「草しげみ 庭こそ荒れて 年経ぬれ  忘れぬものは秋の白露」

(草が茂って、庭も荒れ果ててしまった。忘れずに昔のままでいてくれるのは、秋の白露だけであるよ)

 

「すだきけむ 昔の人も なき宿に ただ影するは 秋の夜の月」

(昔は人がここに集まって賑やかであっただろうに、今は人影も絶えてしまった。この家に姿を見せるのは、ただ秋の夜の月だけであるよ。)
※すだく=群がり集まる  

 

かつては、多くの貴族が集まっては、美しい庭園を愛で、陸奥の塩焼きを楽しみ、和歌を詠んでいた程、華やかで美しかった時代もあった河原院。

次々に持ち主が変わり、数度の火災に見舞われるなどして、かつての持ち主の幽霊が出る、と噂されるまでにでに荒廃してしまうとは、浮世の無常を感じます。

 


 

さて・・・

平安時代は、貴族といえども激しい権力争いの末、敗れて落ちぶれることもあれば、殺されることもあり、また当時流行していた天然痘等の病により命を落とすなど、突如不幸に見舞われることが多かった時代。

河原院は、持ち主が変わるたび、主の栄枯盛衰をどのように見てきたのでしょうか。
また、こうして没落してしまった人々は、その後、どのように生活していったのでしょうか。。

当時は、人々の生活がどのように保障がされていたか、詳細は不明ですが、

現代においては、憲法で
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、
すなわち「生存権」が保障されています。

憲法25条
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

この「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とは何かについて、裁判で争われた事例があります(最大判昭和42年5月24日(朝日訴訟))。

国立岡山療養所に単身の肺結核患者として入所していた朝日氏(朝日茂氏:1913年7月18日~1964年2月14日)は、厚生大臣の設定した生活扶助基準で定められた最高金額である、月額600円の日用品費の生活扶助と、現物による全部給付の給食付医療扶助とを受けていました。

ところが、受給途中で、長年音信不通であった実兄の存在が明らかになったため、社会福祉事務所は、実兄に対して朝日氏への支援を命じ、朝日氏は実兄から扶養料として毎月1500円の送金を受けるようになりました。

そのため、社会福祉事務所長は、朝日氏への月額600円の生活扶助を打ち切り、実兄からの送金額1500円から日用品費600円を控除した残額900円を、医療費の一部として朝日氏に自己負担させる旨の保護変更決定をおこないました。

朝日氏は、これに対し県知事に不服申立をおこなったところ、却下され、さらには厚生大臣にも不服申立をおこなったところ、これも却下されたため、「月額600円」という支給基準金額では、憲法25条1項の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)が保障されないとして、憲法違反であると主張し、厚生大臣に対し訴えを提起しました。

 

第一審(東京地方裁判所)は、日用品費月額を600円に抑えているのは違法であるとし、裁決を取り消しましたが(朝日氏の全面勝訴)(東京地判昭和35年10月19日)、
第二審(東京高等裁判所)は、日用品費月600円はすこぶる低いが、不足額は70円に過ぎず憲法25条違反の域には達しないとして、原告の請求を棄却したため(東京高判昭和38年11月4日)、最終的な判断は最高裁へ持ち込まれることとなりました。

ところが、上告審の途中で、朝日氏が亡くなってしまいました。
そのため、養子夫妻が訴訟を承継して争う流れとなりましたが、

最高裁は
「生活保護法の規定に基づき要保護者または被保護者が国から生活保護を受けるのは、単なる国の恩恵ないし社会政策の実施に伴う反射的利益ではなく、法的権利であつて、保護受給権とも称すべきものと解すべきである。しかし、この権利は、被保護者自身の最低限度の生活を維持するために当該個人に与えられた一身専属の権利であつて、他にこれを譲渡し得ないし、相続の対象ともなり得ない」として、

相続人である養子夫妻には、「これを承継し得る余地はないもの」として、「本件訴訟は、上告人(朝日氏)の死亡と同時に終了」するとの判断を下しました。

しかし、最高裁は裁判を「終了」とはしたものの
「なお、念のために」「本件生活扶助基準の適否に関する当裁判所の意見」として、

・憲法25条1項は、
「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に具体的権利を賦与したものではな」く
・「具体的権利としては、憲法の規定の趣旨を実現するために制定された生活保護法によつて、はじめて与えられているというべきである。」

との、意見を付加しました。

生活保護法
(無差別平等)
2条 すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を、無差別平等に受けることができる。

(基準及び程度の原則)
8条
1 保護は、厚生労働大臣の定める基準により測定した要保護者の需要を基とし、そのうち、その者の金銭又は物品で満たすことのできない不足分を補う程度において行うものとする。
2 前項の基準は、要保護者の年齢別、性別、世帯構成別、所在地域別その他保護の種類に応じて必要な事情を考慮した最低限度の生活の需要を満たすに十分なものであつて、且つ、これをこえないものでなければならない。

 

さらに、

「厚生大臣の定める保護基準は、法8条2項所定の事項を遵守したものであることを要し、結局には憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるもの」でなければならないところ、

「健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴つて向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるもの」であるから、

「何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されて」おり、

「現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によつて与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない。」

と判断しました。

裁判は、途中で終了したにもかかわらず、傍論で生存権の性格について詳細に意見を述べた最高裁のこの判決は「念のため判決」と呼ばれています。

この裁判は、人間らしく生きるとは、個人に与えられた権利とは、という点で社会に波紋を投じることとなり、以後、生活保護基準の金額改善がおこなわれ、社会保障制度が大きく発展する嚆矢となりました。

 

◇ ◇ ◇

 

さて。

時を経て、河原院はその後、どうなったのでしょうか?

本日の歌

八重葎 しげれる宿の さびしきに
             人こそ見えね 秋は来にけり

 

恵慶法師が歌を詠んだ頃の荒廃した時代以降、次々に主が変わりゆく中、江戸時代には河原院の跡地の一部に渉成園が作られ、寛永18年(1641年)徳川家光から東本願寺に寄進されることとなりました。

さらに承応2年(1653年)、石川丈山によって書院式の回遊庭園として作庭される等の経緯を経て、昭和11年(1936年)12月、国の名勝に指定されることとなり、現在は美しく復活を遂げたようです。

渉成園は、年間を通じて一般に公開されており、東本願寺でおこなわれる諸行事等の際には、種々の催しの会場として用いられているとのこと。

また、下京区木屋町通五条下ルには「河原院址」の石碑があるようです。

一帯は河原院の庭の中の島「籬の島」が鴨川の氾濫によって埋没したものと伝えられた「籬の森」の跡で、石碑の隣にある老木の榎は森にあった木の最後の1本だといわれています。
石碑の位置は河原院の推定地より少しだけ外れているとのこと。


京都を訪れた際には、足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 62首目

「勘違い」や「間違い」とは、誰にでも起こりうることかもしれません。

気づいた時点で、すぐに軌道修正できれば良いのですが、「勘違い」や「間違い」が修正されないまま進んでゆくと、事態はより複雑になってしまうことも。

自分の間違いであると、他人の間違いであるとに関わらず、途中(あるいは最初から)、それが実は「間違い」であることに気づいたとして、例えばその「間違い」が自分の利益になる場合、

最後まで、それが間違っていることに気づかない振りをして、結果他人を騙し、他人に損害を与えてしまうという事態になったとしたら。。

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも

よに逢坂の 関はゆるさじ」  

清少納言


「よをこめて とりのそらねは はかるとも

よにおうさかの せきはゆるさじ」

せいしょうなごん

 

 

小倉百人一首 100首のうち62首目。
平安時代中期の作家で歌人・清少納言の歌となります。


歌の意味

 

夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き声を真似て、夜が明けたとだまそうとしても、(あの中国の函谷関ならいざ知らず、あなたとわたしの間にある) この逢坂(おおさか)の関(せき)は、決して開くことはありません。

 

夜をこめて
夜が深い(明けない)うちに、の意。

鳥のそらね
鶏の鳴き真似、の意。
鳥は鶏(にわとり)、そらね(空音)は鳴き真似のこと。

はかるとも
謀る(はかる)=だます
とも=逆接の接続助詞「~としても」
「鶏の鳴き真似をしてだます」とは、函谷関(かんこくかん)の故事にまつわるエピソードを指す。

※中国の史記(中国前漢の武帝の時代に司馬遷(しば せん:紀元前145/135年頃~紀元前87/86年頃)によって編纂された歴史書)にある斉の孟嘗君(もうしょうくん)の話。
秦国に入って捕まった孟嘗君が逃亡する際、一番鶏が鳴くまで開かないことになっている函谷関の関所を、部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせ、無事通過できた、という故事。

よに逢坂の関はゆるさじ
よに=決して、絶対に
逢坂の関=逢坂の関と、逢瀬(おうせ・男女が密かに逢うこと)の掛詞。

※逢坂の関は、山城(現在の京都府)と近江(現在の滋賀県)の境にあった関所であり、京都への入り口とされ、古くから交通の要所だった。
逢坂の関を通ることは許さないことと、あなたが私に会いに来ることは許さない、という二つの意味を掛けている。

 

 

作者について

 

清少納言(せいしょうなごん・966頃-1025頃)

平安時代中期の女流作家・歌人で、「梨壺の五人」の一人である清原元輔(908-990年)を父に持ちます。

梨壺の五人とは、天暦5年(951年)村上天皇の勅により、平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎(その庭に梨の木が植えられていたことから「梨壺」と呼ばれていました)に和歌所を設け、『万葉集』の解読、『後撰和歌集』の編纂などをおこなった五歌仙(坂上望城(さかのうえのもちき)・紀時文(きのときぶみ)・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・清原元輔(きよはらのもとすけ)・源順(みなもとのしたごう)を指しました。

彼女自身も、中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人に数えられ、『清少納言集』に42首、『後拾遺和歌集』以降の勅撰和歌集に15首入集、また漢学にも通じるなどの才女であったとのことです。平安文学の代表作である、随筆『枕草子』の作者としても有名です。
『枕草子』(まくらのそうし)は、鴨長明の『方丈記』(鎌倉時代)、兼好の『徒然草』(鎌倉時代)と並んで日本三大随筆と称され、執筆時期は正確には判明していないものの、長保3年(1001年)にはほぼ完成したとされています。

なお、「清少納言」の名で知られているところ、これは女房名(貴人に出仕する女房が仕える主人や同輩への便宜のために名乗った通称)であり、「清」は「清原」の姓に由来するとされていることから、「せい・しょうなごん」と区切ることとなります。

また、本名は「清原諾子(きよはらのなぎこ)」とする説もあるところ、実証する一級史料は現存しないことから、「不明」とされているとのことです。

清少納言は、15歳の頃、陸奥守(むつのかみ)・橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し一児をもうけたものの、やがて離婚。その後、一条天皇の皇后・中宮定子に仕えました。博学で才気煥発であったため、中宮定子の恩寵を受けたばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬を交わすなどし、宮廷社会に名を残しました。

長保2年(1000年)、中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞め、枕草子を執筆しましたが、その後の清少納言の人生についての詳細は、残念ながら不明となっているとのことです。。

 


 

本日の歌

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
              よに逢坂の 関はゆるさじ

 

この歌の詠まれた背景には、こんなエピソードがあったと言われています。

 

ある夜、藤原行成(ふじわらのゆきなり)が清少納言のもとにやってきて、

「明日の帝の御物忌み(ものいみ:ある期間中、ある種の日常的な行為を控え、穢れを避けること)に籠もらなければ」と話して慌てて帰りますが、翌朝、行成から清少納言のもとに、「鶏の声に急かされてしまいました」などと、言い訳めいた文が届き、これを読んだ清少納言は「それは函谷関の故事にある、鶏の鳴き真似でしょう」(それは、言い訳でしょう)と返事をしました、すると

「関は関でも、中国にある函谷関のことではなく、私たちの間にある逢坂の関のことですよ」と返してきました。

そこで清少納言が返したのが、本日の歌。

「(函谷関の関守のように)鶏の鳴き真似でごまかそうとしても、逢坂の関守は、だまされて関を開くことは決してありません(あなたには絶対逢ってあげません)」
という意味です。

当意即妙に返したこの歌には、中国史のエピソードを始め様々な教養が盛り込まれており、清少納言の知性が光る一首となっています。

なお、清少納言と藤原行成は冗談を言い合うような、気の置けない友人関係だったそうです。

 

 

 

誤振込と詐欺罪

 

さて・・・

さて、中国の函谷関では、孟嘗君の部下が鶏の鳴き真似をして関守をだまし、関所を開かせたことで事なきを得ましたが、他人をだまして金品などを奪ったり、損害を与えたりする行為は、「詐欺罪」に当たります。

このことに関し、自分の銀行預金口座に誤った振込(誤振込)があったことを知った受取人が、それが誤振込である事実を隠して、銀行の窓口担当者に預金の払戻しを請求し、その払戻しを受けた場合、刑法246条にいう「詐欺罪」に当たるかどうか裁判で争われた事例があります(最判平成15年3月12日)。

(詐欺)
刑法第246条
1 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。
2 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

 

ある税理士が、(誤振込を受けた受取人を含む)顧問先からの税理士顧問料等を、集金事務代行業者に委託して徴収していました。

徴収方法は、集金事務代行業者が、税理士の顧問先の各預金口座から、自動引落しの方法により顧問料等を集金し、これを一括して、税理士が指定した銀行預金口座に振込送金するかたちでおこなっていました。

しかし、税理士の妻が、指定振込送金先を、誤振込を受けた受取人の普通預金口座に変更する旨、誤って届出てしまったため、集金事務代行業者は、この届けに基づいて、本来であれば税理士が受取るべき顧問料等を、誤振込を受けた受取人の銀行口座に振り込んでしまいました。

この受取人が、通帳の記帳をしたところ、入金される予定にない(身に覚えのない)、集金事務代行業者からの誤った振込みがあったことを知りましたが、これを自分の借金の返済に充てようと考え、自分の銀行預金口座に誤って振込があった旨を銀行の窓口担当者に告げることなく、現金の交付を受けました。

 

なお、銀行実務においては、振込先の口座を誤って振込依頼をした振込依頼人からの申出があれば、受取人の預金口座への入金処理が完了している場合であっても、受取人の承諾を得て振込依頼前の状態に戻す「組戻し」という手続が執られており、また、受取人から誤った振込みがある旨の指摘があった場合にも、自行の入金処理に誤りがなかったかどうかを確認する一方、振込依頼先の銀行及び同銀行を通じて、振込依頼人に対し、当該振込みの過誤の有無に関する照会をおこなうなどの措置が講じられています。

このような事情もあることから、裁判所は、受取人の義務につき

「銀行との間で普通預金取引契約に基づき継続的な預金取引を行っている者として、自己の口座に誤った振込みがあることを知った場合には、」

銀行に組戻し等の措置を講じさせるため、
「誤った振込みがあった旨を銀行に告知すべき信義則上の義務」があり、

また、
「社会生活上の条理からしても、誤った振込みについては、受取人において、これを振込依頼人等に返還しなければならず、誤った振込金額相当分を最終的にじこのものとすべき実質的な権利はないのであるから、上記の告知義務があることは当然」
だとしました。

その上で、
「誤った振込みがあることを知った受取人が、その情を秘して預金の払戻しを請求することは、詐偽罪の欺罔行為に当たり、また、誤った振込みの有無に関する錯誤は同罪の錯誤に当たるというべきであるから、錯誤に陥った銀行窓口係員から受取人が預金の払戻しを受けた場合には、詐欺罪が成立する。」
とし、受取人は、誤振込である旨、告知すべき義務があるところ、告知をおこなわないことは欺罔行為に当たるとし、詐欺罪が成立すると判示しました。

(詐欺)
刑法第246条
1 人を欺いて財物を交付させた者は、10年以下の懲役に処する。
2 前項の方法により、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者も、同項と同様とする。

詐欺罪の構成要件とは、

①欺罔行為又は詐欺行為
一般社会通念上、相手方を錯誤に陥らせて財物ないし財産上の利益の処分させるような行為をすること

②錯誤
相手方が錯誤に陥ること

③処分行為
錯誤に陥った相手方が、その意思に基づいて財物ないし財産上の利益の処分をすること

④占有移転、利益の移転
財物の占有又は財産上の利益が行為者ないし第三者に移転すること

 

であり、これら全ての間に因果関係が認められ、また、行為者に行為時においてその故意及び不法領得の意思があったと認められることが必要です。

なお、①の欺罔行為については、積極的欺罔(虚偽の事実を表示する事による欺罔)のみならず、消極的欺罔(真実を告げない事による欺罔)であっても、欺罔行為とみなされます。

今回の事例で言えば、

①受取人が、銀行窓口担当に誤振込があったと言わなかった(欺罔行為・消極的欺罔)ことで

②銀行窓口担当が、受取人の正当な振込金であると判断(錯誤)

③銀行窓口担当が、受取人に誤振込金を交付(処分行為)

④受取人が、誤振込金を受領した(利益の移転)

という因果関係となり、且つ受取人の故意が認められることから、詐欺罪の構成要件を満たすこととなります。

 

記憶に新しいところでは、山口県阿武町が、新型コロナウイルス対策の臨時特別給付金463世帯分(4630万円)を、誤って一人の男性に給付(誤振込)してしまい、この男性が誤振込金である4630万円全額をオンラインカジノで使用しまった、という事件がありました。

この場合は、男性は銀行窓口で誤振込金の交付を受けたのではなく、ネットバンキングを利用し、オンラインカジノの決済代行業者に振込んだとして、電子計算機使用詐欺罪(刑法第246条の2)に問われることとなりました。

(電子計算機使用詐欺)
刑法第246条の2 
前条に規定するもののほか、人の事務処理に使用する電子計算機に虚偽の情報若しくは不正な指令を与えて財産権の得喪若しくは変更に係る不実の電磁的記録を作り、又は財産権の得喪若しくは変更に係る虚偽の電磁的記録を人の事務処理の用に供して、財産上不法の利益を得、又は他人にこれを得させた者は、10年以下の懲役に処する。


 

さて、本日の歌

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
              よに逢坂の 関はゆるさじ

 

今では知らない人がいない程、歴史に名を残した才女である清少納言。

からかってきた藤原行成に

「よに逢坂の 関はゆるさじ(逢坂の関守は、だまされて関を開くことは決してありません=あなたには絶対逢ってあげません)」

とは言ったものの、その実、仲が良かったとの噂の行成と清少納言のことですから、この歌が生まれる二人のやり取りはさておき、本当のところは、清少納言が敢えて「だまされて」逢ってあげた、というストーリーも、あり得なくはない、、のではないでしょうか。

それにしてもだまされてしまった側の函谷関の関守。。

一体どんな結末になったのか、気になります。。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 20首目

人生とは、会者定離。

出会いがあったならば、別れる時は必ずやって来ます。
しかし「その時」が、「いつ」なのかは、当人たちでさえ予測もつきません。

別れの原因とはさまざまありますが、いずれも相手があってのこと。

別れるべきか?別れぬべきか?
自分の気持ちはどうあれ、自分勝手に結論を出すわけには行かないようです。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「わびぬれば 今はた同じ 難波なる

みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」  

元良親王


「わびぬれば いまはたおなじ なにはなる

みをつくしても あはむとぞおもふ」

もとよししんのう

 

小倉百人一首 100首のうち20首目。
平安時代前期から中期にかけての皇族・歌人である、元良親王の歌となります。

 

歌の意味

 

(あなたにお逢いできなくて) このように思いわびて(思い悩んで)暮らしていると、今はもう身を捨てたのと同じことです。 いっそのこと、あの難波の、澪標(みおつくし)のように、この身を捨てても、お会いしたいと思っています。

 

わびぬれば(侘びぬれば):
思い悩んでいると

難波(なにわ):
難波潟(なにわがた・大阪湾の入り江のあたりの遠浅の海)

みをつくし(みおつくし):
「身を尽くし(身を捧げる)」と、「澪標(みおつくし)」の掛詞

※澪標=船の航行の目印にたてられた杭のことで、難波潟を印象づけるものとなっています。

 

 

作者について

 

元良親王
(もとよししんのう・寛平2年(890年)- 天慶6年(943年))

平安時代前期から中期にかけての皇族・歌人で、官位は三品・兵部卿です。

*三品/日本の律令制において定められていた親王・内親王の位階「品位(ほんい)」のひとつで、一品(いっぽん)から四品(しほん)まで存在する。
*兵部省(ひょうぶしょう、つわもののつかさ)/かつて日本にあった軍政(国防)を司る行政機関。兵部卿は、兵部省の長官。親王等の皇族がこの官職に就任することも多いとのこと。

陽成天皇の第一皇子として生まれた元良親王。
父の陽成天皇は日本の第57代天皇でありましたが、僅か9歳で父・清和天皇から譲位され、17歳(満15歳)で退位しました。

幼少であった陽成天皇には、奇矯な振る舞いが見られたともいわれています。
それが原因かどうか定かではありませんが、次期天皇には長老格の皇族へと継承されることになり、数々の議論が交わされたのち、最終的には、第一皇子の元良親王ではなく、藤原基経の推薦により、仁明天皇の皇子(陽成天皇の祖父・文徳天皇の異母弟)である大叔父・時康親王(光孝天皇)が884年、55歳で即位することになりました。

このような経緯で、元良親王は、本来ならば帝位につく立場ではありましたが、惜しくも天皇になることは叶いませんでした。

また、元良親王は、風流で好色な皇子として名高く、それについては『大和物語』や『今昔物語集』に逸話も残っているようですが、特に有名なエピソードとして、時の権力者である宇多法皇の御息所(妃)である、京極御息所(きょうごくのみやすんどころ)=藤原時平の娘・藤原褒子(ほうし)との恋愛が知られています。

なお、この藤原褒子、『俊頼髄脳』によると、当初、醍醐天皇に入内する予定だったところ、その父である宇多法皇に見初められて、そのまま宇多法皇に仕えることとなったらしい、とのことですので、とても美しい女性だったのだと思われます。

 

元良親王について、『今昔物語集』には、以下のように記されています。

「今は昔、陽成院の御子に、元良親王と申す人御座しけり。極じき好色にて有りければ、世に有る女の美麗なりと聞こゆるには、会ひたるにも未だ会はぬにも、常に文を遣るを以て業としける。」

(意味)
今は昔、陽成天皇の御子に元良親王と申す人がいらっしゃった。大変な色好みであったので、世間で美人と噂がある女性には、会ったことがある女性にも、まだ会ったことのない女性にも、常に恋文を送ることを仕事のようにしていた。

 

世間で美人との噂があれば、会ったことがあってもなくても、恋文を送ることを仕事のようにしていた、とは驚きますね。。

 

また、『徒然草』にも

元良親王が、よく通る美しい声をしており、元日の奏賀(元日の朝賀の儀で、諸臣の代表者が賀詞を天皇に奏上すること)の声は非常にすばらしく、大極殿から鳥羽の作道までその声が響き渡ったと聞こえた

 

と紹介されており、
元良親王は、恋多き事のみならず、美声もまた有名であったようです。

加えて、『後撰和歌集』には7首、以降の勅撰和歌集も含めると和歌作品20首が入集し、『元良親王集』という歌集も後世になって作られるほど、歌の上手さもまた、有名でありました。

 


 

本日の歌

わびぬれば 今はた同じ 難波なる
              みをつくしても  逢はむとぞ思ふ

 

この歌について、後撰和歌集の詞書(ことばがき:和歌の前書き)には、

「事出できてのちに京極御息所につかはしける」
(元良親王と京極御息所の関係が世間に知られてから後に、元良親王が使者に持たせて京極御息所に贈った歌)

とあり、先ほどの、京極御息所(=宇多天皇の妃・藤原褒子)との道ならぬ恋が露見してしまった後に、元良親王から京極御息所に送られた歌であるとされています。

そして、二人の恋が世間に広まってしまった後
京極御息所については、宇多法皇の寵妃として権勢を振るい、宇多法皇亡き後、晩年は仁和寺で出家した、とされています。

 

ということは…

結局、この歌が元良親王から京極御息所に捧げられた後、元良親王との恋は悲しくも終わりを迎えてしまったということになりますね。。

 

 

 

 

有責配偶者からの離婚請求

 

さて…

結婚とは、始まりであり、スタートラインに立つことである、とも言われておりますが、結婚後の二人の行く先には、どのような未来が待ち受けているのでしょうか。

結婚が生涯一度で終わる人、あるいは複数回となる人など、「結婚」には多種多様なかたちがあります。例えば宇多法皇と京極御息所のように、途中世間に知られるほどのスキャンダルが起きてしまった場合であっても、最後まで離婚しない、というケースもあります。

結婚が、双方の合意により成立するように、離婚についてもまた、双方の合意で成立すれば問題ないのですが、話合いを経ても合意に至らなかった場合、最終的には裁判をすることになります。 

離婚の原因が、例えば一方の配偶者が不貞行為をしたことによるものであった場合、不貞行為をされた側が、離婚を請求するというのであれば理解できますが、逆に、不貞行為をした側(非のある側)から、された側(非のない側)の配偶者に対し、離婚請求をすることはできるのでしょうか。

 


 

夫婦間において、不貞行為をした配偶者のように、離婚原因を作った側の配偶者のことを「有責配偶者」といいますが、有責配偶者の側から離婚請求を出来るかどうかについて、裁判で争われた事例があります。

有責配偶者である夫が、不倫をした末に、妻と居住していた家を出て、不倫相手と住むようになり、その後、不倫相手と結婚したいがために、夫から妻に対し離婚請求をしたという事例です(最大判昭和62年9月2日)。

昭和12年2月、夫と妻は婚姻届を提出して、夫婦となりましたが、二人には子どもがいなかったため、昭和23年12月、養子を迎えることになりました。
それまで夫婦は平穏な結婚生活を送っていたものの、夫が養子の母親と不貞関係にあることが発覚した昭和24年頃、二人の関係は悪化し、同年8月、夫は家を出て不倫相手と住むようになり、以来、夫婦は別居状態となっていました。
その後、夫は不倫相手との間に2人の子をもうけ、昭和29年認知をしました。

夫は二つの会社の社長であり安定した生活、一方妻は人形店に勤務して生計を立てていましたが、無職となり、生活に困窮するようになりました。

夫は、不倫相手との結婚を希望していたため、昭和26年、東京地裁に対し、離婚の訴えを起こしましたが、婚姻関係の破綻は夫に原因がある(有責配偶者である)として棄却され、さらに昭和59年東京家裁に対し、離婚の調停を申し立てましたが、これも成立しなかったとして、本件に至りました。
この時、夫は74歳、妻は70歳となっており、別居後、既に36年が経過していました。

 

民法では、以下の場合、離婚の訴えを提起することができると定められています。

 

(裁判上の離婚)
第770条 夫婦の一方は、次に掲げる場合に限り、離婚の訴えを提起することができる。
1 配偶者に不貞な行為があったとき。
2 配偶者から悪意で遺棄されたとき。
3 配偶者の生死が3年以上明らかでないとき。
4 配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込みがないとき。
5 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。

 

このうち「5 その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。」が問題となりましたが、本件につき、裁判所は有責配偶者である夫からの離婚を、事情を総合的に判断した上で、「認める」としたのです。

なお、有責配偶者からの離婚請求が認められる場合の要件として、裁判所は以下のとおり判示しました。

「そこで、五号所定の事由による離婚請求がその事由につき専ら責任のある一方の当事者(以下「有責配偶者」という。)からされた場合において、当該請求が信義誠実の原則に照らして許されるものであるかどうかを判断するに当たつては、有責配偶者の責任の態様・程度を考慮すべきであるが、相手方配偶者の婚姻継続についての意思及び請求者に対する感情、離婚を認めた場合における相手方配偶者の精神的・社会的・経済的状態及び夫婦間の子、殊に未成熟の子の監護・教育・福祉の状況、別居後に形成された生活関係、たとえば夫婦の一方又は双方が既に内縁関係を形成している場合にはその相手方や子らの状況等が斟酌されなければならず、更には、時の経過とともに、これらの諸事情がそれ自体あるいは相互に影響し合つて変容し、また、これらの諸事情のもつ社会的意味ないしは社会的評価も変化することを免れないから、時の経過がこれらの諸事情に与える影響も考慮されなければならないのである。
 そうであつてみれば、有責配偶者からされた離婚請求であつても、夫婦の別居が両当事者の年齢及び同居期間との対比において相当の長期間に及び、その間に未成熟の子が存在しない場合には、相手方配偶者が離婚により精神的・社会的・経済的に極めて苛酷な状態におかれる等離婚請求を認容することが著しく社会正義に反するといえるような特段の事情の認められない限り、当該請求は、有責配偶者からの請求であるとの一事をもつて許されないとすることはできないものと解するのが相当である。」

 

本判決以前は、以下の判例に代表されるように、夫が不倫関係にあったことが原因で妻との婚姻関係継続が困難になった場合、有責配偶者である夫からの離婚請求は認められていませんでした(最判昭和27年2月19日)。

「論旨では本件は新民法770条1項5号にいう婚姻関係を継続し難い重大な事由ある場合に該当するというけれども、原審の認定した事実によれば、婚姻関係を継続し難いのは上告人(夫)が妻たる被上告人を差し置いて他に情婦を有するからである。上告人(夫)さえ情婦との関係を解消し、よき夫として被上告人(妻)のもとに帰り来るならば、 何時でも夫婦関係は円満に継続し得べき筈である」


「結局上告人(夫)が勝手に情婦を持ち、その為め最早被上告人(妻)とは同棲出来ないから、これを追い出すということに帰着するのであつて、もしかかる請求が是認されるならば、被上告人(妻)は全く俗にいう踏んだり蹴たりである。法はかくの如き不徳義勝手気儘を許すものではない。道徳を守り、不徳義を許さないことが法の最重要な職分である。総て法はこの趣旨において解釈されなければならない。」

 

しかし、本判決以降、

「有責配偶者の責任の態様・程度を考慮」し、

「相手方配偶者の婚姻継続についての意思及び請求者に対する感情」

「離婚を認めた場合における相手方配偶者の精神的・社会的・経済的状態及び夫婦間の子、殊に未成熟の子の監護・教育・福祉の状況、別居後に形成された生活関係、たとえば夫婦の一方又は双方が既に内縁関係を形成している場合にはその相手方や子らの状況等」

を斟酌したうえで、

「夫婦の別居が両当事者の年齢及び同居期間との対比において相当の長期間に及び」

「その間に未成熟の子が存在しない場合」

「相手方配偶者が離婚により精神的・社会的・経済的に極めて苛酷な状態におかれる等離婚請求を認容することが著しく社会正義に反するといえるような特段の事情の認められない限り」

有責配偶者からの離婚の請求を
「有責配偶者からの請求であるとの一事をもつて許されないとすることはできない」

とし、事情を総合的に判断した結果、有責配偶者からの離婚を認容する可能性もある、との判断がされました。

この判決により、有責配偶者からなされた離婚請求について、従来の判例を変更し、新しい判断がなされたとされています。

 


 

本日の歌

わびぬれば 今はた同じ 難波なる
              みをつくしても  逢はむとぞ思ふ

 

京極御息所との恋が終わった後、元良親王の次なる恋の行方について、詳細は不明ですが、何といっても「極じき好色にて有りければ、世に有る女の美麗なりと聞こゆるには、会ひたるにも未だ会はぬにも、常に文を遣る」御方とのことですから、

おそらく、「相当の長期間」思い悩んだりすることもなく、次なる恋へ進まれたのではないかと、勝手ながら想像しておりますが、いかがでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 60首目

あらゆるものが、デジタル化しつつある現代。

デジタル化が進むにつれ、「時間の計測」という点でも
その正確さは精度を増す一方です。

「時間」が大きくかかわる勝負の世界においては、
1秒に歓喜する者もいれば、1秒に涙する者もいる。

とはいえ現代では、その差は「1秒」どころではなく
0.01秒、0.001秒…と、さらにシビアになっているのではないでしょうか。

 

ある時点より前となるか後となるか。

 

一瞬の差が、全てを決めてしまうことがあるのです。
それは、法律においても例外ではありません。

 

そこで、本日ご紹介する歌は・・・

 

 本日の歌  「大江山 いく野の道の 遠ければ

まだふみも見ず 天の橋立」  

小式部内侍


「おほえやま いくののみちの とほければ

まだふみもみず あまのはしだて」

こしきぶのないし

 

小倉百人一首 100首のうち60首目。
平安時代の女流歌人・小式部内侍の歌となります。

 

 

歌の意味

 

(母のいる丹後の国へは) 大江山(おおえやま)を越え、生野(いくの)を通って行かなければならない遠い道なので、まだ天橋立へは行ったことがありません (ですから、そこに住む母からの手紙など、まだ見ることができるはずもありません)。

 

大江山
丹波国桑田郡(現在の京都府西北部)の大枝山(源頼光の鬼退治で有名な大江山(丹後(京都府北部))とは異なります。)京都市西京区と亀岡市の境に位置し、標高は480メートル。「大江山」、「大井山」とも呼ばれます。
平安京から山陰道を下る場合、山城国と丹波国の国境にある大江坂に設けられた大江関を必ず越えて、京と別れを告げることになった事から、古くから歌枕の地として知られていました。
丹後は、現在の京都府北部。713年に丹波国北部にある5群を割いて「丹後国」として設置されました。この歌が詠まれたとき、作者・小式部内侍の母である和泉式部は夫と共に丹後国へ赴いていました。 

 

いく野の道
生野(いくの)=丹波(京都府福知山市)にある地名で、丹波は、現在の京都府西北部を指し、京都(平安京)の北西の出入口にあたる地理的条件から、古くより各時代の権力者から重視されました。「生野」は「行く」の掛詞となっています。

 

まだふみも見ず
ふみ=「文」と「踏み」の掛詞。母からの手紙が来ていないことと、母のいる天の橋立へは行ったことがないことを掛けています。
※「踏み」は「橋」の縁語。

 

天の橋立
丹後国与謝郡(現在の京都府宮津市)にある名勝で、日本三景のひとつ。
宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州。天橋立が観光地として認知され始めたのは8世紀初頭とのことです。

 

 

作者について

 

小式部内侍(こしきぶのないし・999頃-1025)

平安時代の女流歌人で、女房三十六歌仙の一人です。父は橘道貞、母は和泉式部で、寛弘6(1009)年ごろ、母の和泉式部と共に一条天皇の中宮・藤原彰子に出仕しました。母と区別して「小式部」、内侍所(賢所)という機関で掌侍として仕えたため「内侍」という女房名で呼ばれるようになりました。

*内侍所(ないしどころ)(賢所(かしどころ))/三種の神器の一つである神鏡を安置した場所

*掌侍(ないしのじょう)/律令制における女官の一つ。尚侍(ないしのかみ)・典侍(ないしのすけ)に従って天皇に近侍し、内裏内部の儀礼や事務処理をおこなう役目。)。

 

母・和泉式部の美貌を受け継ぎ、また母同様に恋多き女流歌人として、藤原教通・藤原頼宗・藤原範永・藤原定頼など多くの高貴な男性との交際で知られていましたが、万寿2年(1025年)、20代で藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に死去し、周囲を嘆かせました。

美しく、才能にあふれ、恋多き女性であった小式部内侍。
小式部内侍が仕えていた一条天皇の中宮・彰子をはじめ、多くの人がその死を嘆いたと言われています。 

母・和泉式部の悲しみは、どれほど深かったことでしょう。
前途有望であった娘・小式部内侍の死に際し、和泉式部は、以下の歌を詠んでいます。 

「とどめおきて誰を哀れと思ふらむ 子はまさりけり子はまさるらむ」

 

この歌には「小式部内侍みまかりて、むまご(孫)どもの侍るのを見て」との詞書が付いており、『後拾遺和歌集』における哀傷歌の傑作と言われています。

 


 

小式部内侍の母である和泉式部
平安随一の女流歌人と言われるほど、歌の才能がある人でした。

小式部内侍自身も、美人で若い上に歌の才能があると評判だったため、
「丹後にいる母・和泉式部が作っているのではないか」
との噂が絶えませんでした。

 

あるとき、歌合せの会が開催されることになりました。

その会の場で、藤原定頼は小式部内侍に 

「歌は如何せさせ給ふ。丹後へ人は遣しけむや。使、未だまうで来ずや」

(歌会で詠む歌はどうするんです? お母様のいらっしゃる丹後の国へは使いは出されましたか? まだ、使いは帰って来ないのですか?)

 

と言ってからかいました。
これに対する返歌として、彼女が即興で詠んだのが、本日のこちらの歌。 

「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」

 

「生野」を「行く」と掛け、「文」と「踏み」と掛ける。

意地の悪いからかいにも、各地名や歌の技法を織り交ぜながら、即興で機転の利いた歌を返すなど、優れた歌人でなくてはとてもなせる技ではありません。。

この一件により、小式部内侍の作品は、母による代作ではなく、小式部内侍自身、優れた才能の持ち主であることを、大勢の前で証明することとなりました。

 

 

人はいつから権利を持つのか

 

さて・・・

小式部内侍が、出産をきっかけとして命を落としてしまったように
出産とは、正に命がけなのです。

胎児の期間を経て、母子ともに健康で、出生という日を迎えるということは、
当たり前のことではなく、むしろ奇跡とも言えるでしょう。

 

ところで、人はいつから「人」としての権利を持つのでしょうか。
民法では、人の権利能力につき、以下のように定められています。

 

(権利能力)
第3条1項 私権の享有は出生により始まる。

 

このように、出生と同時に「人」として等しく権利をもつことになります。

しかし、「出生」と同時に権利を持つとなると
胎児には権利能力は認められていないということになります。 

 

では、胎児の出生前に
交通事故等の思わぬ事態が発生した場合はどうでしょうか。

例えば、妊娠中に胎児の親が不測の事故に遭遇し、被害者となってしまった場合。

事故発生が、出生時刻の
・「前」であったか
・「後」であったか
という僅かな時間の差により、胎児は損害賠償請求をできなくなる、という不公平が生じてしまいます。

 

このような不公平をなくすため、民法では以下のような例外を設けているのです。

 

(損害賠償請求権に関する胎児の権利能力)
民法721条
「胎児は、損害賠償の請求権については、既に生まれたものとみなす。」

 

(相続に関する胎児の権利能力)
民法886条1項
「胎児は、相続については、既に生まれたものとみなす。」


このように、損害賠償の請求及び相続については
例外的に、胎児を「既に生まれたもの」としてみなすことにしたのです。

 


 

これについて、以下のような事例があります。

交通事故発生時に胎児であった者が、出生後に、当該事故を原因として障害を生じ、重い後遺症が残ったとして、両親とともに、自家用自動車総合保険契約の無保険車傷害条項に基づく保険金の請求をする事案です(最三小判平成18年3月28日)。

 

平成11年1月5日午前10時ころ、交通整理のおこなわれていない交差点において、被害者(事故当時胎児)の母の運転する自動車が、加害者の運転する自動車(任意保険無加入)と衝突する事故が発生しました。

この事故は、加害者の過失に起因するものでした。 

事故当時、被害者母は妊娠34週目でしたが、事故後運ばれた病院で緊急帝王切開手術を受け、同日午後0時58分、被害者(子)を出産しました。
しかし、被害者は重度仮死状態での出生となり、「低酸素性脳症、てんかん」の傷害を負い、病院に入院して治療を受けたものの、平成12年12月5日、症状が固定し、重度の精神運動発達遅滞(痙性四肢麻痺)の後遺障害が残ってしまいました。

被害者の傷害及び後遺障害は、この事故に起因するものとなります。

 

事故当時、被害者父は、保険会社との間で、被害車両を被保険自動車、被害者父を記名被保険者とする自家用自動車総合保険契約を締結していました。

この契約にかかる保険約款には、以下の「無保険車傷害条項」がありました。

「保険会社は、無保険自動車の所有、使用又は管理に起因して,被保険者の生命が害されること、又は身体が害され、その直接の結果として後遺障害が生じることによって被保険者又はその父母、配偶者若しくは子が被る損害に対して、賠償義務者がある場合に限り、保険金を支払う。」

 

同条項は、加害車両が無保険車である場合、つまり任意保険に加入していない場合、保険会社は、加害者に対して賠償請求をすることができる額を保険金として支払うというものでした。
そして、加害車両はこの「無保険自動車」に該当したのです。

これにより、被害者らが保険会社に対して、被害者の損害につき、保険金等の支払を求める裁判を起こしたところ、被害者は事故当時胎児であったため、
胎児の時に発生した交通事故により出生後に傷害を生じ、その結果後遺障害が残存した場合、無保険車傷害条項に基づく保険金請求ができるかどうか、
が問題になりました。

 

これについて、最高裁判所は、

「民法721条により、胎児は、損害賠償の請求権については、既に生まれたものとみなされるから、胎児である間に受けた不法行為によって出生後に傷害が生じ、後遺障害が残存した場合には、それらによる損害については、加害者に対して損害賠償請求をすることができる」

そして、

「胎児である間に発生した本件事故により、出生後に本件障害等が生じたのであるから」、被害者らは、「本件傷害等による損害について、加害者に対して損害賠償請求をすることができ」、被害者らは、自家用自動車総合保険契約の無保険車傷害条項が、被保険者として定める「記名被保険者の同居の親族」に生じた傷害及び後遺障害による損害に準ずるものとして、同条項に基づく保険金の請求をすることができる、

との判断をしたのです。

 

◇ ◇ ◇

 

本日の歌
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立」 

小式部内侍が、美しくも儚い生涯を閉じたのは、およそ28歳頃であったと言われています。

小式部内侍の子(頼忍阿闍梨)については、平安随一の女流歌人といわれる和泉式部を祖母、その美しさと聡明さを受け継いだ小式部内侍を母、そして藤原公成を父として生まれてきたという以外、歌の才能があったのか、どのような生涯を送ったか等、残念ながら詳細は残っていないようです。

小式部内侍は、数々の優れた歌集を残した和泉式部とは対照的に、歌集を残さなかったようですが、若くして命を落とさなければさぞかし多くの素晴らしい歌を残してくれたことでしょう。

 

また、和泉式部の晩年については、娘・小式部内侍の菩提を弔いつつ、自らの往生も考えるようになったといわれています。

こうして和泉式部が詠んだ歌が、

「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」

(よりいっそう暗い闇へ入り込んでしまいそうだ。はるか遠くまで照らしてください、山の端にいる月よ。)

この後、和泉式部は阿弥陀如来に帰依して出家し、専意法尼という戒名を授かったといわれます(京都にある誠心院によれば、初代住職を務めたとか)。

美しく、才能に溢れ、将来有望であった子を若くして失った和泉式部。
母としての気持はいかばかりであったでしょう。

彼女の決意表明とも言えるこの歌からは、娘を失った後、残りの人生をいかに生きるべきか、深い悲しみの中にも一筋の光を見つけた、とも読み取ることができ、それもまた、涙を誘うのではないでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 1首目

自分には解決出来ず、長い間頭を悩ませている問題を
他の人が、あっさり解決してくれた時。
爽快な気持ちになったという経験は、誰にでも一度はあることでしょう。

自分が得意とすることが、他の人にとっては不得意であったり、
また逆に、自分には出来ないことが、他の人にはいとも簡単に出来てしまったり。

人にはそれぞれ、得手不得手があります。
しかしそれもまた、個性の一つと言えるのではないでしょうか。

直面する問題が、自分の人生を左右するものであった場合、自分の代わりにあの人が解決してくれたら、どんなに楽だろう、、と感じることもありますが、時と場合によっては、これが問題になることも。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

「秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ

                 わが衣手は  露にぬれつつ」  

天智天皇

「あきのたの かりほのいほの とまをあらみ 

                    わがころもでは つゆにぬれつつ」

                   てんぢてんのう (てんじてんのう)

 

小倉百人一首 100首のうち1首目。
飛鳥時代(592年 – 710年)の天皇・天智天皇の歌となります。

 

歌の意味

 

「秋の田の側に作った仮小屋に泊まったところ、屋根を吹いた苫の目が粗いので、その隙間から、冷たい夜露が忍び込んできて、私の着物の袖をすっかり濡らしてしまっているなぁ」

かりほの庵(仮庵):農作業のための粗末な仮小屋のこと。
秋の刈入れの際には、刈入れた稲が獣に荒らされないよう、ここに泊まって番をすることがありました。

苫:藁(わら)やイグサ等で編んだ「莚(むしろ)」のこと。
寂しさや、侘(わび)しさ、貧しさ等を連想させる語として、歌では多く用いられています。

小倉百人一首100首のうち1首目としても有名なこの歌。
天智天皇といえば、誰もが一度はその名を聞いたことがあるのではないでしょうか。

小倉百人一首の歌番号(和歌番号)とは、実は、歌の詠まれた年代順(古い歌人から新しい歌人の順)に付されており、1首目の天智天皇(626-672)から100首目の順徳院(順徳天皇・1197-1242)まで、およそ550年間にも及びます。 

それ故、本日ご紹介する歌の作者、天智天皇とは、百人一首の登場人物の中では、最も古い時代の歌人となります。

 

作者について

 

天智天皇(てんじてんのう・626-672)

日本の第38代天皇であり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・なかのおおえのみこ)としても知られています。

43歳で即位し、その在位は10年に及びました。
斉明天皇を母とし、藤原鎌足(中臣鎌足)と共に豪族・蘇我氏を討ち、大化の改新をおこなったことで有名です。

「大化の改新」とは、645年に始まった日本の国政改革。

私有地の廃止、統一的な税制の実施等、中央集権的支配体制の形成を目指したもので、従来の豪族中心であった政治から、大化の改新を境に、天皇中心の政治が始まりました。
そしてここから、「日本」と言う国号、「天皇」という称号、そして日本の最初の元号である「大化」が始まったとされており(それ以前は「天智天皇●年」のように、元号として天皇の名前が付されていました。)、日本の歴史が大きく動き出した転換点といわれています。

天智天皇は、このような偉業を成し遂げた人物であることから、時を経て、百人一首が作られた平安時代においても、日本の基礎を築いた偉大なる天皇として、なお絶大な人気があったようです。

加えて、天智天皇は「万葉集」や「日本書紀」などにもその歌が記されるなど、才能豊かな歌人でもありました。


ところで。

百人一首の歌には、四季が織り込まれていますが、本日の歌に詠まれている季節は、文字通り「秋」となります。
実は、百人一首で詠まれている季節の中では秋が最も多く、その数は16首。
侘び寂びを大切に思う日本人の感性には、もしかしたら秋の持つイメージが一番合うのかもしれません。

「秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ わが衣手は  露にぬれつつ」

改めてこちらの歌を詠んでみると、
周りを田に囲まれ、四方から隙間風が吹き込むほどの、荒れ果てた仮小屋の中心に、衣を冷たい夜露で濡らし、天皇ともあろう高貴なお方が、一人でおられるお姿が目に浮かびます。

あまりにも有名な歌ながら、なんと寂寥感の漂う歌でしょうか。
これは、本当にあの天智天皇が詠んだ歌?
天皇という高貴な身分の方に、この歌のイメージが全くそぐわない。。

というのも、実はこちらの歌
本当の歌人(作者)は天智天皇ではない、というのが通説とされているようです。

ということは、誰かが「天智天皇」になりすまして詠んだ、ということでしょうか?

そこで…

 

 

私文書偽造と事実証明に関する文書

 

「他人になりすます」と言って思い浮かぶことのひとつに、
いわゆる「替え玉受験」があります。

「替え玉受験」とは、大学入学選抜試験において、別の人物が受験者本人に成りすまして試験を受けるというもの。
つまり、入学試験において、受験者本人名義の試験の答案を、別の人物が本人に成り代わって作成し、それを本人が作成したものとして提出する行為とされています。

 

この「替え玉受験」は、受験者本人と、別の人物である答案作成者双方の合意の上でなされる行為であるところ、本人の承諾を得た上で、別の人物が答案を作成したとしても、文書偽造に当たるのでしょうか。

受験者の代わりに、「替え玉」受験生が答案を作成して、受験者のものとして提出したことが、有印私文書偽造、同行使に該当するか否かが争われ、この入学選抜試験の答案が、刑法159条1項にいう「事実証明に関する文書」に当たるかどうかが問題となった事件があります(最三小決平成6年11月29日)。

(私文書偽造等)
刑法159条1項
「行使の目的で、他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した他人の印章若しくは署名を使用して権利、義務若しくは事実証明に関する文書若しくは図画を偽造した者は、3月以上5年以下の懲役に処する。」

 

この事件で、最高裁は

「本件入学選抜試験の答案は、試験問題に対し、志願者が正解と判断した内容を所定の用紙の解答欄に記載する文書であり、それ自体で志願者の学力が明らかになるものではないが、それが採点されて、その結果が志願者学力を示す資料となり、これを基に合否の判定が行われ、合格の判定を受けた志願者が入学を許可されるのであるから、志願者の学力の証明に関するものであって、「社会生活に交渉を有する事項」を証明する文書(最高裁昭和33年9月16日)に当たると解するのが相当である。したがって、本件答案が刑法159条1項にいう事実証明に関する文書に当たる」

と判断しました。

大学入学選抜試験の答案は、受験者の学力の証明に関する文書であって、
いわば受験者本人であることを証明するもの。

入学試験の結果は、その時の、受験者本人自身の学力を示す資料であり、答案の作成者は本人であることが前提とされていることから、本人以外の作成は認められておらず、「社会生活に交渉を有する事項」を証明する文書に当たります。
これはすなわち、刑法159条1項にいう「事実証明に関する文書」に当たるとされ、例え本人から承諾を得たとしても、他人が本人になりすまして作成した入学選抜試験の答案は偽造された文書となり、「替え玉受験」は私文書偽造罪に当たるとされたのです。

 

◇ ◇ ◇ 

 

本日の歌
「秋の田の  かりほの庵の  苫をあらみ わが衣手は  露にぬれつつ」

本来は万葉集の「詠み人知らず」の歌であったものが、天智天皇の歌とされたのは
「天智天皇は、貧しさに苦しむ庶民の姿と、ご自分のお姿を重ね合わせ、庶民と苦しみを分かち合ってくださっている、、」
というお話が伝わるうちに、いつしか、この歌は実際に天智天皇が詠まれた歌であるとの噂が広まったからだと言われています。

また一説には、天智天皇が御所の庭を散歩されていたところ、庭の草花にかかる露をご覧になり、「この夜露では、さぞかし庶民もつらい思いをしているだろう」と、庶民に思いを馳せられ、天智天皇自らこの歌を詠まれたのだとも伝えられています。

 

素晴らしい歌とは、時代を超えて、人々の心に響くもの。

「詠み人知らず」である一庶民が、もし、天智天皇の承諾を得た上で、天智天皇の歌としてこの歌を世に出したのだとしたら。。

そんな想像をしてみるのも、また歴史の楽しさのひとつかもしれません。

 

  文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 68首目

いつ終息を迎えるともわからないコロナ禍の現在。今ほど健康に関する意識が高まっている時代はないでしょう。

ひとたびメディアで、ある商品が「免疫力を高める」、「健康に良い」、「●●の症状に効果がある」等「健康」に結びつくとの紹介がなされれば、その商品は瞬く間に店頭から消えてしまう、という現象が起こることも珍しくありません。

「健康」にまつわる商品やサービスが巷に溢れかえっている現代社会においては、私たち消費者としては、何を信頼し、また何を基準にして選択すれば良いか、というのが一番難しいところではないでしょうか。

商品も情報も溢れている状況の中で、優れたキャッチコピーとは、いつの時代も私たちの心を惹きつけるものです。

商品やサービスがどのようなものか、詳しくは知らなくても、魅力的なキャッチコピーだけでつい目が留まり、心が動いてしまうことはないでしょうか?

とはいえ、そのキャッチコピーは、果たして正確か否か、というのはまた別の問題となりますが。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】

「心にも あらでうき世に ながらへば

                 恋しかるべき 夜半の月かな」

三 条 院

「こころにも あらでうきよに ながらへば

                    こひしかるべき よはのつきかな」

                             さんじょういん

 

 

小倉百人一首 100首のうち68首目。
平安時代の天皇・三条院(三条天皇)の歌となります。

 

 

歌の意味

「(望みのないこの世ではあるけれど)心ならずも、この辛い浮き世を生き長らえたならば、きっと、この宮中で見た夜の月が、恋しく思 い出されることであろうなぁ。」

心にも あらず:本心ではないけれど
うき世にながらへば:浮き世・憂き世・現世(=儚い世、辛い世)を生きながらえたならば

この歌は、眼病を患っていた三条院の病状が悪化しつつある中
譲位の決意を固めたところ、宮中にて、明るい月の光を目にして詠んだ歌です。

この歌が詠まれた裏にあったものは、美しい月の光とは対称的な、三条院の心の深い闇。闇が深いほど、光はより美しく輝くものかもしれません。

その生涯を紐解いてみると、三条院にとって、現世を生きることがいかに辛かったかが伝わってきます。

 

作者について

 

三条院(さんじょういん・976-1017)

冷泉天皇(れいぜいてんのう)の第2皇子・居貞(いやさだ)親王であり、日本の第67代天皇(在位:1011年7月16日- 1016年3月10日)です。

母は藤原兼家の長女・贈皇太后超子。
その母をわずか7歳で失い、父帝・冷泉上皇は精神病を患っているという境遇で育ち、後見が薄弱でした。
986年7月16日、11歳で皇太子となったものの、25年後の1011年、36歳にてようやく即位することとなります。

やっとのことで即位したのも束の間、3年後の1014年に三条院は眼病を患います。
伝えられるところによると、これは「仙丹」の服用直後のことといわれています。


三条院が服用したこの「仙丹」とは、中国において古代より、服用すると不老不死となり、ついには仙人になれるといわれた霊薬です。
錬丹術という、中国の道教の術によるものですが、原材料には毒物の硫化水銀・硫化砒素が大量に含まれており、実際は人体に有害でした。

古代より、水銀は不老不死や美容などに効果があると妄信されていたことから、秦の始皇帝は永遠の命を求め、水銀入りの薬や食べ物を摂取していたことによって、逆に命を落としたとも言われており、他にも多数の権力者が、同様に水銀中毒で死亡したと伝わっています。

眼病を患った三条院に対し、時の権力者・藤原道長は、その眼病を理由に譲位を迫りますが、実際は、眼病が理由なのではなく、前天皇の一条院と自分の娘・彰子(しょうし)との間にできた皇子を即位させ、自分は摂政として政権を掌握するためであった、というのが裏の理由と言われています。

道長による圧力や権力闘争に疲れ果てた三条院は、眼病が悪化し失明寸前となり、ついに退位を決意します。

そのときに詠んだのが、この歌でした。


もともと病弱であったためか、心身ともに疲れ果ててしまった三条院。
在位わずか6年で、道長が勧めるまま、後一条天皇に譲位し(実際は皇位を奪われた状態)、その翌年、1017年に出家し42歳で崩御してしまいました。

短い在位の間に、眼病、病状が悪化する中、道長からの絶え間ない退位の圧力に加え、内裏が2度も焼失するなど、苦難に満ちた生涯でした。

「不老不死」との効果があるとのことで「仙丹」を服用したことで、眼病となり、
失明寸前まで病状が悪化した挙げ句に、それを口実として天皇の座を奪われる。。

というのも、三条院はたびたび物の怪や天狗に襲われているとのことで、患っていた眼病は、三条院に深い恨みのある僧侶が物の怪になってとりついたせいだとの噂も流れていた、とのこと。

実際のところはどうなのでしょうか。。

 

 

 

表現の自由と広告の制限

 

さて・・・

古代では、「不老不死」とのキャッチコピーで、時の権力者たちが「仙丹」を服用したように、現代では、「健康」に関する様々な情報を選択する際、どのような「効能」があるかを、判断基準の一つとすることもあるのではないでしょうか。

ところが、この「効能」についての広告に関して
憲法21条の「表現の自由」を侵害するか否か
について争われた事例があります。(最判昭和36年2月15日

 

きゅう業を営む男性が、きゅうの適応症であるとした「神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等」の病名を記載したビラを、各所に配布した行為は、あん摩師、はり師、きゆう師及び柔道整復師法第7条に違反するとして、起訴されました。

男性はこれに対し、

あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(それぞれの資格の頭文字を取り、「あはき法」との通称があります。)7条及び柔道整復師法24条による広告の禁止は、憲法21条により保障される、表現の自由を侵害するものである、として争いました。

(憲法)
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

(あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律(通称:あはき法))
第7条 あん摩業、マツサージ業、指圧業、はり業若しくはきゆう業又はこれらの施術所に関しては、何人も、いかなる方法によるを問わず、左に掲げる事項以外の事項について、広告をしてはならない。
1 施術者である旨並びに施術者の氏名及び住所
2 第一条に規定する業務の種類
3 施術所の名称、電話番号及び所在の場所を表示する事項
4 施術日又は施術時間
5 その他厚生労働大臣が指定する事項

(柔道整復師法)
第24条 柔道整復の業務又は施術所に関しては、何人も、文書その他いかなる方法によるを問わず、次に掲げる事項を除くほか、広告をしてはならない。
1 柔道整復師である旨並びにその氏名及び住所
2 施術所の名称、電話番号及び所在の場所を表示する事項
3 施術日又は施術時間
4 その他厚生労働大臣が指定する事項

あはき法7条及び柔道整復師法24条による広告の禁止は、憲法21条により保障される表現の自由を害するか否かにつき、裁判所は

「そして本件につき原審の適法に認定した事実は、被告人はきゆう業を営む者であるところその業に関しきゆうの適応症であるとした神経痛、リヨウマチ、血の道、胃腸病等の病名を記載したビラ約7030枚を判示各所に配布したというのであつて、その記載内容が前記列挙事項に当らないことは明らかであるから、右にいわゆる適応症の記載が被告人の技能を広告したものと認められるかどうか、またきゆうが実際に右病気に効果があるかどうかに拘らず、被告人の右所為は、同条に違反するものといわなければならない。」

「しかし本法があん摩、はり、きゆう等の業務又は施術所に関し前記のような制限を設け、いわゆる適応症の広告をも許さないゆえんのものは、もしこれを無制限に許容するときは、患者を吸引しようとするためややもすれば虚偽誇大に流れ、一般大衆を惑わす虞があり、その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来することをおそれたためであつて、このような弊害を未然に防止するため一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するためやむをえない措置として是認されなければならない」

と判示し、この広告の規制につき

「広告の制限をしても、これがため思想及び良心の自由を害するものではないし、また右広告の制限が公共の福祉のために設けられたものである」

として、当該広告を禁止することは、「憲法21条には違反しない」と判断しました。

 

きゅうの適応症として病名を記載したビラを配布するという行為につき、適応症として、病名等を記載することで、一般大衆に誤った期待を与えるおそれがあり、「国民の保健衛生上の見地から」「公共の福祉を維持するため」、虚偽または誇大広告の可能性があることから、違法であるとされたのです。

この判例では、広告を無制限に許容すると、患者を呼び込むため、虚偽誇大に流れてしまい、それにより一般大衆を惑わすおそれがあり、その結果として、適時適切な医療を受ける機会を逸する結果となることを避けるため、としており、このような事態を未然に防止するためには、一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するため止むを得ない措置として是認されなければならないとされました。

ちなみに、あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師になるためには、あはき法において

第1条 医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業としようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許(以下免許という。)を受けなければならない。
第2条 免許は、学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第九十条第一項の規定により大学に入学することのできる者(この項の規定により文部科学大臣の認定した学校が大学である場合において、当該大学が同条第二項の規定により当該大学に入学させた者を含む。)で、三年以上、文部科学省令・厚生労働省令で定める基準に適合するものとして、文部科学大臣の認定した学校又は次の各号に掲げる者の認定した当該各号に定める養成施設において解剖学、生理学、病理学、衛生学その他あん摩マツサージ指圧師、はり師又はきゆう師となるのに必要な知識及び技能を修得したものであつて、厚生労働大臣の行うあん摩マツサージ指圧師国家試験、はり師国家試験又はきゆう師国家試験(以下「試験」という。)に合格した者に対して、厚生労働大臣が、これを与える。

と定められていることから、免許制となっており、国家試験を受け、合格し、厚生労働大臣免許を取得しなければなりません。

なお、「あん摩マッサージ指圧師」、「はり師」、「きゆう師」、「鍼灸師」のほか、柔道整復師法で規定される「柔道整復師」は、法的な資格制度のある医業類似行為に分類されています。

 

◇ ◇ ◇

さて…

そもそも、古代より「仙丹は不老不死の霊薬である」とは誰が最初に言い始めたのでしょうか?
唐の皇帝は、何人もが丹薬の害により、命を落としたと言います。
薬と称して、密かに毒を盛り、それにより健康を害すると、物の怪の呪いによるものだとの噂を広める。。
犯人は皇帝の座を狙う者?それとも、、そこは陰謀渦巻く政治の世界。

真実は闇の中、ということでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 19首目

 

かつて、図らずもバラバラに分割される運命となってしまったものの、
昨年2019年、100年ぶりに一堂に会する事となり話題になった、国宝級の絵巻物「佐竹本三十六歌仙絵巻」。

鎌倉時代に制作されたもので、当初は上下2巻の絵巻物となっており、各巻に18名ずつ、計36名の歌人の肖像が描かれていました(絵の筆者は藤原信実・ふじわらのぶざね(1176年 – 1265年)、書の筆者は当ブログ91首目にてご紹介した、後京極良経・ごきょうごくよしつね(1169年 – 1206年)であるとも言われています。)。

以降、この絵巻物が佐竹侯爵家に伝来したことから、
「佐竹本」との名で呼ばれています。

 

明治維新以後、多くの大名家が没落する中、佐竹侯爵家も例外ではなく、収入源を失い、家宝を売却しなければ生き残ることができなくなってしまいました。

こうして、止む無く手放されることとなった貴重な絵巻物は、その後、数奇な運命を辿ることとなります。

次々に絵巻物の所有者が変遷する中、日本は戦争の時代へと突入。
社会における経済状況も、次第に悪化の一途を辿り、この大変高価な美術品は、我が国においては、個人の財力では、到底購入することができないものとなってしまったのです。

このままでは、国の宝とも言うべき貴重な絵巻が、海外へ流出するという危険が生じてしまう…

こうした危機的な状況の中、最悪の事態を防ごうと、
1919年12月20日、美術品コレクター・実業家である益田鈍翁の提案により、
「佐竹本三十六歌仙絵巻」は歌人ごと、バラバラに切り離され、それぞれが別々の所有者のもとで、所有されることとなりました。

いわゆる「絵巻切断事件」です。

絵巻が分割されるにあたっては、誰もが欲しい人気の歌人(逆に不人気の歌人も)がおり、果たして誰がどの歌人を手に入れるか、くじ引きによる抽選がおこなわれました。(実は、この提案をした益田鈍翁本人は、最も人気のない「僧侶」の絵が当たってしまい、すっかり不機嫌になってしまったとのこと・・・。一気に気まずくなった雰囲気の中、一番人気の「斎宮女御」を引き当てた古美術商が交換を申し出てくれたおかげで、益田氏のご機嫌も直り、その場もなんとか収まった、という裏話もあるようです。)

こうして海外流出の難を逃れた歌人たちは、
全国へと散らばることで、生き延びてゆきます。

その後、日本はさらなる戦争の混乱へと突き進むことになりました。

そして、それに伴う経済状況の悪化により、歌人たちの絵は、時代に翻弄されつつも、様々に所有者が変遷し、美術館や個人の手へと渡ることとなったのです。

 

そんな事件から、昨年でちょうど100年。
恐らく今後二度とないであろう、36人の歌仙たちの貴重な再会となったのでした。

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】
「難波潟 みじかき芦の ふしの間も

             逢はでこの世を 過ぐしてよとや」

伊 勢

「なにはがた みじかきあしの ふしのまも

                 あはでこのよを すぐしてよとや」

い せ

小倉百人一首 100首のうち19首目。
本日ご紹介するのは、百人一首に一番多く収められている
「恋」の歌の一つとなります。

 

 

歌の意味

「難波潟の短い芦の節と節の間ほどの短い時間でも、あなたに会いたいのに、
あなたはもう、会わずにこの世を過ごせとおっしゃるのですか?」

難波潟とは、現在の大阪市上町台地の西側に広がっていた、大阪湾の入り江あたりの、遠浅の海のこと。
旧淀川の河口にあたり、昔は干潟が広がり、芦が生い茂っていました。

現在は開発が進み、かつての干潟を見るのは難しいようですが、
大阪市・淀川の下流、長江橋のあたりには、辛うじて風景が残っているとのこと。

芦とは、現代でこそあまり馴染みがありませんが、古くから、水辺に生える芦に多く歌が詠まれております。
特に難波潟の芦は有名で、様々な歌に詠まれているようです。

 

 

作者について

 
伊勢(いせ・872-938)

平安時代の代表的な女流歌人であり、三十六歌仙、女房三十六歌仙のひとり。

宇多天皇の中宮温子に女房として仕え、藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受け、その皇子を生んだことで「伊勢御息所」と呼ばれます(御息所・みやすどころとは天皇の子を生んだ女性のこと)。
しかしその皇子は、儚くも5歳で夭折。
その後、伊勢は宇多天皇の皇子敦慶(あつよし)親王と結婚して娘・中務(なかつかさ・後に女流歌人として活躍)を生みます。
彼女は情熱的な恋歌で知られ、”紀貫之と並び称されることもあった”というほどの才能の持ち主でした。

特に家集「伊勢集」は、
「和泉式部日記」などの後の女流日記文学の先駆けとされているほど。

この伊勢こそ、「佐竹本三十六歌仙絵巻」に描かれている歌人の一人であり、恋多き女性、情熱的な女性として多くの歌を詠み、名を馳せた歌人です。

 

さて・・・

昨今の世界情勢のように、社会情勢の変化により、収入源を失ってしまうことで、時に税金を収められなくなってしまう、という事態が生じることもあるでしょう。

そのような時、国は、資産の差押という手段によって、滞納している税金(租税債権)を回収することがあります。

ところが、その回収先にも、同様に債権があった場合はどうなるでしょうか。

 

 

相殺の範囲


この件に関し、裁判で争われた事例がありますので、ご紹介いたします。

税金を滞納していた、とある会社の銀行預金を国が差押えたところ、銀行がこの会社に対しては貸付金を持っているので、これと相殺して預金を差押えすることはできない、と主張してきたため、国が、銀行の貸付債権(自働債権)については、返済する期限が後に来る預金債権(受働債権)については相殺できないとして訴えた事例です(最判昭和45年6月24日)。

相殺には、相殺する債権(自働債権)と、相殺される債権(受働債権)があり、
相殺を可能にする条件については、民法505条に定められています。

(相殺の要件等)
民法505条
「二人が互いに同種の目的を有する債務を負担する場合において、双方の債務が弁済期にあるときは、各債務者は、その対当額について相殺によってその債務を免れることができる。ただし、債務の性質がこれを許さないときは、この限りでない。」

 

この条文では、相殺適状の要件として次の内容が規定されています。

・同種の対立する債権があること
・双方の債務が弁済期にあること
・債権が相殺できるものであること

相殺を可能にするためには、これらの要件が必要とされており、双方の債権がこの要件を満たしていなければなりません。

そして、これらの要件全てを満たし、相殺ができる状態であることを
「相殺適状」といいます。

 

さて、ご紹介の事例において、最高裁は

「相殺の制度は、互いに同種の債権を有する当事者間において、相対立する債権債務を簡易な方法によつて決済し、もって両者の債権関係を円滑かつ公平に処理することを目的とする合理的な制度であって、相殺権を行使する債権者の立場からすれば、債務者の資力が不十分な場合においても、自己の債権については確実かつ十分な弁済を受けたと同様な利益を受けることができる点において、受働債権につきあたかも担保権を有するにも似た地位が与えられるという機能を営むものである。」

として、相殺制度の趣旨を説明した上で、相殺の効力の範囲について、

「第三債務者(※銀行)が債務者(※会社)に対して有する債権をもって差押債権者に対し、相殺をなしうることを当然の前提としたうえ、差押後に発生した債権または差押後に他から取得した債権を自働債権とする相殺のみを例外的に禁止することによって、その限度において、差押債権者と第三債務者の間の利益の調節を図ったものと解するのが相当である。
したがって、第三債務者は、その債権が差押後に取得されたものでないかぎり、自働債権および受働債権の弁済期の前後を問わず、相殺適状に達しさえすれば、差押後においても、これを自働債権として相殺をなしうるものと解すべきである。」

とし、その範囲を限定しました。

 

差押と相殺につき、旧民法では、第三債務者が差押え後に取得した債権における相殺については規定していたものの、差押え前に取得した債権における相殺については明確に規定していませんでした。

しかし、この判決では、第三債務者の債権が差押え後に取得されたものでなければ、自働債権の弁済期及び受働債権の弁済期の前後を問わず、相殺適状に達していれば、差押後においても相殺できることとしたのです。

 

これを受け、改正民法511条1項では

・差押えを受けた債権を、差押え後に取得した債権で相殺することは出来ないものの、差押え前に取得した債権で相殺することはできること

・差押え後に取得した債権につき、差押え前の原因に基づいて生じた債権であるときは、差押による債権と相殺できること

が明文化されました。

<改正前民法>
(支払の差止めを受けた債権を受働債権とする相殺の禁止)
第511条  支払の差止めを受けた第三債務者は、その後に取得した債権による相殺をもって差押債権者に対抗することができない。
<改正民法>
(差押えを受けた債権を受働債権とする相殺の禁止)
第511条 差押えを受けた債権の第三債務者は、差押え後に取得した債権による相殺をもって差押債権者に対抗することはできないが、差押え前に取得した債権による相殺をもって対抗することができる。
2 前項の規定にかかわらず、差押え後に取得した債権が差押え前の原因に基づいて生じたものであるときは、その第三債務者は、その債権による相殺をもって差押債権者に対抗することができる。ただし、第三債務者が差押え後に他人の債権を取得したときは、この限りでない。

 

 

さて、本日ご紹介いたしました歌、

「難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや」

そして作者である、恋多き情熱的な女流歌人、伊勢。

 

冒頭で触れました「佐竹本三十六歌仙絵巻」で描かれている歌人は、女性歌人5名、男性歌人31名となっておりますが、絵巻切断事件以降、所有者が変わるたび、それぞれの歌人に値が付けられるにあたっては、やはり華やかな女性の絵に高値がついたと言われています。

伊勢の絵も、恐らく高額にて取り引きされ、
所有者の手から手へ渡ってきたものと思われます。

100年の節目に、昨年「佐竹本三十六歌仙絵巻」の特別展が開催されたのは、全国でただ1箇所、京都国立博物館のみ(巡回なし)であった、という稀有な機会にもかかわらず、それでも出品されることのなかった、大変貴重な作品。

伊勢の絵は、美術館蔵ではなく、個人蔵となりますので、実物を目にすることのできる機会は、今後いつになるか、果たしてその機会はあるか否かも定かではありません。

その上残念なことに、今年に入ってからは、美術館に足を運ぶことも難しい状況となってしまいました。

この先、実物に出会える機会は、益々遠のいてしまいましたが、
もし、そのような機会が訪れたならば、何をおいても観に行きたいものです。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー

法律で読み解く百人一首 91首目

被害者が死亡に至った直接の原因が、加害者によるものではなく
第三者(またはその他の要因)によるものであった場合。

被害者が死亡に至る過程において、
加害者による行為が起因していたとあれば、被害者死亡という事実と
加害者による行為には相当因果関係が認められるのでしょうか?




誰でも一度は経験したことがあるでしょう。
「青天の霹靂」とも言える、想像だにしていない、突然の出来事。

しかし、それが人の命を左右するものだとしたら。。

物ごとには、すべて「原因」と「結果」があり、
この2つは、1本の線で繋がっていると言われています。

点と点を繋げてゆけば、必ず線になるように。

一見、全く無関係のように思われる出来事も、
元を辿れば、必ず「原因」に行き当たります。

それが、例え想定外に起きてしまった「結果」だとしても。。

 

そこで、本日ご紹介する歌は…

【本日の歌】
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに

               衣かたしき ひとりかも寝む」
                     後京極摂政前太政大臣

「きりぎりす なくやしもよの さむしろに

                 ころもかたしき ひとりかもねむ」

            ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん


小倉百人一首 100首のうち91首目。
平安末期から鎌倉初期にかけての公卿・歌人である
後京極摂政前太政大臣(藤原良経)の歌となります。

 

 

歌の意味

「霜の降るこの寒い夜、こおろぎがしきりに鳴いている。
こんな夜に、筵(むしろ)の上に衣の片袖を敷いて、わたしはたった独り、寂しく寝るのだろうか。。」


この歌にある「きりぎりす」とは、現在の「コオロギ」のこと。
私たちが知っている、現在の「キリギリス」とは異なります。

漢字では「蟋蟀」と書き(「きりぎりす」とも、「こおろぎ」とも読みます。)、平安時代から中世には、秋に鳴く虫のことを指し、秋の季語とされておりました。

それ故、この歌の季節は「秋」となります。

 

さて

平安時代には、男性と女性が一緒に寝る時は、お互いの着物(衣)の袖を敷きあって寝るという習慣がありました。

「衣片敷き(ころもかたしき)」とは、
共に寝る相手(衣を敷き交わす相手)がいないため、自分の衣を敷き、その袖を枕代わりにして、独りで寝ることを意味しています。

 

霜の降る晩秋の寒い夜
むしろ(わらで編んだ粗末な敷物)の上で、
きりぎりすの声を聞きながら、独り寂しく眠る…

想像するだけで、寂しく孤独な様子がひしひしと伝わってまいります。
(「さむしろ」とは「寒い」と「むしろ」を掛けていることからも、
なお一層、寂寥感が募りますね。)

 

しかし、実はこの歌を詠む直前、良経は妻を失っています。

そのような背景を知った上で、改めてこの歌を詠んでみると
先ほどまでとは、また違った印象を受けるのではないでしょうか。

 

 

作者について


後京極摂政前太政大臣
(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん・1169-1206)

彼は、
本名:九条(藤原)良経(くじょう(ふじわら)よしつね)
別名:後京極殿(ごきょうごくどの)
通称:後京極摂政(ごきょうごくせっしょう)
と、いくつもの呼び名を持っています。

政治家としては、内大臣(左大臣・右大臣に次ぐ官職)まで昇りつめるも、
派閥争いに破れて、朝廷から追放されてしまいます。
しかし、その後再び政権に返り咲き、
1204年、ついに官僚の最高位である太政大臣となりました。

ところが、そのわずか2年後、38歳の若さで急死してしまいます。

 

また、良経は歌人としても、新古今和歌集(後鳥羽院の命によって1201年より編纂された勅撰和歌集)の「仮名序」を書いたことで有名です。

「仮名序」とは、「真名序」とともに、新古今和歌集の序文として大変重要な位置づけであり、仮名序を任されるということは、多くの人から尊敬を集める、当時は大変名誉な任務でした。

新古今和歌集は、1205年3月26日に完成しますが…
その翌年、1206年4月16日の深夜、良経に突如死が訪れます。

宮廷内の自邸で一人休んでいるところを、天井から槍で刺し殺されたことから
良経の死は、暗殺によるものだとされています。

政敵か、または
新古今和歌集の「仮名序」の執筆者に選ばれなかった者の逆恨みか、それとも…

 

真実は闇の中、とされておりますが
和歌や漢詩に優れ、とりわけ書においては、のちに「後京極流」との流派ができるほど優れた才能を持っていた良経。

38歳といえば、政治の世界においても、歌の世界においても、まさに絶頂期。

いよいよこれから、、という時の
あまりにも突然で、惜しまれる死となりました。

 

今でこそ、耳にすることも少なくなりましたが、
昔の日本においては、「暗殺」という物騒な事件は、日常の出来事でした。

暗殺の恐怖に怯えながら、戦々恐々として暮らす毎日とは、
どんなものだったでしょうか。。

例えば良経のように、真夜中、暗殺者に襲われた場合…

いつ暗殺されるか知れない、という命の危険を感じながら暮らす日常にあって、
殺害当夜も、危険を察知し、部屋から飛び出したことで、
危うく暗殺という難を逃れたとしても、飛び出したその先に別の危険が待ち受け、
それによって、良経が死に至ったとしたら?

このような場合、暗殺者は、良経の死に関し、
罪に問われることになるのでしょうか?

 

 

被害者の逃走中の事故死と因果関係


さて

現代においても、「生命の危険を感じて逃走する途中で起きた死亡事故」
における因果関係について、争われた事例がありますので、ご紹介いたします。


複数の加害者らに長時間に渡り暴行を加えられた被害者が、加害者らの隙を見て逃走する途中で、高速道路に進入してしまったことで、結果、交通事故により死亡した場合、加害者らの暴行と、被害者の交通事故による死亡との間には、因果関係があるか否か、について争われました。(最決平成15年7月16日

この事件で、加害者6人は、被害者に対し、深夜の公園において、約2時間に渡り激しい暴行を繰り返した後、引き続きマンションの一室で、約45分に渡って断続的に激しい暴行を加え続けました。

その後、極度の恐怖状態にあった被害者は、隙を見て、暴行現場のマンション居室から逃走しました。

逃走を続けること約10分。
被害者は、マンションから約800メートル離れた高速道路に進入してしまい、高速道路上で、走行してきた自動車に轢かれて死亡しました。

加害者らは、被害者の死因は暴行によるものではなく、自動車事故によるものであって、刑法205条には当たらず、自分たちに責任はないと訴えました。

(傷害致死)
刑法205条
「身体を傷害し、よって人を死亡させた者は、3年以上の有期懲役に処する。」

 

これにつき裁判所は、

「被害者が逃走しようとして高速道路に進入したことは、それ自体極めて危険な行為であるというほかないが、被害者は、被告人らから長時間激しくかつ執ような暴行を受け、被告人らに対し極度の恐怖感を抱き、必死に逃走を図る過程で、とっさにそのような行動を選択したものと認められ、その行動が、被告人らの暴行から逃れる方法として、著しく不自然、不相当であったとはいえない。そうすると、被害者が高速道路に進入して死亡したのは、被告人らの暴行に起因するものと評価することができる」

とし、被害者は、加害者ら(被告人ら)の暴行によって死亡したと判断しました。

 

現場からの逃走途中において、高速道路に進入するということは、通常であれば考えられない、極めて危険な行動です。
それにも関わらず、なぜ、加害者の暴行によって被害者は死亡したものと判断されたのでしょうか?

 

判決では、被被害者の行動は

加害者らからの長時間激しく執拗な暴行を受けており、
②その結果として、極度の恐怖を抱き、命の危険を感じて、必死に逃走を図ったもので
③このような、通常ではあり得ない行動をとってしまうという、冷静さを欠いた心理状態おいて、とっさに選択された行動であった

という事情が重視されたようです。

このような場合は、被害者が「高速道路に進入する」という、通常では考えられない行動に出た結果として、交通事故に遭遇し、死に至ったとしても、それは加害者の暴行から生じたものとして、「著しく不自然、不相当であったとはいえない」とされるのですね。

被害者の直接の死因が、加害者らの傷害によるものではなく、交通事故によるものであったとしても、加害者らの行為それ自体が、被害者の心理状況に強度の影響を与えた「原因」により起こった「結果」である、加害者らによる暴行と、被害者の交通事故による死亡との間には相当因果関係がある、とされるところに少し違和感がないこともないですが、深夜の公園で2時間、マンションで45分も暴行を受け続けること自体、通常であれば考えられないことですから、その結果として被害者が高速道路に飛び出すなんてことをしても因果の中に含めてしまっても良いのかもしれません。


さて

本日ご紹介する、こちらの歌

「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む」

寂寥感漂うこちらの歌とは対象的に、良経は、「仮名序」を記した新古今和歌集においては、次のような歌を詠み、華々しい第1首目を飾りました。

 

「み吉野は 山もかすみて 白雪の ふりにし里に 春はきにけり」

(吉野は山も霞んでいる。
ついこの間までは白雪が降っていた里にも、ついに春が来たんだなあ。)

こちらの歌にあるように、まさにこれから春を迎え、
人生を謳歌しようとしていた良経。

 

捉え方によっては、
良経暗殺という「結果」における「原因」とは、ある意味「歌」にあったと言えるかも知れません。

歌とは、嘗ては人の運命を左右するほどの威力を持っていました。
それは、歌が持つ力の恐るべき一面、とも言えるのではないでしょうか。

 

文中写真:尾崎雅嘉著『百人一首一夕話』 所蔵:タイラカ法律書ギャラリー